仔うさぎのお留守番7

気付くと、レースのカーテン越しに届く屋外の光はオレンジ色の哀愁を帯びて床に長い影を落としていた。部屋は薄ぼんやりとオレンジ色に染まり夕方の気配を漂わせている。
 
どうやら激しく抱き合ったまま二人ともうっかり眠り込んでしまっていたらしく、傍らに小さく体を丸める様にして小夜が心地良さそうな寝息を立てている。
羽根布団の中でぴたりと添わせた素肌が、互いの体温を共有してとても暖かく…このままずっと寄り添って眠って居たいと思う程に居心地が良かった。
漸く心身ともに満たされて…何気なく視線を巡らせると脱ぎ散らかしたシャツやスカートが無造作に床に散らばっている。
余裕がなかった。
互いを確かめるのに必死で…その余裕の無さが可笑しい程に…今は満たされた気分だった。出張はたった一週間だったというのに、離れている時間はその何倍にも感じられた…毎晩の様に電話したのは、小夜を信用していないからでも、彼女の留守番を頼りなく感じている訳でもなく…単に自分が彼女の声を聴きたかっただけなのだ。
勿論、小夜も承知している通り…ハジにとって『恋人』と位置付けられる様な存在は彼女が初めてではなかったけれど、こんな風に声が聞けない事を寂しいと感じて煩い程に電話を掛けたり、小夜の態度一つで我を無くしたりするのは初めてだった。
小夜と付き合い始めてから、ハジにとってはとにかく初めて経験する事ばかり続いて戸惑う事この上ない。
小夜がどうすれば笑ってくれるのか…どうすれば喜んでくれるのか…気が付けばそんな事ばかり考えている。しかしこれまでに付き合った事のある女性達とは、小夜はあまりにも掛け離れていて、時々どうすれば良いのか解らなくなる事もある。
正しく、手も足も出ないとはこの事だ。
ただ解った事もある。
過去の女性達との関係が長続きしなかったのは、彼女達に何らかの不満があったと言う訳ではない。それでも交際は長続きせず…別れる原因はいつも曖昧で、当時はそれがどうしてなのか…気付いてもいなかったし考えもしなかった。
しかし小夜に出会った今ならばぼんやりとそれが解る。
彼女達の何が悪かった訳でもなく、ただ彼女達は小夜ではなかったという事なのだ。
恋をすると、人は変わる。
変わる…と聞く。
決定的な違いはつまり、自分が恋していなかったからだと…柄にもなくハジは実感し、すやすやと眠る小夜を起こしてしまわないようにそっと、その柔らかな髪に頬を寄せた。
自分に、こんなにも人間らしい感情が存在していたという事実を、小夜が教えてくれた。
いや、小夜と出会った事で自分の中にもそんな感情が新たに湧き上がってきたのだ。
小夜が、変えてくれたのだ。
十も年齢の離れた少女に、教えられる事ばかりで…。許されるならば、一生彼女の傍で彼女の笑顔を守って生きていきたい。
この命が尽きるまで…。
心の底からそう思う。
だからこそ、余計に彼女がソロモンに対して何を質問しようとしたのかが、酷く気になった。まるで根拠のない、嫉妬のような醜いそれ……。
けれど、こうして小夜の眠りを見守っているともうそんな事すら…もうどうでも良くなってしまいそうだ。二人の間でどんな会話が交わされたのかは定かでないにしろ、今この時、こうして小夜と体温を共有し、その安らかな眠りを見守っているのは自分なのだから。
 
