それは中天に儚く浮かぶ…
白く、じっと瞳を凝らさなければ、見つける事も叶わない程の輝き…


疑問を持たない事。
余計な詮索をしない事。
それは彼がこの屋敷に上がる事が決まった時に、最初に約束させられた事だ。
けれど…此処には…、あまりにもこの屋敷には不審な事が多過ぎると、青年は窓から零れる青白い月の光を浴びて思う。
それでもハジは、彼女が笑ってさえ居てくれれば…
ただそれだけで…幸せだった。



□ □ □



「私が二人居るのよ。おかしいでしょう?ハジ…」
まるで磨いた黒珊瑚のような円らな瞳を更に丸くして、少女が青年を見上げた。
長い黒髪を緩く結い上げて耳から首筋に流れるほっそりとしたラインを露にし、その髪の半分程は腰まで垂らしている。
大きなパフスリーブが印象的な淡い薔薇色のデイ・ドレス、きゅっと絞った華奢なウェストからふんわりと広がるドレープが陽の光によく映えた。
気の強そうな…きりりとした形の良い眉、ふっくらと艶やかな唇。
一目で上流階級の子女である事が判るのに、その表情に気取ったところはなく、人懐こい柔らかな笑みを惜しげもなく青年に向けている。彼の肩程の身長しかない少女が並んだ青年の瞳を見詰める為には、大きく空を振り仰ぐように首を逸らさねばならず、自然しなやかに仰け反った首筋の白さに思わず見蕩れながらも、ハジと呼ばれた青年はその不埒な想いを押し包むように静かな声で答えた。
「それは夢…ですか?」
少女に寄り添う青年もまた、息を飲む程の美しい容姿をしていた。
彼女と同じ黒髪を肩の辺りまで伸ばし、風に遊ばせている。
白い陶器のような肌も整った目鼻立ちの優しげな面も、女性のように優雅なのに決して女々しく感じられないのは、強い意志を宿す凛とした眼差しせいかも知れない。
「そうよ…」
青年の両手には溢れんばかりに鮮やかな薄紅色の薔薇の花。その腕を取るようにして甘えて答える無邪気な少女の仕草に慌てて薔薇を抱え直しながら、うっすらと目を細める。
「私ね、もし自分に姉妹が居たらこんな感じなのかしら…って思って、とても幸せな夢だったのよ」
嬉しそうに微笑む少女の横顔を、ハジは穏やかに見守っていた。
柔らかな午後の日差しがほんの少し翳り始める。オレンジ色のレンガが美しい幾何学模様に敷き詰められた中庭の小道。
少女の為だけに植えられた薔薇が色とりどりに咲き誇り、辺りを甘い芳香で満たしていた。
静かで、穏やかな、まるで絵画の中のような美しい世界。
いつまでもその幸せが続くと信じていた。
二人の間を、初夏の風が通り過ぎてゆく。
 
 
十九世紀 フランス、ボルドー。
 
 
近隣の住民からは動物園と呼ばれ、なにやら血生臭い噂の耐えないこの広大な屋敷の中で少女は育った。
外の世界を知らず、美しく咲き乱れる薔薇の庭で…
端正な黒髪の青年に傅かれ…
 
 
イギリスから発生した産業革命の波に飲まれ、目まぐるしく移り変わってゆく世相の狭間で、しかしこの屋敷の中は時間が止まったかのように穏やかな日々が流れてゆく。
 
 
少女の名前は、サヤ
そして、青年の名前をハジと言った。
 
 
 
夜明けの月…        三木邦彦
 
 
 
□ □ □
 
 
 
薄暗い部屋、大きく重厚なマホガニーの書斎机に大きく前屈みに肘を突いて、老人は深い溜息を吐いた。
撫で付けた白い髪が額に落ちかかる、その前髪の下から覗く瞳は生気なく濁っていた。深く眉間に刻まれた皺がその苦悩の一端を垣間見せる。
 
若さとは、時に傲慢で愚かしい妄想に取り憑かれるものだ。
知りたいと言う欲望を抑える事が出来ず、なまじ親から受け継いだ莫大な遺産があったばかりに、自分に不可能な事などないと錯覚し…まるで神にでもなったかのつもりだったのか。
 
悔やんでも悔やみ切れない。
 
最早枯れ木のように年老いてひび割れた指先でページを繰る、古い革張りの日記帳。その黄ばんだ紙面には彼自身の筆致で事細かに過去の出来事が綴られていた。
あの日に戻れたら…
これまで何度そう願ったか知れない。
けれど、いかな神だとしても時の流れを戻す事は出来ない。
後どれだけの時間が自分に残されているのだろう…。
命とは、かくも儚いものなのだ。
しかし、少女は老いるという事が無い。
永遠の命を誇る様に、その瑞々しさは何年の時を経ても変わることが無い。
少女の行く末を、自分にはもう見届ける事は叶わないのだろう。
少女は人類ではない。
とても古い時代の、蝙蝠と人間の特徴を合わせ持ったような奇怪なミイラの腹から少女は繭に包まれて誕生した。
偶然指を切り付けたその血を吸って息を吹き返すように、彼女は産声を上げ…若い好奇心はその未知の生物に対する恐怖心よりも勝り、少女を自分の娘として育てる事にしたのだ。
そして、あの日。
完全に少女の成長が止まったことを認識したあの日。
愚かしくも一つの疑問に辿り着いた。
上辺は娘として育てた少女に生殖能力が備わっているのか…
それを確かめる事。
また人間と交配させる事で子を成す事が可能であるのか…。
そしてもしそれが可能であるならば、生まれてくる子供はどんな性質を備えているのか…。
その『実験』を実現する為に、老人は何人かの若者を少女の従者として傍に置いた。
少女は美しい。
誰もがその魅力に囚われた。
けれど、傍近くに置いたばかりに少女が普通の人間とは違うのだと言う事に気付くと皆一様に恐れをなした。
 
老人は深く掛けた椅子から腰を上げると、重い足取りで窓辺へと歩み寄り、締め切られたカーテンを引いた。すっと一条の光が暗い室内へ差し込むと、その光に影はその濃さを増し、老人の眉間の深い皺が一層際立った。
 
