散り逝く花の薫りにも似て…8


 
朝を迎えていた。
冷たい雨はまだ降り続いている。一睡もできないまま、組織の長たる若い青年は暗い目をしてじっと窓の外を見ていた。
手元には一冊の分厚い日記帳。
古びた革の表紙には歴代の長が受け継いできた組織の歴史と言うものが染み込んでいる。
貴重なそれは常に厳重な管理の元に置かれている。内容は全てデータ化され…いかな長官と言う立場であろうとも、原本を気安く持ち出す事は出来ない…組織にとっては最も大切な機密文書なのだった。
彼は深く長い溜息を吐いた。
ゴルトシュミット家の歴史は、まさに血塗られている。
初代の仕出かした大きな過ち償うと言う大義名分の元…その為に更に多くの血を流し続けてきた。多くの犠牲を払い、それでもまだ自分達はこの争いを完全に収める事が出来ずにいるのだ。
自分の代で全てを終わらせる。
そう誓って、青年はジョエルの名を継ぐ事にも躊躇わなかった。
当初…彼が六代目を継ぐにあたり、組織の中には幾ら直系と言えども彼では大人し過ぎるとの否定的な声もあった。しかし彼はその穏やかな表情の下で、どれ程困難な道であろうともやり遂げて見せると、強く心に秘め続けてきたのだ。
実際、その穏やかな性質に反して彼は組織の長として十分にその努めを果たしてきた。
自らもまた怪我を負い車椅子の生活を余儀なくされても、その心が折れる事は無かった。
そして悲願は、間もなく為されようとしていたと言うのに……。
 
