白い花弁



目を閉じるといつも、瞼の裏にひらりひらりと白い花が舞う。


それは名前も知らない、小さな野の花だったけれど・・・
いつまでも、枯れる事無く・・・
サヤの心の中で・・・彼女を支えている。
サヤはじっと一点を見詰めていた。
静まり返った真夜中の街、それは月の明るい夜の事で・・・
月明かりに照らされた彼女の横顔は、出逢った頃と少しも変わっていない。
姿勢の良い真っ直ぐなシルエット、襟足の短い髪も、丈の短いワンピースも、全ては動き易さを重視したものだった。

しかし、少し伸ばした前髪や動く度に綺麗に裾の広がるスカートは彼女にとてもよく似合っている。
右手に握った日本刀がかなり物騒ではあったけれど・・・、ハジの目にはサヤは普通の女の子と何等変わり無く映る。
例え、サヤが人外の種の最も色濃い純血の持ち主であるのだとしても、それが一体何だと言うのだろうと・・・
さっきからずっと、サヤは格子状に下ろされたシャッターの向こう、

綺麗に磨かれた一枚ガラスの大きなショーウィンドウを見詰めていた。
霧に濡れた路面は月の光を反射して青白く輝き、サヤの表情を一層照らしだしている。

ハジは声をかける事もためらわれて、静かにサヤが振り向くのを待った。
サヤとハジがこの果てしなく永い旅に出たのはもう遠い昔の事で、思えば・・・世界は当時と全く変わってしまった。
科学の進歩は目覚しく、夜の闇はどんどんその領域を失った。
本望だとは言え、ハジはもう人ですらなく・・・
彼の体はどんな酷い傷を負っても、数時間の後には綺麗に再生する。
一見「死」からは限りなく遠い存在のようで、しかし言い換えれば、ハジは数え切れないほどの死を経験し、

その痛みと苦しみに耐え、一瞬の意識の喪失を経て蘇る。

「死」は常にハジの傍らにあった。
流石にこの時間になると人気もなく、昼間の喧騒が嘘のようにひっそりと・・・街は息を潜めている。

湿った夜の空気が肺を満たすと、ハジはふと・・・ここが都会の真ん中である事すら忘れてしまいそうになる。
昔、まだ人であった頃に、サヤと二人で走り回ったあの濃い森の匂いを思い出す。
そしてとうに封印した筈の、恋心も・・・。
「ハジ・・・ごめん・・・」
じっと自分を見守るハジの視線に気付いて、サヤは漸くハジの元に駆け寄った。
「行こう・・・」
月明かりの下でも、ほんのりとサヤの頬が赤い。
まるで恥じ入るかのような表情をして、サヤは先に立って歩き出した。
 
 
赤い盾が壊滅した後、翼手を追って移動を続ける二人にとって、定まった居住など無いに等しい。
それでも睡眠も食事も必要としないハジとは違って、サヤはある程度のまとまった休息と食事を必要とする。

毎晩・・・ではないにしろ、定期的に血液を摂取する事も欠かせない。
仮の塒と定めた古い教会は、郊外の村外れにポツンと建っていた。
もう近寄る者すら居ないのか・・・その古い建造物は過去には多くの信者の信仰を集めたであろう面影も留めず、

無残に朽ち果てようとしている。
手入れもされず荒れ放題の前庭や崩れ落ちた石組みは、時の移り変わりと共に変わってゆく人の心を見るようだった。
ハジはその古い廃屋の前に立って静かにサヤを招いた。
「サヤ・・・」
穏やかな声に呼ばれて、サヤは振り返った。
背後の月が濃い影を作り、サヤにはハジの表情を上手く読み取る事が出来なかった。

サヤがいぶかしむ様に眉を顰めるのも構わず、ハジがその手をそっとサヤに伸ばし、彼女の真っ直ぐな黒髪に優しく触れた。
「ハジ・・・?」
「サヤ・・・」
ハジの抑揚のない静かな声で名前を呼ばれると、サヤはこの頃いつも胸がざわめいて苦しくなる。
サヤは心の中で何度も自分に問い掛ける。
ハジの何が自分をこんなに苦しくさせるのだろう・・・。
「サヤ・・・赤い盾には、もう戻らないのですか?」
「赤い盾は、もう無いわ。でも、それで良いの。もう、これ以上誰も巻き込みたく無い。この戦いは最初から私と・・・」
サヤは一呼吸おいて続けた。
「最初から私達二人の戦いだもの・・・」
そうでしょう・・・?とハジを見上げる。
それには答えず、ハジは瞳を伏せた。
赤い盾が海に沈んで、既に一年が経とうとしている。
サヤとハジが二人きりに戻って一年という事だ。
昔もこうして二人でディーヴァを追う旅をした。
時には赤い盾と共に・・・
赤い盾にとってサヤは翼手を倒す為の切り札であり、同時にディーヴァの姉であり、恐れるべき翼手の女王でもある。
彼らはサヤに協力すると言って、二人を自分達の管理下に置こうとしてきた。
自分達とは明らかに異質の、脅威の対象となりうる二人に首輪を付けて、厳重な檻の中に閉じ込めてしまいたいのだ。
過去において、赤い盾は二人にとって・・・、少なくとも翼手を、ディーヴァを倒すという目的においては敵ではなく、