カーテンの隙間から覗く窓の外には、嘘のように眩しい光景が広がっていた。
柔らかな午後の光を浴びて…
手入れの行き届いた中庭の小道で、かの少女が薔薇を愛でている。
傍らには黒髪の青年。
少女に請われるままに、丁寧に薔薇の枝に鋏を入れている。
風に遊ばれる少女の髪を、片腕に薔薇を抱えた青年は優しく指で整える。そのまま、前髪を撫でると青年はそっと彼女の額に唇を寄せた。それは一瞬の出来事だったけれど、遠目にも幸せそうに微笑む少女の表情が見て取れた。
老人は、その眩しい光景にすっと目を細めた。
青年が初めてこの屋敷にやって来た時、彼はまだ年端もいかない少年だった。
何度目かの失敗の後…少年を選んだのは、大人よりずっと素直で従順であると考えたからだ。
少女の特異な体質を知って尚、それを異常な事と思わず少女を受け入れられるのではないか…。
 
そして少年は、老人の予想を裏切る事無く、少女の特異な体質を知っても、青年になっても変わらず少女の傍に仕えている。
自分の目論見は、ある程度達せられつつあるのかもしれない…。
しかし、もう自分に残された時間では、少女の行く末を見届ける事は出来ないだろう。
それでも良い。
それも仕方が無いのだと、この年齢になって漸く思えるようになった。
 
 
ああして、穏やかに寄り添う若い二人の姿を見ていると、自分の犯した罪の重さを一時でも忘れられる。
 
 
 
「ジョエル…」
老人の物思いは突然に破られた。
背後から掛けられた低い男の声に、びくりと大きく体を震わせて不快な表情を隠そうともせずに老人は振り返った。
「ノック位したらどうなんだ。アンシェル…」
「それは失礼致しました。一応声は掛けたのですがね。…何やら窓の外を気に掛けて、考え込んでいるご様子でしたので…」
この屋敷の当主である老人に対しても臆した風なく、返って慇懃無礼な口調が気に障る。
アンシェル・ゴールドスミスは当主の従弟にして研究助手として、この屋敷の中では大きな権力を握っている。
「何の用だ?」
「パリのご子息から手紙が届いていましたので…、お持ちしましたよ」
「わざわざ、お前自らが?」
「ついでと言っては何ですが。今後の塔の少女の治療方針について…ご相談がありましてね…」
「もうこれ以上使用人はやれん。解っているだろう?これ以上使用人が消えれば…」
震える声で遮る老人を嘲笑うかのように、アンシェルは小さく口許を歪め…まるで老人を無視するかのように窓際へ歩み寄った。カーテンの隙間から覗く光景に冷たい視線を投げる。
「町へ出て、身寄りの無い労働者を浚って来いとでも?」
「そんな事は言っておらん。…幾ら貧しい者だとしても、まるで嬲り殺すような残酷なお前のやり方には疑問を抱かずにはいられないのだ。一度にそれほどの血を必要とはしないだろう…」
「人の事が言えるのですか?…あの二人、本当の事を知らないのでしょう?あなたが何を企んで、あの哀れな少年を買い取ったのか。どうやらあなたの計画は順調に進んでいるようですな…。ハジは…そしてサヤは、何も知らずに…互いを…」
「黙りなさいっ。私はどうかしていたのだよ…。それは神をも恐れぬ行為だ…」
「孤高の研究者も寄る年波には勝てないという事ですか…。今更何を恐れると言うのです?あなただってこれまでに…サヤの為に罪も無い人間を何人屠ったと思うのです?そしてこれからも、彼女の命と秘密を守る為に…」
「もう良い。出て行きなさいっ」
アンシェルは無表情のまま、訪れた時のように礼を正して退室した。
老人はもう立っている事もままならない様子で頭を抱えると、深く椅子に崩れ落ちた。
 
 
 
  □ □
 
 
 
青年は、貧しいロマの生まれだった。
住む家を持たず、歌舞を生業として、物心ついた頃には厳しい流浪の生活を余儀無くされてきた。
そんな彼がこの屋敷に上がってから、もう何年がたっただろう。
 
 
ある日、少年の身を迎えに現れた見ず知らずの二人の男。
それは少年にとって何の前触れも無い突然の出来事であり、長い物語の始まりとなる出会いだった。
この屋敷の当主である、ジョエル・ゴルトシュミットと名乗る初老の紳士は一見穏やかそうな人物で、上質なスーツに身を包み満足そうにじっと貧しい少年の姿を見詰めていた。
そしてもう一人。
アンシェル・ゴールドスミスと名乗った恰幅の良い壮年の男は、感情を覗かせない冷たい瞳をしていて、てきぱきとその場に指示を出すと、さっさとその商談をまとめ彼の身を買い上げた。
元より自分の荷物など無い。少年は身体一つで急かされるように馬車に乗せられると、生まれ育った仲間の元を離れ、その後二度と戻る事はなかった。
当時の記憶は酷く曖昧で、ところどころ思い出せない部分もある。
それでも、悲しいとか寂しいとか、そういった感情は無かったように記憶しているが、ただ目まぐるしく環境が変わり、幼い少年にはそんな感傷に浸る余裕すらなかっただけなのかも知れない。
 
 
初めてこの屋敷の門を潜った日。
生まれて初めて、清潔な白いシャツに袖を通し、濃紺のリボンタイを結んだ日。
高い天井から吊るされたきらきらと輝くシャンデリアの光に…、初めて目にする豪華な調度類の数々に…、少年は圧倒されていた。そして何よりも、少年の心を奪ったのは、一人の美しい少女の姿だった。
あの日、屋敷の中を案内される途中で、やはりこの窓から高い空を見上げた。
今までの…自分の知っている暮らしから、ここはまるで別世界に連れて来られたように感じるのに、見上げる空の青さはどこで見ても同じである事が不思議でならなかった。
 
