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その後、晩餐を終え自身の居室に戻っても…サヤの機嫌が直る事はなかった。
晩餐の間中、身近な者にだけはそうと解る美しい愛想笑いを浮かべてはいたものの、話しかけられようものならその返答の素っ気無さに、終始見ている方がひやひやする有様だった。
湯上りの髪から滴を零し、絹のナイトドレスに着替えてはいるものの、ベッドに入る事も拒んでテラスに面した窓際の席で膝を抱えている。
テーブルの上には普段は食事の時以外ほとんど嗜む事もないワインのボトル。何とか一杯目のグラスを空けたところから、さっぱり量は進んではおらず、もうグラスに手を伸ばす気配すらなかった。
僅かに開けた窓からは大きな月が覗いていて、サヤは月を仰ぐようにそっぽを向いたまま、こちらを振り向く素振りさえ見せない。
手の込んだ縁かがりのレース、サテンのリボン。
淡い薔薇色に染められた絹のナイトドレスはサヤに良く似合っていた。
拗ねた子供のような態度とは裏腹に、深く開いた襟から華奢な鎖骨が覗き、たっぷりとギャザーを寄せたドレープが美しくバストの膨らみを強調するデザイン。
サヤは時に残酷な程無防備で全く何の自覚も無い。
少年の頃ならいざ知らず、直に日付も変わろうというこんな深夜にこうしてサヤの寝室に居る事自体が非常識だというのに、ハジは退室する事も許されず、彼女に命じられるまま晩餐の席から引き続き場所をサヤの寝室に移してチェロの演奏を続けていた。
何しろ、弓を置くと途端にサヤが怒り出すので、話しかける隙すらない。
ただでさえ静まり返った深夜に、わざわざ窓まで開けて、このチェロの音は屋敷中に届いているだろう…。
これでは自分がどこにいるか、屋敷中の人間に知らしめているようなものだけれど、チェロの音が止めばそれこそサヤの部屋でその後何をしていたのだと問い詰められそうな予感がして、ハジはいっその事翌朝までチェロを弾き続ける覚悟だった。
サヤは、怒っているのだ。
デヴィッドがハジをパリへ誘った事を。
そして、その誘いに対して、自分が一瞬言葉を失い、即座に断らなかった事に。
あまりに突然の申し出に言葉を無くしたハジに、デヴィッドは笑いながら続けて言った。
『有能な秘書を探していたのです』
どうやらジョエルはサヤのみならず、ハジの事もデヴィッドに紹介する心積もりがあったのだと、この時になって漸くハジは気付いた。だから彼を迎える支度の指揮を任された上に、晩餐に同席させられたのだろう…けれど、何故…しかもこんな回りくどく。
考えたところで、理由が解る筈もない。
どうして今更、この屋敷から…サヤの傍から引き離すような真似をするのだろう。
やはり、サヤとの関係がただの主人と従者の範囲を超えようとしている事に気付かれているのだろうか。
ジネットが気付く位なのだから、自分のサヤに対する気持ちは屋敷の中で知らない者は居ないだろう。
しかし、それならばもっと簡単に、ハジに暇を出せば済む事ではないのか?
サヤは最初からその事を知っていたのだろうか?…と一瞬浮かんだ疑問も、今のこの態度を見れば彼女が何も聞かされていなかった事と見当が付いた。
勿論ハジはその場でそのデヴィッドの申し出を断った。
失礼にならないよう丁重に…しかし断固として、自分の役目はこの屋敷で従者としてサヤを守る事だと説明した。ジョエルはそれをただ黙って聞いていた。
そしてデヴィッドも残念そうにではあるが、ハジの訴えを聞き入れてくれた。
それでもサヤは、もう不機嫌を隠そうともせず終いにはそっぽを向いてしまい…取り付く島も無く今に至っている。
こうして、どうやら自分の事が原因で拗ねているらしいサヤが愛しくて、せめてこの程度の事で機嫌が直るのなら、と…ハジはその想いをチェロに託して弓を引く。
甘く柔らかな音色にはサヤを慕う気持ちが溢れていた。その音は、もうこれ以上悪戯にサヤに触れてはならないのだと、深く狂おしい響きだ。
もうずっと以前からハジにとってチェロを弾く事は、サヤに愛を囁くのと同じ意味を含んでいた。
チェロの事など何も知らなかった少年の自分に、サヤが手取り足取り弓の持ち方から、楽器の構え方、そしてこれ程豊かな世界がこの世にはあるのだと教えてくれた。
チェロを奏でるのは好きだ。けれどハジは一度として自分の為にチェロを弾いた事など無い。
ハジのチェロはサヤの為だけに弦を美しく響かせるのだ。
これまで、愛していますと言葉に出来なかった分、彼の奏でる音楽は雄弁に謳った。
誰もがハジの演奏に聞惚れ、彼の演奏には心があると褒め称えた。
それは、ハジがサヤを愛しているからだ。彼女の為だけに、彼女に聴かせる為だけに、ハジはチェロを弾いてきたのだから。
 
 
「ハジ…」
その美しい調べを唐突に遮ったのは、サヤ自身だった。
演奏に没頭していた青年が弾かれた様にその手を止めると、室内は途端にしんと静まり返り、思わず高鳴った心臓の音が聞こえはしないかとハジは息を飲む。
サヤは暫くじっと一点を見詰めていたけれど、思い切り良く手にしたグラスのワインを一気に飲み干した。
それはまるで言い難い事をアルコールの力を借りて口にする為の儀式のようにも見えた。
途端、飲み慣れないアルコールの刺激にサヤは噎せるように咳き込み、ハジは慌ててチェロを傍らに置いて少女の足元へ駆け寄る。
「大丈夫ですか?サヤ…少し飲み過ぎたのではありませんか?それに、ワインは水ではないのですから、そんな風に一気に咽喉に流し込むものではありませんよ」
サヤの前に跪き、優しくその手を差し出す。反対の腕でその背を撫でる。知ってはいたけれど…小さな、華奢な背中だった。
「…………」
差し出されたハジの手をそっと取って、サヤがハジを見詰める。
「サヤ…?」
「ハジ…デヴィッドとパリに行っても良いのよ…」
差し出された腕に縋るように、サヤが身を乗り出した。白い指がきつくハジの腕に食い込んでくる。
今までの沈黙が、一気に爆発するように…サヤはハジに訴えた。
「私を置いて行ったって良いんだから…。」
「何を怒っていらっしゃるんですか?……その話なら先程その場で断った筈ですよ。サヤ…私はずっと貴女の傍にいます。いつも言っているでしょう?」
「だって…。ハジ…」
「一体、どうしたと言うのです?」
パリへ行っても良いと言うサヤの指は、その強気な言葉を裏切るように細かく震えていた。
「ハジにはもっと違う世界もあるでしょう?もっと色んな事を…」
「それなら、サヤもご一緒に。冒険の旅にお供させて頂けるのでしょう?」
「…馬鹿」
「………」
サヤの眉間が厳しく歪む。
「だって、…怖いのよ。このままハジと一緒に居たら…私」
 
