小夜はぼんやりとショーウィンドウを眺めていた。
ガラスの中には真っ白なウェディングドレスが飾られている。
憧れのオフショルダー、胸元からヒップの中程まではすらりと体に沿ったスレンダーなラインが強調され、その下から広がるスカートはまるで泡立つ波の様な儚い美しさで…。
それは所謂、マーメイドラインと言うデザインだ。
小夜はほぅっと甘い溜息を吐いた。
そのドレスはとても綺麗で素敵だったけれど、どこか大人っぽいイメージで自分には全く着こなせそうにない…と思う。
マネキンの括れたウェストを見るにつけ、あの中に自分のウェストが収まるはとても思えなかった。かといって、では自分には一体どんなドレスが似合うと言うのか…。
小さい頃の憧れは、勿論定番のプリンセスライン。ふんわりと丸く広がったスカートはまるで本物のお姫様の様で、一体どうしたらあんな風にスカートが広がるのか不思議でならなかった。
でも、子供っぽ過ぎるだろうか…。それにあまり華美でフリルが一杯過ぎるのも、気恥ずかしい。
ハジの隣に並ぶなら、そう…。もっとシンプルでモダンなイメージの方が似合うのではないだろうか…。
…やっぱり、ハジのタキシードは黒い方が良いよね…。
黒い髪に黒いジャケット、白い襟がきっと綺麗に映える。
勿論、彼の白い肌と青い瞳も…。
でも背が高いから、…タキシードよりもモーニングコートの方が素敵かも知れない。
小夜の思考はいつしか、自分のドレスうんぬんよりも…恋人であるハジの衣装に飛躍していた。取り留めもなく、そんな夢想にふけるのは近頃の小夜の悪い癖だ。まるで周囲が見えなくなってしまう。しかし、結婚が決まったばかりの女性としては、ごく当たり前の光景かも知れなかった。
テレビを観ていては結婚式場のコマーシャルにぼんやりとし、街を歩けばドレスショップのショーウィンドウの前で立ち止まる。
まさか自分にこんな季節が巡って来るとは思っても見なかったのだ。小夜は左手の薬指に光る桜色のダイヤモンドを愛おしそうに指先で撫でた。
 
Not spoiled me!」   三木邦彦
 
小夜はふと我に返り、バッグから携帯を取り出すと時間を確かめた。待ち合わせまでまだ二時間もある。土曜日だと言うのに朝から出勤しているハジと待ち合わせしているのだ。
待ち合わせの場所までは此処からさほど遠くはない。
張り切って早くき過ぎてしまったのだが、しかし時間に遅れて彼を待たせるよりはずっと良い。
すぐ近くには可愛い雑貨屋さんもあるし、ウィンドーショッピングは嫌いではない。
気を取り直す様にバッグを抱え直し、ショーウィンドウから向き直った瞬間、小夜は思い掛けず通り過ぎる人の肩にごつんとぶつかった。
「すみませ…!」
咄嗟に謝罪の言葉を口にしていたものの、衝撃を受けて見事に転んだのは小夜の方だった。何とか背後のガラスに助けられて勢いよく尻もちをつくような事は無かったものの堪え切れずに路上に崩れ落ちる。その瞬間、足元に嫌な衝撃を覚えた。
ぶつかった相手は、振り向きざま小さくぺこりと頭を下げて謝罪するとそのまま人の流れの中に消えてしまった。こちらが倒れ込んでいると言うのに、そのまま行ってしまうなんて…。
そう思ったけれど、呼び止める事も出来なかった。
小夜は小さく溜息を吐き、嫌な予感のする左足を確かめる。
見ればまだ新しいパンプスのヒールがぽきんと無残に折れていた。
高価なものでは無いけれど、それでも小夜なりに勇気を出して購入した七センチのヒール。その高さが女性の足を一番きれいに見せてくれるのだと、何かで読んだのだ。ハイヒールとしては平均的な高さかも知れないが、普段の生活では歩きやすいローヒールやスニーカーを選ぶ事の多い小夜にとって、それは中々慣れる事の出来ない高さなのだった。それに少し大人を意識したシンプルなデザインはいざとなるとどこか気後れする。こうして転んでしまうと、やっぱり自分には不釣り合いな気がした。
 