ハジは長い廊下の途中で、古い記憶に導かれるようにぼんやりと足を止めた。
ロマの生活は厳しい。
その生まれ故か、感情を表に出すのは昔から苦手だった。
そのせいで誤解を招く事もあったが、生きる為にはその方が都合の良い事も沢山あるし、秘めておきたい感情も時にはあるのだから… 
疑問を持つなと言われれば、それを見て見ぬふりをする事も、当たり障り無く周囲に合わせてその場に溶け込む事も、聡い少年には容易かった。
そして…一切れのパンと引き換えにその身を売られてきた少年は、この屋敷で生きてゆく為に…当初の二つの言いつけを守り、やがて立派な青年へと成長した。
ガラスに映る姿は、もう当時の幼い少年ではない。
以前は背伸びをしなければ届かなかったこの高窓から、今は難なく屋敷の中庭を見下ろす事が出来る。
すらりとした長身、しなやかに長い手足。端正な、穏やかで優しげな風貌は度々屋敷の中に働く女性達を虜にした。
けれど、当の本人にその自覚は無い。
…彼の心を動かすのは初めて出会ったあの日から、彼のたった一人の主である少女だけだった。
暮れゆく西の空を見上げて、ハジは一つ小さな溜息を零した。
右手には小ぶりな銀のトレイ、繊細な細工の施されたカットグラスのデカンタにはきりっと冷えた水、そして長い足付のワイングラスにはなにやらどろりとした赤い液体が満たされている。
彼は今日の分の『薬』を、サヤの元へ届ける途中だった。
 
 
 
「だって、鏡に映った自分を見るみたいに、全く同じ顔なのよ。信じられる?」
青年の反応が待ち切れないように、少女は丸い瞳をくるくると輝かせた。
淡いベージュピンクを基調にした室内には先程摘んで来たばかりの薔薇が甘い香りを漂わせている。
同意を求められたハジは、柔らかな曲線を描く猫足のコンソールに手を置いたまま振り返った。
「…それは、先程の夢の?」
白い陶製の花瓶に生けた薔薇の枝を整えながら、半分は別の事を考えていた等とはとても白状出来ない。
「もう、聞いてなかったの?ハジ」
少女の淡く色付いた唇がぷうっと尖るのを見て、彼は気付かれないようにそっと視線を外し、苦笑を洩らした。
大きな天蓋付きのベッドの端に腰掛けた少女は、赤い液体の満たされたグラスを両手で包み込むように持ったまま一向に唇をつける様子も無く、自分の話に夢中になっていた。
他の人の目がないせいか幾分リラックスした様子で室内履きを無造作に脱ぎ捨て、薄絹に包まれた爪先を床に遊ばせている。
「すみません、サヤ」
余程、話を聞いて欲しいのか、サヤはそんなハジの態度を気にした風も無く僅かに身を乗り出した。
「本当に鏡に映った自分の姿を見ているみたいなの…」
その夢を思い出しているのか、サヤはふふ…と口元を綻ばせる。
最近のサヤは、すこぶる機嫌が良い。
その一因が、あの晩の出来事にあるのだろうと思うと、ハジの鼓動は密かに乱れた。
 
