散り逝く花の薫りにも似て 5

 
早く…二人の元に行かなくては…。
覚束ない足取りで、小夜は何とか前に進んでいた。
自分の体力がこれほどまでに落ちているとは、正直思っていなかった。
これ位の高さ以前ならば平気だった。
これ位の壁、難無く跳び越える事が出来た。
けれど、今の小夜には前に進む事が精一杯なのだ。
激しく全身を打つ雨粒が、只でさえ体力の落ちた小夜の体から力と体温を奪う。
時折崩れそうになる体を、刀を杖の様にして支え、小夜は足を前に出す。
 
ハジ…。
ハジ…、ハジ…。
 
強く、心の中で彼を思う。
愛しい…自分の命よりも大切な…男性。
 
彼を失って…。
今頃になって……。
 
今頃、自分の本当の気持ちに気付けるなんて…。
 
 
自分はどれだけ愚かだったのだろう…。
 
 
お願い。
間に合って…。
 
その想いだけが小夜を支えていた。
 
 
 
しかし次の瞬間、まるで雷に撃たれた様な衝撃が小夜の全身を打った。
鋭い痛みにとうとう耐え切れず、頽れる。
暗く濡れた路上で、激しい痛みに自分の体を抱き抱える。
 
小夜の中の、ずっとずっと深いところで本能が教える。
ハジの身に、ただ事ではない何かが起きたのだ。
それが何なのかは、小夜にも解らない。
けれど、シュバリエであるハジと自分とはまだこうして繋がっているのだ。
そう思うと、全身を襲う衝撃すら愛しく思う。
 
 
ハジ…。
 
ハジ…。
待ってて…。
私…すぐに…行くから…。
 
小夜は必死に刀を手繰ると、再び立ち上がる為に空を仰いだ。
 
 
□□□
 
 
それは正しく中世の物語に登場する幻獣の様な姿をしていた。
ドラゴン、バハムート、グリフォン、サラマンダ―、ワイバーン…
ソロモンは心の中で、考え得る限り幻獣の名を唱えたが、しかし『ハジ』はその何れにも当てはまらない。勿論、幻獣は誰もしかと目にした事が無いからこそ幻獣たり得るのだという事は承知している。
そして自分もまた『翼手』と言う『人』とは異なる種ではあるが、ソロモンが知る限り、ハジは翼手ともまた少し特徴を異にしている様に感じられた。
 