しかし味方かと問われれば素直に頷く事も出来ない存在だった。
しかし組織が崩壊してしまった今になって、ハジはそうとは限らない事を知っている。

組織は崩壊しても、水面下では赤い盾の残党が翼手を倒す為に活動しているのは、サヤも知っている筈だった。
以前に比べれば、今の彼らの活動は焼け石に水と言った頼りないものではあったが、

その中心メンバーはかつて共に肩を並べて戦った者達であり、その中にはサヤの義兄であるカイも居る。
「サヤ・・・、もし・・・」
ハジは、兄が妹に言い聞かせるように穏やかに続けた。
「もし、この先・・・私が戻らないような事があれば・・・、ためらわず赤い盾を頼って下さい。少なくとも・・・」
「・・・ハジ、どうして突然そんな事を言うの?」
サヤはハジの両腕を掴むと、突然そんな事を言い出す自らのシュバリエを睨み付けた。

ハジはそんなサヤの反応を予想していたかのように、静かなまま先を続けた。
「少なくともあそこへ行けば、あなたを理解してくれる人達がいます。一人でディーヴァを追うような無謀な真似は止めて下さい・・・」
「無謀?私が一人でディーヴァを追うのは無理だって言うの?」
「あなたは与えられなければ、自ら人を襲って血を飲むような真似は出来ないでしょう・・・。それはあなたが生きていく上で、ディーヴァを倒すと言う目的以前の問題です」
ハジは自分の腕を握り締めるサヤの指にそっと指を重ねて解いた。

既にその指からは力が抜けている。

ハジは叱られた時の子供のように立ちすくむサヤに、小さく微笑んでみせた。

普段は滅多に笑う事の無いハジの静かな笑みに、サヤは急に不安に襲われて、きつく眉間を寄せると

ツンと熱くなる目頭を堪えてハジの胸に体をぶつけた。

ハジは慌てる事無くそのサヤの小さな体を抱き止めた。
「不安にしないで・・・。ハジ・・・」
ハジが居なくなってしまうなんて・・・
彼がそんな事を言うのは珍しい・・・、・・・しかし記憶を辿れば以前にも一度・・・。
あれは確か、覚醒する前、動物園に行く途中で、シフ達に襲われて・・・。
あの時も、ハジは自分が戻らない場合を考えていた。
自分を守る為に、たくさんの血を流し傷付いたハジ・・・
あの時の事を思い出すだけでサヤは背筋が冷たくなるのを感じる。
「すみません、サヤ・・・。もしも・・・の話です」
ハジは何度も何度も繰り返し、まるで魔法をかけるように丁寧にその背中を撫で、

サヤはそうしてゆっくりと背中を撫でられていると、少しずつ溢れそうになった涙がひいていくのを感じた。
幾度と無く抱き締められた、その腕の中はいつしかサヤにとって一番安心できる場所になっていた。

ハジが呼吸する度に、自分が空気を求める度に、広い胸がゆっくりと規則正しく揺れる。

温かいハジの体温が、じんわりと染みていつしか同化していく錯覚。

どこからどこまでがハジで、どこからどこまでが自分の体なのか判らなくなる。
「私はあなたのたった一人のシュバリエです。あなたを守る為だけに存在するのです・・・」
もし、自分の身に何か起きたとしても、何としてでも、私はあなたを守らなければならない・・・
ハジは静かにそう続けた。
「・・・そうね、でもハジはハジだわ・・・。私にはきっとハジが居なくなるなんて、耐えられない」
見上げるサヤの瞳は切ない色をしていた。
抱きしめてくれるハジに、シュバリエとして以上のものを無意識に期待する、恋する少女の瞳をしている。
ハジはそんな彼女に小さく息を吐いた。
「愛していますよ・・・サヤ」
ハジはそう呟いて、答えようとする少女の唇に指で触れてそれを制した。
「捧げる愛に見返りを求めては、シュバリエは永い時を生きてはいけません・・・」
幾度と無く長い眠りに就くサヤを、ハジはそう自分を制する事で見守り続けてきたのだ。
「あなたは誰を愛するのも自由です・・・」
「ハジ・・・?」
サヤに自覚が無いだけで、彼女を愛する存在は自分一人ではない。
サヤさえ望めば、いくらでも無償で彼女の力になろうという存在はいる。
「何を言っているの?ハジ・・・私は、強制された覚えはないわ。私は・・・」
サヤの指がそっとハジの頬に触れ、強引に自分を向かせる。
厳しい表情で問い詰められて、ハジは「ええ・・・」と頷いた。
互いに吸い寄せられるように微かに唇で触れると、サヤはやっと納得したかのように肩で息をした。
「今夜のハジは変・・・。今まで・・・」
改めてそんな事を言うような彼ではなかったのに・・・。
シフに襲われた時も、サヤは覚醒以前で、それも敵が目前まで迫っていた時のことだ。