 
『………じゃあ何故…口付けなんかしたの…?サヤ様が可哀相…』
 
 
ジネットの台詞が脳裏に蘇った。
やはり自分は、サヤを困らせ…怖がらせていただけなのだ…。
ハジはサヤに触れていた指先をゆっくりと離した。まるで、直接サヤにこれ以上触れないでと言い渡されたような気分だった。しかし、自分でもそれは解っている。
サヤは最初から使用人である自分の手に入る相手ではなかったのだから。
あの晩、温室の片隅で不安そうな瞳でずっと一緒に居たいと泣いたサヤの言葉を真に受けて…。
愛しさのあまり自分の主である彼女の気持ちをしかと確かめようともせず、また愛しているとはっきりと告げる事も出来ないまま、流されるように彼女に触れてサヤの気持ちを翻弄していたのは自分の方だろう。
「…もし、貴女がそれを望むと言うのなら。……私の存在が恐ろしいと言うのなら、私は黙ってデヴィッド様の元へ参ります。デヴィッド様は、まだ明日の朝までは返事を待つと仰って下さいましたから、今からでも間に合うでしょう?」
「ち、違うわ…望んでなんかいない…。私は…」
「それでも…怖いのでしょう?私が…」
「そんな意地悪を言わないで…ハジ…。私は…」
そっと離れてしまったハジの腕を追うように、今度はサヤがその指を伸ばす。
白いシャツの上からハジの腕に触れ、涙に潤んだ瞳で見上げるサヤの表情は、まるで誘うように扇情的だった。
ハジの鼓動がどくんと大きく脈打った。
窓からの風が心地良く感じられるのは、体の熱が上がっているせいだ。
自分を落ち着けるように一度大きく息を吸い、ハジは呼吸を整える。
「意地悪ではありません。真面目な話です」
サヤは困ったように、言葉を捜していた。
「ハジ…うまく言えないの。でも、私、ハジの事を怖いと思った事なんて無いわ…」
「………では何をそんなに…」
「…自分が怖いの。…ハジに嫌われるのが怖いの。ハジと…一緒に居られなくなる事が怖いの…」
「サヤ…私が貴女を嫌う事などありませんよ。それに…ずっと一緒に居ますと何度も約束しているでしょう?何度誓えば良いのです?私は生涯貴女の傍に仕えます」
サヤは一旦ぎゅっときつく瞳を閉じると、大きく見開いた瞳で正面からハジを見詰めた。
「だって私はハジとは違うもの。皆と同じように、一緒に歳を取る事が出来ないのよ。いつか必ず、ハジも私を置いていってしまうの…」
ああ…、そうして彼女は、もうずっと長い間孤独に耐えてきたのだ。
父と慕うジョエルも、いつしか齢を重ねまるで彼女の祖父のように年老いてしまった。
「サヤ…良く聞いて下さい。私はずっと貴女を守れるだけの大人の男になりたかった。…漸く貴女の歳に追いつけたのです…そんな悲しい事を仰らないで下さい」
「…………」
「どう言えば解って貰えるのです?愛する者を遺して逝く事もまた身を切るように辛いのです。私はっ…」
「……愛する?」
「…サヤ。…この先の、未来の事など誰にも判らないでしょう?」
「ハジ…」
「貴女を…愛しています。サヤ…」
少年の頃から心に秘め続けた想いは、言葉にすればたったその一言になってしまう。
しかし、この深い想いの丈を、他にどう彼女に伝えたら良いと言うのだろう…。
サヤはハジの告白に、驚いたように瞳を見開いた。
「駄目よ…。怖いの…ハジ…」
「何を…そんなに…、恐れると言うのです?」
「…私はハジとは違うもの」
「…同じです。サヤ…何も変わりません。貴女は…」
ハジは、細い少女の腕を取ると、もう躊躇う事なくその小さな体を胸に抱き寄せた。
「ハジ…止めて…」
「止めません。サヤ…貴女も私も同じだと言う事を解って頂くまで、この腕は離せません」
ハジの腕の中で小さな体がもがく。
けれど、サヤが幾ら抵抗しようとも、がっちりと体に巻きついた男の腕が解ける筈も無かった。
「私も…貴女の前ではいつも恐れているのですよ」
ハジの言葉に、一瞬驚いたようにサヤの抵抗が止む。
「…ハジでも怖い事があるの?」
「ええ…。もうずっと長い間、貴女に拒絶される事ばかり恐れていました」
「…私が?…ハジを拒絶?」
さも意外と言った口調で、サヤが呟く。
窓からの夜風が、二人の髪をふわりと舞わせた。
長い沈黙が、二人の間を流れていた。
その間も、ハジの腕が緩むことは無く、いつしかサヤの抵抗もおさまっていた。
ハジは片方の腕をそっとサヤの頭部に移動させると、幼い子供をあやすように優しくその髪を指で梳いた。
まだ幾分湿り気を帯びた洗い髪の香りが、ほんのりと鼻先を掠める。
白い瞼をきつく閉じて、暫く考えるようにしていたハジは、やがて意を決したように少女の体を抱き上げた。
「ハ…ハジ…?」
「私は、貴女の為に出来る事だけを考えて…ずっと生きてきました」
「…………」
ハジは彼女を抱き上げたまま、窓辺に歩み寄ると片腕でぴったりとその窓を閉めた。
風が止むと、ただそれだけで急に不安になる。
不安定な姿勢に…サヤは反射的にハジの首筋に自らしがみ付く他なく、ぐっと縮まった二人の距離の狭間で、彼の吐息がいつに無く荒い事に気が付いた。
「………ハジ?」
「貴女を傷付けるのではないかと…」
「………」
「しかし、本当に傷付くのが恐ろしかったのは、いつでも私の方だったのですよ。貴女に拒絶されるのが怖くて…」
「…ハジの言う事は、時々抽象的過ぎて…難しいわ」
触れる程サヤの間近で、ハジはうっとりと見惚れる程艶やかに微笑んだ。
「…………」
言葉を失った少女に、ハジは尚も続ける
「…しかし、もう…迷いません。例え貴女に嫌われる事になっても…」
「…ハジ?……私が、あなたを…嫌う?」
ハジは答える代わりに、サヤの唇をそっと奪った。
「ん…ん、ハ…ジ?」
迷いませんと言った言葉通り、ハジは抱き上げたサヤの体を傍らのベッドへと運ぶとそっと白いシーツの上に下ろした。
見上げるサヤの瞳が揺れる。
ハジはサヤの隣に腰を下ろすと、二人分の重みを受けて柔らかなスプリングが音を立てて軋んだ。
たったそれだけの事なのに、いつもと違う空気が二人を包み込んでしまう。
いつもと、どこか違う青年の態度に、そわそわと落ち着かない様子でサヤは腰を浮かそうとする。
「こんなの…なんか、…変よ。ハジ…。ねえ、私…もう休むから…」
「サヤ…」
名前を呼ぶ…ハジの優しく響く美声が、殊更甘くて…サヤは流されてしまいそうな自分を懸命に耐えた。
「こんな夜更けに、男を寝室に入れる貴女が悪いのです。そんなに肌を晒して…」
解っているのでしょう?と問う様にハジの瞳が覗き込んでくる。
「……ハジ。そんな事…言わないで」
「私を誘惑しないで下さいと、言った筈です。サヤ…」
ハジは逃げを打つ少女の体を捕らえると、すっぽりと包み込むように腕の中にサヤを閉じ込めた。
真っ直ぐにサヤの瞳を見詰めると、彼女の瞳は不安定に揺れている。
「本当に嫌なら、本気で抵抗して下さい…。大きな声を出して助けを呼べば良い。鍵は掛けていないのですから…すぐに誰かが駆けつけるでしょう?」
「…ハジ。ずるい。…そんな事、出来ない。私…。そんな事したら…ハジが…」 
「サヤ、…もう黙って…」
男は都合良く解釈しますよ…と。
ハジはもう一度、丁寧にサヤの唇を塞いだ。
 
