散り逝く花の薫りにも似て…9

 
小夜の意識は散漫としていた。
あれからまた少し眠ったのだろうか…一体どれ程の時間が流れたのか…。
今が何時なのか…、推察するにも手掛かりになる様なものは無い。
カーテンは厚く閉ざされ、空の色を伺う事すら出来なかった。
素直に考えれば、あれから数刻は過ぎているという事だろうか…。
小夜が視線を巡らせると、穏やかな表情で傍らに立つソロモンは既に食事の用意を済ませていた。
ベッドの脇に運ばれたワゴンの上には、温かな湯気を立てるスープと皿の上に盛られた瑞々しいフルーツがのっている。そして当然の様に部屋の片隅には輸血用の準備も整えられていた。
小夜は無力に視線を伏せた。
ソロモンに対して言いたい事は山の様にあった。
決して貴女の望まない事はしないと言いながら、実際にはハジにディーヴァの血液を元に精製されたらしき薬剤を投与したのだ。それがハジにとってどれ程の毒になるかという事を、彼が知らない筈は無いと言うのに…。
しかし、今の自分にはどうする事も出来ない。
ソロモンの言う通り…今の自分の身体は辛うじて活動できるぎりぎりのライン上を彷徨っている。ほんの少し体を起こそうとするだけで、体は悲鳴を上げて軋み、また気怠く…重くまるで自分の体とは思えなかった。
本来ならば、とっくに休眠がやって来ているだけの強い眠気と倦怠感が付きまとう。
それでも小夜は今、休眠に入ってしまう訳にはどうしてもいかなかった。
何とかして、ハジに会って…。
 
…ハジに会って…会って自分に何が出来ると言うのだろう…?
 
不意にそんな思いが過った。
居ても立ってもいられずにソロモンの後を追ったけれど、実際にああして翼手形態へと姿を変えたハジを前に、結局自分は何も出来なかった。
ただ名前を呼んで抱き締めただけだ。
今の自分に出来る事はもう何も残されていないのかも知れなかった。
…けれど始祖として…彼をシュバリエにしてしまった張本人として、彼の全てを負いたい…そう思う。
例え、僅かでも彼の心の痛みを癒す事が出来れば…。
 
まるで入院患者の様に、サイドテーブルにのせてベッドの上にまで運ばれたトレイに戸惑いながら…小夜はソロモンの用意したスープを一匙すくうと、ベッドの脇の椅子に掛けてじっと自分を見詰めている男の視線に耐えかねた様に、視線を伏せた。
ソロモンの気持ちを、自分は踏み躙っているのだろうか…。
彼が自分に向ける好意を自覚しながら、小夜は男の気持ちに応える気が無いばかりか、こうして彼を利用しているのだ。そんな疾しさを胸の奥に抱えながら、それでもソロモンの好意に縋るしか自分にはもう残された道はない様に思われた。
「…さあ。残さないで…」
優しい穏やかな声で、ソロモンは小夜を促した。
彼は、美しい。
濁りのない真っ直ぐな視線で小夜を射る。
愛していると、見返りを求める事無く小夜の前に命を投げ出す。
ハジもまた、そんな所は彼と似ている。
シュバリエと言う存在は…皆…そう…。
それに比べ、自分は……。
何も出来ない無力な女王に、彼らは無償の愛を捧げてくれるのだ…。
小夜は視線を伏せたままスプーンを口に運びゆっくりと飲み下す。
美味しい…。
温かい…。
ソロモンの用意したスープは、彼と同じ様に優しい味がした。
「ハジに…会わせて欲しいの…」
けれど…、小夜は流される事なくその言葉を口にした。
ソロモンは小夜のそんな言葉を当然の様に予想していたのか、慌てる様子もなく瞳を細めた。どちらかと言えば女性的で柔和な表情は、それでいて鉄の面を嵌めた様に崩れる事は無い。
「今は、まだ無理です。貴女はベッドから出られる状態ではありません…。せめて自分の足で立てる様にならなくては、許可しかねます」
そんな悠長な事を言っていたら自分の身体は眠りに入ってしまう…。
休眠はすぐ目の前にまで迫っていると言うのに…。
「少しだけ…。少しだけで良いから…ハジの傍に…」
強い想いのままに尚も食い下がると、ソロモンは小さく息を吐いて答えた。
「ハジはまだ、眠っています。彼もまたあれだけの事が起きた後なのです。体力を消耗している事は否めません。今は静かに眠らせておくべきでしょう。貴女の心配は、勿論解っているつもりですが…」
「…あなたがハジに与えたと言う薬が、ハジの体に毒となっていると言う事は無いの?」
「どんな薬でも、用量を間違えれば毒になり得ます。その逆もまた然り…ですよ。仮にも僕は医学を志した男なのですから…信用して下さい」
「……………」
「彼に何よりも今必要なのは、休息です。肉体もさる事ながら…昂ぶった神経を休める為にも…。貴女は何も心配しないで…」
嫋やかな口調で、しかし決してソロモンがそれを譲る事は無かった。
小夜は逆らう事も出来ないまま、大人しく口を閉ざした。
 
