無題。

 ハジの髪はとても綺麗。
混じり気のない真っ黒な色も滑らかな艶も、本当に男の人にしておくのがもったいないくらい美しい…。
ハジの掛けるソファーの背後に立って、小夜はその髪に見惚れていた。はぁ…と甘い感嘆の溜息を零して、ゆっくりと髪に触れる。バスタオルでそっと押さえて湿り気を取ってゆく…元々ゆったりとうねるクセ毛は濡れると更にくるくると巻いて、それが面白くもあり新鮮でもあった。
しっかりとタオルで拭いて、その重みを増した毛束を両手でまとめると、いつもなら有り得ないポニーテールに片手で押さえて、後ろからその顔を覗き込む。
ハジは黙って小夜のしたい様に髪を弄らせたまま、気に留める様子もなくコンパクトに畳んだ新聞の紙面に視線を落としていた。
湯上りのほんのりと上気した項。
普段露わにならない輪郭の線、こめかみ。
視線を落としたままの伏せた睫毛。
何もかもが美しい恋人に、もう一度うっとりと溜息を零す。
思わず吸い込まれる様に、小夜はそっと白い項に唇を落とした。
小さく音を立てて、ちゅ…と口付ける。
勿論、後が付くようなキスではない…ほんの戯れだ。
しかし、今の今まで気にも留めずに新聞を読んでいた男は大きく背をしならせてビクンと大きく肩を揺らした。まるで子供の悪戯を窘める様に…
「…小夜」
と呼ぶ、その声音はほんの少し困った様子で…。
案外にも…彼は感じやすいのだ…。
小夜は素直に謝ると、はしたない悪戯をしてしまった気恥ずかしさを誤魔化す様に恋人に問い掛けた。
「……ねえ、ハジはどうして髪を伸ばしてるの?」
今時、男性の長髪も珍しくはないけれど…それにしてもお堅い持ち株会社勤務でこの長髪は珍しいように思え…以前から疑問に感じてはいたのだ。
ハジはほんの少し、間を開けて答えた。視線は新聞に落としたままだ。
「…髪を短くすれば、毎月まめに髪を切りに行かなければならないでしょう?」
それは忙しいから…という事だろうか…。
そんな理由で?
小夜がどこか腑に落ちないままじっと黙り込むと…彼女の様子には気が付かないままのハジが付け加えた。
「他人に髪を触られるのが嫌なんです」
「…………」
思わず触れていた黒髪からパッと手を離す。
度々こうしてハジの髪に戯れてはドライヤーをかけていた小夜は、彼がそんな潔癖である事などまるで気付きもしなかったのだ。
「ご…ごめんなさ…」
「…小夜は、良いんですよ」
二人の台詞が重なる。
ハジは新聞を置くとくるりと振り返った。
「小夜は触っても大丈夫ですよ…」
「…ぇ…。でも…」
嫌なんでしょう?
本当は嫌なのに…ハジはずっとそうされる事を我慢していたのだ。
自分は彼にそんな我慢をさせていたのだ。ただ彼の綺麗な髪に触りたいという、自分の我儘につき合わせていたのだ。
「小夜…?…髪、乾かしてくれるのでしょう?」
「…………ハジ?」
「……いい加減、寒いですから…手早くお願いしますね」
「………………ぅん」
すっきりと腑に落ちず、しかし小夜は言われたまま傍らのドライヤーに手を伸ばした。
尚も『良いの?』と目で問い掛ける少女に、ハジは呆れた様に微笑んだ。
その瞳が相変わらず貴女は可愛らしいですね…と告げている。
小夜は拗ねた様に唇を尖らせて…
「そういう鈍いところも、愛していますよ」
ブ…ブオ〜〜〜〜〜〜〜ッ!!
…と。
……肝心の台詞は、ドライヤーの大きな音に掻き消されていた。
小夜に届かなかった台詞を、敢えてもう一度口にする事無くハジは苦笑した。
勿論…こんな風に間の悪いところもね…。
心地良い温風と優しい指の感触に集中する様に男はそっと瞼を閉じた。
例えようもない大きな幸せを実感して…。
                        《ちゃんちゃん》