…………と、その時、胸に縋り付いた小夜が僅かに伸びをして、彼女が目覚めた事が解った。
 
ハジは指先で優しく髪を撫でて自己主張すると、小さな声で小夜に告げた。
「……おはようございます。すっかり眠ってしまいましたね…」
「………………、おはよう?………ハジ」
どこかまだ寝ぼけた表情で小夜が答えた。どうして自分達がここでこうして眠って居るのか、解らない…と言った様子でハジを仰ぐ。
「ハジ…いつ?……もう、…朝?」
細い腕がしなやかに伸ばされてハジの体に巻き付いた。相変わらずその瞳は半ば夢見る様に蕩けている。ゆっくりと小夜が肘を付いて僅かに体を起こす、何も身に着けていない無防備なバストが間近でぷるんと揺れた。
「……まだ夕方ですよ。……寝惚けているのですか?」
「…………………?」
そろそろお腹が空腹を訴え始めるのではないかと、ハジは優しく微笑んだ。
徐々に小夜の瞳に生気が宿る。
そしてやっと状況を飲み込んだのか…
「…………………ゃ……だ…っ!!」
今更、恥じらう様に胸を隠すと、顔から火を噴く様に頬を染めてシーツに沈む…そんな彼女の様子すらハジには微笑ましい。
「……そろそろお腹が空きませんか?」
冷蔵庫の中身にもよるけれど、このまま支度して外へ食事に出掛けても良い。
まずは揃ってシャワーを浴びる必要があるかも知れなかったけれど…。
ハジの質問に、小夜は意外にも首を振って…男の胸にギュッとしがみ付いた。
「もう少し…こうしてても良い?」
裸の胸に甘える様にぺたんと頬を付ける。
「………小夜?」
「………………ハジ、ごめんね…」
「貴女は…。………また、ごめん…ですか?」
優しく髪を梳く指先に顔を上げた…その唇がきゅっと尖っていた。
「………私、……………私、ハジの事が知りたかったの…それで、ソロモンさんに…」
「……私の事を、ソロモンに?………直接私にではなく?」
「……………ぅん。…だって出張中だったから…ハジには聞けないでしょう?」
それはソロモンも気の毒に…。
しかしその思いをハジは口に出さなかった。
「………私の帰りが待てない程……小夜は一体私の何が知りたかったのですか?」
こんなにも傍に居ながら…。
同じ部屋に住み、同じものを食し、同じベッドで眠り、小夜に対して隠し事など何一つないつもりだというのに…。
これ以上、自分の何を知りたいというのだろう…この少女は…。
男にはまるで想像もつかなかった。
「………ハジは、どうして今の会社に…就職したの?……本当は、もっと違う事をしたかったんじゃないの?」
「………そんな事ですか?」
もっと重大な何かだろうかと、無意識に身構えていたハジはその答えに拍子抜けする。
「大事な事だよ…少なくとも私にとっては!」
やけにきっちりした口調で、小夜はそう答えた。
「……それでソロモンは?」
「…知らないって」
「………そうでしょうね」
ソロモンにそんな話をした覚えはなかった。
小夜はまたどうしてそんな事を気にするのか…。彼女自身の就職の事と何か関係があるのかも知れなかったけれど、ハジには見当すらつかなかった。
ただ単に参考にしたいという事なのだろうか…。
「…でも、ねえ。…ハジ、本当は音楽の道に進みたかったんじゃないの?」
「……………それはまた…どうして?」
どうして小夜の口から、音楽と言う言葉が出るのか…腑に落ちなかった。
小夜はほんの少し躊躇いを覗かせたけれど、ハジの追及するような視線にたまらずそう思った理由を口にした。
「だって、ハジ…。昔…チェロ…やっていたんでしょう?……コンクールで優勝した事もあるって……」
ソロモンさんが…と言う一言を、流石に小夜は飲み込んだ様子だった。
「……あぁ、それで?」
「…チェロ………どうして、やめてしまったの?…好きで、やっていたんでしょう?」
そう素直に問われると…どこも疾しくはない筈なのに、ハジの胸は僅かに痛むような錯覚を覚え、彼自身戸惑わずにはいられない。やめた…と言う意識は無かったけれど、現状からすればやめたのも同然である事は否定出来なかった。
「………………」
「ハジ…?」
「………何から話せば良いのでしょうね…。少し……、長くなりそうですから…まずは食事にしましょう…」
誤魔化す訳ではない。
本当に、何から説明すれば良いのか…ハジには解らなかった。
いや…そもそもチェロを始めた事も、そしてチェロに触らなくなった事も、言葉にすればそれほど複雑な話ではなかった。けれど、小夜に説明を求められ、言葉に詰まって初めて…自分の中にチェロに対する深い思いが存在する事に気が付いたのだった。
 