何とか食事を済ませると、ソロモンはトレイを傍らに下げて、点滴の用意を始めた。
輸血パックをぶら下げる専用のスタンド、細長いチューブの束、そしてステンレスの四角いトレイに載せられた点滴用の針。
ソロモンは手際良くそれらを組み立てると、やはり優しく促す様に小夜を呼んだ。
「…腕を出して下さい」
「…………………」
「僕の血が、貴女の役に立つと言うのでしたら、この身に流れるその最期の一滴までも捧げる事を厭いません。けれど僕はディーヴァの血を受けました…それは叶わぬ望みです」
ソロモンは小夜の白い腕を消毒しながら、悔しげにごちた。
「……ソロモン、さっきのスープ…美味しかったわ」
「それは良かった。実は僕が作ったんです…。貴女のお口に合うか…心配でしたが…。…ハジも料理はするんですか?」
まるで世間話の様に長閑な口調だった。
「……ええ。彼も、料理はとても上手…」
ハジは、何でも器用に家事をこなす…。いつも小夜の為に紅茶を淹れ、時にはクッキーを焼いてくれた事もあるくらいだ。
長い戦いの狭間の、そんな細やかな思い出に満たされる。
遠い過去を思って、小夜は知らず微笑んでいた。
「……もし、僕達が…」
僕達が…と言う言葉には、ここに居ないハジも含まれるのだろうか…。
小夜は大人しく腕を預けながら、ソロモンの言葉を待った。
「…もし僕達三人が。…こんな関係ではなく、只の…男と女…例えば同級生だったり、会社の同僚であったりしたなら…貴女は僕と彼とのどちらを選ぶんでしょうね?…それとも、全く違う他の男かも知れないですね…」
「……そんな事、今関係ないでしょう?…有り得もしない…現実逃避だわ…」
「現実逃避だなんて……………僕はシュバリエになった事を後悔などした事はありませんよ。…ただ…気持ちと言うものは、どこまでも厄介なものなのです」
諦めたつもりでも、こうして傍に居ると…。ソロモンは未練がましい自分を恥ずかしむ様に眉間を歪ませて、その苦悩の一端を垣間見せた。
「…あなたを嫌いな訳ではないの、ソロモン…。そう言う事ではなくて…私には最初から…」
「最初から、貴女にはあの男しかいなかった…。解っていますよ…あなたが自分を責める様な事は何一つありません」
それ以上、ソロモンはもう何も言わなかった。ただ黙々と作業をこなし、小夜をベッドに寝かしつけると静かに部屋を後にした。
 
やはり自分は、彼の気持ちを踏みにじる事しか出来ないのだ。
小夜は、わが身を呪う様に空いた方の掌で顔を覆った。
じわりと、涙で視界が歪む。
どうしたら良いのだろう…。
今の自分に何が出来ると言うのだろう…。
 
キッチンに戻ると、ソロモン・ゴールドスミスは小夜の前で見せたのとは掛け離れた…また酷く疲れた表情で小夜の食べ終えた食器を片付けた。大きな作業台には勿論食器洗い機が完備されているが、男はただ黙々と洗剤を付けたアクリル製のスポンジで丁寧に白い皿を拭った。流水の元、白い手が歪んで見える。
小夜の体力の回復のみを考えれば、食事などよりもむしろ輸血の量を増やす方が効果的である。しかし、わざわざソロモン自らが調理までして彼女に食事を振る舞ったのは、人として育った小夜にとって血液ではなく人の食物を口にする事で齎される精神的な安定と言うものを優先させたかった。
小夜の事が、愛おしかった。
出来る事ならば、彼女に愛されたかった。
シュバリエとして…。
男として…。
小夜の心に永遠に生きる事が叶うのならば、いっそこの身が滅んでも良いと思える程…彼女の事が愛しかった。しかし…それほどまでに愛しても、彼女の心は自分にはない。いや、敵であったはずの自分を嫌いではない…と言ってくれただけでも、本当ならば満足しなければならないのか…。
 
今のあの男…ハジでは、小夜を護る事が出来ない。
せめて、あの男が正気を取り戻すまで…。
自分が彼女を守る盾となるべきなのだ。
それがどれ程、辛い現実をソロモンの前につき付けたとしても…。
綺麗に洗い終えた食器を元通りカップボードに戻すと、ソロモンは自らもまた疲れた体を休めるべく白いシャツの喉元を緩めた。
いっそ眠れる身体であったなら…。煌々と冴える意識を持て余す様に、リビングのソファーに深く身を沈める。
この部屋が、赤い盾の連中に知られるのもいずれ時間の問題だろうか…。
もしそうなった時、一体自分はどう振る舞うべきなのか…。
小夜は赤い盾に戻ると言うのだろうか…。
しかしハジは…。
もう、人の手に彼らを委ねる気にはなれなかった。
人の手が加えられたからこそ、翼手と言う種は道を違えたのだ。
そして自分もまた、その一端を担った。
ソロモンは、深く瞼を閉ざした。
 