既に一緒に暮らしている二人にとって、外で待ち合わせをしてデート…と言っても食事するだけなのだけれど…なんて、小夜にとってはやはり特別な気分で、だからいつもよりほんの少しお洒落したかっただけなのに…。ハジと食事をした後は電車ではなく彼の車で帰る事になるのだから…それ位の時間なら大丈夫だろうと、パンプスを慣らすつもりで履いてきたと言うのに…。
よりによって買ったばかりのパンプスのヒールを折ってしまうなんて…。
どうしよう。
咄嗟に浮かんだのはそんな言葉。どこかに靴屋さんがあればすぐに修理して貰えるものだろうか…それとも新しい靴を買わないといけないだろうか…。例えこの近くに靴屋さんがあっても、このヒールでそこまで行けるだろうか…。
激しい人混みの中、折れたヒールを呆然と見詰めながら、小夜はどんどん自分がみじめな気分になっている事を感じた。
いつまでもこんな風に路上にしゃがみ込んでいるせいだ。小夜は気を取り直す様に、注意深く立ち上がった。
今の今まで気にならなかったのに、立ち上がる瞬間になって足首に違和感を覚える。
もしかして、捻った?
流石に骨が折れていたら、もっと激痛が走る筈だろう…。
大した事は無いと思いたかったけれど、意識すれば意識するだけ左足首の痛みは増してくるような気がして、小夜は不安になる。
ヒールの折れたパンプスで、しかもこんな足で…。
靴屋さんを探して歩くなんて…。
様々な考えが浮かんだけれど…結局どうする事も出来なくて…  小夜は再びバッグから携帯電話を取り出した。
まだこの時間では、職場にいるだろうか…。もし大事な話の最中だったらどうしよう…。
就業時間中だと解っていて…普段なら絶対にそんな事はしないけれど…。
小夜は、躊躇いがちにメールの画面を開いた。
 
◇◇◇
 
「小夜!」
人通りの激しい雑踏の中…躊躇いもなく名前を呼ばれて、小夜はびくんと飛び上がった。
息を切らせて、男が小夜の前に立つ。メールを打ってから僅かに三十分足らず、彼は仕事を切り上げて人混みの中此処まで走って来てくれたのだ。
間をおかず、折り返しかかって来た電話で居場所を伝えると、ハジはそこを動かない様に…と小夜に念を押した。
しかしまさかこんなに早く来てくれるとは…。
電話口で言われたままじっと男の到着を待っていた小夜は、慌てた男の様子に小さく『ごめんなさい』と謝罪の言葉を口にしていた。
「謝る事ではありませんよ。…小夜、足首は大丈夫ですか?」
ガラスに背中を預けて立つ小夜の足元に、男は跪いた。
「…大丈夫、骨は折れて無いと思うし…。少し痛いけど、我慢できない程じゃないよ…」
小夜の答えを待たず、ハジは小夜の足元に跪いた。
労わる様にそっと指を伸ばし、小夜の足首を確認する。
「少し腫れています。土曜日の午後ですから病院は…。救急に行きましょうか?」
「待って。大丈夫…帰りに薬局で湿布を買って冷やせば、病院は月曜日で良いよ」
…折角、ハジと久しぶりのデートなのに…。
しかもこんな事で、ハジの仕事を邪魔してしまった。
そんな小夜の思いを気にする風もなく、男は小夜の手から彼女のショルダーバッグと折れたパンプスのヒールを受け取ると、有無を言わさず小夜の体両腕に抱き上げた。
「ちょ…ちょっと待って、ハジ!!」
「すぐ近くに薬局がありますよ」
だからって、こんな人通りの激しい場所で…こんな風に抱き上げなくても…。
「足首の捻挫を甘く見ると、後遺症が残る事もありますよ。素人判断は危険です。病院は明日にするにしても…早く冷やした方が良い」
歩くなんて以ての外です…と…。
周りの注目が一気に集まって恥ずかしくなると、小夜は隠れるように男の肩に顔を埋めた。
「…ねえ。晩御飯は?」
「…残念ですが、今日は帰りましょう。夕食は、…前から小夜が気にしていた中華のデリバリーを頼むと言うのは?」
「………そんなぁ」
ついつい語尾が上がってしまう。
別にもうお腹が空いたとか、そう言う訳ではない。
久しぶりのデートなのに…。
折角、お洒落してきたのに…。
夜の街を、二人で腕を組んで歩きたかったのに…。
折角、7センチヒールで…。
ほんの少し、ハジの視界に追い付けたかも知れないのに…。
そんな小夜に、男は申し訳なさそうに笑って、『デザートにマンゴープリンも頼みましょうね』と付け加えた。
 
◇◇◇
 
薬局の奥の椅子を借りると、男は買ったばかりの湿布薬を丁寧に小夜の足首に張った。勿論、きちんと薬剤師に相談して選んだ物だ。やはり薬剤師もハジと同じ意見で、今晩はひとまずこれで。しかし病院には行って下さいね…と念を押された。
 