 
サヤは、外の世界を知らずに育った。
良家の子女として、それはある程度仕方の無い事とはいえ、おいそれと自由に外の世界を出歩く事も叶わず、年齢の近い友人も無く…。ハジはそんな彼女の従者となるべく、連れて来られた。
今でこそ主と従者として違和感は無いものの、彼がまだ幼い少年の頃は従者と言うよりも…むしろ遊び相手と呼ぶ方が相応しく、まるで姉と弟のようだった。
ハジもここへ来る以前は一人のようなものだったから、『もし姉妹が居たら…』と言う彼女の気持ちは判らないでもない。けれど、幸せそうに微笑むサヤをほんの少し憎らしくも思って、わざと話を逸らすようにサヤを急かした。
「夢の話も結構ですが、早くお薬を召し上がって下さい」
「…意地悪ハジ…」
ますます唇を尖らせて、サヤは音も無く優雅に立ち上がった。
ふうわりとドレスの裾が靡く。両手にグラスを持ったままハジに並ぶように歩み寄ると、バルコニーへ続く大きな窓から夕暮れの空を見上げる。
「綺麗な夕焼け…、明日も良く晴れるのかしら…」
じっと隣を見れば、朱色に染まる夕焼け空よりも、もっと頬を赤く染めてサヤが愛らしく微笑んだ。
紅を差すまでも無くほんのりと赤い唇が、そっとグラスの縁に触れて、こくりと小さくその赤い液体を含む。ハジはその彼女の柔らかな唇の感触を思い出し、目の前がぐらりと歪む様な錯覚を覚えたものの辛うじて理性を保つと、何事も無かったかのように彼女の元を離れ、丸いセンターテーブルの上に置かれたデカンタから新しいグラスに冷水を注いだ。
それが一体何の薬であるのか、ハジには…そして当のサヤ本人にさえ知らされてはいない。
ただ血液の病気であるとだけ聞かされ続け、その治療と称してサヤは毎日欠かすことなく、その『液体』を口にしていた。
愛しい少女の病名が気にならない筈は無かった。
けれど、今の自分には医学の知識など皆無に等しい。
疑問を持たない事。
そして、余計な詮索をしない事。
ハジはその約束を守り続けていた。
振り向くと、夕日を受けてはにかむサヤの瞳は僅かな不安と期待が綯交ぜになったような色をしていた。
まだ数える程しか触れた事の無いその唇が、誘うように薄らと開かれ、ちらりと舌先が覗いた。
初めてサヤの唇に触れたあの晩。
母屋から遠く外れた薔薇園の温室の片隅で、野犬に襲われ追い詰められた仔兎のように身体を小さくして震えていたサヤの姿に、とうとう堪え切れず秘め続けた自分の想いを口付けという形で吐露してしまった事は、少なからずハジを自己嫌悪に陥れたけれど、どうやら彼女に嫌われるという事態は避けられたようだった。
サヤは大きな窓を背にじっとハジを見詰めていた。
ハジはグラスをテーブルに残したまま、そっとサヤに歩み寄った。
赤い液体を飲み干した唇は尚更生々しく、見詰めているだけで吸い込まれてしまいそうな色をしている。
覗き込むと、サヤがじっと大きな瞳を見開いていた。
「…ハジ?」
どうしたの…?と問いかけるような瞳。
「こういう時は目を閉じるものですよ」
「え、ええ?」
ハジは指先で彼女の前髪を払うと、そっとその額に唇を落とした。
「…あまり、私を誘惑しないで下さい。サヤ…」
「ゆ、誘惑なんて…してないわよ」
耳まで熱くなっている事が触れなくとも判る。
サヤの視線の先には、大きな天蓋付きのベッドが映っているのだろう。
「直にジョエルも戻ります。これから晩餐だと言うのに…困らせないで下さい」
困らせないで…と言いながらも、ハジは重厚なゴブラン織りのカーテンを引くとその陰にサヤを隠した。
絶句する少女の肩をそっと抱き寄せカーテンに包まるようにして…サヤを腕の中に閉じ込めると、そんな彼女の純情をかわいらしく思いながらその唇をそっと奪った。優しく触れただけの口付けにさえ、サヤは甘い吐息を零して肩で息をする。
恥ずかしげに指先で口元を辿る仕草が幼くて、ハジは思わず苦笑した。
「ハジ…」
甘く鼻に抜ける吐息で名前を呼ばれ、彼はもう一度無言でそれに応えた。
長い指を彼女の頤に添えるとそっと上向かせる。
細い腰を抱き寄せた腕に力をこめると、サヤが僅かに背伸びをした。不安定な彼女の体を支えるようにしっかりと抱いて、丁寧に唇を合わせると今度はもう容赦する余裕すら失ったように、サヤの唇を味わった。
これが何度目の口付けだろう…。
ハジは霞む脳裏でぼんやりと数える。
あの晩から、自分達は単なる主と従者というだけの関係ではなくなってしまった。
言葉にして伝えた訳ではない。
けれど、直に触れる事で伝わる気持ちは確かにあるのだと思う。
そして一度こうなってしまえば、もう元の関係に戻る事は到底困難な事に思われた。
時折、二人の間に流れる甘い沈黙を一体どうしたら良かったと言うのだろう…。
一度は触れ合ってしまった。
互いを意識し始めれば、青年と少女はその優しい感情をもう無かった事には出来なくて、つい触れれば落ちる果実のようにどうしようもなく…堪え切れずそっと触れる度、サヤはゆっくりとハジを受け入れていった。
何も知らなかったサヤが、いつしかハジからの口付けに応えようとぎこちなく舌先を絡めてくる。
すると途端に、ハジの体の中心は炎の塊のように熱くなる。
いつかきっと近いうちに自分は、サヤにこうして触れているだけでは足りなくなってしまうだろう。
…いや、いつかどころか、自分は今すぐにでもサヤを欲しているのに。
そんな、男として当たり前の反応にも、しかしハジは罪悪感を抱かずにはいられない。
今、こうして腕の中にある華奢な少女の体を抱き上げて、数歩先のベッドへと運ぶ。たったそれだけの事だと言うのにそれが出来ないでいるのは、勿論…間もなく晩餐の時間だからと言う理由だけではない。
彼女は自分の仕えるべき主なのだ…。愛している…という気持ちだけで許される関係では無い。
もし第三者にこの関係が知れれば、引き離されるのは必至だろう。つい数日前までは、サヤの傍に仕えられるだけで良いと思っていたのに…。そして何より、自分はサヤに嫌われる事が怖いのだ。
この体の奥に押し殺し続けたその欲求を、サヤに知られるのが怖い。
ハジは無防備に体を預けているサヤをそっと腕の中から開放した。
カーテンが音もなく落ちて、磨かれたガラス窓にその横顔が写りこむ。
とろん…と蕩けるような瞳をしてサヤはハジを見上げていた。
ハジは、名残惜しむように彼女の乱れた前髪を指先で整えると、不意にサヤが言った。
「私の事、そんなに困る?ハジ…」
「…………。困ってなど…」
一瞬何の事を言っているのか判らず答えに詰まると、サヤが重ねて言った。
潤んだ瞳が瞬く間に曇る。
「嘘。…だって、ハジ。今、すごく困った表情してるもの」
「…困っている訳ではありませんよ」
「だって…。だって、さっき…困らせないでって言ったじゃない」
「ですから…、そういう意味で言った訳ではありません…サヤ」
ころころと変わる少女の表情に振り回されている事を自覚しながら、ハジはそっぽを向くサヤの腕を取り、もう一度その長い腕の中に閉じ込める。
サヤはサヤで、不安なのだ。きっと。
既に泣いているような彼女の瞳を間近に覗き込む。
潤んだ黒い瞳に映る自分の表情は、そんなに困っていたのだろうか…。
「別に、嫌いになっても良いのよ。私の事…」
「…なりませんよ」
「だって、ハジの事を困らせて、嫌われたくないもの…」
「今、嫌いになっても良いと仰ったじゃないですか…。サヤ…」
そんな可愛らしい矛盾さえ愛しくて…
ハジは腕の中の少女を折れんばかりに抱きしめた。
「ハ…ハジ」
「どうしたら解って頂けるんですか?貴女は…」
「だって…ハジ」
彼女の体を窓際に押し付けるように追い詰めて、その顔を覗き込む。
ほんの少し気まずそうに、けれどサヤはもう何も言わず自分を抱き締める青年の背中にぎゅっとしがみ付いた。
「サヤ……」
うっとりとその名前を呼ぶ。
離れ難い。
ずっとこうしていたい。
それが何より自然な事だと、こうしているとそれが互いに実感出来るのに…。
「サヤ…」
互いに求め合うように、唇が重なる。
 
ガタンッ…
 
背後で僅かな物音を感じて、ハジの意識は一瞬そちらに集中したけれど、咎める様にサヤの指先に力が篭り、甘い口付けに引き戻される。
 
離れがたい…
 
胸の奥深くに秘めた本能が、危険を察知するかのようにざわざわと騒ぎ出すけれど…。
甘い誘惑に逆らい切れず、ハジはのめり込むように目を閉じた。
 
 
 
  □ □
 
 
 