 
寄り添う様に並んでベッドに腰を下ろし、ハジはその広い胸にサヤを抱き寄せた。
じっと、今確かに腕の中に居る少女の存在を感じ、心を落ち着けるように深く瞼を閉じる。
戸惑いながらも抵抗を止めた少女の体は華奢で、欲望のままに強く抱き締めたら折れてしまいそうだ。
自分は、ずっとこうなるのが怖かったのだと思う。サヤを傷付け、彼女に拒絶されるのではないかと思うと、いつも必ず引き返せるぎりぎりのラインの中でしか、抱き締める事も唇に触れる事も出来なかった。
けれど、本当に彼女の事を想うのならば、今の自分達にはその行為がどうしても必要な事のように思えた。
ただ、愛しくて…サヤを抱き締めたいと思う、その気持ちに嘘は無い。
二人の関係はもう引き返す事の出来ない領域に達していて、例え…この事実がジョエルの耳に入ったとしても、自分は躊躇う事なく胸を張って『サヤを愛しているのだ』と告げるだろう。
誰も彼も、サヤを病身のお嬢様として上辺は大切にしていても、結局はこんな古い屋敷の奥に閉じ込め…誰も心から彼女を生身の女性として扱ってなどいない。
今まで一度として、誰も、この温かい血の通った体を抱き締めてはやらなかったのだ。
なりふり構わず、身も心も求められる事で、真実愛されているのだとサヤ自身に知って欲しかった。
いや…、それすら…こうなってしまえば、もう偽善なのかも知れない。
サヤを欲する男の欲は、一旦堰を切ったら…きっともうコントロールする自信は無い。
 