 
 
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ベッドを出ると共にシャワーを浴びて…結局夕食はデリバリーのピザを取って済ませた。
洗い物も、飲み物のカップと取り皿だけであっさりと後片付けは終了した。
濡れた手をしっかりとタオルで拭いて、ハジは静かに小夜を手招いたのだった。
 
普段、納戸の様に荷物を仕舞っている一番小さな洋間は、玄関を入ってすぐ脇にある。
小夜も何度か入った事はあるけれど、細かく何が置いてあるのかチェックした事は無い。
改めて案内されてその部屋に入ると、締め切ったままのカーテンがどこか寒々しかった。
きちんと整理されて置かれたファイルや、アルバム、古びたテキスト類、そしてクローゼットにはカバーが掛かったままの衣類が何着も吊るされている。
そして小夜が気付かなかった棚の陰に、それはひっそりと置かれていた。
古い楽器ケース。
銀色の金具、黒い革張りの表面にはその歴史を物語る様な傷がいくつも見受けられた。
薄らと埃を被るそれを、ハジは丁寧にフローリングの中央に移動させると不思議そうに見入る少女の横顔にふっと笑みを零した。
片膝を付いて、そっとその金具の留め金を外す。
小夜もまたその傍らにぺたんと座り込んだ。
初めて間近で見るチェロと言う楽器。
美しく深い亜麻色、木目の模様。
「………これは、祖父の形見で…。祖母が亡くなるまで大切にしていたものです」
「…………お祖父さんの?」
「……私は、顔も知りませんが…」
小夜はじっとその美しい楽器に目を奪われたまま、小さく首を振った。
優しい性格の彼女らしい。
どうやら顔を知っていようが知っていまいが、そんな事は関係ない…と言いたいらしい。
「…………これ」
「二人の形見として、私が貰い受けたのですが。………高校に入って、たまたま担任が音楽教師で…」
「……うん」
「折角だから、やってみたら良い…と勧められまして」
「それで…?」
「ええ…。それだけです…」
恋人の、あっさりとした受け答えに…それでも小夜は納得のいかない表情を覗かせ…本当に?とハジの顔を覗き込んだ。どうしてこの少女はこう、勘が良いのだろう…。
「…本当にそれだけの理由で、コンクールで優勝出来るほど…上手になれるの?チェロって…そんな簡単なものじゃないんでしょう?」
ハジは、観念したように小さな吐息を零した。
本当に、この少女は鋭いところを付いてくる。
「小夜…。本当に、理由はそれだけです…。……ただ、そうしてチェロに触れる事は、家族と言うものを知らない私にとって…どこか特別だったのかも知れません。…チェロを弾く事で会った覚えのない祖父が、自分のずっと傍に居てくれる様な気がしました。……自分の知らない自分のルーツの様なものを、手探りで探す様に…私はチェロにのめり込んで…その姿は…見知らぬ相手には病的なものだったかもしれません」
演奏家だったという祖父の血を引いたのか、それまでハジの知り得なかった音楽と言う世界はいつしか彼を虜にしていた。
「……ねえ、それなのに…どうして、やめちゃったの?」
恐れを知らない無邪気さを覗かせて、小夜が問う。
「…………………」
一瞬言葉を失い、そしてまるで自分を納得させるかのように…『好きだと言うだけで続けられる様な甘い世界ではないのですよ』と、ハジはやんわりと少女に微笑んだ。
「大学に進学してすぐ、些細な事で怪我をしたのです。……怪我自体は別に…二度とチェロが弾けなくなるという様なものではありませんでしたが、しかし私は…早く自立したかった」
「……………………」
「演奏家と言う道は決して平坦ではありません。…それだけで食べていけるかも、怪しいものです…。その時は大した怪我ではなくても…その程度の事で先も危ぶまれる様な職に就く事は私には出来ませんでした」
「どうして…」
小夜が大きな瞳を見開いて覗き込んでくる。
「祖母の遺産があれば、働かなくても食べていく事くらいは出来たかもしれません。チェロも続けられる…、けれど…私は独りでも生きていける事を証明したかったのです」
「…………。………独りで?」
「……祖母の遺産に頼らなくても生きていけるだけの、安定した収入を得られる職に就こうと思いまして………」
「………………………」
「当時はまだ…未成年でしたし。……突然に大きな遺産を相続すれば、それなりに煩わしい事もあるのですよ…私も少し意固地になっていたのかも知れませんが……」
「…………意固地?」
小夜は思わずおうむ返しの様に問い返した。大学に入ったばかりなら、まだ小夜とほぼ同世代の彼…意固地になる…と言う言葉の意味が解らなかった。
「……祖母の遺産を相続したから…そんな風に遊んで暮らせるのだと言われたくなくて。…早く、自立したかったのです。一人でも生きていける事を証明したかったとでもいうのか……」
淡々と語る男の横顔はどこか当時を懐かしむ様な表情で…。
「勿論、今はそんな事微塵も思ってはいませんが。……つまり、子供だったのです…」
「…………そんな」
そう言って微笑むどこか寂しげな男の様子に、小夜は何と答えて良いのか解らなくなってしまう。
彼が、一体どんな学生生活を送っていたのか…。
想像もつかない。
一人で生きていける…なんて…。
人は誰も、誰でも一人では生きていけない。
小夜はそう思っている。それは両親を無くして尚、自分の子供と分け隔てなく大切に…可愛がって育ててくれた父や、一緒に育った兄と弟、友人達。暖かな人間関係に囲まれて育った小夜には当たり前の事だ。
例え、生活に困らないだけの収入が得られたって…。
ハジの心は、ずっと……ずっと孤独だったの?
 
