「長い夢を見ていたみたい・・・」

小夜がポツリと零した。


虚ろな表情のまま、力なくベッドの端に腰を掛けて小夜は窓の外を見ていた。

厚く雲に覆われた空は今にも雨が降り出しそうな気配で、

ハジもまた無表情のまま彼女が見つめる空を見上げた。



地図で探す事も苦労するほど小さなフランスの片田舎。

他に宿泊客も見当たらないような、小さな宿に二人は滞在していた。

どう見ても素性の怪しい男女の二人連れにも拘らず、細々と宿を営む人の好い老夫婦は

具合の悪い小夜に同情して何かと世話を焼いてくれる。

今、この状態でこれ以上他人と関わる事は極力避けたかったけれど、

具合の思わしくない小夜を連れて移動を続ける事は不可能に思われた。

とにかく小夜が回復するまで・・・、そう考えての滞在はそろそろ限界を向かえている。
 
ハジは大切に抱えたチェロをそっと脇に立てかけて、小夜の足元に跪いた。

「もう少し、お休みなさい・・・。小夜・・・」


気遣う青年に小夜はゆっくりと視線を移すと、色を失った唇をほんの少し歪めた。

小夜の瞳は今にも降り出しそうな空の色とよく似て・・・、

ハジの胸はきりきりと痛んだけれど、敢えてそれを表情に出したりはしない。


無表情を装うのは彼の生きる術のようなものだ。


「小夜・・・、そんなにきつく唇を噛まないで・・・」


左手を差し出し、細い頤にそっと触れて支えると、ハジは優しく小夜の唇を親指で戒めた。

小夜に触れる時、咄嗟に利き腕とは逆の左手を出すのはもう習い性のようなものだ。


柔らかい小夜の唇は素直にハジの指に従い、ふっと力が緩んでいく。


その感触を指先で確かめると・・・ハジの瞳は誰にも知られる事の無い優しい色を浮かべた。


ハジが彼女に触れた指を引こうとすると、小夜は恐る恐るその指に自分の指を重ねて引き止める。


「ハジ・・・、もう・・・夢は見たくないの・・・」


「・・・夢では、ありません。小夜・・・」

俯く少女にどうにか顔を上げて欲しくて・・・、しかし冷静な口調とは裏腹にハジは密かに狼狽していた。

小夜の存在はハジにとって生きている理由そのもので、

彼女の為ならば例え命を投げ出す事も厭わないけれど・・・。

彼女に仕えるシュバリエでありながら、それでもこんな時に、ハジはどう小夜を慰めて良いのか分からない。
「・・・夢ではないのです・・・」
優しい義父の存在も、互いを思いやり時にはケンカも出来る兄弟、初めての学生生活、無邪気にふざけ合える友達。

今までのサヤには知り得なかった、望んでも焦がれても、手の届かなかった当たり前の平凡な幸せ。
ずっと夢見ていたいような、しかしそんな穏やかな時間は瞬く間に小夜の上をすり抜けていってしまった。

幸せだった分だけ、今の状況は彼女にとって辛いものだろう。
今、彼女の目の前に広がるのは先の見えない不安と孤独感。
自分の存在意義すら、今は見失ってしまったかのように・・・。
あの日、沈み逝く巨大な船の上で彼女はあまりにも多くのものを失い、

爆炎の中で姉を嘲る様に笑う妹の姿に、初めて本気の怒りを露にし・・・。
けれど、最初からまともにやりあう気など無いディーヴァに翻弄されたまま、彼女を倒す事は叶わなかった。

ハジは漸くの思いで、燃えたまま海中に沈み行く巨大な棺桶から傷付いた小夜を救い出した。
翼手を・・・、ディーヴァを倒す、と言う志を同じくした多くの仲間の、そしてかけがえの無い義弟リクの骸を載せたまま

船は深い海の底に消えて、・・・文字通り、赤い盾は壊滅した。
 
小夜は意識を失ったまま数日の間うなされ続け、ハジもまた消耗しきっていた。
しかし、そろそろこの宿も出て行かなければ・・・ハジがそんな心配をし始めた頃、小夜は目覚めた。