 
昼間とは違い、コルセットも無く薄い絹一枚を通して感じるサヤの体のリアルな曲線。
細い腰の括れと柔らかな乳房、すぐ目の前に晒される白くしなやかな首筋。
何度も夢に見たサヤの体を優しく抱き締めて、ハジは彼女の額に唇を落とした。
「サヤ…」
瞳を真っ直ぐに覗き込み、うっとりとその名前を呼ぶ。
まるで瞬きすら忘れてしまったかのように、サヤは大きな瞳を見開いてハジを見詰め返していた。
あどけないその表情は、今から何をするのか…全く解っていないようでもあり、そしてまた…まるで無垢なふりをしてハジを誘っているようでもあった。
ハジはそっと彼女の手を取った。
何度も触れ合った指先にすら胸が高鳴る。その逸る気持ちを抑え、ハジはそれ自体が既に濃密な愛撫であるかのように、しっかりと指を絡め、労わる様にサヤの体をベッドに押し倒した。
長い黒髪が白いシーツに広がり、美しい模様を描いく。
片肘で体を支え、仰向けになったサヤの前髪を整えてやると、見上げるサヤの瞳は僅かに不安で揺れていた。
「サヤ…」
言葉に出来ない程の深い想いを抱いて繰り返しその名前を呼ぶ。
「ハジ……私、怖いの。私はハジとは違うもの…。こんな風に、抱き締められたら…」
サヤの瞳が不安に揺れている。
「…何も違いませんよ…。私達は…ただ、男と女だと言うだけです」
「だって触れてしまったら、もう戻れないわ。私、きっとハジと…離れられなくなってしまうもの…今だって…もう…」
「サヤ…そんな可愛い事を言わないで…これでも、抑えているのですから…」
香り立つ洗い髪を、ハジは指先ですくっては耳に掛けてやりながら、そっとその耳元に首筋に唇を落とした。サヤは落ち着かない様子で首を反らし、懸命に息を抑えている。
「ハ…ハジ…」
やがて、訴えるように名前を呼ばれ、ハジはサヤを覗き込んだ。
涙を懸命に堪えた目尻に一つ口付けを落とし、戸惑いがちに延ばされた細い指先を捕らえ、唇で触れる。
「何です?」
「私の事、嫌いにならないで…」
ハジは困ったように微笑んで、静かに頷いた。
「…それは、私の台詞ですよ。サヤ…」
心から欲し続けたサヤの体を優しく抱き締めて、ハジは丁寧に唇を合わせる。
暴走しそうになる体の欲望を抑えながらサヤを伺うと、彼女は戸惑いながらも、ハジの口付けを拒む様子は無かった。けれど口付けの合間に覗き込むサヤの瞳は涙に濡れていて、ハジの胸を締め付けずにはいない。その度に目尻に零れる涙の滴をそっと唇で吸い取ると、どこかぼんやりとしていたサヤの瞳に焦点が戻る。
「ハジ…」
「悲しいのですか?」
労わる問い掛けに、サヤが小さく首を振る。
「違うの…。……胸が苦しいの…。…ドキドキして…こんなの…私…」
「同じですよ…」
ハジは彼女の手を取ると、自らの左胸に押し当てた。
どくんどくんどくんどくん
「解りますか?」
「…早い」
白いシャツを通しても早鐘を打つハジの胸の鼓動は伝わったようで、サヤは驚いたように声を上げた。
サヤの指がそのままするするとハジの胸の厚みを確かめるように辿ってゆく。
「これでも緊張しているのですよ…。サヤ…」
「緊張?」
「信じて貰えませんか?」
出来るだけ怖がらせないようにと、ハジは小さく笑ってそう囁きながら、サヤの白い首筋に再び唇を移動する。辿る様に口付けを繰り返し、やがて耳朶に辿り着くと甘く歯を立てる。
「きゃ…や…ん…ハジ…」
耳元に熱い息を吹き掛けると、サヤの背筋がびくんと大きく震えた。
「私も、触れて良いですか?」
熱い吐息と共に訴える。
「…え?」
返事を待たず、ハジはそっと掌でサヤの胸の膨らみを包み込んだ。形良くちょうど掌にすっぽりと収まる柔らかで張りのある乳房、薄絹の上からでもその先端が判る程、既にそれは屹立していた。
その重みを確かめるようにゆるゆると全体を揉み、小さく自己主張する乳首を指先で摘む。
痛くならないように加減しながら、優しく指先で刺激を与えると、薄く開いたサヤの唇から零れる吐息は途端に艶かしさを増した。
「あ…あん、や…そんな事、しないで…ハジ…」
「気持ち良くは…ありませんか?」
「…そんな、気持ち…良いだなんて…私…」
ふるふると首を振って耐える姿がいじらしく、つい意地悪をしたくなる。
膨らみを包み込む絹の上から、その先端にそっと舌先で触れる。その部分を唾液で濡らすとほんのりと赤みが透ける。ゆっくりと焦らしながら、ハジは片方の乳房を唇に含んだ。
転がすように舌で転がす、時折優しく歯を立てると堪らない様子でサヤの唇から悲鳴にも似た喘ぎが漏れた。
「…っ…やあ…っ…ん…ああっ…」
「サヤ…全部、見せて…」
ハジはするりとサヤの胸元のリボンを解いた。深く開いた襟を尚も強引に寛げると、ぷるんと零れるようにサヤの両方の乳房が現れた。
咄嗟に隠そうとする少女の腕を捕らえて、ハジはきつく白いシーツの上に押し倒した。
「嫌、見ないで…ハジ…」
「どうして?サヤ」
明かりを落とした薄暗い室内にも、サヤの肌は浮かび上がるように白い。美しい曲線を描く乳房に、愛しげに頬を寄せる。
サヤはじっと耐えるように首を反らしている。
「サヤ…こんなに美しいのに…?」
白く豊かな美しい丸み、淡く色付いた乳首。
再びハジは驚かさないようにそっと、今度は直接乳房に口付ける。舌先で転がすように乳首を舐め上げ唇に含むと、体の下でサヤが背筋を震わせてその感触に耐えている。
もう片方の膨らみも絶え間なく掌全体で揉みしだきながら、サヤの体にまとわり付くドレスを器用に下ろしてゆく。
「も…お願い…止めて、ハジ…こんなの…知らない。怖いの…」
「サヤ…」
「お願い。…こんな…ああ…あ…ん」
不安げに涙で濡れた瞳がハジを見詰めていた。
サヤは何も解っていない。自分がどれだけ深く愛されているのかなど…。
そして、どんなに特異な体質であろうと、ハジにとってサヤは愛すべきただの少女であると言う事を。
「そんなに泣かないで、サヤ…。ずっとこうしたかった。…ずっと貴女に触れたかった。ドレスの上からなどではなく…」
「そんな…だって…ハジ…。ああ…ん、や…ぁ…。お願い。見ないで…」
ハジは懇願されて、仕方なくその胸を開放した。
自由を得ると、サヤは自分の体を抱き締めるようにしてハジの視線から逃れようと体をくねらせる。
胸元を隠すようにうつ伏せる彼女の白い肩と肩甲骨が目前に晒され、ハジは指先で乱れた黒髪を払い、そのまま背中から圧し掛かるようにして抱き締めると、肩先に唇を押し付けた。
前に回した手で豊かな乳房を弄る傍ら、乱れたナイトドレスの裾を捲り上げるようにして、片手でサヤの膝から太股の感触をゆっくりと撫で上げ、滑らかな皮膚の上を彷徨いながら、少しずつ彼女の内股に指先を忍ばせてゆく。密着した肌の吸い付くような感触。胸を庇う一方でサヤの指が彷徨うハジの指先に重ねられる。
けれどその力は弱々しく、もう押し止めているのか、誘っているのかも定かではなくて…。
「サヤ…。サヤ……」
柔らかな耳朶を噛む様に歯を立てて、サヤの耳元で囁く。
「…っ…ハ…ジ…」
サヤは答えるように、切なくハジを呼んだ。
ハジは、一旦サヤの体を開放すると、ベッドに体を起こす。
自らのシャツのボタンを外してゆくと、サヤもまたゆっくりと体を起こした。
既に細い腰にまとわり付いているだけとなったドレスで、健気に胸元を覆い隠すと、ほんのりと頬を染めてハジの胸に指を伸ばす。
「……サヤ?」
ハジの指に代わって胸元の白いボタンを一つ外し、問い掛けに答える代わりに、じっと潤んだ瞳でハジを見詰める。
そして、もう一つ。
前を留めるボタンが全て外されると、はらりとシャツの前が肌蹴け、現れた男の胸に、サヤは縋るように頬を寄せた。
「…行かないで。ハジ…パリになんか行かないで」
その肩をハジはそっと抱き寄せると、声にならない声でサヤの唇が告げる。
…ハジが、好きなの
サヤの中で、ハジを愛しく慕う気持ちと彼を失うかも知れない気持ちとが、そして、未知の行為に対する恐れが交錯している。少女は矛盾する気持ちをどうする事も出来ない。
けれど、言葉になるのは、ただ一つハジを愛していると言う事実だけ。
「ハジ…あなたの事を考えるだけでこんなに胸が痛いの。…これが愛なの?愛してるって…こんなに…」
…苦しいの?