……ハジは…独りじゃないよ。少なくとも…今は…私がいるじゃない…
 
小夜はそう伝えたかったけれど…。
思わず零れ落ちそうになる涙に、うまく言葉にする事が出来なかった。
「……………小夜?」
訝しむ男に…そう尋ねる代わり、ほんの少し…甘えてみる。
何故だか、ハジがそうして欲しがっている様に感じられたのだ。
「……ううん、何でもないの。………ねぇ、ハジ…。私…ハジの弾くチェロ…聴きたい」
そしてそれはまた、小夜の本心でもあった。
コンクールで優勝する程の腕前を…、彼の…本来家族がいるべき心の隙間を埋めてくれたそのチェロの音を聴いてみたかったのだ。
駄目…?と、上目遣いに覗き込むと、しかしハジは申し訳なさそうに眉をひそめた。
「すみません…。随分長い間放っておいたので…一度メンテナンスに出さないと…とても弾ける状態ではありませんね…。それから、私の指も…暫く触っていませんから…とても小夜に聴かせられるような…」
音は出せないでしょう…と、肩を竦める。
小夜は、そっと…そっと伸ばした指を男の胸に置くと、その広い胸にしがみ付いた。
「…いつか…。いつかきっと…聴かせて…。…ハジのチェロ…聴きたいの」
「………ええ、…いつか」
またこの美しい楽器に触れられる時がきたら…
「約束……して…?」
小夜の差し出した小指に、男は黙ってそっと小指を絡めたのだった。
 
                         《了》

20110423

やっとお留守番を終わらせる事が出来ました〜。

小夜たんは相変わらずお悩み継続中ですっきりしませんが、それはまたおいおいと触れる機会があるので…。

これを書きながら、他についバレンタイン関係のSSを書きまして、そちらで勢い余ってプロポーズしてしまったハジですが、本当はこのお話を書いてからプロポーズさせたいと思っていたので、話が前後してしまって…。

ただもう、ハジの中ではすごく結婚願望みたいなものが強いと言いますか、抑えきれなかった…です。彼の中にもまた結婚に対する迷いみたいなものがあって、仔うさぎに関してはまだまだ書きたい事がたくさんあります。私の頭の中で、ずっとつながって出来ている二人のお話を、どの部分を切り取ってどういう順番で書くのか…と言うだけの話なんですが。

ではまた、次のお話で〜。

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