ハジはずるい。
 
 
それとも…これが『恋』と言うものなのだろうか…。
幼い頃読んだおとぎばなしにずっと憧れていた。
おとぎばなしに登場するお姫様は決まって素敵な王子様と恋に堕ちる。
けれど、実際にこの気持ちが『恋』なのだとしたら、それは想像とはまるで違って苦しいばかりだ。
ハジに抱き締められると、サヤはそれだけで息が止まりそうになる。
心臓が飛び出しそうな程どきどきして体中の力が抜け、崩れそうな足元を咄嗟にハジの腕が抱き留めると、もう完全にサヤは体の自由を奪われてしまう。見上げるほど背の高いハジに抱き締められると、爪先で床の位置を確かめるのがやっとな位だった。
自由の利かないサヤの体を腕の中に閉じ込めて、ハジは問い掛ける様に唇をそっと重ねるのだ。
普段、どちらかと言えば無口なハジの口付けは、その言葉を補って余りある。
優しく語り掛けるように触れて、サヤの緊張を一枚ずつ剥がしてゆく。
そして、時折困ったような表情を覗かせては、不意にサヤをその腕から開放する。
先刻にしたって…。
繰り返し、繰り返し、まるで終わる事など無いかのように繰り返しサヤの唇を奪っておきながら、
まるで何事も無かったかのように冷静な口調で、
『晩餐の仕度が整ったら、またお迎えに参ります』
と言い残し、ハジは部屋を出て行ってしまった。サヤはそんなハジの横顔を思いながらロールトップデスクの上に広げていた女性誌を伏せると、心ここにあらずと言った風情で立ち上がった。
 
 
こんな風にハジを意識した事は無かった。
いつから…
いつから、ハジは変わっていたのだろう…
今までサヤが気付かなかっただけで、ハジは静かに微笑む表情の奥に燃えるような激しさを隠し持っていた。
初めて彼がサヤの前に現れた時、彼はまだほんの幼い少年に見えた。
確かに、見た目よりも随分と大人びていたけれど、彼は確かに少年だったのに…。
そして、ハジがそんな少年の頃から自分はいつも彼の傍にいて、ハジの事なら何でも知っていると思っていたのに…自分が知っていたのは、ハジのほんの一面に過ぎなかった事に今更気が付いて…サヤは酷く動揺していた。
いつまでも子供だと思っていたのに…。
少なくとも、例え身長が見上げる程高くなっても、ハジは自分の弟のような存在だと思っていた。
時折…無理を言ってからかっては彼の焦る姿を微笑ましく楽しんだり、姉ぶって彼の行動を嗜めたりするのがサヤには嬉しかった。
けれど、いつの間にか一緒になってふざけて川に落ちたり、時を忘れて外遊びに夢中になったりする事も無くなっていた。
ハジはいつも冷静で、逆にサヤの行動に苦言を零し…先回りをして牽制する。
それでも、彼は変わらずサヤに優しくて…。
面と受かって口にした事はなくとも、サヤはずっと…初めて出会った頃からハジの事が大好きだった。
やって来た最初の頃こそ、わざと困らせるような注文を出して意地悪したものだけれど…、それだってハジがやって来てからと言うもの、サヤはいつだって楽しかった。
 
 
それなのに…
 
 
背中を抱き寄せるしなやかに長い腕の感触。
ハジの胸はこんなに厚く広かっただろうか…すっぽりと包まれてしまうと普段は意識した事も無いのに、彼の体臭は自分とはまるで違う大人の男性のものに変わっていた。
有無を言わせない強引な力強さで抱き締めておきながら、伺うように覗き込んでくる青い瞳は相変わらず優しくて…文句の一つも言ってやりたいのに、サヤにはその抱擁が不思議と不快ではない。
心が甘くざわざわと揺れる。
求められる事が、こんなに幸せな事だったなんて、想像も出来なかった。
その上、あの吸い込まれそうに美しい青い瞳に間近で見詰められでもしたら、見蕩れて何も考えられなくなってしまう。
そうと気付くまでは、ごく普通に…接する事が出来たのに…。
その瞬間の事を思い出すと、もうそれだけで小夜の頬は熱を持ったように熱い。
最初はサヤに問い掛けるように、そっと触れた唇から差し込まれる舌先のざらついた感触。
それだけで、サヤは全身の力が抜けてしまいそうなのに…、
あんな綺麗な顔で、あんな間近で…あんな風に触れてくるなんて…
このまま、流されてしまいたい。
ハジの腕の中に居ると、漠然とした知識しかない男女のそれすらもごく自然な事の様に思える。
あのまま、ハジの腕に抱き締められたまま朝を迎える事が出来たら、きっととても幸せな夢を見られるかもしれない。…その前に、ドキドキして眠れないかも知れないけれど。
サヤは…ハジの柔らかな唇の感触を思い出し、そっと指先で自らの唇に触れた。
ハジは、多分自分にとって今までに出会った他の誰とも違う。
この胸の奥に生まれた柔らかで暖かい優しい感情。
けれど同時に…サヤはハジにこれ以上身体を任せる事が恐ろしい。
自分は…。
自分の肉体は、傷つく事も…齢を重ね老いると言う事もない。
そしてハジもいつか、自分を置いていってしまう。
サヤにとって…素の自分を曝け出せる出せる場所などこの世にある筈も無かった。
それなのに…
 
 
「ハジ…ずるい…」
 
それとも、これが恋なの…?
この苦しい想いこそが恋だと言うの…?
ハジ…
ハジも、苦しいの?
 
 
 
  □ □
 
 
 
当主、ジョエル・ゴルトシュミットは家業を継ぐべき身でありながら、趣味である生物生態の研究にのめり込み、ボルドーにこの古い貴族の居城と其の周辺の広大な土地求め、あっさりと引き篭もってしまった。
今からもう四十年程前の事になる。
ゴルトシュミット生物実験場と言うのがこの屋敷の正式な名称であり、世界中から集められた珍しい動植物の数々と美しく咲き乱れる薔薇の花が敷地のあらゆる場所に見る事が出来る。
外部の人間がこの屋敷を『動物園』と呼んでいるのはその為で、それは誰もが知るところである。
後に家業を一任されたその息子、デヴィッド・ゴルトシュミットは父親の放蕩を黙認しながらパリで暮らしている。勝手ばかりしている父親に対して、あまり良い思いを抱いていないのか…それとも単に家業が忙しいせいか、デヴィッドがこの屋敷を訪れた事は一度としてなかった。
それが、どういう風の吹き回しか…この週末にわざわざ父親のご機嫌を伺いに訪れると言う。
建前は、来月に予定されているジョエルの誕生会に来られないから…という理由らしいが、今までも顔など出した事が無いのに…と不審に思わずにはいられない。
その時に、サヤをデヴィッドに紹介するのだと、ジョエルは言った。
そして、ハジもまたその晩餐に同席するように…と言いつかっている。
この屋敷での生活も既に八年目になる青年は何かとジョエルに所用を言い付けられる事が多く、この屋敷の中ではまるで家族のような厚遇を受けていた。
これ程大きなお屋敷なのだから当然執事が居てもおかしくはないのに、いつからかここには執事と言う役職の人間が不在で、その為なのか否か…ハジはデヴィッド・ゴルトシュミットを迎える為の準備まで任されていた。サヤの従者である自分が何故…と思わない訳でもない。
けれど、勿論いい年をした自分がいつまでもサヤの相手をしてチェロを弾き、花を摘むだけが仕事だとは言えず、当主にそうと命じられれば、断る術は無い。
当主の信頼厚く、またサヤの従者として、文字の読み書き計算も、そしてどこへ出ても恥ずかしくないだけのマナーと教養を身に付けているからだと、使用人達は皆噂した。
けれど、それだけで…?
一使用人である自分が、当主一家の晩餐に同席を命じられるだろうか…。
 