全くついていない。
ヒールを折って、その上捻挫まで…。
ハジの仕事の邪魔はしてしまうし、久しぶりにデートもこれでは台無しで…。
シュンとする小夜を横目に、ハジは腕時計で時間を確かめた。
早めに仕事を切り上げてきたおかげで、まだ4時を少し過ぎたばかりだ。
「もう少しだけ、抱っこされる気はありませんか?」
「…え?」
「通りの向こうに、靴屋の看板がありますよ。行ってみませんか?…折角の新しい靴がそれでは…」
まさか男がパンプスの事まで気に掛けてくれていると思わなかった小夜は、思わず顔を上げた。
「流石に、この距離でタクシーを使う訳にはいかないでしょう?」
ハジは笑って、もう一度小夜の体を楽々と抱き上げた。
 
◇◇◇
 
 
やはりそういう所が、クォーターなのだろうか…。
見た目に反して、考え方や食べ物の好み…案外にも彼の中身はしっかり日本人なのだけれど、それでもああいう場面で恥ずかしげもなく女の子を抱き上げたり出来る日本人の男性は少ない様に思う。日頃は意識しないけれど、やはり彼が半分以上フランス人の血を引いているからなのではないだろうか…と小夜は思う。
…何の根拠もないのだけれど…。
靴屋の奥でスツールに腰掛けたまま、小夜は男の背中を見詰めていた。幸い、根元からぽきんと折れたヒールはすぐに修理して貰える事になった。
修理を待つ間、男は陳列された婦人用のパンプスを見て回っている。男性にとっては物珍しいのかも知れない。
 
随分見慣れたとは言え、男のかっちりとした広い背中に見惚れながら、小夜はぼんやりと思うのだ。
勿論二人で過ごした時間を信じていない訳ではない。それでも時折、こんな素敵な人に愛されている事が信じられない気分になってしまう。ハジが望むなら、きっとどんな才媛でもお嫁さんに出来そうなのに、こんな自分で良いの?と…。
多分きっと、そんな事を男に言えばまた叱られてしまう…。
 
さっきだって、ヒールが折れて足首が痛くて…どうして良いのか解らなくて、つい仕事中のハジに連絡してしまったけれど、本当なら自分一人で何とかしなくてはいけない事だ。
それなのに、自分の中には明らかに男を頼りにしてしまっている気持ちがあって、それはいつしかどんどんと大きく成長しているのかも知れなかった。
知らず知らず、小夜が唇を尖らせると、いつの間にか男がそっと自分を覗き込んでいる。
「…これは如何ですか?」
「…え?」
小夜の足元にそっと男が並べたのは、鮮やかな赤色が夏らしい麻
素材のウェッジサンダルだった。オープントウになっていて、甲の部分はすっきりと装飾は無く、アンクルストラップのちょうど真後ろ…アキレス腱の辺りに同素材の大きなリボンがデザインされていてとても愛らしい。ヒールはかなり高いけれど、その分前の部分も底が厚いので見た目よりはずっと楽な筈だ。
よくある形と言えばそうだけれど、定番中の定番で失敗のない一足かも知れない。
「…女性のファッションの事はよく解りませんが、こういう形なら…安定しているので歩き易いのではありませんか?」
確かに靴底の土踏まずの部分に窪みが無くヒールが繋がっているので、小夜が今まで履いていたハイヒールに比べ圧倒的に安定しているだろう。
「履いてみませんか?………それとも、他の色が宜しいですか?」
「…………ぅうん」
小夜が小さく首を振ると、男はそのまま従者さながらに足元に跪いた。履きやすい様にストラップを外して改めて小夜の足元に揃えてくれる。促されて、小夜はそっとサンダルに足を入れた。
男はそつなくきちんと小夜の足のサイズを選んでくれていた。
左足首には湿布が張ってあるので、ストラップを留めてきちんと履くと言う事は出来なかったけれど、ハジの手を借りて立ち上がると、しっくりと足に馴染むのが解る。
それにとても可愛らしい。
夏らしく涼しげで、それに案外にも足を華奢に見せてくれる。
勿論、今まで小夜が履いていたシンプルなパンプスに比べればずっとカジュアルかも知れなかったけれど、正直なところ今の自分には余程しっくりする。
男の手を借りて、小夜は姿見の前でゆっくりと回ってみた。
今日着て来た膝丈のスカートにも、カチッとしたパンプスよりもむしろ似合っている様な気がした。思わず…陰っていた表情がふんわりと和らぐ。
「…………可愛い」
小夜の口から思わず零れた一言に、男もまたふんわりと微笑みを浮かべた。
「サイズは合っていますか?」
「うん、大丈夫。…ストラップがついてるから歩き易そう…」
ハジが姿見の前で小夜に並び、腕を貸してくれる。
「……なんなら直して貰った方を袋に入れて貰って、こちらを履いて帰りますか?」
内心…つい欲しくなってしまった事が、顔に出てしまったのだろうか?
しかしもう少し待てば、折れたヒールの修理も終わると言うのに。
「…そんなの…」
恨めしそうに男を見上げると、彼は事も無げに笑った。
「プレゼントしますよ……。どちらにしても、駐車場までは表でタクシーを拾いますから、歩く必要もありませんし…」
「ハジはどうしてそう、私に甘いの!」
つい呆れる様な咎める様な口調でそう答えると、どことなくその場の空気が一瞬固まった様な気がした。口にしてしまってから、小夜は気まずく唇を尖らせた。普通、素直な可愛い女の子なら、こういう場面でそんな事は言わないのかも知れない。優しくしてくれる恋人に笑って『ありがとう、嬉しい!』と口にするのかも知れない。そんな思いが過る。けれど、ハジはほんの少し沈黙すると、懲りずに答えた。
「…小夜が、可愛いので…」
「何それ!」
「流石に連呼するのは恥ずかしいので何度も言いません…」
まるで小夜の心の中を読む様に、静かに笑って…ゆっくりと前髪をかき上げる。
「小夜は…可愛いですよ。本当に…。どうして自分でそれに気が付かないのか…そちらの方が私には不思議です」
綺麗な手指がそっと前髪を梳いてくれた。
 