やつれた頬は「音無小夜」として初めて出逢った時とは別人のように大人びていた。

元から白い肌は、数日間寝ていただけだと言うのに透けるような青白さで、

首筋に浮く血管の色がこんな状況にも拘らず、皮肉にも少女の色香を際立たせて、ハジの胸は不謹慎にもドクンと大きく脈打った。
「小夜・・・」
指を捕らわれたまま、ハジは小さく主の名を呼ぶ。
「最初から・・・ずっと二人きりだったんだよね・・・ハジ・・・、私達・・・」
音無小夜であった一年間などまるで存在しないかのように、小夜が言う。
大切な人達を亡くし、傷付いた心を守る、それは本能なのだろうか・・・。
いつに無く喉が渇き、とてもそんな小夜を見てはいられなかった。

自分が小夜に何を求めているのかさえ、あやふやに崩れていきそうで・・・。
しかし彼の主は思わず顔を伏せたハジを許さない様に、両手で彼の頬を包み込んだ。
「ハジ・・・。私・・・思い出したよ。・・・私にはずっとハジだけ・・・」
「・・・・・・そんな事はありません。小夜・・・、あなたには・・・」
自分以外にも小夜を慕う存在は居るのだと言い掛けたけれど、小夜は聞く耳を持たず、ハジの言葉に小さく頭を振った。
「ううん・・・」
柔らかく否定して、小夜の唇が舞い降りてくる。
ハジはその優しい気配にそっと瞼を伏せた。
「ごめんね・・・」
謝罪の言葉を直接体に吹き込むように、小夜の唇がそっとハジのそれに触れる。
愛しくて、そんな小夜が愛しくて、ハジは思わず両手で小夜の腰を抱き寄せていた。
「ハジ・・・?」
 
コンコン・・・
タイミングを計るように、突然遠慮がちにドアが鳴って、二人は弾かれたように互いを解放した。
ハジは慌てて息を整えると、何事も無かったようにドアへ向った。
小夜を振り返り許しを得ると、ドアを開ける。
「ごめんなさいね・・・。おじいさんが持って行けって・・・」
宿の女主がわずかに開いたドアの隙間からひょっこり顔を覗かせた。
両手に抱えた盆の上には、簡単な食事とお茶の用意がされている。
「彼女は病み上がりだし、お兄さんも食が細いようだから・・・」
軽いものにしましたよ・・・と付け加える。
時計を確認するともうすっかり昼の時間は過ぎていた。
「それと、着替えも無いようだから・・・」
ハジの腕に食事の乗った盆を手渡すと、廊下から・・・どうやら着替えの入っているらしい包みを差し出した。
都会に出て行った孫のものだけれど・・・そう説明して。
「・・・・・・・・・」
「そう、気を落とさないで・・・。きっといつか御両親も許して下さるわ・・・」
どうやら二人を駆け落ちした恋人同士とでも勝手に解釈しているらしい。
都合の良い解釈に苦笑し、食事付の宿でもないのに、

こうして食事や着替えの心配までしてくれる親切に二人は戸惑いながら礼を述べた。

彼女が部屋を出て行くと、ハジは手際良く小さなテーブルの上に、小夜の為の食事を整えた。
「いい人ね・・・」
小夜はベッドに腰を下ろしたまま、ハジの手元をぼんやりと眺めている。
「ええ・・・とても親切な老夫婦です・・・。少し誤解させてしまったようですが・・・」
困ったようなハジの言葉に、小夜は口元で小さく笑った。
「すみません・・・」
「ハジが謝る事ないわ・・・。本当に・・・そうだったら良かった・・・」
どこか遠くを見るように、視線がハジをすり抜けた。
「小夜・・・?」
「随分・・・遠くまで来ちゃったね。私達・・・」
小夜はそう言い残して立ち上がった。


夜になり、窓の外ではいつの間にか雨が降り出していた。
雨音に混じって、バスルームから小夜が立てるシャワーの水音が聞こえる。
明朝・・・この雨が上がったら、もうこの地を離れよう・・・
しばらくは柔らかいベッドで小夜を休ませる事も出来なくなるかも知れない。
ハジは窓際に一人佇んで、ここ数日の事を思い返していた。
今の小夜の心は、まるで大切な何かをあの船の上に置き忘れてきてしまったかのように、酷く不安定だった。
彼女が生きてきた長い時間の中で、音無小夜はかつてない程に「人間」というものに共生を果たしていた。
過去の忌まわしい記憶を失う事で、真っ白な新たな人生を手に入れたかのようで・・・。
ハジは、そんな小夜を見るにつけ、彼女を戦いの最中へ誘わなければならない事に心を痛めていた。