 
中世の貴族の夏の別荘だったこの屋敷の地下には、古い地下道が縦横に走っており、今でもその地下室の一部をジョエルの研究室や、貯蔵庫、ワインセラーとして利用している。
デヴィッドの好みまでは把握していないが、それでも予定している料理の献立や当日の天気に合わせられるよう予め何通りかのワインを揃えておく。
ワインの在庫を確認する為に…ハジは数種類のワインの銘柄が記された小さな紙片を片手に、地下へと続く扉を開けた。
すうっと空気の流れが変わる。剥き出しの石の壁が年代を感じさせ階段から吹き上げる風は湿気を帯びるかのようにひんやりと冷たかった。
ハジは手元のランプを翳すと、後から取り付けた真鍮の手摺りにそっと触れた。
何をしていても、サヤとの事が頭から離れない…。
サヤはハジにとって、少年の頃からずっと憧れ、そしてこの世で唯一愛しいと思う相手だった。
一生、触れる事も叶わないだろうと思っていたのに…。
しかし、このままずるずると、サヤと関係を続ける訳にはいかないだろう。
彼女は自分の主なのだから…
幾ら男女の自然な感情だとしても、このままでは駄目だと思う。
ハジはサヤの唇にも触れた自らのそれに、そっと指先を伸ばした。
溢れるサヤへの想いはもう抑えきれないところまで来ているのに、このまま、先へ進む事も引き返す事もハジには出来なかった。
その昔、年上だと思っていた少女は、不思議な事に年齢を重ねると言う事がなかった。
古い使用人の中には気味悪がる者も居たけれど、早く彼女を守れるだけの大人の男になりたいと願っていた少年にとって、それは大した問題ではなかった。
サヤは美しい。
それは見た目だけの問題ではない。幼い頃から人間の心の汚い部分をつぶさに見てきたハジにとっては、サヤの美しさはその外見だけに留まらない。
素直で疑う事を知らない彼女の純粋さこそを、ハジは愛し、守りたいと願っていた。
いつしか自分は彼女の身長を追い越し世間では大人と呼ばれる年齢に達していたけれど、サヤの愛らしさはあの頃と変わらない。そしてハジの内側に存在するサヤへの思いは、年上の女性に対する憧れからするりと脱皮して、大人の男として当然の然るべき欲求を伴う確かな愛情へと姿を変えた。
けれど、それは従者であるハジにとっておいそれと打ち明けられる感情ではなかった。
どれ程苦しい想いをしようと、ただ自分は彼女の傍にあって、彼女を守り続けることが出来たなら…ずっとそう心に決めてきたと言うのに。
感情に流されてサヤの唇に触れてしまえば、その覚悟はこんなにも脆い。
ハジの中にある男としての欲求は、彼女を抱き締める度もっともっととサヤを欲して止まないのだから。
 
 
しかし、今回デヴィッドがこの屋敷を訪問すると聞いて、ハジはまた別の懸念をも抱かずには居られなかった。どういった経緯でサヤがこの屋敷で暮らしているのか…ハジは聞かされてはいないが、彼女はジョエルの養女であり、パリで暮らすデヴィッドにとっては仮にも義理の妹と言う事になる。
もしサヤが男性であったなら、この土地屋敷に関しての相続と言う問題でも発生するのかもしれない…。
けれどサヤは女性で財産の相続権は無いに等しく、しかも彼女の関心事と言えば、その年の果実の出来や新しい薔薇の品種、それに美しい音楽…。そしていつかこの屋敷を出て冒険の旅に出るのだと、現実味の無い夢ばかり。
…その上、彼女は病の身なのだ。
とてもそうは見えなくとも、ハジがこの屋敷にやって来た日から、一日も欠かす事無く、あの『薬』口にしなければならない。
パリで自分の家族を持ち、家業を継ぐ事に何の懸念も無いデヴィッドにとって、病身の義理の妹など、今更気に掛ける程の存在でもないだろう。
それにしても…パリで忙しく家業に精を出している筈のデヴィッドが、どうして突然この屋敷を訪れるのだろう…。
 
 
それとも、…彼女に縁談でもあると言うのだろうか…。
そう想像してみただけでも、ハジの胸はキリキリと痛んだ。
サヤを、他の誰にも渡したくは無かった。
 
 
どちらにしろ、週末にはこのゴルトシュミット家の正当な後継者であるデヴィッドが訪れる。
…彼がどういった用件で、この屋敷を訪れるのか…
勿論一使用人でしかない自分が詮索する事ですらないのだろうけれど。
 
 
サヤがどういった経緯でジョエルの養女になり、そしてどういう理由でこの屋敷に閉じ篭って暮らしているのか…?一見そんな風には見えない彼女の病名が何であるのか?
毎日口にしなければならない、あの赤い『薬』が何から作られているのか?
どうして彼女は怪我をする事も、老いると言う事も無いのか…?
この屋敷には不審な事柄が多過ぎる。
疑問を持たない事
余計な詮索をしない事
それは一番最初に教え込まれたこの屋敷で暮らしてゆくためのルールだ。
この世の中には追求してはいけない事がある。
きっとその疑問を突き詰めれば、今ここにある平和は脆く崩れ去ってしまうのではないか…。
そんな予感がもうずっと幼い頃から付きまとう。
ハジはこの静かな生活を壊したくはなかった。
 
