散り逝く花の薫りにも似て…2



「小夜はどうしている?」
車椅子の背中を向けたまま、赤い盾六代目長官ジョエル・ゴルトシュミットは忠実な部下であり、幼少の頃からの友人である男にそう尋ねた。
暗い窓に映り込む彼の表情をしかと測りかねたまま、痩身の男は重い口を開いた。
「部屋に閉じ籠ったまま、出てこようとはしません…」
「休眠の兆候は?」
「…変化はありません。…いつ休眠してもおかしくはありませんが。先の、オペラハウスでの戦闘と…ハジの事で気が張っているのでしょう…。むしろ以前より突然の強い眠気に襲われる事は減っている様子です」
ジョエルは小さく『そうか…』と呟いて、両脇の車輪を操作するとくるりと男を振り向く。
元々物腰の柔らかな紳士である。母親譲りだという柔らかな顔の造作と穏やかな目元は実際の年齢よりも随分と若い印象をもたらしていた。
しかしその表情はこの数カ月で酷く疲れ、やつれた様にも見える。
…無理もない。
表情には出さず、デヴィッドは彼の苦悩を思った。
ディーヴァとそのシュバリエ達、そして全ての翼手を殲滅する為に組織されたこの赤い盾も、先の戦闘で大きな被害を被った。
そしてジョエル自身も、もう二度と自らの足で歩く事は出来ないだろう。
巨大な客船を模した本部を失い、多くの構成員を亡くし、再起してなお未だに本懐を遂げられずにいるのだ。
百年以上に渡る組織の歴史は人類と翼手との戦いの歴史そのものである。
その長い歴史の中でさえここまで大きなダメージを受けた事はなく、それは取りも直さず、翼手との戦いも終盤の局面を迎えているという事に他ならないのだが、しかし必ずしもその結末が人類にとって最良のものとなる保証はない。
いや、保障どころか…もしかしたら事態は予想以上に悪いのかも知れない。
ディーヴァとそのシュバリエ達、一連の事件の黒幕とも考えられるアンシェル・ゴールドスミスの死亡を確認してなお、世界中に散らばった薬害翼手の数は減るどころか、被害を拡大し続けているのだ。
今…そんな状況で、その上組織の要である彼まで失う訳にはいかない。
「長官…。少し横になってお休み下さい」
堅物な男の律儀な物言いにジョエルは口元だけで笑みを作った。
「デヴィッド…君は本当に模範的な部下だよ…とても優秀な…。勿論、私の片腕だと思っている。…しかし、二人の時はジョエルで良いといつも言っているだろう…?」
ジョエルは車椅子を器用に操ると、部屋の中央に置かれた丸テーブルをぐるりと回り込み、その上に揃えられたグラスをデヴィッドに勧めた。
透明に磨かれたクリスタルのブランデーグラスに、琥珀の液体を注ぐ。
しかし、デヴィッドはそれを丁寧に辞した。
「いえ、アルコールはもう…」
「そうか…。そうだったね」
ジョエルはこの生真面目な幼馴染が、赤い盾崩壊の際にアルコールに溺れていた姿を思い出した。
行方知れずになっていた小夜とハジが組織に戻って以来、デヴィッドはアルコールを絶っているのだ。
「流石に、一人で飲む訳にはいかないな…」
そう言って、彼は再び暗い窓の外に視線を投げた。その横顔、いつも穏やかな青い瞳は常に無く厳しいものだ。
「…小夜は、さぞ私達を憎んでいるだろうね」
「………。指示通り、『ハジ』には監視を付けてあります」
肯定も否定もしないまま、デヴィッドは客観的な事項を告げる。
「…ハジも、それは同じだろう…。いや、むしろハジの方が組織を嫌っているんじゃないかな。記録のみでしか私には解からないが…過去には組織に随分と酷い目に遭わされてきたようだからね。…しかし、無力な我々にとっては彼ら自身が唯一直に知る事の出来る翼手のサンプルでもあったのだから」
致し方ない…と言う言葉を敢えてジョエルは飲み込んだ。
赤い盾を組織したのは、かの血の日曜日を生き延びた初代ジョエルの孫達だ。
屋敷に残されていた小夜とディーヴァの研究資料の大部分はアンシェルによって持ち去られた。
彼らの手元に残ったのは、広大な屋敷の焼け跡と初代が綴った日記帳が一冊。
そして小夜とハジだけだ。
いくら初代の残した潤沢な資金があったとはいえ、翼手と言う想像を超えた能力を有する未知の生物と対等に戦い得るだけの組織をここまで作り上げるのは並大抵の事ではなかったろう。多くの犠牲の上に今があるのだという事を忘れてはならない…ジョエルは幼い頃から幾度となくそう先代の長官である父から聞かされて育った。
そして翼手をこの地上から殲滅する事こそ、自分達赤い盾と言う組織を受け継いでいく者の使命なのだと…。
しかし、犠牲と言うのなら、まず彼らにこそ謝罪すべきなのではないのかとジョエルは思うのだ。
『小夜』とは今現在におけるこの世で唯一翼手を完全に殺す事の出来る存在、そしてハジはその忠実な眷属であり、彼らだけが我々の唯一の翼手サンプルであると聞かされていたジョエルにとって…しかし実際に会ってみた『小夜』と『ハジ』の印象は、彼が父の話から受けたそれとは大きくかけ離れていた。
 