出来る事ならば、このまま何事も無く平凡な日々を過ごさせてやりたかった。
そして小夜の幸せは自分と共に在る事ではないのだと・・・、胸が痛んだ。
ディーヴァを倒す事、それは小夜にしか出来ないけれど、

しかしディーヴァを倒すにはきっと今の小夜はあまりにも人に近付き過ぎている。
ディーヴァには最初から守るものなど何も無い。
もし、ジョエルがサヤではなく自分の方を選び娘として育てていたら・・・。
もし、サヤが居なかったら・・・
ディーヴァはサヤが自分から全てを奪ったと誤解しているのだろうか・・・、一つ一つ、彼女は姉の大切なものを奪ってゆく。
そしてサヤの傷付く顔を見て、悦んでいるのだ。
この先も熾烈を極めるだろう戦いの中で、小夜は傷付き続ける・・・。
人として育てられた心が・・・
人を愛し守ろうとする心が・・・
それでもハジは信じたかった。
人類という種が、決して翼手に劣るものではないと言う事を・・・。
この戦いの引き金を引いたのは確かに小夜かもしれない。
しかし、小夜は翼手の女王でありながら、人類の最後の希望でも有り得るのだろうと・・・。
シャワーを浴びるだけにしては、少し時間が掛かり過ぎているような気がしていた。
嫌な予感がして、ハジは呼びかけてからゆっくりと二回バスルームのドアをノックした。
「小夜・・・?」
ドアの向こうから返事は無く、絶え間なく水音だけが聞こえている。
急に不安に駆られて、ハジはドアノブに手を掛けた。
「小夜っ・・・開けますよ・・・」
鍵は掛かっておらず、すんなりと開いたドアの向こう、狭いバスルームの中はもうもうとした湯気で曇っていた。

古びたタイル張りの床と壁。据付のシャワーからは勢い良くお湯が溢れている。小夜はその下に居た。
小さなバスタブの縁にぐったりと崩れかかるようにして・・・。
「小夜っ・・・しっかり・・・」
慌てて・・・ハジは自分が濡れる事も構わず、小夜を庇うようにしてシャワーの下に体を晒した。

見る間に白いシャツが濡れてハジの均整の取れた体の線が露になり、その上を長い黒髪が流れ落ちるように張り付いてくる。
ハジは両腕でしっかりと小夜の裸体を抱き上げると、バスタオルでくるむようにしてベッドへと運んだ。
「小夜・・・小夜っ・・・」
膝の上に抱きかかえたまま、ゆっくりと揺さぶる。
うっすらと色の差した頬を撫でて呼びかけると、やがて小夜は重い瞼をあけた。
小夜の瞳がぼんやりとハジを映す。
「ハジ・・・?」
「まだどこか具合が悪いのですか?小夜・・・」
小夜は微かに首を横に振った。
「皆逝ってしまう・・・。お父さんも・・・リクも・・・、私に関わった全ての人達・・・」
「小夜・・・」
「全部・・・私のせい・・・私が・・・ディーヴァを・・・」
熱に浮かされるように繰り返し自分を責める小夜を、ハジは力強く抱きしめた。
両腕の中にすっぽりと収まってしまう小さな少女に、ハジは自分の無力さを思い知る。
自分は小夜のシュバリエだというのに、結局は何もしてやる事が出来ない・・・。
せめてこうして彼女の傍らに控え、守り、時に慰め、彼女の心が折れてしまわないように・・・。
ハジの腕の中で、小夜は顔を上げた。強い力で自分を抱く腕に強く掌を重ねる。
「ハジだって・・・私のせい。・・・ハジにはもっと別の幸せな・・・「人」としての一生があったはずなのに・・・。この腕だって・・・」
ごめんなさい・・・
「ずっと謝りたかったの・・・ハジ・・・」
小夜の黒い瞳は涙に濡れていた。
長い間堪えていた涙は後から後から溢れ続け、小夜はハジの胸に何度もごめんなさいと呟いた。