◇◇◇
 
帰宅して、注文した中華のデリバリーは小夜の予想を超えて美味しかった。デザートのマンゴープリンも、ちゃっかりハジの分まで頂いてしまった。
食事を終え、既に風呂から上がって寛いだ様子でソファーに腰を下ろす後姿に小夜はこっそりと唇を尖らせた。
本当は愛しくてたまらないのに、男に対して言葉にならない感情が心の奥の何処かに何かが痞えている。
ハジは本当に自分に甘い。出会った頃からとても親切だったけれど、こうして一緒に暮らす様になってそれは一層度を増したように思う。今日だって、結局はあの赤いウェッジサンダルを買って貰ってしまった。要らないと突っぱねる事が出来なかった自分も自分だ。
そうやって甘やかされる事に、自分はいつの間にか慣れてしまったのだ。こんな風でいい筈は無いと思うのに、心の隅の方で男に対して抱く依存心は否定できなかった。
小夜はまだ濡れたままの髪を柔らかなタオルで拭きながら、男の背後にそっと近付くとハジの手元を覗き込んだ。男が読んでいるのは意外にも小夜の買った結婚情報誌だった。几帳面な様子で、ページを捲りながらじっと文面を目で追っている。背後の小夜に気付くと、そっと隣に招いた。
男の隣にちょこんと腰掛けると、ハジは手元の情報誌を捲った。
「ハジ…?」
「…ちょうど月末にフェアがある様ですよ?」
「…フェア?」
「前に、此処のホテルが素敵…と言っていたでしょう?」
ハジは長い指先でページの一角を示した。
そこには以前確かに、小夜が『素敵!』と話題にしたホテルの記事が載っていた。改装したばかりの真新しいバンケットルームの写真や美味しそうな料理の写真、真っ直ぐに長いバージンロードが素敵なチャペル。ウェディングフェアでは模擬挙式に参列したり、実際に飾りつけされたバンケットルームを見学したり、それにドレスの試着も出来ると書いてあった。
「行ってみませんか?」
「………………」
「…小夜?何か他に予定でも?」
「ううん、予定がある訳じゃなくて…」
確かに素敵…なのは勿論小夜だって解っている。口コミの評判も良くて、施設だけでなくスタッフの行き届いた心遣いやサービスも人気の式場なのだ。けれどその分費用も馬鹿にならない。
何だか自分には分不相応な様な、敷居が高い様な気もしていた。
いや、そんな事ではなくて…。
「…では一度…」
「待って。…その話は私の話が済んでからにして?」
小夜は思い切った様に男の言葉を遮った。
「…小夜?」
「…今日は、助けてくれてありがとう。お仕事中に邪魔しちゃって…ごめんなさい。それに、サンダルも…買ってくれてありがとう…。でも、でもね、ハジ…ハジは私の事、甘やかし過ぎだよ…」
ハジは黙って小夜の言葉に耳を傾けていたけれど、小夜が言葉を切ると『またその話ですか?』とでも言う様に、手元の雑誌をぱたんと閉じて脇に置いた。
難しそうな表情で腕を組む。
不味い事を言ってしまったのだろうか…今度は逆に小夜が唇を尖らせて、黙り込む。
「さっきも話したでしょう。…いけませんか?…小夜が可愛いから…と言う理由では…」
「……………………だって」
そんな理由があるだろうか…。
自分はもっと、大人の女性になりたいと思っているのに…。
「だって…」
「しかし…」
口を開いたのは同時だった。
「……サンダルの事を言うのでしたら…小夜。貴女は初めて会った夜から頑なで…私と今まで一度も『何が欲しい』とか『これ買って』とか………。強請ってくれた事がないではありませんか?」
「ね、強請ってくれないって?」
「私は、自分の出来る事で…貴女が喜んでくれる顔が見たいだけです。全てにおいて…」