こんな静かな夜に、どうしてハジは自分を不安にさせるような事を言うのだろう・・・。
「サヤ・・・白いドレスに憧れますか?」
「・・・どうして、急にそんな事を言うの?ドレスなんて、憧れたりしないわ・・・」
ハジは長身を屈めると、足元の茂みから白い花を摘んだ。
名前も知らない小さな白い花は、バラのように華やかではないけれど、白い柔らかな花弁は清楚で可愛らしい。
ハジは包帯で覆われた指先でサヤの髪を耳に掛けると、その小さな花をサヤの耳元に飾った。
「・・・よく似合います。刀よりずっと・・・」
「ハジ・・・?」
ずっと見ていましたね・・・と囁かれ、見る間にサヤの顔が朱色に染まっていくのが、月明かりにさえ見て取れる。
綺麗に磨かれたガラスの奥に目を奪われていた。
シンプルなデザインだけれど、上等な生地で仕立てられている事が一目で判る真っ白なウェディングドレス。
遠い昔、ジョエルの館で初めて出逢ったサヤは、やはり貴族のお姫様と言った風情で淡い色のドレスを上品に着こなしていた。
厳しい戦いの最中にあって、今更とても昔のような優雅な日々が戻る筈も無い。
彼女は翼手の女王であり、この戦いを終結させるべき使命を帯びている。
それでも、サヤはハジにとって愛するたった一人の少女である事に変わりは無い。
夜の街で・・・、月明かりに浮かぶ白いドレスを遠い憧憬にも似た表情で見詰めるサヤを、誰が責められるだろう・・・。
「ドレスの代わりにはとてもなりませんが・・・」
ハジは限りなく無表情を装ったけれど、その愛しい髪に触れた指先を持っていく場所を一瞬躊躇って、口籠る。
サヤはそんなハジの不器用さに、さっきまでの涙が嘘のように柔らかくうっすらと笑った。

サヤは宙に浮いたままのハジの左の掌をそっと両手で包み込むと、瞼を閉じて自らの頬に押し当てた。
「ありがとう・・・」
「・・・いえ」
間近で視線が交わると、くすくすとサヤが声を漏らした。
「・・・・・・ハジも照れるのね・・・」
笑って、サヤは両腕をハジの首筋に巻き付けると、花弁のように柔らかな唇をハジの頬にそっと触れた。
「もう居なくなるなんて言わないで・・・。それが例え話だとしても・・・、私には耐えられない。

あなたが私のシュバリエだから、私は今ここに居る事が出来るのよ」
「サヤ・・・」
「・・・いつも守ってくれてありがとう。ハジ・・・」
ハジの腕の中でサヤは寛ぐように一度大きく体をくねらせて、間近に覗き込む恋人に、少しはにかんだ様な表情を覗かせる。
「こんな私でも・・・昔は憧れたわ・・・」
それを着せてくれるのが、ハジなら良いと・・・
いつか、ハジの隣で白いドレスに身を包んで微笑む自分の姿に・・・
「でも、もうそんな物に意味が無い事も判っているの。ハジ・・・」
「サヤ・・・?」
「私には・・・これで十分・・・」
サヤは指を伸ばして、壊れ物に触るようにそっと耳元の花弁に触れた。
「ハジが居てくれたら、それで良いの・・・。昔からハジだけ・・・ハジの前でだけ、私は普通の女の子で居られるの・・・」
ハジの胸で、サヤはうっとりと瞳を閉じた。
困ったようにハジは告げた。
「・・・今の私にあるのは、サヤから譲り受けたこのチェロと、あなたを想う気持ちだけです・・・」
それでもいいのですか?と・・・
小さく頷くサヤをきつくその腕に抱き締めて、ハジもまた静かに目を閉じた。
いつまでこうしていられるだろう・・・、二人で・・・。
そんな思いが、抱き締め合う二人を自然と無口にした。
しかし・・・、例えどんなに厳しい局面が二人を待ち構えていようとも・・・
それは名前も知らない、小さな野の花だったけれど・・・、

その小さな白い花弁は二人の心の中で枯れる事無く優しく咲き続けるだろう・・・。
いつまでも・・・
甘い恋の香りをまとって・・・


20060707
・・・バカップル。ええと、腐っているのは私の頭です。ごめんなさい。
ハジがサヤの髪にお花を飾ってあげるっていうのに憧れて書き始めました。
サヤってすごく可愛いので、戦いの中にあっても普通の女の子みたいに可愛い服に憧れる気持ちや
好きな人に抱き締められたら幸せ・・・とか、そういった部分を無くしてはいないだろうと思うのです。
・・・というか、無くして欲しくないなあ〜という希望。
ハジはサヤのたった一人のシュバリエなので、現実問題として、彼が居なくなったらやっていけないだろう
と言うか、もし自分に何かあったら・・・って言う事を、彼自身いつも考えているんじゃないかなあ〜と
思いまして。勿論、何かあってはいけないですが。ありませんよ!そんなこと。
でもでも、もしもの時はカイよりもソロモンを頼るべきだと思ってしまうのです(笑)
それにしても、私が書くとサヤはハジしか目に入っていないようで・・・恥ずかしいです。
こう、もっとストイックでカッコイイ二人を書いてみたいものです。