例え、暴走していたのだとしても、ハジの右腕を切り落としたのは確かに自分なのだと、蘇った記憶が告げている。
ハジはそんな小夜を優しく腕に抱き寄せながら、脳裏に遠い昔の面影を見ていた。
音楽と花が何よりも好きで、大らかで我が侭で・・・優しい少女。
他の人とは明らかに違う自分に、独り時間に取り残される不安に、本当はいつだって泣きたかった筈なのに・・・。
「小夜・・・私は良いのです。最初からこの身は・・・全てあなたに捧げたものです。

腕など惜しくはありません。第一・・・あなたに一切の非はないのです。ベトナムで小夜が暴走した時、

シュバリエでありながらあなたを守る事の出来なった私が、責められるべきなのです」
小夜は濡れた瞳でハジを一心に見詰め、歯痒げに唇を噛んだけれど言葉にはならなかった。
「また・・・」
唇が切れてしまいます・・・、とハジの指がそっと触れる。
「さあ・・・濡れたままでは、いくらあなたでも体調を崩します。まだ本調子ではないのですから・・・」
ハジは濡れてぴったりと額に張り付いた黒髪を指先でかき上げ、同じように小夜の前髪を優しく撫で付けた。

幼い子供に言い聞かせるように・・・、丁寧にタオルで滴を拭ってやりながら・・・。
「ハジ・・・」
ハジが慣れた手つきで小夜の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
小夜はほんの少し首を垂れて、素直にハジに任せている。
ずっと昔、サヤはまだ少年だったハジに着替えを手伝え等と無茶な要求を突きつけた事があったけれど・・・、

当時はまさかこんな長い付き合いになるとは想像すら出来なかった。
いつだっただろう・・・姉のようだったサヤを、守るべき一人の女性なのだと意識したのは。
「こうしていると、小さな子供みたいですよ・・・」
ふいに小夜が顔を上げた。どこか夢見るような瞳の色は、とても幼い子供のものではない。
湯上りの白い肌はほんのりと赤く上気して、細い首からなだらかな肩へと柔らかな曲線が続いている。

バスタオルとシーツで包み込んでいるとは言え、すっぽりと抱き込んだ裸体の感触が、

ハジの中で眠っていた劣情を呼び覚まさせる。
ハジは覚束無い表情の小夜に軽い目眩を覚えた。 
しかし固い理性に縋るようにして、そのまま組み敷いてしまいたい欲を押し殺すと彼女を抱き締めていた腕を緩めた。
すると突然、小夜は思い詰めた表情でハジに向き直った。
「ハジ・・・。ハジもいつか私をおいていってしまうの・・・?」
「小夜・・・」
「・・・私にはハジしか居ないのに・・・」
小夜は身に纏ったバスタオルが肌蹴るのも構わずにハジに両腕を差し出ししがみついた。

・・・小夜は混乱しているのだ・・・ときつく自分に言い聞かせてハジはその感情を押さえつけた。 
「そんな事はありません。私は・・・これから先も必ずあなたの傍に」
何度も抱き上げ、励ますように抱きしめてきた小夜の体。
その素肌さえ初めて目にする訳でもないのに・・・、露になった胸元に目のやり場に困り、辛く眉間を寄せて顔を伏せる。
「ハジが居てくれたから、私は今まで戦ってこられたの・・・・・ハジが・・・」
「小夜。この戦いは既にあなた一人のものではありません。

初代ジョエル・ゴルトシュミットは小夜にとって優しい養父であったように、私にとっても父親にも等しい存在でした」
「ハジ・・・?」
「例え私が金で買われてあなたの傍に召されたのだとしても、

それ以上のものを私は与えられました。使用人としては十分過ぎる待遇で、あなたの友人として、

必要以上の教育も受けさせて貰いました。彼が実際にどんな思惑を持っていたのだとしても・・・

彼が私にとって大切な恩人である事に変わりはありません」
ゆっくりと言い聞かせるように、ハジは思いを語った。
そして私はあなたに出逢えた・・・
ハジはそっと小夜の額に唇を落とした。
「あなたに出逢えた事を感謝こそすれ・・・小夜・・・」
「・・・・・・・・・」
「小夜の戦いは・・・私の戦いでもあるのです・・・。解りますか・・・」
小夜の黒い瞳はもう泣いてはいなかったけれど、耳元で囁くハジの言葉の意味を理解しかねるように大きく見開かれていた・・・。
「小夜を一人になどしないと言っているでしょう・・・」
ハジは白いシーツを引き寄せると、丁寧に小夜の体をくるんだ。
それでもまだ不安げな表情をして、小夜はハジをじっと見上げてくる。
「・・・私、自分が解らない。あなたをシュバリエにしてしまった事、腕を切り落としてしまった事・・・