たまたま、プレゼントも自分の出来る事の内の一つ…と言うだけの事ですよ…と、さも当然とばかりに…。
「…甘やかすとか…そう言う類の物では…」
ありません…と、少々大袈裟な程言い切って胸を張る。
彼の頭の中で、それは『甘やかす』という事にならないのだろうか…。
小夜は改めて、彼の言う事を心の中で反芻してみる。
自分の態度はハジに対して本当にそんな頑なだっただろうか。
彼が言う程?
しかし、小夜にしてみれば…こんなにも良くして貰ってお世話になっておいて、これ以上何かを強請るなんて…。
これだけは譲れません…と言った珍しく強情な表情を浮かべて、彼が黙り込む。
いつもだったら優しく前髪を梳いてくれる腕が伸ばされる事は無く、今日は固く組まれたままで、小夜の方が心細くなってしまう。
小夜は、ハジに対して何も怒っている訳ではないのだ。
只ほんの少しだけ、自分の気持ちを聞いて欲しかった。
いつも、買って貰ってばかり…と言うのは、申し訳ない様な気持ちになってしまう。頼る事ばかり覚えて、自分は独りで何も出来なくなってしまいそうで…。
つい…小夜は男の腕に縋る様に両手を掛けて、男の硬い表情を覗き込んだ。
「お…怒ってる訳じゃないの!…ただ、ただね…。私…ハジの事頼ってばかりで…。それに色々買って貰ってばかりだから…。ハジにこんなに大事にして貰ってるのに、これ以上強請るなんて…」
…出来ないよ…。
「………………………」
「…ハジ?……ね、強請って欲しいの?」
そう言う事?
……なの?
不安げに小首をかしげて覗き込んでくる少女に、男はとうとう破顔した。
「…もっと素直に、頼ったり…甘えたりして下さい…という事です。…結婚、するのでしょう?」
何も気にするような事ではありませんよ…と、気にした風もない。
「結婚するから、私はちゃんとしたいの!!」
そうだ、結婚するからこそ…甘えるばかりでは嫌なのだ。
いつもの如くきゅっと尖らせた愛らしい唇に、苦笑を漏らした男がそっと口付ける。解かれた腕が優しく小夜を抱き寄せて、口付けは尚更深くなった。
愛しくて仕方がないと言った風情で、男は何度も小夜に唇を重ねる。小夜に口答えを許さない…男の腕の中はまるで甘い檻だ。
「…あ…ん。…ハジ…んぅ…」
長く甘いやり取りに唇の間で唾液が糸を引き、少女の身体が蕩けそうになる頃、当然このまま抱き上げてベッドへ連れて行って貰えるものと、小夜が男の背に腕を巻き付けると、やんわりと唇が離れてゆく。
「…ハジ?」
とろんとした瞳で男を見詰めると、ハジが苦笑する。
「今晩は…これ以上は駄目ですよ。…足に負担がかかってしまうといけませんから…明日は朝一番で救急病院だという事をお忘れなく…」
「………………だったら、こんなキスしないで!ハジの馬鹿…」
どんっと突き放す事も出来ず、男の胸にしなだれかかる。
こんな細やかな胸では、とても彼を誘惑なんて出来ないだろうか?
足首の腫れなんて…少し位、平気なのに…。
ぎゅっと体を押し付けると、男は尚も困った表情で眉根を寄せた。
「……小夜。………キスだけ…ですよ…?」
躊躇いがちに、再び抱き寄せてくれる腕。
……………男の言葉通り…本当にキスだけで終わる可能性は、かなり低い。
何しろ、男は愛する少女にとても甘いのだ。
本人にその自覚は無いにしろ…。

                               

《了》


20120606

仔うさぎのハジは、小夜に甘いと思う。

呆れる程に…。


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