結婚願望



ずしりと重い紙袋を手に提げて、ハジはぐっと堪えていた息を一気に吐き出した。
自宅マンションのエレベーターホールで降りてくるエレベーターを待ちながら、チラリとその紙袋の中身を覗き込む。
そこには色とりどりの包装紙で綺麗にラッピングされたチョコレートがぎっしりと詰まっていた。明らかに義理チョコと解る物もあれば、少し判断に困る高価そうなものまで。今日はバレンタインだったのだ。
いっその事バレンタインが休日ならば良かったと思うのは、何も貰うアテの無い者ばかりの事情ではなく…彼もまた別の意味でバレンタインは悩みの種なのだ。
暗に結婚を前提に付き合っている女性がいる…という事は暗黙の内に社内に広まっているだろうに…頂くチョコレートの数は一向に減る気配はなく…結局はこうして紙袋に詰めなければ持ち帰るのに不自由する程、男の手元にはチョコレートが集まってしまった。
つまり本当に結婚してしまうまでは、彼女達の間で自分はフリーだという認識なのだろうか…。いい加減こんな行事は社内禁止にでもして欲しいと思うくらいなのだけれど、流石に好意で『どうぞ』と渡されるものを、結構です…と突っぱねる勇気は彼にはなかった。
ムキになって恋人がいるので受け取れません…と言うのも、大人げないと言うものだ。
何よりその相手のほとんどが仕事上の関わりを持っている。
チョコレートを手渡される度に、当たり障りのない様に『ありがとうございます』と社交辞令的な笑みを浮かべる。
中には、普段ほとんど接触する機会のない女性社員にとっては、単に間近で口をきく…そして社交辞令とは言え…微笑んで貰える絶好の機会なのだと捉えている者も少なくはないのだけれど、それは男の知った事ではない。
全ては仕事を円滑に進める為に、これは必要な義理なのだ。
…と、男はそう思っている。
面倒でも何でもこれは社交辞令なのだから、ホワイトデーには誤解のない程度にお返しの品を用意しなければ……いっその事、ホワイトデーのお返しも誰かが纏めて経費で落としてくれないかと…
そんな事を考えている内に、目の前のドアが開いた。
エレベーターに乗り込むと、ハジはもう一度大きな溜息を吐いた。
…小夜がどう思うだろうか…
結局は…何よりも、それが大切なのだ。
そして、いつも淡々としている彼にしては、とても珍しい煩悶が心の中を渦巻いている。

…果たして、小夜は自分にチョコレートをくれるだろうか…

既に、一緒に暮らしているのだから…そして互いの気持ちも確かめ合っている筈なのだから、もしかしたら今年のバレンタインは省略されてしまうかも知れない。
しかし、それでは困るのだ。
外で頂くチョコレートには関心のかの字も持ち合わせてはいない癖に、恋人からは例え百円の板チョコでも良いから貰いたい…と言う何とも身勝手で、しかし至極当たり前な悩みを男は密かに抱えていた。
しかし、ハジは…今年こそはチョコレートを頂かなくては困る…と言う譲れない事情を抱えていた。

□□□

「お帰りなさい…」
どこか重い気持ちで玄関のドアを開けると、赤いお気に入りのエプロンを付けた小夜が奥からパタパタと軽い足音で掛けてくる。
それは共に暮らす様になって、随分と見慣れた光景だった。
学生生活とアルバイトを両立している小夜もまた平日の夕方は忙しい。けれど、やはり社会人とは違い残業もない彼女が先に帰宅している事の方が圧倒的に多く、小夜はいつもこうして嬉しそうに『お帰りなさい』と迎えてくれる。
シルバーのアタッシュケースと共に、ハジは仕方なく紙袋を玄関フロアに置いた。
小夜の視線がチラリと紙袋に注がれる。
一瞬彼女の視線が宙を泳ぐ。
けれど、ハジの予想に反して小夜がチョコレートの話題に触れる事は無かった。
「…お仕事、お疲れ様。…晩御飯の支度、もう少しかかりそうなの…。…良かったら先にお風呂入る?」
廊下の先を案内する様に歩きながら、小夜が振り返り幸せそうに笑う。
「………………。………何か手伝えることがあれば…」
「ううん、大丈夫。…もうほとんど準備は出来てるの…」
と、先程とは矛盾した事を言う。
だから…ね?
と、やんわりとハジの申し出を断り、既に準備してあったらしい着替えとバスタオルをどこからともなく取り出して、まだネクタイも解かないままの男に押し付ける様に手渡す。そうまで勧められては断り切れず、ハジは有難く小夜の申し出を受ける事にした。
洗面台の鏡の前で、ワイシャツのボタンを外しながらぼんやりとハジは思う。
彼の予想では、きっと紙袋いっぱいのチョコレートに目を丸くして、ほんの少し唇を尖らせて…きっと玄関先でバレンタインの話題になる筈だった。勿論これは全て義理なのだという事を、誤解のない様に懇切丁寧に小夜に話して聞かせなければ…と思っていたのだ。
しかし…これでは…まるで…。
今時、どれ程下手なドラマでもあり得ないような…新婚さんのワンシーンではないか…。
『あなた、ご飯にする?それともお風呂?』
使い古された台詞はフランス生まれのハジでも知っている。
そして大抵…帰宅した夫は、食事より風呂より、妻を求めるのだ。
余りにも…。
余りにもナニだけれど…。
しかしそんな愛らしい小夜を想像すると、それはそれで悪くないかもしれないと思う。
不意に、男は鏡に映る自分の表情がだらしなく緩んでいるような気がして、意識して顔を顰めた。

