散り逝く花の薫りにも似て…7


 
ソロモンが、欲しくて…喉の奥から手が伸びるほど欲しくて…それでも手の届かなかったもの。
ハジは、それを最初から当然の様に手にしていたのだ。
ソロモンの目の前で、どこか互いを労わる様な仕種で身を寄せ合う女王と唯一のシュバリエの姿に、ソロモンはぎりっときつく唇を噛み締めた。
自分の胸の奥にもまた、あれ程蔑んだ人間と同じどす黒く醜い感情が在る事を思い知らされる。それは小夜を愛すると言う尊くて美しい感情と常に表裏一体で、光のある場所には常に存在する影の様なものだ。影が濃ければ濃い程…光もまた眩いものなのだと、ソロモンは懸命にその光景を見詰めた。
小夜のシュバリエになりたいとどれ程望んでも、自分はこの男に成り代われはしない。けれどまた同時に、だからこそ自分にしか出来ない事があるのだと縋るような思いで、俯いてしまいそうな顔を上げた。
今のハジでは小夜を救う事は出来ない。
その姿で足元も覚束ない小夜を連れて、この包囲網をどうやって突破すると言うのか…。
仮にこの包囲網を突破したとしても、この男に行く宛はない。
この雨をしのぐ傘さえ持たないのだ。
幾ら翼手を殲滅させる為の切り札である小夜のシュバリエとは言え、組織の構成員をこれだけ殺めておいて御咎めなしと言う訳にはいかないのではないか。直に休眠期に入ろうとする彼女を記憶のないハジ一人で守り切れる筈もなかった。
チラリと横目で伺うと、ハジの首筋にしがみ付く様にした小夜の体力も限界を迎えようとしている。只でさえ体力の落ちた体に、この雨では無理もない。
もう躊躇している暇はない…そう判断を下し、ソロモンはハジの首筋に縋り付いた小夜の体をそっと脇から支えた。
「……ソロ…モン?」
「…このまま、ここに留まる訳にはいきません」
「……だって…。ハジは…」
その円らな瞳が不安で揺れるのを、ソロモンは穏やかな表情で受け止めた。
「……どうやら記憶はなくても、ハジは貴女の事を認めている。それにこちらの言う事がまるで分らない程、獣と化している訳でもなさそうです…心配しないで…」
小夜を取り上げられ、ハジは容赦のない険しい瞳でソロモンを見詰めていた。
まるで森の奥の湖に人知れず張った氷の様に冷たく…。威嚇する様に喉の奥でくぐもった唸り声を上げながら、しかしまるで事の成り行きを見守る様に耳を欹ててもいる。
一瞬でも隙を見せる事は出来ない鋭い眼光、その瞳の色にはやはり知性と言うものが感じられた。
強く…美しく、知性を兼ね備えた存在…。
彼が一体何者であるのか…本当に自分と同じ翼手…シュバリエであるのか…それとも全く別の何者かであるのか…ソロモンにとっても気にならない筈は無かった。しかし、それは今追及すべき事柄ではない。
シュバリエとして、今最優先すべき事は小夜を安全な場所へ導く事だ。
ソロモンは有無を言わさず、小夜の冷えた体をその腕に抱き上げた。
一刻の猶予もならない。
「…っ、ソロモン!」
「黙って。小夜」
そうしてハジを見上げる。
「…彼女を安全な場所へ運びます。付いて来て下さい…」
探る様な青い瞳が真っ直ぐにソロモンを見下ろす。
果たして意志が伝わっているのか…。しかし金色の髪のシュバリエが女王を腕に抱いたまま地を蹴ると、美しい獣は一呼吸おいてその後を追った。
ばさりと音を立てて、大きな翼が空を切る。
 
呆気なく、その姿は闇に消え…残された人間は、ただ茫然と闇の中で雨に打たれるばかりだった。
 
 
■■■
 
 
温かい…。
ここはどこ?
 