まず目を引くのは黒く大きな一対の翼。
それは一見蝙蝠の飛膜の様な形状をなしていたが、しかし明らかに異なるのは蝙蝠の親指にあたる関節に異様に大きく発達した鋭い角が生えている点だ。
黒光りする硬質な鱗に覆われた胴体は、蛇の様でもあり蜥蜴の様でもある。
しかし全身の骨格はがっしりとした獅子の様で、筋肉の発達した四肢と鋭い爪がしっかりとアスファルトを噛んでいた。
ゆうらりと揺れる長い尾、しなやかな首周りは黒く波打つ豊かな鬣が覆い、僅かに彼の『人』であった時の姿を彷彿とさせた。
顔は狼の様に面長で、尖った耳を持ち、胴体とは違いびっしりと短い体毛で覆われていた。
大きく避けた口元、切れ長の瞳。
その奥に赤く光る瞳は涙に濡れた様に潤んでいた。
今までに見た事もない幻獣の姿。
恐ろしく、そして美しくもあるその姿に、ソロモンは目を見張った。
白く立ち上る呼気。
大きな口が薄らと開き、鋭い牙が覗いている。
かつてソロモンの知るハジの姿とは違う…獰猛な獣の姿。
発達した筋肉に固い鎧の様な鱗。
緊張感を全身に漲らせ、全身を震わせる。
自らに害をなす輩を見定める様に、辺りに視線を巡らせ、身構える。
野生の動物がそうであるように、一分の隙もない。
やがて悲しげに天を仰ぎ、吠える。
一声。
始めは低く唸る様に、やがて咆哮は複雑な音色を奏で雨音に掻き消された。
辺りが静まり返る。残された薬害翼手達はもう全ての戦意を喪失したかの様に、尻尾を巻いて退散しようとしていた。
余りの出来事にソロモンもまた戦意を失い、ただ茫然と『彼』を見ていた。
不思議な沈黙が流れる。
ただ静かに雨だけが降り続く中に、立ち尽くす一頭の美しい獣。
しとどに濡れそぼる鬣。
黒い鱗は雨に濡れその光沢を増し…滴を弾いて、その姿はまるで美しい装飾の施された黒鋼の鎧を身に纏っているようにも見えた。
「……ハジ?」
恐れる様に、その名前を呼んでみる。
しかし当然ながら、その口から人の言葉が発せられる事は無い。
初めて今ソロモンと言う男の存在に気が付いた様に、胡乱な目付きで全身を舐めるように観察する。
どうやらソロモンに対して牙を剥くという素振りはない。こちらから攻撃を仕掛けられなければ、無闇に自ら襲い掛かる様な事は無い…という事だろうか…。
ソロモンは見上げる程もあるその美しい獣の前で、僅かばかり肩の力を抜いた。
どうすべきか…。
思いも寄らなかった事態に、流石に判断を迷う。
このまま、ハジは本来の姿に戻る事は無いのだろうか…。
自らの事を鑑みれば、例え完全に翼手形態を取ろうとも『ソロモン』としてのその意識までも手放す様な事は無い筈だった。
人の姿にも戻れる。
しかし、今彼は自らが何者であるのか…すら、覚えてはいない。
彼自身の『人』としての意識がどれ程残っているだろう…それとも完全に彼の意識は獣のそれに飲み込まれてしまったのだろうか。
変身を遂げるきっかけとなったのは、薬害翼手達との戦いであり、彼自身は自らがこの様に姿を変えられるのだという事も自覚してはいなかっただろう。
ハジの意識がどれ程残っているのか…。
その目付きからは計り知れなかったが、やや怒りを収めた様に感じられるその瞳にはどこか知性が感じられた。
試にソロモンはもう一度、話しかけてみた。
今や見上げる程の大きな姿に変貌したハジの前に立ち、凛と響く声を発する。
並の者ならば、思わず恐怖に腰を抜かしてしまう様な状況ではあったが、ソロモンの態度はどこまでも冷静でニュートラルなものだ。
彼を恐れる訳でも、攻撃を仕掛けようとするでもなく。
多分、今の彼に向かい敵意など抱こうものならば、一撃でその牙に切り裂かれてしまうだろう。それに何よりも自分の一番の使命は、この男を再び小夜の元に連れ帰る事なのだ。
「……ハジ。……僕の事が解りますか?」
しかし、流石の小夜もこの姿では腰を抜かしてしまうかも知れない。
この獣がハジなのだと、一体誰が信じられるだろう…。
出来れば、元の姿に戻って貰いたい。
「…ハジ」
