夕空   

暮れかけた空に、真夏の積乱雲が美しい陰影を描き出していた。
ところどころ、眩しい夕陽を浴びて赤く染まっているかと思えば、陰になった部分は深い藍色で…まるで手が届きそうな程立体的に見える。
 
柔らかな手触りすら想像出来てしまうのに、手を伸ばしたところで雲に手が届く筈は無い。
 
空は、果てしなく広かった。
邪魔するものは何一つなく、どこまでも続いている。
海は穏やかで、真昼の暑気が嘘の様に風は涼しかった。
規則正しい波音が、すぐ傍で砕ける。
伸ばしかけの髪を、小夜は細い指先で梳いた。
目覚めた時に、足元までも伸びていた髪を一旦すっきりとショートカットに切り揃えて…けれど再び伸ばす事に決めたのは、何も遠い過去に戻りたいというノスタルジーを胸に抱いての事ではなく、傍らの男を意識しての事だ。
ハジは、かつての様に一歩…小夜から後ろに控えていた。
まるで小夜が見ているこの景色の中に、自分が入り込んでしまわない様に配慮しているようでもある。
振り返ると、風が…まるで戯れる様に男の髪を揺らしていた。
白い肌に夕日が映えて、ほんのりと朱色に染まる。
輪郭を縁取る黒い髪は、ゆったりと風に揺れて波打つ。
不意を突かれた様に、ハジは優しい表情をしていた。
そんな表情をして、自分を見詰めていたのかと思うと、小夜の方が恥ずかしくなりそうな程、ハジは幸せそうに微笑んでいた。
足首まであるワンピースの裾を、ひらりと揺らして…小夜は微かに唇を尖らせた。
後ろに回した手を組んで、再びくるりと海に向き直る。
 
……胸が潰れてしまいそう。
 
柄にもなく、小夜の胸は大きく高鳴っていた。
ドクドクと脈打つその鼓動すら自分で数えられそうな程。
 
…ハジが好き。
こんなにも…。
 
もっと傍で。
もっと…もっと、息がかかるほど傍で。
 
彼に触れたい。
自分に触れて欲しい。
 
恋人同士の様に、語り合いたい。
 
髪を伸ばしたって…女の子らしい事なんて…一つも出来ないのに……。
 
小夜は不甲斐無い自分にきゅっと唇を噛んだ。
恋愛なんて…自分には一生縁のない事だと思っていたのに…。
 
自分達は、始祖とシュバリエと言う誰よりも近しい関係でいながら…いやそれだから尚更…
この二人の間に横たわる距離を縮める事なんて、永遠に敵わない願いの様にも思えて、小夜はツンとした熱いものを、唇を噛んで堪えた。
 
ずっと…自分達の間に、言葉はいらなかった。
ただ、戦う事だけが自分達を繋いでいた。
けれど、もう戦う必要のない世界で…その関係はこんなにも脆いものだと初めて意識した。
自由になって、初めて…気が付いた。
 
…ハジが好き。
私、……こんなにも貴方が好き。
 
だからと言って、今更彼にそれをどう伝えたら良いのか等…小夜に解る筈もない。
ただじっと見守ってくれるその優しい眼差しの前で、唐突に愛してる…なんて…。
言える筈もない。
けれど、自分は彼の告白に未だ答えてはいないのだ。
 
あれから、もう三十年も経ってしまった。
ほんの少し、微睡んだだけなのに…。
 
ハジは、今でも私の事を愛してくれている?
その優しい微笑みの意味を、教えてはくれないの?
 
どくん…。
と、また大きく胸が鳴った。
 
いつの間にか、後ろにいるとばかり思っていたハジが隣に並んでいたのだ。
彼もまたじっと、遠い空を見ていた。
 
何を考えているのだろう…。
じっと男を見上げると、不意にハジが小夜を振り向いて…形の良い薄い唇がそっと小夜の名前を呼んだ。
以前と少しも遜色のない静かで穏やかな声音。
 
「……小夜?」
「…………………」
 
名前を呼ばれ、じっと見詰められただけで…堪え切れず…小夜の頬に大粒の涙が零れた。
男はほんの少し困った様に眉を寄せ…けれど落ち着いた仕種で小夜の頬の涙を指で拭った。
 
「……何か、私が貴女を泣かせてしまう様な事を?」
「……違っ…!」
 
……こんなにも…私…
 
顔を見られたくなくて、小夜は両手で顔を覆うと俯いて…逃げる様に男に背を向けた。
「小夜…」
「………ハジの馬鹿」
「…すみません、……小夜。泣かないで…」
逃れようとする腕を、男は難無く捕えた。
目線を合わせて、覗き込む青い瞳。
その澄んだ美しさ。
思わず息を飲む様に、小夜は目を見開いた。
大粒の涙が、再び頬を伝う。
涙に歪んだ視界にハジはぐっと近寄って、そっと頬に掌を添えると苦笑を漏らして再び謝罪した。
「泣かせてしまうほど…意地悪をして…すみませんでした」
「意地悪…なんて…」
「それでも…この涙は、私の所為でしょう?」
「……ハジ」
見上げると、優しい指先が頬を伝う涙を拭い、赤く染まった目元にそっと唇を重ねる。
「……………それとも、私の自惚れですか?」
片腕を握られているせいで逃れる事も出来ず、小夜は面と向かってそう覗き込んでくる男に唇を噛んだ。
「…………………」
「…………自惚れても、許して下さいますか?」
「馬鹿…馬鹿、馬鹿…ハジの馬鹿!」
自由な方の拳で、寛げた男のシャツの胸元を、ドン…と叩く。
思い切り叩いたつもりなのに、ハジはよろける事すらなくその衝撃を受け止めた。
零れた涙ごと、長く力強い腕が抱きすくめる。
「……………小夜」
耳元で、どこか言い聞かせる様な響きで名前を囁く。
 
たったそれだけの事なのに。
 
……もっと、自惚れて良いよ
 
小夜は男の胸に強く頬を押し付けて、小さくそう囁いた。
 
手を伸ばせば届く場所に、彼は降りて来てくれたのだ。
 
                    了

20111020  2011717日のブログに載せたSSです。こっちに載せるの忘れてました…。

                       
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