散り逝く花の薫りにも似て3

 
それは、とても…美しい男だった。
着の身着のままの薄汚れたみすぼらしいなりをしていても、その美しさが損なわれるような事は無かった。
全身雨に濡れ、まるで行き倒れの様に薄暗い路地に蹲っていた。
焦点の定まらない視線を空に向けて、じっと身動ぎすらしない様は作り物のようだけれど、僅かに呼吸の気配が感じられ…ゆっくりとその胸は上下していた。
「何してんのさ…」
女は蓮っ葉な声を掛けてみる。
返事はない…。
よくよく見るとその瞳は青く、もしかしたら言葉が通じないのかも知れない…と、タイトなスカートの裾が濡れないように気を払いながら傘を傾けるとその男の前にしゃがみ込み、白い顔を覗き込んだ。
流石に、そこまで間近で覗き込まれれば無視するという訳にはいかないだろうと思ったのだった。
覗き込んだ男は、本当に美しい顔をしていた。
蒼白な面は滑らかな陶器の様で、線の細い輪郭に通った鼻筋、形の良い唇、ずっと彼方に向けられた切れ長の瞳はまるでサファイアを嵌め込んだ様に澄んでいる。
濡れた黒髪が白い首筋に張り付く様は何とも艶かしい。
その美しさに女が思わず言葉を失い、じっと見惚れると…その美しい男はゆっくりとした反応で視線を巡らせぼんやりと女に焦点を合わせた。…合わせた様に、見えた。
「こんな所に座り込んで…アンタ何してんのさ?」
もう一度、女は尋ねた。
やはり返事はない。
ただ視線には、先程よりずっと生気が感じられた。
じっと女を観察している様でもある。
女は小さな溜息を吐いた。
関わらない方が良いのかも知れない。
遠目にも余りに綺麗な男だったから、拾ってやろうかとも思ったけれど…。
もう少しまともに口が利けたなら、小奇麗に身繕いさせてホストクラブにでも送り込めば金ヅルに出来るかと思ったのだ。
ここは大きな街だから、仕事を求めて地方から集まってくる流れ者も多い。そして結局はロクな仕事にあり付けないまま、犯罪や薬に身を落とす。この男の身の上も、そんなところかもしれない。
焦点が合わないのは、既に薬に侵されているせいなのかも知れなかった。
しかしまた、自分も似た様な身の上である…女はしゃがみ込んだまま器用に膝に頬杖を付いて、小さく『どうしようかねえ…』と呟いた。こんな雨の降りしきる夜に、いつまでもしゃがみ込んでいたら自分が風邪を引いてしまいそうだ。
 
女がこの街にやって来たのは、もう随分と昔の事である。
やはり、仕事を求めての事だ。
始めは小さな駅前喫茶のウェイトレスだった。
世間の事など何も知らない田舎の小娘だった。
あれから何年経ったのか…もう数える気にもならないけれど…多くの物を代償に何とかこの街で一人生きてゆくだけの手段を得た。
女はこの界隈に小さいながらも三軒の店を構えている。
どの店も水商売だ。客には男も女もいる。
オーナーと言えば聞こえは良いが実際は自転車操業で、懐が暖まった試しなど一度もない。
その上、店の従業員達は言う事を訊かず我儘で手がかかる。
仕方なく…自分もまたその内の一軒でママとして店頭に立ち、年中働き詰め…つまり、こんな所で雨に濡れて風邪を引いている暇などないという事だ。
面倒見が良いという事は何も美徳ではない。
時に厄介なものを背負い込む事にもなりかねない。
女は暫くそのまま男の顔を眺め、考え込んでいた。
男は既に女に興味を失ったのか、美しい瞳を伏せている。
ふと、脇に目をやる。
大きな棺桶の様なもの…暫く観察するとそれがどうやら楽器ケースだという事が解る。
粗末なコンクリート剥き出しのビル壁に立て掛けられたそれは、この男の持ち物なのだろうか…。
女が興味を引かれ、傘の柄を肩に預けるとそっと頬杖を付いた手をその楽器ケースに伸ばす。
指先が触れようとする、その瞬間だった。
「…触れるな」
それは押し殺してはいても、低く響く美しい男の声だった。
女はぎょっとして傘を落としそうになりながらも、何とか持ち堪え…ケースから視線を戻すと漸く口を開いた男に答えた。
「大切なものなんだね…」
だったらこんな所で雨に濡らしているんじゃないよ…と内心毒づきながら、戻した手で傘を持ち直すと男の前に立ち上がる。
どうやら気が触れている訳ではないらしい。
女はダメ元で声を掛けてみた。
「口がきけないんじゃあ仕方がないとも思ったけど。どうする?行く当てがないんなら、一晩くらい眠る場所を貸してやっても良いよ」
どうせ、店の連中も似た様な状況で拾ってやった奴ばかりだ。一人や二人増えたところで大した事は無い。
しかもこの男は、磨けばもっと光る筈だ…。
「………………………」
男は答えない。
やはり関わらない方が良い…女がそう思い立ち去ろうとした時…。男はゆらりと立ち上がった。
蹲っている間はさほど気にも留めなかったが、立ち上がると男はかなりの長身だった。
…と言って大男にありがちな威圧感の様なものは感じられない。
ネコ科の野生動物のそれの様に、その動きはしなやかだった。
バランスよく小さな頭と長い手足、薄汚れたシャツを纏ってはいても…彼はまるで一流のショーに出演するモデルの様だ。
良い金ヅルになる。
声を掛けようとして…しかし、女は固まった。
喉の奥に張り付いてしまったかの様に悲鳴は出なかった。
その薄汚れたシャツの胸は、血と思しき真っ赤な染みに彩られていたのだ。
 
