散り逝く花の薫りにも似て 6
 
重い体を引き摺る様にして漸くその場に辿り着いた小夜は、余りの出来事に大きく瞳を見開いた。がくがくと止まらない全身の震えに思わず両腕で自分を抱き締める。
 
暗い闇の中に立つ一頭の獣。
暗く薄汚れた雑居ビルが立ち並ぶ一角にまるで闇に溶ける様に立つその姿は、小夜が未だかつて一度も目にした事のない男の姿だった。
大きな漆黒の翼、発達したしなやかな筋肉、狼の様な四肢、雨粒を弾く硬質な鱗、美しく波打つ鬣。
闇に紛れて尚…艶を放つ…どこか妖艶な獣の姿。
 
初めて見る姿であろうとも、見間違える筈は無い。
あれは…。
あれは、ハジ……。
 
翼手……化…したというの…?
俄かには信じられなかった。
しかし小夜には解る。
その獣の姿から彼が人である時の面影をはっきりと感じ取っていた。
いや…面影と言うより、清冽で研ぎ澄まされた彼の纏う空気そのものは人である時と何一つ変わりはしない。
紛れもなく…あれはハジだ。
先程感じた雷に撃たれた様な衝撃は、彼がこうして人の姿から翼手形態へと姿を変えた瞬間のものだったのだ。
それこそが、始祖とシュバリエの絆…否…血よりも濃い二人の絆なのだ。
人の形を成す細胞の一つ一つを完全なる獣のそれへと変化させる…それはハジにとって初めての経験だったはずだ。勿論小夜自身も経験はない。
『人』の常識を超えた翼手の生態。しかし、想像しただけでもそれがどれ程のエネルギーを要する事かは理解出来る。言わば病み上がりである彼の体に、それはどれ程の負担だったことだろう…。
かつて、ハジは小夜の心情を気遣う様に…翼手としての能力を拒絶し続けていた。その翼の存在さえ幻だったのではないかと疑う程、長きに渡り封印してきたのだ。
その彼が…、こうしてその姿を変えるなんて…。それは皮肉にも、ハジが小夜の事を全く記憶に残していないという証明でもある。
けれど確かに、心と体のずっと深いところで自分とハジとはつながっている。
ハジの心にぽっかりと穿つ深い悲しみにも似た空しさが、こうしている小夜にもまたはっきりと感じ取る事が出来る。彼の悲しみはまた自分のものでもあるのだと、小夜はその胸に痛い程感じていた。
大きな肉体の痛手から蘇った彼が小夜の記憶を失っていた時…、あんなに優しかったハジの瞳が小夜の存在を認めなかった瞬間…『愛している』と言ってくれた言葉を覆された様な衝撃と心を裂かれる様な痛みを覚え、と同時に小夜は今が彼を解放する時なのだと悟った。
これまでどうしても断ち切る事の出来なかった血の柵を、今ならば無かった事に出来るのではないかと思ったのだ。
それを証拠に、ハジは躊躇する事無く小夜を置いて組織から出て行ってしまった。彼がそれを望むのならば、どうして自分にハジを引止め、連れ戻す事が出来るだろう…。本来自由であった筈の彼の人生を歪めてしまった自分にそんな資格があるとは思えなかった。
例えどれ程辛くても、それがハジの為だというのならば、自分はこの胸の痛みに耐える覚悟がある。
耐える事こそが、自分の…男に対する愛情の証なのだ…そう思ったのだ。
嫌でも自分は間もなく休眠に入る。
自分が三十年の長き眠りに就いてしまえば、流石に彼も小夜を思い出す事無く、新しい自分の居場所を見付ける事が出来るのではないか…縋るような気持ちでそう思ったのだ。
 
しかし、今になって小夜はその過ちに気付いた。
 
この長い戦いの中、彼を支え続けて来たもの。
彼の揺ぎ無い意志も、その優しさも大きな力も、ハジの中に確固たる強い想いがあったからだ。しかし今のハジはその支えを失って心の中に埋める事の出来ない大きく虚ろな空洞を抱えている。
そしてその空しさの正体を、彼自身理解してはいないのだ。
小夜には…その美しい獣の姿が、まるで帰る家を失い泣く事すら忘れ大きな悲嘆と寂しさの前に途方に暮れる幼い子供の様に見えた。
もしそうだとしたら、その責任は彼を独りにした自分にある。
今まで自分がこうして生きて来られたのは、ハジが身を盾にして自分の事を護ってくれていたお蔭だ。自分にとってハジが掛け替えのない存在であった様に、しかし彼にとってもまた自分は生きる全てだったのだと…。
そんな風に感じている自分は、なんて烏滸がましい女なのだろう。
けれど、それが偽らざる真実だった。
『始祖の存在なくしては、シュバリエは生きて行かれない』と、ソロモンは言ったけれど…、あの時は必死にそれを否定して…生きて行かれないのはハジではなく自分の方だと思っていたけれど。
 