ずっと謝りたかった・・・。ハジにはもっと穏やかな一生があった筈なのに・・・て・・・許して・・・ハジ・・・」
「・・・あなたが・・・謝る事など・・・」
「・・・それなのに、おかしいの、矛盾してる。ハジと・・・ずっと傍に居たい。

ハジが・・・シュバリエとして傍に居てくれて良かった」
結果的にではあれ、シュバリエになったからこそ・・・ハジはここに存在する事が出来る。
「小夜・・・・・・」
「・・・でも、ハジが私の傍に居てくれるのは、ハジが私のシュバリエだから・・・。

私の血があなたを縛り付けているだけ・・・。ハジ・・・ハジ・・・私にはそれがどんなに苦しい事かなんて・・・」
あなたには解らないでしょう・・・と、瞳を伏せる。
ハジはとうとう自分を押し殺す事が出来ず、小夜の体を乱暴にかき抱いた。
小夜を愛している・・・。
それはシュバリエとして・・・などと言う生易しい感情ではない。
一人の男として・・・、小夜が欲しくて・・・、
苦しくて・・・苦しくて・・・ 
それでも、自分の浅ましい欲求から小夜に触れる事はどこか禁忌にも似ていた。
自分にとって生きている理由全てである小夜・・・
母であり、姉であり、妹であり、終生仕えるべき主人であり、そして・・・
「小夜。・・・私がどれ程・・・あなたの事を・・・」
想ってきたのか・・・小夜こそ知らないのだ・・・
しかし、腕の中にすっぽりと収まってしまう小さな少女は・・・
最早守られるばかりの少女ではなく・・・
ハジの首筋にしなやかな両腕を絡めて、詰問するように逃げる事を許さない瞳で覗き込んでくる。
「・・・私・・・を・・・?」
「・・・小夜」
「ちゃんと、言って・・・。これ以上、私を不安にさせないで・・・」
もしその先を小夜が望むというのなら・・・
これ以上、自分にどうする事が出来るというのだろう・・・。
無力な自分が今の彼女にしてやれる事・・・
ハジはいつもそっと触れるだけだった唇を強く小夜のそれに押し付けた。
優しく宥めるように・・・柔らかい皮膚の感触を確かめると、何度も繰り返して口中を探る。
「・・・愛しています・・・。小夜・・・」
「ハジ・・・」
「私の言っている意味が・・・解りますか?」
小夜は確かめるように自らの唇に指で触れて、ハジの胸にぺたりと頬を寄せた。
濡れたシャツ越しに小夜の素肌が密着すると、ハジの胸の鼓動は一気に荒く早鐘を打つ。
小夜を自分だけのものにしたいという欲求が、むくむくと湧き上がってくる。
「・・・・・・・・いつものキスと、違うのね・・・ハジ・・・」
小夜は蕩ける様な目をして、ハジの唇にもまた指先を伸ばした。
「・・・ええ。・・・例え小夜が私を拒んでも、もう引き返したくはありません。

あなたの傍に居たい、あなたを欲しいと思う気持ちは、シュバリエとしてだけのものではありません・・・」
「・・・・・・ハジ?」
「今だけ・・・全てを忘れて・・・。私だけのものに・・・。小夜・・・」
倒すべき相手も、二人を縛る宿命も、愛しい大切な人々も、弔うべき多くの人々の魂さえ忘れて、今だけは・・・
切ない願いと共に、ハジは小夜を抱きしめたまま静かに体を横たえ、

そして鈍い音を立てて軋むベッドの上で、彼女を組み敷いた。
「こんな私を・・・欲しいと思ってくれるの?ハジ・・・」
「そんなあなただからです。小夜・・・」
長い黒髪から垂れた滴が、小夜の頬を濡らす。