□□□
 
一か所に留まる事のない流浪の民の中に生を受けた少年には、幼い頃から正しく夜の闇も異形の闇もさして区別はなくすぐ傍に存在する、身近なものであった。
理屈で理解すると言うよりも、彼はその存在を肌でそれを感じ取っていた。
それは少年の体に流れる古い一族の血がそうさせているのか、それとも彼自身の素質なのかは解らない。幼い頃から少し風変わりなところがあって、時折じっと暗い夜の闇を見詰めていた。
その先に何が見えていたのかは、誰にも解らない。
誰もいない闇に向かって、片言の会話を繰り返しているのを見た者さえいる。
誰もが少年の事を気味悪がっていた。
 
生き血を食らう化け物の話を初めて耳にしたのは、そんな彼がまだ物心ついたばかりの頃の様に記憶している。
 
少年は簡素な天幕で覆われた小屋の片隅で、いつもの様に薄っぺらな毛布一枚に包まって…ゆぅらりと揺れる蝋燭の炎がまるでその化け物の陰の様に蠢くのを薄目で捉えながら…、大人達がわざと空恐ろしく語る人ではないそれらの者達の話にじっと耳を傾けていた。
不思議と、怖いという感情は湧き出なかった。
少年の母は既にない。
父親は、最初から誰だか解らない。
仲間内には少年を蔑む様に、『お前は母親が悪魔と交わって生まれたのだ』と言う者までいた。確かに、彼は一族の誰とも違う肌の色をしていた。
母親の、その腕に抱かれた記憶の欠片すら残ってはいなかった。
少年は賢く、そして美しかったけれど…父親も知れない風変わりな孤児など周囲の大人達からは彼を厄介者扱いし、邪険に扱われた。
また兄弟も、年齢の近い友人さえもなかった。
少年は孤独で、辛い事も苦しい事も、彼にとってはそれが日常だった。
 
 
 
人の生き血を食らう事も人間離れした能力を有する事もなかったけれど、忌み嫌われていたという点では自分もまたその化け物と同じだと、今になって青年はそう思うのだ。
 
何の巡り合わせか…。
鏡に映る自分の姿は、以前の貧しいロマのそれではなかった。
高級な生地を丁寧に仕立てたシャツにはまるで貴族の子息が身に着ける様な贅沢なフリルがあしらわれている。
青年は美しく伸びた癖のある黒髪を後ろでまとめ、上質のベルベットで作られた細いリボンで結わえた。
椅子の背に預けた濃紺のジャケットを手に取り、羽織る。
身支度を整え、粗相がない様に全身を鏡に映して確認すると、青年はそんな自分の姿に一瞥をくれた。
彼の女主人が呼んでいるのだ。
 