小夜の次の記憶は、暖かなシーツに包まれて始まる。
 
広いベッド。肌触りの良いシーツ。
見慣れない天上と壁…シンプルで都会的なファブリックとインテリアには見覚えが無く、そこは全く小夜の知らない部屋だった。
あれほど全身ずぶ濡れになり冷え切っていたにもかかわらず、汚れた体はすっかり清められ、髪も乾いていた。自分を包むほんのりと甘いソープの香りに戸惑いながら、状況が飲み込めず小夜は一つ一つ記憶を辿る。
 
降りしきる雨の中で漸くハジと再会を果たした筈だった。
ハジは小夜が初めて目にする美しい獣に姿を変えていたけれど、それでも自分には彼がハジである事がはっきりと解ったし…彼もまた自分と言う存在を受け入れてくれた。
美しかったハジの黒髪を彷彿とさせる豊かな鬣にしがみ付いて、無性に泣きたくなった。
ハジと出会った…彼がまだ子供だった日からの幸せな思い出が取り留めもなく浮かび、長い時を経た今が、こうしてある事に胸が締め付けられた。
彼を人では無いものへ変えてしまった事を申し訳無いと思えば思う程…愛しい気持ちは膨らんでゆくのだ。
それは、どちらが勝るとも劣らない強い感情だった。
ハジを失って、生きていける筈もない。
休眠中でさえ自分は、彼の気配を感じ、守られて眠っていたというのに…。
離れている事がこれほど辛いとは、小夜にはそれまで想像も出来なかったのだ。
姿は変わっても、例え記憶は失われていても、言葉を交わす事すら叶わなくても、抱き締める事の出来る男の存在に胸の奥が熱くなった。
そんな無責任な事が許される筈も無いのに、いっそこのまま、投げ出した全身をハジに預け、彼を先進に感じたまま呼吸が止まってしまえば良いとさえ願った。
このまま、二度と離れたくないと…。
 
 
体力的な限界が影響しているのか…小夜の記憶は途切れ途切れだった。
 
ここはどこだろう?
自分はどうしてここに居るのだろう?
ハジは…、ハジはどうしてしまったのだろう?
 
目覚めたばかりの意識が次第にはっきりしてくると、小夜の中で堰を切った様に不安が溢れ出した。
しかし…起き上がりたいのに…弱った体はまるで主の言う事をきかない。
何とか片肘を付いて上半身をシーツから浮かそうとすると、すかさず差し出された腕が小夜の体を支えた。小夜の視界に入らない場所に男が控えていたのだ。
「…もう少し、横になっていた方が良い。無理はしないで…」
条件反射の様に、小夜の脳裏にはハジの姿が浮かんだ。
彼はいつもそうして、さりげなく小夜を庇い支えてくれたのだ。
しかし、そこにいたのはハジではなく金色の髪をした男だった。
彼の澄んだ緑の瞳が痛々しいものを見る様な色を浮かべる。
「……ソロモン」
少女の…その声音には明らかに落胆の色があった。複数のシュバリエを従えていたディーヴァとは違い、小夜にとって傍らに従う存在は常に彼一人だった。しかしソロモンはそんな小夜の反応を半ば予想していたかのようにあっさりと受け流した。
「貴女のシュバリエでなくて申し訳ありませんが…。只でさえ休眠前で体力が落ちているというのに…あんな無茶をして…。もう少し横になっていて下さい。暖かな食事を用意します。…血が必要だと言うのでしたら、血液パックが用意してありますから」
幾ら気持ちの上で自分は小夜のシュバリエになったのだとしても…実際にはディーヴァの血を受けたソロモンが小夜に自分の血を与える事は出来なかった。
「ソロモン!…私の事は良いの。……ハジは?」
小夜は身を乗り出した。
「心配しないで…。彼は迷う事無くきちんと後に付いてきました。しかしあの姿のままでは少々手に余りますから、彼にも今は別の部屋で少し眠って貰っています」
あの大きさでは玄関ドアさえ潜れませんからね…と付け加えた。
「…ハジは…眠らないわ」
「……そうですね。…しかし私はディーヴァのシュバリエであり…そしてまたサンクフレシュのCEOだった男です。それなりに…シュバリエを大人しくさせる手段は心得ています。アンシェルは、殊の外…自身も含むシュバリエの研究に熱心でしたから…。あんな姿になって…どうかと思いましたが、無事に効いてくれて良かった…」
 
効…く…?
 