「サヤ、もう何も言わないで」
ハジはサヤの体を抱き寄せると、尚も訴えようとする彼女の唇を奪った。性急に身に纏う物を全て取り払い、細い体を抱き締めたままシーツに沈む。
ずっと一緒に居たのに、こんな風に裸体を密着させて横たわるのは初めての事だった。
腕の中にすっぽりと収まる程細くて、しかし丸みを帯びて柔らかな少女の体を隅々まで確かめたくて、ハジはその美しい曲線を指先と唇で辿ってゆく。
「はあ…ん、…や…ぁ…ハ…ジ…」
陽の元に晒した事さえ無い、秘めた白く滑らかな皮膚の上をハジの指先が滑る度、サヤの唇からは溜息にも似た喘ぎが零れた。湿った吐息が室内に濃密な夜の空気を満たしてゆく。
体中に落とされる甘い口付けと愛撫の刺激から逃れようと無意識にもがくサヤの体を、ハジは背後から抱き込むようにして捕らえた。そっと頬に掌を添えて自分に向けさせると、薄く開いた唇から舌先を差し入れる。ねっとりと唾液に濡れた舌を絡め合うと、括れた腰を抱いていた腕をサヤの下肢に伸ばす。
滑らかな腹部を撫で、更にその下部へ。
淡い茂みの感触に至ると、ぴったりと閉じた太股の間に長い指を潜り込ませてゆく。
「ん…、ああ…ん」
「サヤ…膝を緩めて…」
口付けの合間にサヤが羞恥に泣いた。ハジの悪戯な指を戒めるかのように両手が重ねられたが、しかしそれでハジが諦める筈も無く、反対の手で彼女の膝に触れると大きく両足を広げさせる。
「だ…駄目…。や…め…て…こんな…」
しっとりと湿った茂みを掻き分けるようにしてサヤの襞に触れると、既にそこは粘度を持った体液に溢れていた。喘ぎながらも、いやいやと首を振るばかりのサヤの体は、それでもハジの愛撫を受け入れ、自らを潤して準備を始めているのだ。
「…おかしいの、私の体。…どうして、こんな…」
濡れてしまうの?と泣く。
それを気付かれたくなかったのか、サヤは不安げに視線を反らしてしまう。
「自然な事ですよ。皆、愛し合う者同士は、ここで…一つになるのですから…。サヤ…」
ゆるゆると入り口を摩るように、サヤの零した蜜を指に絡めた。
長い指先を少しずつ彼女の内部に侵入させてゆく。
「ひゃ…ん、や…。あ…駄目。止め…て、一つに…なるっ…て?…何?」
ハジは答えずにサヤの手を取ると自らの下肢に導き、既に大きく張り詰め、先端から雫を滴らせるそれに彼女の指先を触れさせる。 
「………な、何?」
驚愕の声を上げ咄嗟に引っ込めようとする指を、ハジが引き止めた。
間近で覗き込むハジの真っ直ぐな瞳が逃げる事を許さず、サヤは恐る恐る、その見知らぬ熱い塊に導かれるままにそっと指を絡めた。直にサヤの指が触れる事で、途端にハジの息が跳ね上がる。
「…っサヤが欲しくて、…こうなるのです」
「…私が…欲しい…の?」
「ええ…早く、包まれたい…貴女に…サヤ…」
「…包まれたい?」
「…サヤ」
サヤの内部は溢れんばかりの蜜でしとどに濡れている。それは紛れも無く彼女の体が快感を覚えて、ハジを受け入れようとしていると言う事だ。
ハジは横たわるサヤの体に寄り添うようにぴったりと抱き締めたままの姿勢で、彼女の片膝を持ち上げ、自分の腰を跨がせる様に固定して、再び指をその茂みに忍ばせた。
ハジの男性にしては細い指先が彼女の入り口を彷徨い始める。少しずつ深く、サヤの内部へと指を埋めながら、ゆっくりと掻き混ぜてその頑なな部分を解してゆく。
「やっ…駄目ぇ…ハジ、ハジ…止めて…」
首筋にしがみ付く様にして、サヤが耐えている。ハジの指の動きに合わせて、少しずつサヤの腰が反応を返す。もどかしく揺れ始めた腰は彼女が決して苦痛ばかりを訴えている訳ではないと教えてくれる。
甘い喘ぎと、くちゅりと湿った音が室内に響き始め、サヤの吸い付くように熱い内部の感触に、ハジ自身も息が上がってゆくのが解る。
「ん…ん…ふ…ぁ…ハ…ジ…ィ…」
切ない声で名前を呼ばれると、どくんと大きく胸が脈打って彼のその部分は一段と熱を孕む。
…ハジは今すぐにでも己を突き立てたい欲求を押し殺すのに必死だった。
経験のないサヤにはまだ時間が必要で、けれど堪え切れず幾分性急にハジは挿入する指を増やし…その狭い入り口を慣らしてゆく。
「…痛くは、ありませんか?…サヤ」
「ん…ん…あ…っ」
それは返事なのか、それとも押し殺した喘ぎなのか判別出来ない程、微かな声だった。
きつく瞳を閉じて、それに耐えるサヤの表情は苦しげでもあり、また彼の指が齎す愉悦の波に沈んでいるようにも見えた。
ハジは意を決したように指を抜くと、体勢を入れ替え躊躇無くサヤの両足首を掴み大きく開いた。
目前に晒される、サヤの濡れた花弁にそっと唇を寄せる。
「っ駄目…、止めて。いや…そんな…汚い…」
既にぐったりと消耗した体で、サヤは抵抗するように体を捩る。けれど、その動きは難なくハジに阻まれ、サヤはハジの視線に晒されているであろうその部分に指を伸ばすのがやっとだった。
ハジの両腕がサヤの細い腰を掴むと、ベッドの上に座した自らの膝の上にサヤの下肢を抱き上げた。
尚も足を閉じる事すら許されず、サヤは顔を覆うようにして泣いた。
まさか人前に晒す事があろう筈もないと思っていた体の中心を触れる程近くハジの目前に晒している羞恥に、サヤの全身は真っ赤に染まってゆく。
「汚くなど…ありません。サヤ…」
ハジはそう言うと、指先でそっとサヤの秘めた花芯を探った。その小さなつぼみの先端に触れると、それだけでサヤの体は大きくしなる様に大きな反応を返してくる。
「ひゃっ…あ…、んんう…っ、ん…」
赤い唇で、声を殺すように指を噛んで、サヤはその大きな刺激に耐えている。
薄闇の中で、きつく眉間を寄せた美しい少女の横顔。
ハジは舌先でその敏感な花芯を舐めると、愛しげに口付けを落とした。
「言ったでしょう。ここで、一つになるのです…。解りますか?」
「ハ…ジ…。も…止めて…。変なの……、私の…体…おかしくなってしまいそう…」
「…私も、既におかしいのかも知れません。貴女がこんなに泣いても、…もっとその声が聞きたいとさえ思ってしまう…」
ハジはサヤの体を開放し、再び彼女の上に圧し掛かると、サヤの唇から白い指を外させる。
半開きの濡れた赤い唇が、柔らかな月の光に浮かび上がる。
ハジは彼女の指を取り上げた代わりに深く優しい口付けを与え、サヤの足の間に体を入れ込む。
「ハジ…?」
「愛しています。サヤ…例えいつか、この命が貴女より先に燃え尽きてしまうのだとしても…触れずにはいられない事をお許し下さい。私の全ては貴女のものです。心も体も、そしてこの命も……」
サヤの指が、覗き込んでくるハジの漆黒の髪を優しく梳いてくれる。髪を梳いた指はそのまま耳元を掠め、首筋を辿り鎖骨のラインを愛しげに撫でる。細くしなやかな両腕がするりとハジの首筋に巻きついたかと思うと、強く抱き寄せられる。
「…ずるい、ハジ…そんな風に言わないで…。そんな風に言われたら…私、あなたを拒めない」
こうして抱き合う事で、例えこの先に待っている別れがどれ程辛いものになろうとも。
「愛しています…」
こうして抱き合う事が何より自然な姿なのだと、求め合う体が教えてくれる。
ハジはサヤの両足を肩に乗せると、すっかり濡れたその部分に己を押し当てた。
その体勢になって初めて、ハジの言う『一つになる』の意味を理解したのか、酷く怯えた瞳で見上げるサヤの前髪をハジはそっと指先で梳いた。
逸る気持ちを抑え、出来るだけゆっくりと腰を進める。
「痛っ…あっ…痛い…や…ハジッ…待っ…て…」
僅かに先端を含ませただけで、悲鳴の漏れる唇を唇で深く塞ぐ。
漸く止まっていた涙が再び頬を濡らす。
本能のままにサヤを欲する衝動に耐えて、ハジはサヤを覗き込んだ。この世でただ一人、ハジが命を賭しても守りたいと願う愛しい少女。その涙に絆される様に、ハジは訊ねた。
「…そんなに辛いのなら、……ここで止めますか?…サヤ」
きつく閉じていた瞳が、見開く。
真っ直ぐに見詰る潤んだその瞳の中には犯しがたい凛とした強さがある。
「酷い…人。…今…更、私を…こんなにしておいて…。…酷い人、………………でも好き、ハジ」
「サヤ…?」
苦痛に耐えながら、サヤの口元が微かに笑った。
「止め…ないで。ハジ…私にも、ちゃんと言わせて…。だって…私も、あなたを愛してるのよ…」
 