 
サヤと言う名前の響きは、どこか異国の言葉にも似ていた。
以前そう話したら、貴方の名前も相当変わっていると返され、返答に詰まった。
 
ハジ…
 
貴方の名前には巡礼を終えた者と言う意味があるのよと、意外にも博学ぶりを覗かせて、青年の主…サヤは笑った。
 
 
「……サヤ?」
ハジは大きな木製のドアの前で彼女の名前を呼んだ。
自分から呼んだ癖にノックをしても返事すらしない気紛れな主の態度にも慣れたものだ。
ハジはなるべく驚かさないようにそっと、彼女の居室のドアを開けた。
大きな天蓋付のベッドが視界に入る。
その脇のドレッサーの前で、サヤは豪奢な猫足の椅子の上に蹲っていた。
あられもなくブーツを脱ぎ捨てて座面に足を上げ…贅沢なドレスを邪魔そうに掻き分けて膝を抱えている。薄い絹に覆われた滑らかな脚線が惜しげもなく太腿の半ばまで露わになっていた。こちらに背を向けてはいるけれど、鏡に映り込んだ横顔からその頬が不機嫌に膨らんでいる事が解った。
そんな様子に慌てる様子もなく、ハジはやれやれといった風情で彼女の脱ぎ捨てたブーツを拾うとサヤの足元に揃えた。
上を見ないように視線を逸らしたままさりげない動作で立ち上がると、一歩…彼女との距離を取る。
「いったい今度はどうなされましたか?…淑女の取る態度とは思えませんよ」
従者と言う立場でありながらどこか窘めるような口調は、そのまま彼らの関係をも表していた。青年は幼少の頃に、従者と言う名目で…サヤの遊び相手としてこの屋敷に引き取られ、思春期をサヤと共にこの屋敷で育ったのだ。
此処での暮らしも、もう九年になる。
流石にこの年齢になって遊び相手も何も…。
一通りの従者としての礼は弁えているつもりだけれど、他の使用人に比べれば明らかにハジは一線を画していた。
身に着けている衣服も全て、サヤの好みで彼女が一つ一つ選び抜いたものだ。青年は当主であるジョエル・ゴルトシュミットと直接言葉を交わす事さえも許されている。
屋敷の中に大勢召し抱えられた使用人の中で、他にこんな待遇を受けている者はいない。
使用人達の中には、ハジをサヤの情夫の様に勘繰る者も少なくは無かったが、しかしそんな考えを持つ者を相手にする程青年は幼稚ではなかった。
 
