散り逝く花の薫りにも似て4

寝ても覚めても、ハジの事を思わない時は無かった。
瞼を閉じれば、そこにはいつも彼の姿がある。
思慮深く穏やかな青い瞳、緩くうねる美しい黒髪、彼はとても強くて優しくて、いつも小夜の代わりに傷付いてばかりいた。自分を庇う様にして前に立つその広い背中を、無意識の内にどれ程頼りにしてしまっていた事だろう…。
彼が自分に与えてくれたものの大きさを、自分にとってハジこそが正しく掛け替えのない存在なのだという事を、彼を失い初めて小夜は実感する。
まるで片翼をもぎ取られた様な喪失感が小夜を襲っていた。
 
彼を連れ戻さないで…。
確かにソロモンにはそう言った。
けれど、まだ心の何処かで小夜は揺れている。
 
本当はハジに傍に居て欲しい癖に…連れ戻して欲しくないのは、怖いからだ。
本当はハジに遭うのが怖い。
怖くて仕方がない。
怪我が癒え、再会した時の……あの優しかったハジが、まるで知らない誰かを見る様に自分を見詰めた瞬間の絶望にも似た感覚が小夜の中にありありと蘇り、足が竦む。
あの晩、オペラハウスで…『愛しています』…と、あんなに優しく微笑んでくれた瞳から自分に対する感情が消え…まるで天上から奈落へ突き落された様に感じられた。
怖いと感じる気持ちが強ければ強い程、それはつまり自分のハジに対する思いが深いせいだ。
 
小夜はずっと…男の事を愛していた。
素直に認められなくとも……それはもうずっと、気が遠くなるほど昔から…。
どんなに誤魔化し続けても…一旦気付いて認めてしまえば、それはもう『愛している』と言う言葉以外に表現する事の叶わない強い気持ちだった。
 
愛しているの。
愛しているの。
私…あなたの事、愛しているの。
……ハジ。
 
喉が裂けて血が滲みそうな程にそう叫んでも、その声はもう彼には届かない。
自分の声がハジに届く事はもう二度とないのだ。
記憶を無くす事で、ハジは漸く柵から解き放たれる事が叶った。
不思議なもので、昔はあれほど彼を解放してあげたいと願っていたというのに、いざそれが現実の事となると小夜は身が裂かれる様な苦しみを感じていた。
しかしこれこそは、全て自分が受け止めるべき苦しみなのだ。
 
身を挺して自分を守っていてくれたハジ。
そんな彼に…自分は与えられるばかりで…何一つも彼に返せてはいなかった。
それどころか、『人類』であった彼…、本来人としての幸せが持てた筈の彼を、『人ではないもの』にしてしまった。
故意ではなかったとはいえ自分の浅はかな行動が彼を翼手にしてしまったのだ。
その上、咎を負うのは自分一人の筈なのに、結果的には彼を一番辛い立場に立たせてしまった。強い自責の念は固く小夜を縛り付け…長い間…とても素直に自分の感情を認める事など出来なかったけれど、あの晩…あのオペラハウスでの最後の晩に、男の告げた愛の言葉は凍て付いた小夜の心を温かく溶かしてくれた。凍土の下に固く閉ざされた小夜の感情の結び目を、まるで魔女の呪いを解く様に優しく…彼は…それは見事に解いてくれたのだ。
果たして自分に、ハジに愛される資格があるのかなど解らない。
けれど。
生きたい…。
心の底からそう思った。
初めてハジの口から『生きて』と言われて、考えるより早く『生きたい』と言葉が零れた。
強い理性で押さえ付けられていた死に対する恐怖が、胸の奥からじわじわと込み上げてきた。
妹を倒して自分もまた死ぬ事ばかり考えていた小夜が、そうしてやっと…初めて素直に心の底に遭った思いを口にする事が出来たのだ。
生きたい…。
もしそれが、赦されるならば…。
生きる事こそが償うと言う事だと言って貰えるならば…。
ハジと共に生きたいと、心の底からそう願った。
もしかしたら、生きて償う事を赦されるのかも知れない…あの瞬間はそう思ったけれど…。
 
