あなたが望むなら…

 
休日のショッピングモール。
昼食の時間は既に過ぎているというのに、フードコートはまだまだ混雑していた。
小夜の為に空いた席を確保するべく、長身のシュバリエは両手に大きな買い物袋を提げたまま辺りを見渡した。手に提げたビニールの袋には、買ったばかりの冬物の衣類が入っている。
勿論、小夜のものだ。
 
小夜が休眠中は一度として訪れた事のない場所ではあったが、今月に入り彼がここへ来るのはもう既に三度目。
以前は買い物を楽しむ様な余裕はなかった小夜も、やはり年頃の女性の多くがそうであるように、ウィンドーショッピングは楽しい様子で、郊外に新しく出来たこの巨大なショッピングモールへ度々足を運んでいる。三十年と言う長い休眠から漸く目覚め、生活するうえで必要な身の回りのものは一通り揃っているけれど、これから冬に向かう季節柄まだまだ揃えなければならないものは多いものだ。今日購入したのは、湯上りにパジャマの上から羽織るフリースのガウンと厚手の室内履き。
それから暖かなダッフルコート。マフラー。
どれも十分に小夜自身が吟味して選んだ物で、そんな嬉しそうな彼女を見守る事にハジはこの上もない幸せを感じる。
自分で持つから…と小夜は言い張ったけれど、どれもかさ張る物ばかりで今の様な混雑時は尚更小夜の手には余る。当然の様に男はそれを受け取った。
両手の塞がってしまったハジに申し訳なさそうにしながら、彼女は今フードコートの片隅でお目当てのクレープの列に並んでいた。
辺りは小さな子供を連れた家族や若いカップル、そして中学生程の少年少女たちのグループが、がやがやと賑やかな…ともすれば煩く感じる程ひしめき合っている。別の階にはもう少し落ち着いたレストラン街もあるのだけれど、しかし彼の主はその店のクレープを殊の外お気に召している。クリームの甘さが控えめでとても美味しいのだそうだ。
 
『クレープ位なら、別にテーブル席じゃなくても良いよ…』
小夜はそう言って笑い、確かに屋外に面したテラスには休憩のためのベンチも並んではいるけれど、広い店内を隅々まで歩き回ればそれなりに彼女も疲れている筈で…出来れば室内のテーブル席で落ち着いて座りたいだろう。
忠実なシュバリエは、広いフードコートに空いたテーブル席を探して回っているのだ。
 
ちらりとクレープの列に視線を投げる。ここからは並んでいる小夜の姿は見えなかった。
きちんと買えているだろうか…と、些か過保護過ぎる思いがちらりと男の脳裏を過る。
いっそ先に席を確保して、彼女を座らせてから自分が並べば良かったのかも知れないが、しかしきっと小夜はそれでは満足しない。ガラスケースに並んだ食品サンプルを眺めながらギリギリまでどれにしようか迷うのもまた楽しいのだ。
それに目覚めてからの小夜は、まるで過去の分を取り戻すかの様に…自分の事は自分でする様に…元従者であるハジの手を煩わせない様に気を配っている様でもあった。
そんな彼女の気持ちが理解出来ない程、男は無神経ではない。
彼女は翼手の女王ではなく、普通の女の子としての暮らしを望んでいるのだ。
しかし自分で買って来る…と言う小夜の言葉に大人しく従いながらも、男はチラチラと彼女の様子を気に掛けずにはいられなかった。
 