「…長官」
青年の沈黙を破り、背後から控えめに声を掛けたのはデヴィッドだった。
彼もまたひどく憔悴し切った顔をしていた。
重苦しい空気が執務室を満たしている。
ハジに続き、小夜までもが組織の手を離れてしまった。
そして…組織の構成員に多数の死傷者を出した。
ハジが獣化する…それは正に予想外の出来事であったとは言え、もとより厳しい訓練を経て命懸けの任務をこなしてきた彼らが、統制を乱しこちらからハジに対して発砲する様な事になったのか…。
何れにしろ、その責任は上官であるデヴィッドと…そして長官であるジョエルにある。
部下の命を二人は背負っているのだ。
「…それで、……彼らの足取りは完全に途切れてしまったのだね?」
ぎぃと軋んだ音を立てて車椅子を操作すると、ジョエルは確認する様に尋ねた。
まさか、人間の足で空を跳ぶ程の跳躍に追い付ける筈もなかった。雨の降りしきる中、例え犬の鼻をもってしても彼らの手掛かりを探す事は出来ないだろう。
「…必ず、突き止めます」
決意を新たにするように、デヴィッドは重々しい声で答えた。
「そうだね。…しかし、今こんな状況で下手に彼らを追い詰める様な真似も得策とは思えない。彼らは…。例えハジは記憶を失っていようとも…小夜のシュバエリエなんだ。彼女に危害が及ぶ事は絶対に無い…むしろ私達の元に居るよりは余程安全なのかも知れない…」
穏やかな気質の彼らしい…と言えばそうなのかも知れないが、長たる者の弱気な言葉にデヴィッドは反論した。
「…しかし、それでは…。小夜は直に休眠に入ってしまいます」
「………………」
長い沈黙が、答えだった。
女王が一旦休眠に入ってしまえば、次に目覚めるのはもう三十年後の世界だ。
休眠中の女王の居所を突き止める事は困難を極めるだろう事は過去の経験からも容易に想像できる。ベトナムで小夜を見失ったハジですら、自らの力で小夜の居どころを特定する事は出来なかった。それを、人間だけの手で行わなくてはならない。
しかもシュバリエは、姿を変え世の中に紛れその存在を消す事すら出来る。
彼らが完全に社会との関わりを絶ってしまえば、それ以上追う事は出来ないだろう。
小夜の居どころを隠す事など訳もないのだ。
「今の状態の小夜を連れて、…そう遠くへは行かれる筈がありません」
彼の口から発せられたのは、最もなセリフではあった。
小夜を連れ去ったのはソロモンであり、そしてハジもまたその後を追ったようだった。
彼らが共に行動しているというのならば、間違いなくソロモンの隠れ家の何処かに潜んでいる筈だった。彼はハジとは違い、長く社会に適応しサンクフレシュファーマシーと言う製薬会社のCEOまで勤めた…いわば著名人であり…彼の所有していたペントハウスの幾つかは判明している。その線でなら何とか彼らの居場所も限定されるのではないかとデヴィッドは見当をつけているのだ。
しかしその台詞も、今はどこか空々しく気休めの様に響いた。
じっと窓の外の一点を見詰めていた六代目となるジョエルは、不意に自らの手で車椅子をくるりと回転させ、
「……ハジの犠牲になった者達のリストを見たよ…。…こちらから、発砲したそうじゃないか…」
と、膝の上に載せた初代の日記をゆっくりと開いた。
かさりと、乾いた微かな音が静かな室内にはやけに大きく感じられた。
「……申し訳ありません」
どんな状況であれ、自分の部下を制止し切れなかった責任は自分にあると、デヴィッドは考えている。
しかしジョエルが気に掛けていたのは、責任の所在とは全く別の事だった。
「……最初に発砲した若者…確か、東欧の出身では?」
「………そうです…」
部下の出身位はすべて頭に入っている。しかしそれがどうかしたのだろうか…と言う表情で、デヴィッドが頷く。
「…報告によれば、翼手化したハジは今までに見た事もない姿だったそうだね…」
「……遠目でしたので細部まで確認出来た訳ではありませんが。……今までに確認された翼手とは明らかにタイプが異なっている様に思われます。背中の翼こそ翼手の特徴である蝙蝠のそれとよく似ていましたが、全身を毛に覆われ…まるで狼の様な、鬣の生えた獅子の様な…。それでいて背中は甲冑の様な硬い鱗に守られているようでした。他のシュバリエの様に翼手形態で二足歩行をする様子も見られませんでした」
「…………………。…画像の解析結果を、後でこちらにも回して貰おう」
「………しかし、ハジは今までに一度として、完全な姿になった事はありません」
何処がおかしいと指摘出来るほど、人類は翼手と言うものを知らない。
人類にとって翼手とは未だ『未知の生物』なのだ。
「勿論、解っているよ…。『彼はそう』なのだと言うならば、我々に否定する事はできない。翼手の全てはまだ解き明かされてはいないんだ」
「……………………」
「ただ、亡くなったアンシェルは、シュバリエの研究をする上で人種の違いに目を付けていたという話は聞いているね?」
それも実験の一環だったのか…ディーヴァのシュバリエは肌の色も様々だった。
「……これは憶測でしかないよ。…けれど、案外確信を付いている様な気もしている。ハジは元々ロマの生まれだそうだ。彼の過去に付いて解っている事は、それだけだ。サヤと番わせる為に健康な少年が選ばれ、後腐れのない流れ者の中から連れて来られた」
「……………………」
それは全て、ジョエルの日記の中にそう記されていた…と言うだけで、勿論今になっては実際にその状況を知る者はいない。
しかし組織の人間であるならば誰もが知る事項だった。
何を今更、ハジの出生など…と、デヴィッドは眉根を寄せた。
「アンシェルは、人種に目を付けた。でも僕は…それ以前に…シュバリエの質は、元々の人間が持つ素質の様なものが関係しているのではないかと思う。…………ハジは、元々異質な子供だった…」
研究者であった初代の血を引いているのか、ジョエルの瞳にはどこか好奇心の様なものも浮かんでいる様にも伺える。
とは言え、彼は直接にハジの幼少時代を知る筈はなかった。
「どうしてそんな事が…」
「アンシェルの遺した資料の中から記述が見付かったんだ。些細な事だよ。………研究成果と言うよりも、日常の細やかな出来事を綴った覚書の様な…」
「…それはどういう…?」
「ジョエルの日記の中で、ハジは聡明な子供だ…とだけ表現されていたけれど。実際にアンシェルがロマの人々の中からハジを見付けた時、周りの仲間達は皆ハジの事を毛嫌いしていたそうだ。これで厄介払いが出来ると…」
「…毛嫌いと言うのは…」
「肌の色や、瞳の色と言う事もあったようだけれど…」
ハジの、どこか異国的で透ける様な白い肌や、漆黒の髪は確かに印象的だ。しかし醜いと言うのならばまだしも、誰の目にも美しいと言わざるを得ない容姿をしている事が、差別の原因になどなるものだろうか…。
「………………………」
「ハジの母親と言う人物は、いわゆる狼憑きと呼ばれていたらしい」
「……そんなものは迷信です」
確かに古今東西…狼に限らず獣に姿を変える人間の伝承は数多く残されてはいるが…。
それは多くの場合、知能障害や脳の損傷などに由来する精神病患者やカトリック教会の定めた犯罪者に対する呼称に過ぎない。実際に狼に返信する人間が存在するなど…。
デヴィッドは、信頼する上司の口から出たあまりにも現実味のない言葉に、思わず頭ごなしにそう言い切った。
そうして、窘められる。
「翼手が存在するんだ…、人狼だって頭から否定は出来ないさ…」
「………………………」
「人狼伝説の真偽はともかく。彼は小さい頃から非常に特殊な子供だった。何事にも酷く敏感で勘が鋭く、常人の見えないものを闇の中に見たりする」
デヴィッドは、自分の知る筈もない百年以上も昔の、まだ一般に科学の知識が広がる以前の夜の闇の深さを垣間見てしまった様な心持ちになった。
科学の知識が広く普及する以前、漆黒の闇の向こうはさぞや無限に広がっていたのだろう。人の持つ想像力と相まって『在るはずの無いもの』『居るはずの無いもの』が確かに存在した時代だ。柄にもなく、男の背筋がぶるりと震える。
今更ながらに、ハジと言う存在が…そしてまた小夜も、常識では考えられない長い時を生き、そうして時代を超えて来たのだという事が今になってやけにリアルに感じられたのだ。
 
男の、冴えた湖の様に青い瞳がありありと脳裏に浮かぶ。
一度して翼手としての力を解放する事の無かったハジが…。
あれほど強い意志の力で自らを制し、翼手の力を封印し続けてきた彼が…。
 
一体何が引き金になったのか…。
 
護るべき小夜の記憶を失う事で彼は安全装置を失ったという事なのか。
 
それだけ、シュバリエにとって…いやハジと言う男にとって小夜と言う存在は大きいのだ。デヴィッドの知る限り…常に物静かで従順な態度を取り続けていた彼が忠誠を誓う対象は組織ではなく、小夜なのだ。
小夜を失い制御不能となったハジを、果たして今の赤い盾がその管理の元に従わせる事が出来るのだろうか…。
 
例え夜は明けても、雨は止まない。
彼らにとって、その目指す終焉は果てしなく険しく遠く感じられるのだった。

                              《続》


20111227

取り敢えず。しかしハジも小夜も出ていなくてすみません!

………ジョエル書くの結構好きです。次はハジ小夜な展開にしたい(笑)

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