 
イギリスから発生した産業革命の波及により、緩やかながらも資本主義経済へ移行するこの国で、デヴィッド・ゴルトシュミットと言う男は父から任された財産を確実に増やし続けていると言う。
面識は無いが、商売人としての才に長けた切れ者だと噂に聞いた。
…サヤ自身はこの家の財産になどまるで興味は無いだろうが。 
デヴィッドはこの屋敷とサヤに纏わる謎の真相を知っているのだろうか…。
ハジの脳裏に、薔薇のように笑う少女の笑顔が浮かんだ。
もし、許されるのなら…サヤと二人ずっと一緒に居られたら…ハジの願いはそれだけだった。
このままずっと…この薔薇に囲まれた古い城で…このまま、何も変わらないままで。
 
 
「ハジ様…客間のリネン、全て交換が終わりました」
不意に目の前でサヤとは対照的な金色の髪が揺れた。
目の前に覗き込まれなければ気付かない程、自分は深く物思いに沈んでいたのだろうか…。
現れたのは紺色のメイド服に身を包んだ少女だった。
「ご苦労様です、しかし、私に…様は必要ありませんよ。私はあなたと同じこの屋敷の使用人の一人です。ジネット…」
この屋敷に使用人として上がってからまだ二ヶ月ほどの少女は、まるで翳る事を知らないかのように明るい笑みを浮かべていた。裏表の無い素直な性格と、まだあどけなささえ匂わせる容姿は実際の年齢よりも彼女を幼く印象付ける。
ハジは、気付かれないように肩で息を吐く。
思えば、彼女が事の発端とも言える。
この少女が果たして本当に自分の事を好ましく思っているのか等、ハジには知った事では無かったが、元はと言えばサヤが彼女と自分の関係を誤解した事から、二人の仲は進展したようなもので…、直接関わった訳でなくとも、やはり彼女には感謝すべきなのだろうか…。
「…でも、皆噂してます。ハジ様は…」
「噂…?」
「あ、いえ…。あの…将来ハジ様は…サヤ様とご結婚されるんだろう…って」
言い辛そうに口篭りながら、彼女の口にした言葉が信じられない。
何の根拠が無くとも、彼らは話題を作り出す能力に長けているのか…。
どうしてこう、この屋敷の使用人はある事、無い事、人の噂話ばかりしているのだろう。
しかもよりによって、そんな事が有り得る筈も無い。
どれだけサヤと近しかろうが、自分は一介の使用人なのだから…。
「…そんな事、ある筈がありませんよ」
どこか胸の痛みを堪えながら、あえて素っ気無く応えると、ジネットの瞳が興味深そうにじっとハジを見上げてくる。
むしろ素っ気無く応える事で、返って彼女の好奇心を煽ってしまったのだろうか…。
「デヴィッド様は、今ではゴルトシュミット家の中心でいらっしゃるお方ですから、粗相があってはいけません。部屋の方は後で私も確認しますから…」
「ワインを取りに行かれるなら、私もお手伝いします…ハジ様」
「ですから、様はいらないと…」
たかが数本のワインの所在を確かめるだけに手伝いなど必要とはしなかったが、つい断るタイミングを失うと、ジネットは嬉々として、ハジの隣に並んだ。
恐る恐る暗く閉ざされた階下を覗き込む。
「だって、ここ…入った事ないんですもの。…真っ暗なのね…」
肝試しではないのだから…と注意を促そうとして、思わず言葉を失った。
小さな少女の指が、するりとハジの手を握り締めてくる。
「ジネット…この手は何です?手をがなければならない程…怖いのなら、手伝う必要などないのですよ」
丁寧にその指を解くと、彼女はわざとらしく傷付いたように眉を寄せた。
「仕事に慣れない哀れなメイドに少し位、優しくして下さっても良いじゃないですか?それともやっぱりハジ様はサヤ様の恋人なんですか?」
またそこに話が戻るのかとうんざりしながらも、ハジは仕方なく否定する。
「…違いますよ。それに、仕事に慣れないのならば…私ではなくメイド頭に相談して下さい」
「本当に冷たいんですね。サヤ様以外に興味は無いんですか?」
「私はサヤの従者ですから当然です。それ以上の質問に答える気はありません…」
「それでも、私は付いて行きますから…」
今度は強引にハジの腕を取る少女に、ハジは半分諦めにも似た気持ちで従った。
階段への一歩を踏み出すと、少女の指の力は一層強さを増した。
 