「………………」
予想通り、彼女の返事は無かった。
けれど、サヤが自分を呼んだという事は彼女の機嫌を害する何某かの出来事があり…自分に構って欲しいという事なのだ。
「そんな風に座っては、折角のドレスが台無しですよ」
「ドレスなんか要らないもの…」
「では、明日からサヤは何をお召しになるのですか?」
「………何にも着ない」
「………流石に寝間着のままでは、庭にも出られないかと」
「良いの、ずっと部屋から出ない」
苦労知らずのお嬢様らしい強情さに、ハジは小さく息を付いた。
彼女は生まれた時から贅沢と言うものを当然の様に与えられて育ったのだ。
彼女が今身に着けているドレス一着が、どれ程高価なものかという事を彼女は知らない。世の中にはたった一切れのパンすら口にする事が出来ず飢えて死ぬ子供もいるという事をサヤは知らない。
そして自分の従者が、以前はその様な貧しい生活を強いられ、それこそ一切れのパン程の値段でこの屋敷に売られてきたのだと言いう事も…。
…………その意味も…。
しかし何も知らない事は彼女の罪ではない。
うんざりするほど贅沢な…この屋敷の生活。
この屋敷は、膿んでいる。
時間が止まった様な日々の生活に、好奇心旺盛な少女が満足出来る事などある筈もない。
彼女がこうして時折意味もなく、癇癪を起こす訳もハジには良く理解出来た。
生死に直結する程貧しかったにも拘らず…幼い頃の自由だった生活をハジはぼんやりと懐かしく思い出した。
どこへ行くのも、どこで眠るのも、基本的には誰の許可も要らず、あるものはこの体一つ…例え勝手をした事で周囲の大人達に顔が変わる程殴られても…自分は自由だった。
年端もいかない少年が、当たり前の様に…いつどこで自分が死んでも構わないとさえ思っていた。
それがどうだろう…。
今では、窮屈なタイ付のドレスシャツに身を包み、世間知らずな少女の我儘にも気長に付き合っているのだ。
どこか遠くを見詰める様な青年の沈黙に、サヤは急に不安に襲われたのかくるりと足を床に下してハジに向き直った。
「ねえ、どうかしたの?……ハジ?」
手入れの行き届いた庭園の芝生ではなく、自然に生い茂った草原の柔らかな草の上に寝転んだら…この少女は一体何と言うだろう…。
遮るものは何もないどこまでも続く地平線や満点の星空、街の石畳、賑やかな喧噪、誰も彼女を咎めず、また囲うものの何一つない世界。
いつだったか、大人になったらこの屋敷を出るのだと張り切って笑った少女は、単に
そんな細やかなものが見たかったのかも知れない。
どれ程多くの書物に精通していても、彼女の身の上は籠の鳥で…外の世界と言うものを一切知らされず、また恐らくはこの屋敷を永遠に出る事も許されてはいないのだ。
いつの日か…彼女の言う様に共に旅立つ日を夢見ながら、ハジはいつしか成人男性へと成長し、けれどサヤはいつまでも少女のまま…大人になる気配すら微塵も感じさせなかった。
サヤの時間は止まっている。
それは…この屋敷の中では触れてはいけない禁忌だった。
サヤの養父…ジョエル・ゴルトシュミットは商人でありながら、また学者の横顔も持ち、若かりし日には世界中からありとあらゆる珍しい動植物を集めて研究に入り浸っていたという。こんな事を思いつく方がどうかしている…、けれどもしかしたら養女としていながらもサヤこそが彼の最大の研究対象なのかも知れない。
 
いつか…サヤと共にこの屋敷を出る…。
 
不思議そうに自分に見入る少女に、ハジはそんなあり得もしない空想を終えた。
彼女はこの屋敷を出ては生きていかれない。
そうとするならば、自分もまた一生をこの屋敷の中で終える事になるのだろう。
良くも悪くも、一度飼われてしまえばもう二度と野生にも戻る事は出来ないのだ。
 
「…サヤが部屋から出ないのは勝手ですが…。そのドレスは先日強請って買って頂いたばかりでしょう?そんな風に強く握りしめたら折角のレースもフリルも皺になって見られたものではありませんよ…。これ以上世話を増やさないで下さい」
「ドレスの手入れは、ハジではなくてメイドの仕事よ!」
「同じ事ですよ…」
「ハジの意地悪…」
「意地悪で結構…。…さあ、いつまでもそんな風に拗ねていないで一体何があったのか話して下さいませんか?」
真っ青な瞳を細めて、穏やかに微笑んでみせる。そう言えば、この屋敷に来るまで、…小夜と出会うまで…自分は微笑むという事すら知らなかった…。そんな自分が、こんな風に微笑む事すら出来る様になったのだ。
意地悪で結構と言いながらも、優しい青年の微笑みの前にサヤはほんの少しだけ機嫌を良くした様子で、滑らかな絹のストッキングに包まれた爪先を大人しくブーツに収めるとゆっくりと鏡の前に立った。
ハジは無言のままその足元に跪き乱れたドレスの裾を一つ一つ丁寧に直し整えると、その美しい薔薇色の絹に、愛しげにじっと視線を落とした。
その時、ふと…背中に視線を感じた。
生まれ育った環境の所為だろうか…不思議と昔からそういう気配には敏い。
しかし…どこか監視する様なその視線が、サヤに向けられたものなのか、従者である自分に向けられたものであるのか…それとも二人に向けられたものなのか解らなかった。
しかし時折感じるその視線からは明らかな意志が感じられた。
その視線は、自分達の行動をただじっと…観察しているのだ。
豊かだけれど…そもそも最初からこの屋敷に自由はない。
監視されようがどうだろうが、今の自分には関係ない。
視線を上げると、どうしたの?とでも言う様な表情でサヤが微笑んでいる。
片膝を付いたまま、ハジは差し出された少女の手を取った。
深く頭を垂れて、ハジは恭しく…そっとその白い甲に唇を押し当てた。
衣食住に困る事も、命を脅かされる事もない、豊かで…そして不自由な屋敷での暮らし。
けれど、ハジはここでの暮らしが決して嫌いだと言う訳ではなかった。
 