あの優しいハジの微笑み。
労りに満ちた大きな掌、繊細な指先。
もう二度と触れる事は叶わないのだと…覚悟したつもりだったけれど。
 
 
□□□
 
 
「小夜…。ここは危険です…彼は…」
青ざめた表情で縋り付く少女にソロモンは言い聞かせる様に告げた。
その細い体を抱きとめる様にして、ソロモンは小夜を引き留めた。
抱き留めていなければ、今にもあの美しい幻獣の元へ駈け出してしまいそうな勢いだ。けれど、いくら気持ちは逸れども長時間雨に打たれた全身はずぶ濡れで、体温は今にも凍ってしまいそうな程低下している。
ハジを放っておく事は出来ないが、しかし彼女もまた早く温かく清潔な場所で体を休めなければ…。
正常な休眠を迎える事が出来るのかどうかも怪しくなってしまう。
以前の軽やかな身のこなしはまるで幻の様に、体を支えるのもやっと…と言う様子で、抱きとめるソロモンの胸に何とか腕を付いて逃れようとする者のその力は嘘の様に弱い。暗い空から落ちてくる雨粒から少しでも庇う様に、崩れ落ちた小夜の上になって覗き込む。
「…彼は今、訳も分からず一方的に攻撃を仕掛けられた事で少し虫の居所が悪いのですよ…。ハジの中にもこんな一面もあるのだと、想像もしませんでしたが…」
「……どうして…」
こんな事に…?
周囲を見回し、小夜は状況を理解すると尚更表情を硬くする。
しかも、ハジに相対しているのは、薬害翼手と化した人間ではなく同胞である筈の赤い盾の構成員である事に小夜は今になって気付いたのだ。
「…とにかく…ここは私が収めます。貴女はどうか早く安全な場所に…」
小夜の問いには耳を貸さず、まずは彼女を安全な場所に移すべくソロモンは小夜の体を抱き上げた。
「やめて!ソロモンッ!………ハ…ジ…」
力ない体が腕の中で暴れる。がむしゃらに逃れようとするも、今の小夜が男の力に叶う筈もなく難無く腕の中に閉じ込められる。
「いけませんっ…小夜…。彼の事は…私にお任せ下さい。…決して貴方の望まぬ様にはしません…」
こんな状況で…彼の言葉に嘘はないのだろう…。
小夜はいつしか涙に濡れた瞳を見開いて、真っ直ぐに男を見詰め返した。
男の金色の髪の向こうに、血の海が広がる。
その真ん中で、狂おしい程の悲しみに包まれた幻獣が呼気を荒くしている。
昔ベトナムの地で、自分もまた暴走した時の景色がフラッシュバックする。
眩暈に意識が飛びそうになる…がしかし、今の自分が呑気に失神している様な訳にはいかなかった。
「ハジッ!!もう止めてっ!!……お願いっ!お願い…ソロモン…。私をハジの前に連れて行って…彼の傍に…」
覚悟を決めたつもりでも、その声は悲鳴のように鋭く震えていた。
彼の前に出たからと言って、一体今の自分に何が出来ると言うのだろう。
自分はまた拒絶されるのだろうか…。
その存在を認められる事なく、あの鋭い牙に掛かるのだろうか…。
けれど…。
けれど、自分がいかなければ…。
…私が…。
 