ベトナムのダンスパーティー、自分達はあれからこんなにも遠い場所に流れ着いてしまった。
そして、この流れの先を知る者はいないのだ。
 
■■■
 
言葉では説明のつかない何かが、体の奥の方で暴れている。
冷たい体に熱を灯すような何か…。
それを何と呼ぶものであるのか…男は知り得なかった。
 
自分の身体に何が起きたのか、頭では理解出来なかった。
ただ突き動かされる様に…何ものかに導かれる様に、自分の身体が大きく変わっていく事に…男は不思議にも納得していた。
全身を貫く衝撃は痛みにも似て、男を戸惑わせはしたが…自然とそれを受け入れていた。
蛹から羽化する蝶が、それを不思議とは感じない様に…。
変われるのだ…。
自分は…。
ただ、今までその様な状態に陥った事が無かった…と言うだけの話で…。
それが、本能と言うものなのだろうか…。
本能と言うものが記憶のない男にとって一番に確かなものだとするなら、少女の存在はその本能と結びついて、何よりも大切な存在だと瞬時に理解出来た。
それは理屈ではない。
男の全身に流れる血が、そう教えてくれる。
今にも泣き出しそうな大きな瞳で真っ直ぐに自分を見上げる。
忌み嫌う事もなく、恐れる事もなく、男の存在をそのままに受け入れてくれた。
 
…サ…ヤ…
 
まるでその名前は尊い呪文の様だ。
固い棘の鎖に繋がれた男の心を、その優しい響きが解き放ってくれる。
虚ろだった胸の空洞を、温かな感情で満たしてくれる。
 
彼女が…サヤ…
 
誰に教えられるでもない。
自分は知っていた。
どうして忘れてしまったりしたのか…自分の命よりも尊い彼女の事を…。
 
けれど男の胸を満たす温かなそれは、膨らめば膨らむ程…また別の鎖を男に掛けるのだ。
手を伸ばせばそこに触れる事の出来るその優しい指先は、男にとって何よりも甘く、そして背徳に満ちているのだ。
 
深く愛すれば、愛する程…。
 
それは、遠い昔…。
男自身が自分に掛けた呪い。
 
自分は、誰の事も愛する事は出来ないのだ…。
 
 
男の混濁した意識は、緩やかな浮き沈みを繰り返していた。
時折、意識が戻る。
けれどまた、引きずられる様にして落ちてゆく。
落ちてゆく事は、決して不快ではなかった。
長い間、眠るという事の無かった男にとって、それは不思議な感覚で、閉じた瞼の裏に再生される景色は懐かしく…そしてどれも愛おしかった。
手が届かないからこそ、それは美しい光景なのだと、ぼんやりと意識する。
 
部屋は薄暗い。
けれど、視界が悪いと言う訳ではない。男の視力をもってすれば、部屋の隅々の様子まで察する事が出来た。そこはごく有り触れた、マンションの一室の様だった。
普通とは明らかに異なるのは、どうやら自分が寝かされているベッドに、両腕が固定されている事。
手首には重く強固な鎖が何重にも巻かれていた。
思う様に身動きが取れない。
顔に掛かった前髪を払う事すら出来ない。
 
しかしそうして暫く辺りを伺っていると、男の意識は再び吸い込まれる様に落ちてゆくのだ。
 
けれど、不思議とここから逃れようとは思わなかった。
記憶は定かではなかったけれど、自分は自ら望んでここへ繋がれたのだ。
 
あの少女の傍に居たい。
強い本能がそれを望んでいた。
 
彼女はここに居る。
 
…サヤ…
 
渇いた喉からは、声が発せられる事は無かった。
 
男を何度目かの意識の混濁が襲う。
沈んでゆく意識の淵で、男にはまるで手に取る様に彼女の様子が感じられた。
 
…サヤ…
 
サヤが、泣いている。
 
泣かないで…。
泣か……ないで……。
 
サ……ヤ……。
 
10へ》

20120716
週末中に上げたかったけれど、遅くなりましてすみません!!
(って覚えて待っていて下さる方がいらっしゃるのか?)
随分と間をあけてしまいましたが、漸く9更新出来ます。
この話、進んでいるのか…?
…多分…。
ハジ小夜シーンが書きたいのですが、中々そこまで至りません…。
ずっと間をあけてしまって、どういう話の流れだったか忘れかけていた…と言うか、
甘いのばっかり書いていると頭の中がシリアスになり切らなくて、苦労しました。
次はやっと戻って来たので、次は間をあけずに更新したいと思います。
頑張ろう、私…。

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