 
やはりこれは、愚かな自分への罰なのだ。
……………小夜は諦めにも似た気持ちでそう思った。
 
 
シュバリエは始祖の存在なくしては生きていかれないとソロモンは言うけれど、始祖とは違い彼らの適応能力は遥かに高く…実際アンシェルやソロモンは人間社会においても自分の社会的地位と言うものを築き、難無く人の社会に溶け込んで生きてきた。
元々シュバリエと言うものは、そうして人に擬態して人類に寄り添う様に生きてゆく事が可能なのだ。ハジも、最初こそ戸惑うだろうけれど、きっとありのままに自分を受け入れて上手く人の中に紛れて生きていける事だろう。
 
 
 
 
窓を開け放つと、外は漆黒の闇だった。
雨が降っている。
吐く息が白くなる程冷たい空気が一気に肌を刺した。
けれど戸惑っている余裕はない。
それが始祖とシュバリエと言うものなのか、離れていても不思議と彼の居場所は解る。
ここから、そう遠くはない。
自分がどれくらいの時間眠ってしまったのか…時計を確かめると数時間が経過していたけれど、もしかしたら日付を超えて数日が経っているのかもしれなかった。
何れにしろソロモンの能力ならば小夜が瞬きする間にもハジの元に移動出来てしまう…ハジを連れ戻すと言った彼の言葉が本当なら…もう彼らが接触している事は間違いなかった。
急がなくてはならない。
小夜は刀を手にしたまま、窓枠に足を掛けた。
三階にある自室の窓から地上を望んで、小夜は微かに足が震えるのを感じていた。
たった、十メートル程の高さだというのに…。
ふらつく体を腕で支えて何とか乗り越える。外壁は手摺すらなく、右手に刀を携えた格好では、長くそこに止まる事は難しい。地上まで……この程度の高さ…以前の自分ならものともしなかったけれど、今の自分には無事に着地する事すら難しいかも知れない…。
小夜はきつく唇を噛み締めて、覚悟を決めた様に窓枠を蹴った。
途端に激しい雨粒が小夜の体を打ち付ける。
この激しい雨の中、ハジも濡れているのだ…。
 
ハジ…。
 
いつも、こんな時…彼は決して小夜に無理をさせる様な事はしなかった。
雨から庇いさりげなく抱き上げてくれる腕も、寄り添う胸もなく、小夜は空中で無様にバランスを失うと、次の瞬間強くアスファルトの地面に叩き付けられていた。
「…………っ!!」
大きな雨粒が激しく全身を打つ…休眠前の体力の落ちた体でその痛みと冷たさに耐えながら、小夜は用心深く辺りを見回した。
幸い、まだ誰も小夜が部屋を抜け出した事に気付いている様子はない。
今の自分には、この程度の高さから飛び降りる事すら出来ないのだ…小夜は自分の無力さを実感した。
本来同じ能力を有する筈の双子の妹と比べても、明らかに小夜の戦闘能力は低い。
それは偏に小夜が人間として育てられた為に、彼女の始祖としての能力が完全に目覚めていないせいなのだと考えられていた。
この先も…もしかしたら目覚める可能性は1パーセントにも満たないのかも知れなかったけれど、それでも小夜は生きている限り戦い続けなければならなかった。
本当は辛くて、苦しくて、現実から逃げ出したくて仕方がなかった。しかし戦い続ける事だけが、唯一自分に出来る償いだと信じていたから…とても弱音など吐けなかった。
そんな小夜が今まで戦えたのは、間違いなくハジが傍らに居てくれたお蔭だったのだ。
傍にハジが居てくれる事は小夜にとっていつしか空気の様に当たり前になっていたけれど、こうして唐突に彼から差し延べられていた手を一方的に解かれると、自分がどれ程無力であったかという事を思い知らされるのだ。
 