 
階段は暫く下った所で終わり、長い廊下が続くような作りになっている。ランプの明かりに浮かびあがる影は歩く度にゆらゆらと揺れて幻想的な雰囲気を醸し出している。
ハジの腕を取って階段を下りたのはその場の勢いだったかも知れない。彼女は本当に怯えている様子だった。しがみ付いてくる腕の力は益々強まるばかりで、その様は自分が初めてこの地下室へと案内された時と似ている。勿論、彼が他人にしがみ付いたりする事はなかったけれど。
そこまで怖いのなら、付いて来なければ良いと単純に思う。
ハジはワインセラーの扉の前まで来ると、一旦少女の腕を振り解いた。
「ジネット…ここで待っていて下さい…と言うのは無理でしょうが、そんなにしがみ付かれては仕事になりません。せめて腕を離して下さい」
「…解り…ました」
しぶしぶといった様子で少女がハジに従う。
ハジは持ってきた鍵を扉の鍵穴に差し込むと、ガチャリと鈍い音が静まり返った地下道に響いた。
重い音を立てて扉が開くと内部は一層ひんやりとした冷気を保っており、一目では数え切れない程のワインのボトルが、整然と棚に納まっている。
先程確認したワインリストを取り出すとランプに翳し、ハジは少女に構う事なく見当をつけた棚に歩み寄った。埃を被った深い緑色のボトルを一本取り出すと、指先で辿るようにその古びた紙のラベルの文字を確認する。少女は言われたとおり、ハジの背後でおとなしくじっとしていた。
けれど、こんな薄暗い地下室に成り行きとはいえ、彼女を連れて来てしまった事に少し後悔の念が浮かぶ。
手元のラベルに視線を落としながらも、背後の気配が気になってしまう。
自分には全くその気が無いとは言え、こんなところを誰かに見られでもしたら…、それこそ有りもしない噂の種になってしまうかも知れない。
もしそれがサヤの耳にでも入ってしまったら…。
出来るだけ早く、ボトルの確認を済ませて戻らなくては…。
ハジがそう思った瞬間、まるでその思いを読み取られたかのようにジネットがハジの背中に触れた。
「ハジ様…、無理を言って付いて来てごめんなさい。でも…ここなら誰にも聞かれないと思って…」
嫌な予感が過ぎる。
「ハジ様…私、ハジ様の事…」
せめて、ハジは彼女の告白を黙って聞いた。それがまるで礼儀のように、一旦作業の手を止めきちんと彼女の方を振り返る。
「…好きなんです。初めてハジ様に会った時からすっと憧れていました…」
やっぱり…と思う。
以前にもこんな状況を経験した事が無い訳ではない。勿論、幼い頃からサヤに想いを寄せるハジはその度に、相手を傷付けない様やんわりと断るのだけれど、その居た堪れなさは筆舌に尽くしがたい。
大抵は同じ屋敷内で働くメイド達で、それからも変わらず仕事を共にしなければならないのだから。
「で…」
しかし、思わず不用意に零れてしまったハジの反応に少女の表情が一瞬強張った。
「で…って…」
「すみません。しかし…」
「……………」
「あなたの気持ちに応える事は出来ません…」
「それでも良い…。それでも良いの…、最初からハジ様は私にとって雲の上の人だったんですから…。ただ知っていて欲しかったんです」
一度その想いを告げてしまったか、少女は幾分開き直った様子で、じっと見上げるか彼女の真摯な表情に嘘があるとも、ハジには思えなかった。
自分もまた、同じように報われない想いに身を焦がしている。
サヤの事を想うだけで…眠れない夜をいくつ乗り越えてきただろう…。
無碍には出来ない、…けれど彼女の気持ちに応える事も出来ない。
「あなたの事を嫌っている訳ではありません。しかし…すみません。私はあなたの想いに応える事は出来ません」
それがどれだけ有り触れた、その場を繕う為だけの台詞かも解っている。
彼女の事を嫌っている訳ではないけれど、結果的には彼女を傷付けてしまう自分には、誠意を持って謝罪し、解って貰うしかないだろう。
けれど、ハジの言葉に対する少女の反応は彼の予想を超えていた。
「それでも良いから、ハジ様…」
「………」
縋る様な瞳をしていた。
自分もこんな目でサヤを追っているのだろうか…。
「一度だけで良いんです。思い出を…」
消え入るような声で、思い出を下さいと 胸元のボタンに指を掛けるジネットをハジは慌てて押し止めた。
「自分を傷付けるような真似はやめて下さい…。ジネット…私は…」
「こんな事で私は傷付いたりしないわ。例えこのお屋敷で働けなくなっても…全部覚悟しています」
「ジネット…?」
「ハジ様は、サヤ様の事をお好きなんでしょう?私、知ってます。この間だって…」
「……何を知っていると言うんです?」
「…サヤ様のお部屋で、サヤ様を抱き締めて口付けされるの…見てしまったんです」
「……それは」
あの時、背後で感じた気配は彼女だったのか…?
「良いんです。だってお二人はとてもお似合いだもの…。私なんか、サヤ様の足元にも及ばないって…解っているんです。でも…どうしても、私…」
少女の震える肩を、ハジはそっと支えた。
「あなたの気持ちは判りました、ジネット…。それでも…気持ちの無い行為など虚しくなるばかりです…」
「サヤ様を…愛しているのですね…」
「…私が一方的にお慕い申し上げているのです。…サヤは…」
気持ちを確かめた訳ではない。
彼女は初めての口付けに酔っているだけ…自分が勝手に想いを寄せ、自分が強引に関係を迫ったのだと…。
もし、そうでなければ、この関係が知れた時サヤの立場を守ることは出来ないだろう。
「………じゃあ何故…口付けなんかしたの…?サヤ様が可哀相…」
サヤに…
一瞬、サヤにそう詰問されたような気がした。
彼女の従者と言う立場でありながら、自らの恋心に流されるようにして、サヤを抱き締めてしまった。
先へ進む勇気も、何も無かった事として引き返す潔さも無く。
最初から、…触れなければ良かったのか…?
何の覚悟も無く…
ただ傍に居られればそれだけで良いと思いながら…、悪戯にサヤに触れて…これでは純真な少女を玩んでいる様なものだ。
頭の芯がぼうっと遠のいてゆく。
「ハジ様…?ハジ様?」
「確かに…そう…なのかも知れません。ジネット…。しかしそれとこれとは話が違うでしょう…」
「…違いません。気持ちなんて…要りません。だから…これは口止め料なんです」
だからと言って、…どうして…そんな事が…
差し伸べられる腕を払い、ハジはやんわりと少女の体を押し退けると、彼女の外しかけた胸元のボタンを掛け直した。
 
 
 
  □ □
 
 
 
週末。
 
デヴィッド・ゴルトシュミットはハジの予想を裏切り気さくな男ではあったが、シャンデリアの明かりに照らされた晩餐の席は、ハジにとっていたたまれないものとなった。
 
父に良く似た痩身で、ジョエルの年齢から計算しても四十はとうに過ぎていると思われる白いものの混じり始めた頭髪。愛想良く笑う表情に、時折サヤとそして自分を観察するような視線が混じる。
表向きは笑いながらも、その探るような…値踏みするような視線は唯でさえ居場所が無いハジをどこかそわそわと落ち着かない気持ちにさせた。
ちらりとサヤの方を盗み見ると、口元は穏やかに微笑みながらもその瞳は明らかに据わっていた。
数年ぶりに息子とゆっくりした時間を過ごす事が嬉しいのか、ジョエルだけは終始機嫌が良く、食後…ハジは求められるままにチェロの腕を披露する羽目になり、ちょうど三曲程引き終った時に、デヴィッドは唐突に切り出したのだ。
「ハジ君…私と一緒にパリに行きませんか?」


2へ続く