どんな理由であれ、ハジがこんな事態に陥っているのは始祖である自分の責任なのだ。小夜はきつく唇を噛んだ。心の中で、結局は自分一人の力では何もできない事を不甲斐無く思いながらも、小夜は自分を抱き上げる男に懇願した。
「お願い…ソロモン。……私をハジのところまで連れて行って…」
それ以上、貴方に迷惑はかけない…。
しなやかに筋肉を躍動させて暴走する美しい獣は、あらかた目の前の人間を屠るとやがて興味の対象を失ったかの様に、その場を後にすべく高く跳躍するといつの間にか雑居ビルの屋上へと移動していた。
今ここで彼を見失う訳にはいかない。
けれど、今の小夜にはこの高さをハジに追い付いて移動する事は出来ない。
「…小夜。今の貴女では…」
「私の事は良い。ハジを止めないと…。彼は…本当はあんな酷い事をするような人じゃないの!…自分がこんな事をしたと知ったら…ハジは…ハジは…」
どれ程心を痛め、傷付くだろう…。かつての自分がそうであった様に…。
「小夜っ。…落ち着いて下さい…」
「だって…。だって、全部私が悪いの…、全部…私の所為…」
その弱った体で、まるで野良猫の様に暴れる愛しい少女に、ソロモンもまた覚悟を決めた様に小さく肩で息を吐いた。
そこまで…。
そうまでしてそれを望むというのなら、自分は命に代えても彼女の望みをかなえるしかあるまい。
「お願い。ソロモン…私をハジのところへ連れて行って!…お願い!!」
自分一人ではもう、それは叶える事が出来ないのだ。
「小夜…落ち着いて下さい。そうして全てを自分の所為だと思い込むのは貴女の悪い癖ですよ。…小夜…。前に言ったでしょう…。私の剣は貴女の為に捧げられたものなのです…。貴女はただ…シュバリエである私に命ずれば良いのです…。自分をあの男の元へ連れて行けと」
「……ソロモン」
「さあ、もう…そんな表情をしないで…」
「………………」
「安心して下さい。貴女の事は、何があっても私が護ります。貴女を傷付ける…全てのものから」
ソロモンは力強く小夜の体を胸に抱き直した。
ハジの居るビルの屋上は、すぐ目と鼻の先だ。
「……小夜。しっかりつかまっていて下さい…」
出来る限り穏やかで優しい微笑みを浮かべ少女に笑い掛ける。
「ソロモン…ごめんなさい…」
小夜の涙が、胸に染みる。
例え…少女の愛が決して自分に向けられる事は無いのだとしても、それでもこうして彼女の願いを叶える事の出来る幸せを自分は感じる事が出来る。
それこそが、シュバリエとしての本望ではないのか…。
 
ソロモンは真っ直ぐに、男の居る屋上を見上げると軽やかにアスファルトを蹴った。
 
 
□□□
 
 
幻獣は、濡れた瞳をしていた。
血に塗れ、彼自身どうして自分が今こうしているのか理解出来ず、不安に揺れている。全身から漲っていた殺気は嘘の様に影を潜めていた。
先程もそうだ。
彼は相対するものの持つ殺気に反応するのだ。
こちらから敵意を抱くような事が無ければ、ハジは自ら牙を剥いたりはしない。
そう確信にも似た思いを抱き、ソロモンはやや安堵した様に肩の力を抜いた。
もし彼が先程のまま、昂ぶってサヤを傷付ける様な事になれば…自らもまた彼と一戦交える事も辞さない心つもりであった。
しかしそうなれば、とても互いに無事に済む事は無い。
力の均衡したシュバリエ同士、もしかしたら命を落とす事も有り得る…決して命が惜しいと言う訳ではない…しかし今自分が死ねば残された小夜はどうなるのだ…。
そんな強い気持ちがあった。
ソロモンはそっと小夜の体を下し、まるでダンスパーティーにエスコートする様な優雅さで手を添えると彼女をハジの前に立たせた。
小夜の細い肩がびくんと揺れる。
きつく握り締めていた刀を脇に投げ捨てると、恐れる様に一歩、歩みを進めた。
ハジはじっと動かない。注意深く観察する様に、彼もまた小夜を見詰めている。
「……ハジ」
優しい声でその名前を呼び、細い腕を差し延べる。
ハジもまた戸惑う様に鬣を揺らした。
差し出された指先に、ハジは用心深くゆっくりと鼻先を寄せた。
ソロモンに対する態度とは明らかに違い、小夜の存在自体が彼にとってとても大切なものであるという事は本能で感じ取っている様に見受けられた。
正しく主である少女を確かめる様に、くんと匂いを嗅ぐ。
ちろりと覗いた舌先で、一度だけ少女の指先を舐めた。
やがて…まるで小夜の事を認めたかのように…ハジはその切れ長の瞳をうっすらと細め、しなやかな首を伏せて小夜に寄り添わせた。
小夜もまた言葉はなく、優しい両腕で労わる様に抱き締めてその鬣に顔を埋めた。
静かな…そして淡々とした…たったそれだけの、再会。
けれどその強い抱擁には、深い愛情と慈しみに溢れていた。
彼らの間には元より言葉など必要とはしないのか……。
それともこれが始祖とシュバリエの本来の関係だと言うのか…。
それとも、血の繋がりを超えた…彼ら自身の絆…。
ソロモンは、どこか居た堪れない様な気持ちになって、そんな二人の姿から目を逸らした。
自分が欲しくて、どうしても手に入らないもの…。
目の前で、それをまざまざと見せつけられたような気がしたのだ。
                        《続》

20110822
やっと更新出来ます…。なんだか主役はソロモンのような展開ですが、彼を書くのはとても楽しいのです。
お話自体はあまり進んでいなくて申し訳ないのですが、次回はもう少し話が動くと思います。
夏休みも残すところ10日ほど。
また悠さんの学校が始まったら、更新ペースも上がると思いますので…。
もう少しお付き合い頂けたら嬉しいです〜。


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