小夜はハジの艶やかな髪束を一掬い指に絡め取り、愛しげに瞳を細めて唇を寄せた。
「好きよ・・・。ハジ・・・」
私を離さないで・・・と、小夜が甘い吐息をこぼすように小さく呟くと、ハジの胸に甘い痺れが走る。
朝がきたら、再びハジは小夜のシュバリエに戻る。
だから今だけは・・・
束の間、朝日が小夜の頬を照らすまでは・・・
小夜が、先を促すように絡めた指でハジの黒髪を解くと、濡れた髪が重さを含んで首筋に落ちかかった。

小夜がうっすらと瞳を閉じると、ハジはそれを合図のようにしっとりとした唇を再び小夜の肌に落とした。


いつの間にか雨音は止み、窓の外はうっすらと明るい。
小夜はハジの胸に頬を寄せて、規則正しい寝息を立てている。
淡いばら色の頬に涙の痕が痛々しくて、ハジは指先でそっと小夜の頬に触れた。
その優しい感触に小夜の瞼が震えて、ハジは魔法が解けていくのを感じながら彼女が目覚めるのを、名残惜しく見守った。
小夜が目覚めたら・・・、
自分はもう彼女の恋人ではなく・・・
シュバリエとして・・・、
主と従者と言う関係に戻る。
焦点の合わない瞳が、ゆっくりと色を増してハジを映した。
不思議そうに、そして次第に柔らかな微笑みに変わる。
「ハジ・・・」
そっとしなやかな指を差し出しハジの頬に触れて、吐息のように、ありがとう・・・と囁く。
「小夜・・・?」
情事の余韻を残す優しい仕種で何度もハジの髪を梳いて、頬を撫でる。
「たくさん心配をかけてしまったね・・・ハジ・・・。もう・・・大丈夫・・・だから・・・」
そうして、自分から深い口付けをハジに施し、ゆっくりと体を起こした。
少女の気だるそうな肩にハジがシャツを掛けると、静かに受け取って床に足を下ろす。
ベッドに腰掛けたまま、振り返る肩越しにハジを見詰めた。
「・・・小夜・・・」
そっと肩に触れると、小夜はハジの指に頬を寄せるように首をかしげた。
「愛するって・・・幸せで・・・、やっぱり・・・胸が苦しいのね・・・ハジ」
ハジの指にもう一度だけ頬を寄せて、小夜はハジの腕をすり抜けた。
彼女がゆっくりと窓辺に立つと、カーテンの隙間からまぶしく朝日がハジの目を射抜いた。
光の中で、小夜が言う。
「全部・・・終わらせに行こう。・・・ハジ以外・・・もう他の誰も要らないから・・・」
小夜はきつく唇を噛んで、そう言った。
「小夜・・・」
彼女は翼手の女王でありながら、人類の最後の希望・・・
二人は互いに求め合う深い愛を心に押し殺して、もう一度・・・因縁の戦いへと身を投じようとしていた。
「あなたは私が守るから・・・。だから・・・お願い。もう少し力を貸して・・・ハジ・・・」
ハジはシュバリエとして、恭しく小夜の足元に跪いた。
「小夜・・・それがあなたの望みなら・・・」
ハジの抑揚の無い静かな声音に、小夜はそっと瞳を閉じた。

20060618
4000hitとしてりぼん様からリクエストを頂きました。
ええと、ハジ×小夜で、空白の一年・・・と言うテーマ。
その他お好みを色々お聞きしまして、このSSを書かせて頂きました。
お恥ずかしい・・・です。せっかくリクエスト頂いたのに、
あんまりお応えて出来ていないと言いますか・・・。
りぼん様・・・どうか、お許し下さいませ・・・。すみません!!

昔、宗方コーチが籐堂さんに仰いました。
男なら女の成長を妨げるような愛しかたをするな・・・と。
優れた男性が傍で支える事によって、女性の本当の強さは発揮される
ものだと・・・そのような話・・・だったような。
一年経ってあの小夜の女っぷりの上がりよう・・・、まさしく女の子があんな変わり方を
するのに男が関わってない筈は無いよね・・・なんて、下世話な確信を抱きつつ、
男って言ったらハジしかいないですもん。
大体どう見たって、あの親密さは・・・。
しかし、愛する男の人に身も心も愛される事で、女は強くなれると思いますよ。
実際・・・。
・・・ハジ視点で書いたので、実は内心小夜視点ヴァージョンも書きたい・・・ような。
リボン様リクエストありがとうございました。