見る間に濡れてゆく全身、濡れた前髪の下から闇を覗く。
雨に足元が滑りよろめき掛けた時…一瞬、親切にしてくれた仲間の顔が浮かんだ。
これは彼らに対する裏切りになるのだろうか…そんな思いが脳裏を掠めたけれど、しかし行かない訳にはいかなかった。
ソロモンとハジ…。
今の彼らは毛を逆立てた野良猫の様なものだ。対峙して何も起きない筈がない。
二人が争う必要などもう一つもないのに、均衡した力がぶつかれば双方とも無事ではありえない。
怖い……。
けれど………。
もう誰も傷付くのは嫌…。
ソロモンも…。
…………勿論…ハジも…。
自分の所為で…。
あの二人を放っておく事は小夜には出来なかった。
自分が行ったところで、何も出来る事などないのかも知れない。
自分はまた、あの青い瞳に認識される事すらなく、突き放されるのだろうか…。
いつまでも途切れる事のない煩悶を振り切る様に、小夜は立ち上がった。
打ち付けた体が悲鳴を上げた。
けれど…小夜は強い想いに突き動かされる様にして、ふらつく足を一歩、前へ踏み出した。
 
 
 
□□□
 
 
 
まるで獣だ…。
 
自分達を取り囲む薬害翼手に向かい…隣で牙を剥く男の横顔は、以前何度も刃を交えた彼とはまるで別人の様な印象を受け、ソロモンは背筋を冷たいものが走るのを感じていた。
 
同じシュバリエでありながら、しかし二人は別の始祖を母とする。
自分とはどこか異質の何かを感じ取って、ソロモンはちらりと隣の男を伺い見た。
その違和感が、分け与えられた血の違いによるものなのか…またそれとは全く原因を別にする何かであるのか、判断する材料をソロモンは持たなかった。
始祖小夜のシュバリエはハジだけであり…判断する基準が解らないのだ。
長兄アンシェルは研究者だった。
自分達…ことシュバリエに関する研究にそれは熱心だった。しかしそれは全てディーヴァから生まれた兄弟達であり、始祖小夜とそれに連なるシュバリエ…ハジの事は正確には何も研究がなされていないも同然なのだ。
リクと言う少年が小夜の血分けを受けたけれど、彼はそのシュバリエとしての素質を開花させる事無く、ディーヴァの手に掛かった。
まるで子を為す為の贄の様に、短い一生を終わらせたのだ。
小夜に寄せる自らの恋慕もまた、その様な破滅的なものなのかも知れなかったが、しかしソロモンは自分の中に芽生えた小夜への強い思慕を誤魔化す事など出来なかった。
例え、この恋の先に待っているのが自らの死であろうとも…。
始祖の為に生き、子を為す事で役割を終え…そして死ぬ。
本来シュバリエとはそう言った存在なのかも知れない。
しかし、目の前の男を見ていると、果たして彼は自分と同じ種類の生物であるのだろうか…と言う疑問さえ脳裏に浮かんだ。
その戦う様は今までに見た事が無い程、凄まじいものだった。
全身から迸る隠しもしない明らかな殺気。
雨に打たれた髪が揺れる。
全身を総毛立たせ、普段は青いその瞳が血走る。
薄く開いた唇から覗く鋭い犬歯。
いつも表情を殺した冷静な男の、悪鬼の様な形相。
本来彼の本質と言ったのがそうであったと言うのか…それとも小夜の記憶を失う事で今まで彼の中に存在した重く硬い理性の箍が外れ、彼の静かな表情の下に押し隠されていたもう一つの表情が顔を覗かせているのだろうか…。
生命の危機に晒される事で、箍の外れた男の闘争本能に火が着いたという事か…。
喉の奥から震える様に響く叫びは既に人のものとは思えず、まるで野生の獣が吠えている様な錯覚を覚える。
…還る場所を失い……まるで泣いている様だ。
そんな場違いな感想をソロモンは振り払った。
 