「ねえ、ハジ…。……皆が私の事…何て言っているのか知らない訳ではないでしょう?」
それは唐突な…けれど半ば予想された答えだった。
またその話かと、ハジは表情を崩さないまま…自分をじっと見つめる少女を見詰め返した。
ハジがいつまでも返事をしないので、サヤは少々焦れた様子だった。
「………私は、…そんなに変わっているの?」
サヤは愚かな少女ではない。綺麗なドレスや甘いお菓子があれば満足する様な性質でもない。
好奇心が旺盛で、頭の回転も速い。
そんな彼女が自分の体質の異常に気付いていない筈は無かった。
ハジがこの屋敷にやって来た時、彼はまだ十一歳だった。その少年が大人の男になるのだ…それだけの時間が過ぎても、やはり自分の体が老いていかないという事実を…自分の時間だけが止まっている事を、彼女なりにきちんと把握している。
日頃、滅多にそれについて口に出す様な事は無かったけれど、じっと耐える姿は健気でいじらしい。
 
サヤの時間がいつから止まってしまったのか…何と言う病気でどう言った症例なのかも…、それはハジにも解らなかった。
 
ハジはしばし間をおいて、答えた。
「そうですね…。少なくとも…妙齢のレディーが木登りに興じる姿など…他でお目に掛かった事はございません」
「……ふざけないで。…この間、独逸語のレッスンをさぼったのは反省しているわ…」
「…二階のテラスから木をつたって外に出るなど、言語道断です」
「怪我する様なへまはしないわ…」
「…ドレスはもう、既に四着程破っておられますが…?」
「意地悪…」
唇を尖らせて、そっぽを向く姿さえ…。
青年の胸に…不意にこの少女に対する愛しさが込み上げる。
冷静な態度を崩す様な失態は無かったけれど、青年の胸に込み上げる主に対する愛しさは、彼にとって生きる全てとも呼べるものだった。
母にすら抱かれた記憶のない自分に、初めて人の胸の温もりを教えてくれた少女だ。
どこで果てても構わない虫けらの様だった自分の命など…、サヤの為にならいつでも捧げられる。
けれど、一生この想いを告げる事だけは、叶わないのだ。
それは、彼女と自分との関係が主と従者だから…と言う訳ではない。
「…サヤ。心無い使用人の言葉など、貴女が気にする必要など一つもありません。皆…貴女がいつまでも美しい事にやっかんでいるのです」
どうせまた新しく入った若いメイドがある事ない事言い触らしているのだ。
「……だって」
「二度とそのような事が無いよう…後で私がきつく叱っておきます。……さあ、もうすぐお義父様がお戻りになられる時間です」
サヤは答えず、尚もじっとハジを見詰めていた。
「サヤ…?
「…私の病気って、本当は何なの?…皆、聞こえてないと思って…あのお薬、…人の血みたいだって…気味悪がってる…」
「サヤッ!!」
ハジは激しく小夜の言葉を遮っていた。
 
クリスタルのグラスに満たされた、生々しく赤黒いその液体。
匂いと言い、粘度と言い…正しくそれは…。
深窓で育った彼女にはそうと解らなくても…それは誰の目にも明らかで…咄嗟に否定するだけの言葉を、ハジは持ち得なかった。
 
 
果たして…巡礼を終えた者には、何が与えられるというのか…。
 
 
心細そうな瞳で、じっと自分を見詰めるサヤの姿がぐらりと揺らいだ。
 
眩暈がしそうだ…。
 
脳裏に、幼い頃耳にした人の生き血を食らう化け物の話が蘇った。
あの晩、大人達は何と話していただろう…?
記憶は、手繰ろうとすればする程怪しくその姿を変えて指の間をすり抜ける。
記憶の中で、真っ赤な蝋燭の炎が揺らめいていた。
 