 
 
  □ □
 
 
 
間近で安らかな寝息が響いていた。
東の空が微かに朝の気配を漂わせる頃、ハジは目覚めた。
幸せな夢を見ていた。胸を掻き毟られる程の切ない恋が実を結ぶ夢。
折れてしまいそうな程、華奢で繊細な少女の体を組み敷いて……壊してしまわないように労わりながらも、ハジは本能が命じられるままその深い想いの丈を伝えた。
ハジの律動に応える様に、熱い内壁が柔らかく伸縮し始め、耳元に掛かる少女の苦しげな吐息が、次第に熱を帯び…甘く蕩けてゆく様が今も耳に残る。
呼吸困難に陥りそうな程切迫した呼気が室内に満ちて、夜は甘く溶けていった。
夢の続きのように…やっと想いを伝え手に入れた少女は、彼の腕の中で体を丸くするようにしてあどけなく眠っていた。眠るサヤの額にハジはそっと唇を寄せると、漸く昨夜の出来事が夢ではないのだと実感が沸いてくる。薔薇色の頬に、涙の跡が残っていた。
労わるようにそっと指で触れると、ぐっすり眠っているとばかり思っていたサヤがうっすらと瞼を持ち上げた。長い睫が震える。
「すみません、起こしてしまいましたね」
「もう、朝?まだ…暗いわ…ハジ…」
サヤの腕がハジの胸に縋りついた。
名残惜しく思いながらも、ハジは胸元に丸くなる少女に告げた。
「そろそろ戻らなくては…」
「まだ傍に居て…」
まだ半分眠っているような表情ながら、起き上がろうとする男の首筋に腕を絡めてそれを阻む仕草はどこか昨夜の続きのように艶めいて…縋りつく胸の狭間で、柔らかな乳房が形を無くしている。
このままずっと抱き締めていたら、また欲しくなってしまいそうで…ハジはそっと視線を反らした。
やっと手に入れた少女を離したくは無い。このままずっとこうしてまどろんでいたい。
この腕を離したら、この部屋を出てしまったら…この魔法は解けてしまいはしないか…。
そんな不安すら脳裏を過ぎる程に…
けれど…
「サヤ…この部屋から出る姿を誰かに見られたら困ります」
愛しげに髪に触れてくる男の指に、サヤはそっと瞼を閉じた。もう一度唇を重ね、惜しむように舌を絡め合う。触れる程間近でハジは問う。
「痛みませんか?…その、…昨夜は…無理をさせてしまいました…」
後悔はしていませんか?と、唇にのぼり掛けた言葉を…今更肯定されるのが怖くて飲み込む。
サヤは穏やかに笑っていた。
「…心配しないで。もう…平気」
額に口付けを落とし、するりとベッドから降りるハジを追うように、サヤは上半身を起こしてみせた。
シーツをかき集めるようにして裸の胸を隠し、脱ぎ散らかしたシャツを羽織る男の背中をじっと目で追う。
自分を見詰める寂しげな横顔に気付き、ハジはボタンを掛ける指を止め傍らに腰を下ろした。
「そんな顔をしないで…。一度部屋に戻るだけです…」
「だって…」
「明るくなったら…、太陽が昇ったら…私は貴女の従者に戻りなければ…」
「………」
もう一度だけ、もう一度だけときつくサヤの体を抱き締め、口付けを交わす。
唾液が糸を引く深い口付けからサヤを解放すると、ハジは想いを断ち切るように立ち上がった。
まだ屋敷の中は寝静まっていた。今ならまだ、屋敷の者に姿を見咎められることは無いだろう。
それでも…
ドアノブに指を掛け、ハジは振り返る。
「サヤ…、もし…もしこの事が知れて、…私が貴女の傍に居られないような事になったら…私と一緒に来て頂けますか?」
サヤは、ベッドの上で身じろぎもせずそれを黙って聞いていたけれど、真っ直ぐな瞳でハジを見詰め返すと迷うこと無い強さで告げた。
「…ハジと一緒に行くわ」
「何があっても、私が貴女を守ります。この命に代えても…」
 