『ハジ』は耳を澄ます様に、ソロモンに視線を置いてじっと留まっている。
まるでこの男は一体何が言いたいのかと、相変わらずソロモンの事を観察しているようですらあった。
「……ハジ、小夜が待っています」
どうか…元の姿に…。
そう言おうとした。
…………その瞬間。
鋭い銃声が空を裂いた。
弾かれた様にソロモンは背後を振り返る…そこには黒いスーツに身を包んだ男が立っていた。
赤い盾の構成員だ。
男の表情は恐怖に凍り付いていた。
冷静な判断力を失い再び銃を構えると再び発砲する。真っ直ぐに『ハジ』に向けられた銃口が鋭い音を立てて続けざまに火を噴いた。が、しかしそれはどれも美しい黒い鱗に弾かれ、ハジにダメージを与える事は無かった。対翼手用に開発された特殊な弾頭も彼の鎧には通用しないのか、まるで子供の豆鉄砲が跳ね返される様な格好だ。ダメージを受けてはいないものの…ハジは突然に自分に向けられた攻撃に、ぎろりと視線を巡らせて男の存在を認めると、先程収めたばかりの怒りの矛先を男に向けた。鼻筋に皺を立てて牙を剥く、先程まで涙に濡れた様に潤んでいた瞳がかっと血走った。
地の底から響くような唸り声。
瞬時に前足をかいて身構える。
はっとして、ソロモンは全身が総毛立つのを感じた。
「…っ!やめろっ!!ハジッ!!」
しかしソロモンが叫ぶより早く、ハジはその男に向かって飛び掛かっていた。
何十メートルもの距離を難無く一跳びで距離を詰め、躊躇いの欠片もなく力強い前脚が振り下ろされると、男の体は一撃でアスファルトの上で動かなくなっていた。雨に濡れた路上にじわりと赤い血が広がる。
見る間に広がってゆく血溜りにハジは注意深く鼻先を寄せ、長い舌先で数回舐めた。しかし、すぐに興味を失った様に顔を上げる。
後方に控えていた男の仲間が、口々に男の名前を叫びながらハジに向かい銃を構えた。
「やめろっ!!攻撃するな…」
今度は赤い盾の構成員に向かって、ソロモンが叫ぶ。
隊をまとめる指揮官足りうる人物はここには居ないのだろうか?
突然の予期せぬ出来事に彼らは統制を失っている様子だった。確かにハジがこの様な姿に変貌を遂げるとは誰も予想だにしなかった現実だ。しかし、彼らもまた翼手と言う特異な生物と渡り合ってきた組織のメンバーだというのに…。
それ程までに、組織が弱体化しているという事か…。
ディーヴァとアンシェルを倒し本懐を遂げながらも、いまだ減る事のない薬害翼手の被害に彼らは振り回され、組織は希望を失い…次第に統制力を失っているというのだろうか…。
ソロモンは咄嗟に右腕の手刀を構えると、彼らの間に割って入った。
「…ハジッ!お前もだ…。これ以上…小夜を悲しませる様な真似は止めろ!」
言葉が通じているのかも定かではないまま、ソロモンはハジにそう叫ぶと、彼を庇う様に背を向けた。
ハジに敵意を見せてはいけない。
ハジがそうであった様に、この美しい幻獣は決して自ら好んで攻撃を仕掛ける事は無いのだ…それはどこか確信にも似た思いだった。
しかし、発砲は止まなかった。
足元に無残に転がる男の遺骸を見て、彼らは一層ハジに対する恐怖と怒りを増大させたのか、前に立つソロモンごと標的にしたかの様に、銃口を向けるのだ。
「化け物っ!!」
何処からともなく、声が上がる。
と、同時に銃口が火を噴く。
数発放たれたそれは、再びハジの鱗に跳ね返された。
「やめろっ!」
深い絶望感と共にソロモンが再び声を上げた時、鈍い痛みがソロモンの腹部を襲った。銃弾の一つがソロモンの腹部に的中したのだ。
対翼手用に開発されたそれが、腹を穿つ。
翼手形態の時ならばまだしも、人の姿をしたままの柔らかい皮膚を裂いて鮮血が噴き出す。
傷自体はものの数分もあれば完全に塞がるだろう…。
けれど、ソロモンは強烈な痛みと共に…先程感じた絶望感が自分の中で大きく膨らんでゆくのを感じていた。
人の姿のままの左手で傷口を抑えると、吹き出した鮮血に左腕が染まる。
「やめろと言っているんだっ!!!」
喉の奥から、吠える様にソロモンは叫んでいた。
 