と、その時…。
ドン…と軽い衝撃を足元に感じて、ハジは自分の足元を見やった。
足元の床に小さな少女が転んでいる。
余所見をしていてぶつかったのだろうか…自分も足元の事など気にも留めていなかった。日頃接触が無いので小さい子供の事などよく解りもしないが、2歳…いや利発そうな瞳はもう3歳に達しているだろうか…。愛らしいデニムのスカートにツインテール。赤いカーディガンにはカラフルなアップリケが施されていた。自分が何にぶつかったのか、まるで理解していない様子でキョトンとしていた瞳が、じわじわと次第に潤み始める。
ハジは慌てて彼女の目線まで膝を折って屈むと、手に提げていた買い物袋を脇に置いて少女に手を差し伸べた。
「泣かないで…」
穏やかな声でそう告げて優しく微笑むと、そっと手を貸して少女を立たせ、乱れたスカートの裾を直して埃を払い怪我がない事を確認すると指先で丁寧に彼女の前髪を整えた。
「ぶつかって申し訳ありません。どこか痛いところはありませんか?」
少女は、突然目の前に現れた青い瞳の青年に声を発する事も出来ず、呆然とただ小さくこくんと頷いた。
 
 
□□□
 
 
「ハジって…誰にでも優しいね…」
小夜がそう言って突然唇を尖らせたのは、やっと確保した二人掛けのテーブル席で、白い生クリームとチョコレートが溢れそうなボリュームのクレープを一口頬張った後の事だった。
「…………………」
それが先程の、子供とぶつかった時の事だと気が付くまでに数秒。
「……見ていらっしゃったのですか?」
「………うん。良かったね…怪我してなかったみたいだし。あの子のお母さん、すぐに気が付いて飛んできたでしょ?」
「ええ。……小さな子供と言うのは前を見て歩かないものなのだと知りました。…以後気を付けます」
まるでぶつかったのは自分の不注意の様に、ハジは真面目に答えた。
そんな男の態度に、小夜はほんの少しだけバツが悪そうに一瞬視線を泳がせて、再びクレープに口を付ける。
「………まさか、…ヤキモチですか?」
「そ、そんなのじゃないよ!」
小夜は慌てて首を振り、少し寂しそうな表情を覗かせた。
「そう言う事じゃなくて…。…なんだか想像出来ちゃったの…。私が眠ってる間、ハジはずっと起きてて、私の知らない誰かと話したり、笑ったり…私がいなくても…ハジは生きていけるんだなぁ…って」
「……………………」
そんな事を言われるとは思っても見なかった男は絶句する。
小夜は知らないのだ。
彼女が眠っている間、男がどんな気持ちで彼女の目覚めを待っているのかなど…。
小夜が居なくては、男は生きていける筈もないという事を。
けれどそれを今、どんな言葉で彼女に伝えたら良いと言うのだろう?
「……もし、私ではなく…ぶつかって来られたのが小夜だったとしても、きっと貴女も同じ様に手を差し伸べて『泣かないで』と、微笑んでみせたでしょう?…目の前で子供が転べば、誰でも同じようにします」
答えになっていない事など、重々承知している。
「……………………」
小夜は気まずそうに黙っていた。
「……もし貴女が望むのならば、私はこの先小夜以外の誰とも…」
「ハジ!……違うの…。そう言う事じゃなくて…」
男の言葉をぴしゃりとはね付けて、言い淀む。
と…小夜は唐突に、ハジの目の前に食べかけのクレープを差し出した。
「あ…甘くて、美味しいよ。…少し…味見する?」
男に食べるという行為は必要の無いものだと知りながら、小夜は取り繕う様にそう続けた。差し出されたそれを、ハジは小夜の指先ごと掌に包みこんで引き寄せると、そっと目を閉じて一口食んだ。男の口の中に、懐かしい優しい甘みが広がる。
ね?…と反応を伺う様に覗き込む少女が優しく微笑んだ。
「……本当に…」
男は…人であった遠い過去においても好んでお菓子と呼ばれる類の物を口にしていた訳ではないけれど、不思議とそれを懐かしいと感じるのは何故だろう…。