浴室内は程よく温まっていた。
今から帰る事を連絡しておいたので、小夜なりに時間を逆算して温めておいてくれたのだろう…その心遣いが素直に嬉しい。
肌の上を滑る湯の感触は心地良く、冷えた体と髪を丁寧に洗い、浴槽に浸かる。
真っ新な湯からは、仄かに小夜の気に入りの入浴剤の香りが漂う。
薄らと赤く色づいたお湯、確か薔薇の香りと言っていただろうか…。
ぴしゃん…と湯を跳ねる。
こういう時、いつもなら着替えを済ませて一緒にキッチンに立つ事を小夜は許してくれる…筈なのに…まるで今夜に限っては、キッチン近寄るべからず!と言う様な空気が漂っていて、それはそれで…小夜の気が済む様に従うまでだけれど…。

ハジは、洗い髪からぽとりと落ちる滴を煩そうに指先で払うと、頃合を見計らう様に立ち上がった。


□□□


キッチンの様子を伺いながら髪をドライヤーで乾かしてリビングに戻ると、小夜は緊張した面持ちで顔を上げた。
広いLDKのオープンキッチンで何やら作業をしていた彼女は突然現れた恋人に心底驚いた様子で、しかし気を取り直してにっこりと笑った。
カウンターの向こう側で手元は見えなかったけれど、何やら小夜が企んでいるというのなら、敢えて覗き込むような意地の悪い事は出来ず…ハジは勧められるままに自分の指定席に座った。
ダイニングの上はいつになく可愛らしく飾られている。
バレンタインを意識したのか、ブラウンのテーブルクロスに同系色のテーブルランナー。
ランチョンマットは小夜の好きな薔薇模様で、テーブルの真ん中には可愛らしい小さなブーケがグラスに活けてあった。
「あ…あのね。あの……、あの………たまにはこんなのも…良い…かな…?って」
日頃、お互いに忙しくしていて休みの日くらいしかゆっくり夕食を共にする事もままならない事を、暗に小夜は示唆しているのだろうか…。
だとすれば本当に申し訳ない…と思う。
それとも、やはりこれは…バレンタインの為の演出…という事なのだろうか…。
真意を測りかねる様に、曖昧に微笑むと小夜はほんの少し落ち着きを取り戻した様子で、カウンターの向こうから綺麗に盛り付けられたサラダを運んだ。
それから、具だくさんのスープと…。
大きな白い皿に盛られたカレーライス。
それは特に目新しいメニューではなかった。
いつも食べ慣れている…つまり小夜が日頃から作り慣れている…もっとも失敗の少ない料理の一つだ。
けれど、自分の前に並べられた料理にハジは目を見張った。
思わず、顔が火照る…柄にもなく口元が緩む。
盛り付けられたサラダのゆで卵や上にのったハム、スライスチーズ、そしてカレーライスの人参に至るまで、全てがこれでもかと言うほど、大小様々なハート形でくり抜かれていた。ゆで卵に至っては、どうやら型に入れてハート形に成形したらしく、黄身までがハート形の様に曲がっている。
「……あ、あのね。……折角今日はバレンタインでしょ…。だから…その…。でもごめんなさい…味は別に何て事ないいつものカレーだし、ドレッシングは市販の奴だし、…それに…肝心のチョコレート…失敗しちゃったの…」
心底恥ずかしそうに告白する小夜があまりにも愛しくて、ハジは思わず立ち上がると…まるで叱られた子供の様に立ち尽くしている小夜の体をぎゅっと腕の中に抱き締めた。
先程までの、心配が嘘の様に晴れてゆく。
「小夜…。ありがとうございます。…色々と準備するのは大変だったでしょう?」
「そんな事、無いよ。だって…ただのカレーだもん…。……ごめんね、本当はデザートのチョコケーキもあるんだけど、…焦がしちゃった…」
「…そんな事。…小夜が私の為に作ってくれたのでしょう?」
「最初から売ってるチョコレートにすれば良かったのかもしれないけど…。だってハジは会社の女の人からいっぱいチョコレート貰ってくるって解ってたし…。どうしても…人と違うものが贈りたかったし…。でも…一緒に住んでるのに…ケーキを焼く練習なんて出来なかったんだもん」
「………すみません、貴女を悩ませてしまいましたね。…タイミングよく出張なら良かった…」
「駄目!…それは嫌!!」
腕の中で即座に否定の声が上がり、ハジはじっと腕の中の少女を見詰め返した。
「焦げていても何でも、嬉しいのです」
彼にしては珍しく、思いつめた様子でそう呟いて唇が下りてくる。
小夜はそっと触れるキスに目を閉じた。
「ねえ…でも。そんな…」
ただのバレンタインだよ…。
あっけらかんと訴える小夜に、ハジはそれでも嬉しいものは嬉しいのです…と微笑んだ。
何気なくを装って、ハジは小夜の左手を取る。
そこには以前プレゼントした可愛らしいスワロフスキーの指輪。
それは華奢な小夜の指にとてもよく似合っているけれど…。
そろそろ、きちんとした石のはまった大人の指輪が似合うのではないでしょうか?とは、まだ口が裂けても言える筈もなかった。
小夜の反応を考えると…待ち遠しい様な、けれどどこか不安な様な…。
ホワイトデーは、一か月も先の話なのだ。

                   《ちゃんちゃん!》


20110527
2011年2月15日のブログより移動しました。バレンタインのお話です。
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