 
『化け物』
確かに彼らにしてみれば、自分もハジも一様に化け物なのだろう…。
 
所詮、人とはそういう生き物なのだ。
狡賢く、その癖脆弱で、自分達と異なる種に対する畏敬の念など少しも持ち合わせてはいない。口ではどれだけ平和を謳っていようが、その実他者との争いを止める事も出来ず、どれ程科学を進歩させたところでこの地上から未だに戦争は亡くなる事は無い。
 
それはソロモンが、遠い昔に感じていた絶望とよく似ていた。
 
こんな奴らに…。
こんな奴らに……。
 
小夜は…。
 
いや、翼手と言う種そのものは、弄ばれ利用されているだけなのだ。
 
背後で、ハジの息がより一層荒くなる。
と、前に立つソロモンを飛び越え、銃を構えた男達の真ん中に飛び込む。
脆弱な彼らが、所詮ハジに敵う筈は無いのだ。
どこか諦観にも似た思いがソロモンを過る。
人と翼手と。
果たして自分は、どちらの味方だと言うのだろう…。
今更こんな状況で考えるべき事ではないのかも知れないが、しかし一度ソロモンを蝕んだ絶望がその後彼を解放する事は無かった。
 
 
辺りは見る間に血の海に染まっていた。
 
雨音の向こうで、鋭い牙が骨を砕く音がやけに生々しい。
黒いスーツを身に纏った男達は、次々とハジの牙に掛かり絶命した。
ごろりと首がもげる者や、手足を食い千切られる者。
そのいずれもが即死の状態で、路上には多くの骸が散乱した。
ソロモンの心に生じた虚ろなもの。
 
助けなければ…。
確かにその思いは脳裏に浮かんだものの、しかし一瞬の迷いが行動を鈍らせる。
 
 
自分が何の為にここにこうして生きているのか…。
今、ここで何を為すべきなのか…。
 
 
「ハジッ!!駄目っ!!」
 
その時、背後で鋭い悲鳴の様な叫び声が上がった。
「…ッ!小夜…」
どうして此処に貴女が?
ソロモンは信じられない気持ちで振り返ると、仕えるべき少女の元に駆け寄った。全身雨に打たれ、がくがくと全身を震わせる小夜の体を、思わず抱き締める。
「小夜…。どうして貴女がこんな所に…?」
しかし、小夜はそれには答えなかった。自分を抱き締めるソロモンの胸に腕を付いて僅かに抵抗を示しながら、その瞳はじっとハジを見詰めていた。
「……どういう事?……ハジは、どうしてしまったの?」
「貴女は…あれがハジだと解るのですか?」
「解らない筈ない!……ハジは私のシュバリエよ」
目の前で、荒れ狂った様に人を屠る幻の獣。
人であった時の彼からは程遠い鮮血に塗れた獣の姿。
 
……あんな恐ろしい姿であっても、貴女には彼が解るのですか?
 
果たしてそんな絆が、自分とディーヴァの間に存在しただろうか?
小夜はこの様に弱った体で、それでもハジを思うあまりここまで辿り着いたのだ。
色恋を超えた…どこか嫉妬にも似た気持ちを抱いて、ソロモンは小夜を見詰めた。白い肌、黒い瞳、どこか妖艶な雰囲気を漂わせていたディーヴァと瓜二つの顔立ちだというのに、その表情はあどけない程純粋で…。
どれ程、焦がれたか…知れはしない。
欲しくて、欲しくて、手に入れたくて…母たるディーヴァを裏切り、兄弟を手に掛け、それでも尚手に入らない尊い女性。
 
そうだ。
例え…そうであっても、報われない想いではあっても…。
……自分の剣は彼女に捧げたものなのだ。
 
ソロモンは迷いを振り切る様に、大きく髪を揺らして首を振った。


20110711
なんとか更新です。ハジ…翼手化させてしまいましが、イメージ壊してすみません!!ごめんなさい!!
まだ、続いてしまいます…。
 
                      
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