「………………ハジに…何か、薬を飲ませたというの?」
憤る小夜を、ソロモンは宥める様に再びベッドに寝かしつけた。
「量は弁えていますよ。…命に別状はありません」
体を起こそうとするものの、今の小夜にはもう一度自分で体を起こす力は残されておらず、否応なく横たわったまま長い吐息を吐く。
ハジに、薬だなんて…。
命に別状がないとはいえ、眠らない彼の意識を奪うだけの強い薬…きっとそれはディーヴァの血から作られているのだろう…。
ドクドクと動悸が激しくなる。ソロモンに悪意はないのかも知れなかったけれど、小夜はそれすら自分の所為だと心の中で強くハジに詫びた。
「ここは、僕の部屋です。多分、赤い盾もこの場所の存在にはまだ気付いていない。…今はとにかく安心してゆっくりと休んで下さい」
あんな雨の中を飛び出すなんて貴女は無鉄砲すぎると乾いた笑みを零して、ソロモンは自ら食事の用意に取り掛かるのか小夜の傍らを離れようとする。
「……ぁ」
その時になって、小夜は彼がこうして自分の体を綺麗に洗い流し着替えをさせてくれたのだと気付いた…そう言えば以前にも似た様な状況で助けられた事がある。
あの時も、傷付いた自分を彼は手当てしてくれた。
そして彼は言ったのだ。
真っ直ぐに小夜の瞳を見詰め、甘い言葉で…自分の花嫁になって欲しいと…。
あの時、甘い誘惑の言葉に流されそうになりながらも、小夜は最後までディーヴァのシュバリエであるソロモンの真意を測る事は出来なかった。
けれど今、状況は違う。
瞬時に顔を赤くする小夜の様子に気付いたのか、ソロモンは去り際にドアノブに手を掛けたまま振り向いた。
「……あれからまた少し、痩せてしまいましたね…。…リセのパーティーで初めて出会った時が嘘の様に…」
男の寂しげな口調が、小夜にもまた当時を蘇らせた。
あの頃の自分は過去の重い記憶を失っていて…突然目の前に現れた美しい金髪の男にほんのりと淡い憧れの様なものすら抱いた。彼の様に甘い顔で、甘い声で、優しく囁かれれば、若い娘ならば誰もが同じ様に心を奪われるだろう。
けれど、もう…自分はあの時の自分ではない。
あの頃とはもう何もかもが違うのだ。
「……とにかく今の貴女には、休む事が必要です…」
「…ソロモン、何度も助けてくれて…貴方の献身には感謝してる。……でも…」
「それ以上、何も言わないで…」
聞く耳を持たないかのように…小夜の言葉をぴしゃりとはね付ける。
「見返りを求めている訳ではありません。もう…何も心配しないで…」
「……ソロモン?」
「……貴女に笑っていて欲しいと思っているのは、何も彼一人ではないのですよ」
小夜に向けた優しい笑みが、最後まで崩れる事は無い。
背中を向け出て行こうとする男の背中をじっと見詰めながら、小夜はそれ以上男に掛ける言葉を見付ける事が出来なかった。
 
                      《続》

20111202
短くてすみません〜。なんだかこうして物凄く気ままに連載して書いていると
色々と駄目な部分が浮き彫りにされて痛い…ですが、もう少し頑張ります〜。

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