かつての自分が、闇の中の何と言葉を交わしていたのか等…既に記憶にある筈もなかった。
 
□□□
 
シュバリエは負った傷を再生する為に多くの血液を必要とする。
 
ハジとソロモンとが接触したというポイントに向かう車中、デヴィッドは諳んじる程に目を通した資料を何度も反芻していた。
 
ハジと言う存在はいかに強靭な精神と肉体を兼ね備えていたのかと言う事が思い知らされる。デヴィッドの知る限りにおいても、彼が瀕死と思われる状態まで怪我を負う事態は珍しくなかった。常に守るべき主の前に立ち塞がるその姿勢は尊敬に値する…彼には恐怖と言う感情は無いのかと疑いたくなる程に。
どれ程勇敢で屈強な兵士であったとしても、死に対する恐怖を完全に拭い去る事は出来ないだろう。それは生物の本能として当然の事だと思っている。
しかし、あの男は違うのだ。
勿論、人類とは比べようもない生命力と回復力を持っているのだとしても、痛みは同じ様に感じる筈だった。もし彼が人であったなら、息の根が止まりそれで全てから解放される…しかし彼の肉体と精神はその痛みに耐え、生命を維持し、そして再び立ち上がるのだ。
どうしたらそんなに強くなれる?
どれ程そうありたいと望んでも、脆弱な人類の一人としてはその彼の強さは想像を絶するものだ。
『…二人は互いに想いを寄せ合っていたんだろう?』
デヴィッドの脳裏に、ジョエルの言葉が浮かんだ。
眠る事も、食する事もなく、ただ一人の女王の為に存在するシュバリエ。
「……全ては愛の為に…とでも言うのか…?」
「………何か、仰いましたか?」
運転席でハンドルを握っていた部下が、デヴィッドの小さな呟きに反応してバックミラーから僅かに視線を投げ掛けてくる。
「…何でもない」
短く答えながら、男はぐるぐると繰り返しハジと言う存在を思う。
彼を回収した時、それはもう酷い有様で…流石の自分も小夜にそれを知らせる事は出来なかった。ハジが死んだのならば、それはそれで仕方のない事だ。
しかし…とてもあの酷い状態の彼と対面させるだけの勇気は持ち得なかった。
それが、まさかあの状態から全身を再生させるとは…。
勿論、回復をサポートする形で輸血を施した。
しかし、たった数粒の細胞から全身を再生するには、とても足りる量ではなかった筈だ。ハジが何故に出奔したのか、理由は解らない。
けれど、出奔した彼を見失い…何とか見つけ出し監視を付けて以来、はっきりしているだけで彼が人を襲ったのは二度きりだ。
それも、死亡には至っていない。
幸いにも襲われたのは、往来の真ん中ではなかった為に目撃者はいない。
被害者は極秘裏に赤い盾が収容保護し、回復を待って記憶を操作し解放されるだろう。
 
確かに一般的に良く知られている吸血鬼の伝説と違い、翼手が一度の摂取で必要とする血液の量は献血のそれに匹敵する程度だ。それは長年の研究データからも明らかな事実だった。
しかし、理性を失った彼らの吸血への欲求は非常に強くなる傾向にあり、最初から理性と言うものを持たない薬害翼手に襲われれば、間違いなく体中の血液を吸い尽くされてしまう。
その被害者の遺体は、体中の血液を抜かれ半ばミイラの様に干からびて発見される事がほとんどだ。
始祖である小夜もまた、体調とその能力を保つ為には定期的な血液の接種は不可欠だった。過去においても…まだ彼女が己を人間と信じていた頃は薬と称して人間の血液を口にしていたという記録が残っている。人として育った彼女は未だに吸血と言う行為に馴染めずにいるものの、あの悲劇以降…彼女もまた己のシュバリエであるハジの血液か、もしくは定期的な輸血を受け続けている。
記憶がないとはいえ…やはり翼手が生命を維持する為には、正しく人類の血液が不可欠なのだ。
 
ベトナム以降、顕著に吸血を絶っていたという彼も、流石に今の状態でその欲求を絶つのは難しいという事だろうか…。
 
それとも、良くその程度の被害で済んだものだと男の強靭な精神力を褒め称えるべきなのかも知れなかった。
 
                      《続》

 
20110204
ビクビクしながら、続きです。ひとまずこの辺で切ります…。

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