 
廊下の高窓から、美しい夜明けの空が見える。
ハジは自室へと向かう途中で、ふと足を止めた。
遠く西の空に、うっすらと月が浮かんでいた。
それは白く儚くて、…じっと瞳を凝らさなければ、見つける事も叶わない程の輝きだけれど。
 
「証人になって貰えますか?」
 
儚い恋人達の睦言をそれはじっと見詰めていたのだ。
 
 
 
  □ □
 
 
 
短い滞在を終えて、デヴィッドは再びパリへ戻って行った。
尚も、パリへ誘う彼の申し出をハジが何とか辞退すると、デヴィッドは再び残念そうに笑い、何かあったら訪ねて下さい…と言い残した。 
 
ハジがジョエルの部屋に呼ばれたのは、その日の昼過ぎの事だった。
 
ハジはジョエルの部屋の大きなドアの前で、一瞬ノックする事を躊躇っていた。
用件は、デヴィッドの申し出を断ったことだろうか…それともサヤとの事が知れてしまったのだろうか…。
どちらにしろ今のハジには後ろめたい事が多過ぎた。
しかし、サヤとの事は何と言われても譲れない。それだけは心に決めて、大きく息を吐くとハジは覚悟を決めてそのドアをノックした。
 
ジョエルは静かな面持ちで、いつものように書斎机に座り書き物をしていた。
失礼します…と声を掛け、室内に入るとジョエルは手元に落としていた面を上げた。
「座りなさい…」
とハジに椅子に掛けるよう勧め、丸いレンズの老眼鏡を外すと何から切りだして良いのか…といった様子で息を吐き、やがてハジがこの屋敷にやって来た頃の思い出話を始めた。
ハジは勧められるまま椅子に掛ける事を躊躇ってそのまま老人の正面に立つ。
ジョエルは気を悪くする風も無く話を続けた。
それはハジにとっても懐かしい事柄ばかりで、たかが娘の従者である自分に良く目を掛けていてくれていたものだと感心する程だった。
そして、その話が途切れると、深い溜息を零した。
「ハジ…」
とても年老いて疲れ果てたかのような老人の声色に名前を呼ばれ、ハジもまた静かに『はい…』と答える。
「まず、お前には謝らなければならない」
「………」
「お前は幼い頃から賢い子供だった。そして根気良くサヤに仕えてくれた」
サヤの名前に、ハジは判らない程小さく咽喉を鳴らした。
「…お前に出会ってからのサヤは随分癒されたのだよ。頑なで不器用な娘だが…あの子はあの子なりに寂しい思いをして育ったのだ…」
「ジョエル…」
「…ハジ、これが最後の機会だったのだよ。…パリへ行く気は無いか?お前はこの屋敷で、多くの事を見、そして知り過ぎてしまった。もうこのゴルトシュミットの元を離れる事は許されない。せめて息子の下でならこの先、普通の人生が歩めるかも知れない。…デヴィッドはその為に私が呼び寄せたのだ」
「…何故?何故そんな事を仰るのです?今朝方もデヴィッド様に直接お断りしました…。私の望みは…この屋敷でこのままサヤの従者として暮らす事です」
ハジの答えに、再び老人は深い溜息を繰り返した。
「私は…お前の事もサヤと同じく息子のように思っているのだよ…。デヴィッドの元に居ればアンシェルもそうそうお前には手が出せないだろう…」
「何故…アンシェルさまが…?」
ジョエルは、手元に抱えた革張りの日記帳を大切に閉じた。
「お前はサヤの事を知り過ぎている…。アンシェルは研究熱心な男だが…最近は行き過ぎていて何をするか解らない」
「…………私は…サヤを…」
「それ以上言う必要は無い。咎めている訳でも無い…むしろ謝るのは私の方だとさっきも言っただろう…」
「…何故そんな事を仰るのか解りません」
「ここへお前を連れてきたのは私の責任だからだ」
「私はサヤに出逢えた事を感謝しています…」
ジョエルはゆっくりと立ち上がった。そして、そこがまるで定位置のように窓際に寄る。
「私の命は、もう長くはないだろう…。こういう予感と言うものは、当たるものだ」
老人目は窓の外、遠い空を見詰めている。
「…そんなっ」
「嫌な予感がするのだよ。…私は養女とは言え、サヤの事もまた、実の娘のように愛しく思っている。だから…私の亡き後、サヤを誰かに託さなければならない」
「………」
「お前にもこの先、辛い思いを強いる事となるのは解っている。何よりお前は若いのだから…」
「…ジョエル?」
「私が居なくなれば、この屋敷の実権は共同研究者であるアンシェルに移るだろう…。あれはサヤの事を快く思ってはいまい。私の力が及ばなくなったこの屋敷は、もう今までのような平和は存在しないだろう」
ジョエルは書斎机の上に手を伸ばすと、先程の日記帳を手にした。
「ハジ、私の身に何事か起きた時は…この日記を持ってデヴィッドを頼りなさい。デヴィッドにもそう伝えてある。…サヤを守ってやってくれ…。お前しかしない、そしてお前になら…サヤを托せる。お前が居て良かった…許してくれ…ハジ…」
ハジを見る真っ直ぐな視線。
とても冗談で済まされるような雰囲気ではなかった。
ジョエルが真実伝えたい現実は、一向に見えては来ない。しかし今まで見て見ぬふりをしてきたこの屋敷の闇の深さを垣間見たような気がした。
サヤを守ってやってくれと言うジョエルの言葉に、勿論…異論はなかった。
ハジは、乾いた唇をそっと開き一つ大きく息をすると、まるで独り言のように語った。
「…サヤに出逢うまで、私は貧しく厳しい生活の中で、大人達の汚れた世界で生きていました。心から笑う事も、泣く事も知らず、私の心は乾き切っていました。それを辛いとさえ、気付いてはいなかった。それをサヤが救ってくれたのです。彼女は私に人を愛すると言う感情を教えてくれました。世界はこんなに鮮やかに色付き豊かで美しいものだと、彼女が教えてくれたのです。そして、あなたは…私に人として生きられる環境を与えて下さいました。毎日の食事に困る事も無く、清潔な衣類を与えられ、文字の読み書きから、あらゆる教養を施して頂いたのです。…深く感謝こそすれ…、謝罪を受けるような事は一つもありません。そして、サヤを守る事は…サヤの笑顔を守る事は、私の生きる全てだと思っています…、ですから、ジョエル…そんな事を仰らないで下さい」
「…サヤを頼む」
老人は深くたれた頭を上げて、ハジそう言い遺した。
 