目の前の愛しい少女があまりにも健気に切なく微笑んでみせるから、本当は自分だって彼女の温もりを手放したくはないのだと、人目も憚らず抱き締めたくなる。
「ぁ、ねぇ…ハジ。唇にクリーム…」
「…………………」
思わずそっと伸ばされた指が、男の口の端に触れる直前…金縛りにでもあった様に止まる。真っ直ぐに見詰める男の熱の籠った眼差しにぶつかって、少女の頬がかぁっと赤く染まっていた。
「……………………」
気が付くと、クレープを差し出した右手も…、男の唇に触れようとした左の指も…、小夜の両手の自由は男に捉えられていた。
捉えた彼女の指ごと自らの口の端に着いた生クリームを拭うと、形の良い唇がその指先にそっと口付ける。
「…甘い…」
「…ハ…ハジ!」
それは一瞬の出来事だった。辺りを見回しても、誰も気に留めてはいない…とは言え、しかしこんな場所で指先に口付けられた事に小夜が体を固くする。
「……何でしたら…本当に少し位妬いて下さっても宜しいのですよ?」
「……あ、あんな小さな女の子にヤキモチなんて妬く訳ないじゃない!」
そしてハジの指を振り解くと、居住まいを正す様にじっとハジを見詰め、そして俯いた。
僅かに声のトーンが落ちる。
「…私、誰にでも優しいハジが好きよ。転んだ女の子に優しくしてるあなたを見て、あぁ…私やっぱりハジの事が…こんなにも好きって……」
お互いの気持ちなど言葉にして確かめるまでもないけれど、恥ずかしがりの彼女がこんな風に男に面と向かって『好き』と口にする事は本当に珍しくて…それだけに彼女の寂しさが浮き彫りにされる。
男の事を思えば思う程、恋心が募れば募る程…寂しさはその色合いを増してゆく。
こんなに幸せな、日常の隙間にもそれは不意に忍び寄ってくるのだ。
まだ…目覚めたばかりだと言うのに…。
「…………小夜。私が優しくしたいと思うのは、いつも貴女一人です」
貴女は解っている癖に…。
決して言葉では埋められない寂しさを、彼女は心の底に抱えている。
三十年にも及ぶ休眠は小夜の身体には必要不可欠なものだ。いかに有能なシュバリエでも、例え彼女の恋人であろうとも、ハジにはどうする事も叶わない。
彼女は一人恋人を残して長い眠りに就いてしまう事で自分を責め続けるのだ。
それは、永遠に埋める事の適わない女王の孤独。
真顔で黙り込む男に、
「……………恥ずかしい事…真顔で言わないで…」
と、照れた様に小夜が笑った。
どちらからともなく伸ばした指先が、テーブルの真ん中で絡み付く。
強く…深く、互いを求める様に…。
小夜の瞳にも、ほんのりと熱が宿るのが見て取れた。名残惜しむ様にいつまでも指を絡めたまま、けれどまるでお互いの素直な感情の高まりをけん制する様に、不自然な程唐突に明るい声音で小夜がハジに提案する。
「ねえ、ハジ。クレープ食べ終わったら…後で本屋さんも覗いて良い?」
まるで、ここは二人きりの寝室じゃないんだからね…と、釘を刺す様に。
勿論です…と頷いて、ハジもまた苦笑を浮かべた。
そんなに怖がらなくても、まさかこんな所で押し倒す訳などでしょう…と。
 
 
平和な休日の午後。
賑やかなショッピングモールのざわめき。
長閑な時間の流れにぼんやりと頬杖を付いて、幸せそうな表情でクレープを頬張るあどけない恋人の様子に瞳を細めながら、しかしハジは思う。
 
もし、本当に。
もし本当に小夜がそう望むのならば…。
自分はきっと、彼女以外の誰とも関わりを絶つだろう。
白い繭に包まれて眠る恋人の目覚めを、化石の様にじっと…片時も離れずにその傍らで待つだろう…。
これまでの休眠が、そうであった様に…。
 
けれど、決して小夜に気付かれてはいけない。
彼もまた、心の内に大きな孤独と寂しさを抱えていると言う事を……。
 
                           《了》

20111117
糖分祭に投稿したSSです。

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