使い終えたドライヤーのコードをコンセントから外して丁寧に巻いて付属のテープで留めると、相変わらず何食わぬ顔で新聞を読んでいる恋人の後姿を見詰める。
丁寧に梳った艶やかな黒髪を前に、小夜の胸には密かな満足感が込み上げていた。
リビングの照明を受けて緩いウェーブに浮かぶ艶は、まるでシャンプーのCMのワンカットを見ている様だ。すっかりと乾き切ったしなやかな黒髪からは、まるで小夜を誘うかの様にふわりと甘い香りがした。
つい先ほど、触られるのは好まない…という様な事を聞かされたというのに、小夜はいつの間にかすっかりそんな事は頭の片隅に追いやっていた。
くん…と、目を閉じてその髪に鼻先を寄せる。
男の首筋に両手を掛けて背後からしがみ付く様に、柔らかな黒髪にギュッと頬を寄せる。

…良い香り…

目を閉じたままうっとりと深呼吸する。
ハジの髪からは、本当にいい香りがした。説明しろと言われても困るけれど、甘いシャンプーのそれだけではなく、ハジ自身の香りがして…それは多分、小夜しか知らない…彼の体臭の様なものだ。沖縄の家では、父ジョージと、兄と弟…そして小夜と言う家族構成で、男性に囲まれた生活をしていた。父も兄もとてもいい香りとは程遠いどこか汗臭さの様なものを纏っていたけれど、ハジとこういう関係になって、こんなにもいい香りのする男の人もいるのだと知った。
思わず、彼の黒髪に顔を埋めて再び大きな深呼吸をすると、今まで為されるがままじっと身を固くしていた男が、流石に疑問を感じたかの様に小夜を呼んだ。
「…小夜…。つかぬ事を伺いますが、何をしているんです?」
「………ハジ…。良い香りがする」
「…気のせいでしょう?…小夜と同じ匂いですよ…」
同じボディーソープ、同じシャンプーとコンディショナーを使っているんですから…と。
やや呆れた様に…。
思わず、小夜も反論する。
「………そんな事ないよ。ハジは良い香りがするの!…ハジの匂い…」
尚も髪に顔を押し付けて深呼吸を繰り返す少女に、そんなものは自分では解りません…と溜息を付く。新聞を脇に置くと、もう一度…
「小夜…」
と呼ぶ。
呼ばれて仕方なく小夜がハジの髪から顔を上げると、『こっちにおいで』と恋人が招いていた。まるで飼い主に呼ばれた子猫が、好奇心を示す様に「なあに?」とソファーを回り込む。きょとん、とした瞳でハジの前にいつもの様に膝を付くと、長い腕が浚う様に小夜を抱き寄せた。まるでお返しとばかりに、『どれどれ…』と小夜の毛先に顔を寄せる。
「…ハ、ハジ?」
さりげなく小夜の抵抗を封じておいて、回した長い指先で小夜の髪を梳く。
さらさらと零れ落ちるそれを耳に掛け、そっと耳元に吐息を吹きかけながら囁く。
男の良く響く美声が告げた。
「本当ですね…。確かに小夜は…甘い…」
……ビクンッ!!
背筋を這い上る刺激に思わず体を震わせてもがく少女の体を、ハジは尚更深く抱きしめた。
「っ!!…ゃ…ん。ダメ…っ…ハジ…」
男の胸にきつく抱きしめられて、小夜は甘い抗議の声を上げた。
「……何が駄目なんです?」
自らの腕の中で頬を赤らめる少女を上から覗き込む様にして、ハジはわざとらしく嘯いて見せた。
「……あ、あの…。…だって…私の事は関係なくて…その…ハジが良い香りだって事…」
を、言いたかっただけなのだ。
それなのに…。
こんな風に…。
抱き締めて、耳に息を吹きかけるなんて…。
「……………ハジ。………ずるい」
「………ですから、何が駄目で、何がずるいんですか?」
小夜の言いたい事は全く要領を得ませんね…と。
これ以上ない程柔らかく…美しく微笑む男の胸に、小夜は降参とばかりにぐったりと体を預けた。
                           《ちゃんちゃん♪》


20110803 ブログから移動。2011年2月のブログに載せたものです〜。
  
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