夜の闇を激しく震わせる男の咆哮に、薬害翼手達の群れは一様に恐れを抱く様子で、先程までの勢いが嘘の様にじわりとその輪は後退していた。
恐怖に耐えかねた様に、その内の一体が狂乱した様でハジに飛び掛かる。
しかし彼の異形の腕は容赦なく異形の体を切り刻み、再生は追い付く筈もなく見る間に原型を失い崩れ落ちていった。
空しく悲痛な悲鳴を残して…。
ソロモンもまた鋭い手刀で襲い掛かる下等な生物を切り裂いた。
赤い返り血が辺りを染める。
立ち込める生臭い匂いは、人のそれともシュバリエのそれとも違っていた。
所詮、人工的に作れた存在がオリジナルに敵う筈もない。そして、もしかしたら隣で荒れ狂う男はその中でも最たる存在なのかも知れない…。
誰も、このハジと言う男の本来の能力を目の当たりにした者はいないのだ。
再び、ソロモンの背中をぞくりと冷たいものが走った。
 
薬害翼手の数は瞬く間に激減し、戦いは徐々に収まりつつあるように感じられた。
自分達を囲むその更に向こう側に、遠巻きに人間の気配も感じられる。
幾ら人気のない裏通りだとは言え、こんな有様で…一般市民に被害が及ぶ事を恐れていた男は神経を研ぎ澄ませた。
どうやら集まっているのは一般人ではなく赤い盾の連中の様だった。
被害を最小限に収めるべく、速やかな対応でこの一帯を包囲したらしい。
その辺りの手際は流石に大したものだが、彼らこそが記憶を失ったハジを扱い切れず野放しにした張本人なのだ。
ソロモンの脳裏に、まだ若き組織の長の顔が浮かんだ。
初代ジョエルの直系。
穏やかな風貌のあの男の真意は果たしてどこにあるというのだろう…。
最初から、翼手とは人類が触れてはならない存在なのだ。彼らの手におえる筈もない…。
しかし彼らの愚行無くしては、今こうしてシュバリエである自分と言う存在もまた否定される…皮肉なものだと、ソロモンは口の端を歪ませた。
何れにしろ、こんな場所に人間の存在は足手纏いでしかない。
彼らに一番の責任があるとはいえ、人に被害が及べばまた小夜が悲しむ。
もう暫くの間、大人しくしていて欲しいものだと、ソロモンは祈るような気持ちで隣の男を振り返った。
 
と、ソロモンは目を見張った。
ソロモンの目の前で、異様な光景が始まろうとしていた。
 
以前、ハジの背中に翼が在る事は確認していた。
それは蝙蝠の形状によく似た黒い硬質の皮膚に覆われていた。翼手と名付けられた根拠でもあるその特徴、しかし同じ飛行形態を取るソロモンとは似ている様で全くその骨格は異なる…その翼は独立したものだった。
ソロモンの翼は長い両腕の下から体側に沿う様に発達しており、翼と言うよりはむしろ腕と一体化した飛膜と呼ばれるもので…それは正しく蝙蝠のそれと酷似している。
短い時間でそれをしかと観察した訳ではなかったが、ハジの翼は明らかにソロモンのそれとは違い…形こそ蝙蝠のそれと似ているものの、男の背面…肩甲骨の辺りから力強く生え…まるで中世の人間が思い描いた悪魔の翼の様な形状をしていた様に記憶している。
そもそも擬態と言う能力を備えたシュバリエの事、改めて驚くようなことではないと気にも留めなかったが、しかし今目の前で起きている事態にソロモンは驚愕せずにはいられなかった。
 
目の前で、良く見知った男の姿が徐々に変貌してゆく。
一度として、人の姿を放棄した事のない男が…。
唇からは絶えず苦しげな息が漏れ、やがてがくりと背を折って地面に崩れ落ち…その丸まった背中からメキメキと音を立てる様な勢いで黒い翼が生え始めた。
それは以前ソロモンが目にしたそれより数倍も大きい。
男の白い皮膚が翼と同質の黒い鱗で覆われてゆく。
苦痛を伴うのか…唇から零れる息はいつしか迸る悲鳴に変わっていた。全身の骨格が歪む…人の形を成していた彼の体が変わってゆくのを、ソロモンはただどうする事も出来ずに見ていた。
人でもない…。
そして、自分ともまた異なる。
小夜の…ファーストシュバリエ…。
 
ソロモンはその姿にごくりと喉を鳴らした。
 
                          《続》

20110302 
取り敢えず、更新。もういい加減、ほのぼのラブい奴が書きたくなってきますね…。

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