 
そして悲劇は起きる。まるで誰かに仕組まれたかのように、それは起こるべくして…。
 
 
 
  □ □
 
 
 
結果的には…あれが、遺言だったのだ。
今は亡き初代ジョエルの…。
あれから数え切れない程の時が流れ、時代は移り、そして人の心も変わった。
初代ジョエルの遺志は『赤い盾』という組織として受け継がれている。
しかし、直接初代ジョエルを知る者は、もう自分と…そしてサヤだけだ。
彼の言い残した言葉を、ハジは何度も心の中で反芻してきた。
自分は、サヤを守らなくてはならない。
 
 
ハジは巨大な客船を模した要塞の片隅で長い髪を風に遊ばせていた。
甲板に人気は無く、ただ一人…その視線は暗い夜の空と海との境を見詰めていた。
船はベトナムに向かっている。
今どのあたりを航行しているのだろう…。
昔、右腕を失うに至ったベトナムの地は、どのように変わっているのだろう…それとも、少しも変わらず自分達を迎えるのだろうか…。
心には絶えず、複雑な想いが交差していた。けれどその思いをそのまま表情に出す事は、今はもう無い。サヤを守る事が、彼女の願いを叶え、導く事こそが、ハジがサヤのシュバリエとなった自らに課した宿命だった。
三十年前、ベトナムの地で暴走した彼女を見失って以来、戦う為に、サヤを守る為に、サヤの願いを叶える為に、余計なものはぎりぎりまでそぎ落とした。
サヤに対する深い愛情は消えるどころか、その重みを増すばかりだったけれど…、沖縄で見付けたサヤは戦いの記憶、そして恋人でもあったハジの記憶と引き換えに、無くした筈の笑顔を取り戻していた。
彼女が笑えるのなら…それでも良いと思った。その心は張り裂けそうに痛み、血を流し続けていたけれど。
 
 
やがて、東の空がうっすらと白み始める。
 
 
愛している。
愛している。
初めて出会った少年の日から、少しも変わらず…。
例え、もう二度と恋人として彼女に触れる事が叶わなくても…。
 
人気が無いと思っていた甲板に、不意に小さな足音が響いた。
シュバリエの聴覚が、まだ姿の見えないサヤの気配を察した。
敏感な少女に心の中を見透かされないように、ハジはその薄い唇をそっと噛んで、彼女を待ち受ける。
彼女が広い甲板を、明らかに目的を持った足取りで自分の元に向かっている。
彼女の気配が近づき、足音がハジの背後で止まると彼は無理やり表情を押し殺した。
「どうしました?サヤ…」
「ハジ…?」
記憶が無いとは言え、あの頃と少しも変わらない優しいその響き。
腰に届く程長かった黒髪は、見る影も無く短く切られていたけれど、その表情は当時と何一つ変わらない愛しい少女の姿。
「起こしてしまいましたか?」
サヤは不安そうな表情を隠しもせず、逆にハジを気遣った。
「目が覚めたら…ハジが居なかったから…もしかして…一人で居るのかな…と思って」
「サヤ…」
「邪魔だった?」
ハジは『いいえ』と小さく首を振る。
「風が…寒くはありませんか?サヤ…」
ハジは裾の長い上着を脱ぐと、サヤに差し出した。彼女は戸惑いながらも丁寧に礼を言ってそれを受ける。
ハジは彼女の細い肩にそっと上着を着せた。
「…ハジの、匂いがするね」
サヤが小さく笑った。そんな小さな笑顔にさえ、ハジの心は鷲掴みにされて、強く自制しなければ、思わずその小さな肩を抱き締めてしまいそうだ。
愛しくて、愛しくて、思わず上ずりそうになる声を押し殺して、少女を労わる。
「どうか、船室で休んで下さい」
「…ハジは?」
「…私は眠りません」
「邪魔でないなら、ここに居させて…」
「貴女が、それを望むなら…」
「…何も覚えていないのに、…あなたの傍が一番安心できるのは何故?」
答えを求めるでもなく、サヤはそう呟いた。ハジの黒い上着を握り締めるように胸の前で合わせ、倒れ込むようにハジの胸に頬を押し付ける。
「…ハジは、私の何?…こうしていると…私…」
サヤの声が震える、それが直に体に伝わって…居てもたっても居られず、ハジはサヤの体を掻き抱いた。
「怖いですか?サヤ…」
「……怖いなんて…私が言っちゃいけないの…」
これから待ち受けるだろう厳しい戦いの中で、記憶を無くしても尚サヤは自分の罪を責め続けるのだろうか…。
「何があっても、私が貴女を守ります。この命に代えても…」
あの日と同じ台詞を、ハジはサヤに告げた。
「ハジ…?」
「私は、貴女を守る為に存在するのです…サヤ」
涙に濡れた瞳が、ハジを見上げていた。
「…ハジ」
「…ここでは泣いても良いのですよ。サヤ…」
声を押し殺して、サヤがハジの胸に顔を埋めた。
 
 
愛している。
……愛している。
初めて出会った少年の日から、少しも変わらず…。
例え、もう二度と恋人として彼女に触れる事が叶わなくても…。
 
頭上で、あの日と同じ月が二人を見詰めていた。
それは中天に儚く浮かぶ…
白く、じっと瞳を凝らさなければ、見つける事も叶わない程の輝き…
                             《了》

20111024 

2007年夏コミ用に作った個人誌「夜明けの月」です。

当時、購入して下さった皆様には大変申し訳ないと思うのですが、4年も経ちまして

そろそろサイトに上げておいても良いかな…と思い、載せる事にしました。

こうして自分の過去を振り返ると、目を覆わんばかりの拙さに胃がきゅぅ〜〜〜っとして

恥ずかしい限りです。が、反省材料として今後も精進したいと思いました。

4年経って、新しくBLOOD+のファンになられた皆様、どうもありがとうございます!

読みたいと言って下さる方がいて下さるお蔭で頑張れます。

ではまた、次回新作(何だ?)でお会い出来たら幸せです〜〜。                     

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