初めて小夜と対面したのは、大西洋上に浮かぶ今は無き赤い盾本部の船上での事だった。
その作戦会議の席で、ジョエルの目には小夜はごく平凡な十七歳の少女に見えた。
常に彼女らと行動を共にしていたデヴィッドから受けた報告内容から、当時小夜の記憶は未だ曖昧な部分を残し完全な覚醒を果たしていないのだという事も勿論承知していた。それにしても…と、ジョエルは内心目を見張った。沖縄で通っていた高校の制服らしき濃紺のブレザーを着た少女は、とても凄惨な戦場を渡り歩いてきた兵器には見えなかった。手にした日本刀も、実際に戦う姿を目にするまでは、あまりにも彼女には似つかわしくないものだと感じた。
小夜も、そしてハジも、例えその体に流れる血は人とは違おうとも…同じようにこの世界に生きる心を持った存在であるのだという事を…記録の上からではなく、彼らと対峙し言葉を交し、ジョエルは直に感じ取った。
そしてその時、誓ったのだ。
この戦いを、何としても自分の代で終わらせるのだと…。
しかし、予想以上に戦いは長引いていた。
何故、翼手はその数を増やし続けているのか。既にディーヴァもアンシェルも存在しないと言うのに…。
この戦いに終わりなど存在しないのか…。
「デヴィッド…。君は沖縄からずっと彼女達と行動を共にして…気付いていないのかい?」
「………。何が…です?」
相変わらず直立した姿勢を崩す事無く、デヴィッドは彼の幼馴染であり上官であるジョエルの問いに僅かに眉根を寄せた。
ジョエルは再び車椅子の車輪を操って、デヴィッドに向き直った。
「…小夜とハジ。…二人は互いに想いを寄せ合っていたんだろう?もうずっと昔から…。実際にそれを伝え合った様子には見えなかったけれど…」
「…は、しかしそれは…」
言い難そうに口籠る友人にジョエルは肩を竦めた。
「……お堅い君らしいな。翼手との戦いに色恋は邪魔だとでも言いかねない。…確かに、下世話な想像は彼らに失礼ではあるけれどね…」
「…お言葉ですが。…だからこそ今この時、二人を引き離すべきではなかったのではありませんか?……万一、『ハジ』が暴走するような事があれば我々の力では抑える事は出来ません…」
それは至極真っ当な意見だ。
ベトナムでは彼女の意に添わない無理な目覚めを促し暴走する小夜を止める事が出来ず、甚大な被害を受けた。
その被害は組織内部に留まらず、罪のない市民にまで及んだのだ。
戦闘能力において、シュバリエは決して始祖に劣らない。
それどころか、長い間自らの力を封印していたハジの能力は言わば未知のものだ。
「解かっているよ。しかし…過去の記憶がないとは言え、今の我々に彼を連れ戻すだけの力すらない事は…否めないじゃないか…」
君だって解かっているだろう…と、ジョエルは自嘲的に口元を歪めた。
 
ハジが、あの瓦礫の下から助かったのは奇跡だ。
幾ら不死身を誇るシュバリエとは言え、アメリカ軍の空爆を受け燃え盛る瓦礫の下でその肉体は千切れ押し潰されて燃え尽きると思われた。
しかし、ハジは助かったのだ。
燃え尽きた瓦礫の下から極秘に回収された、以前ハジだったと思われるもの。
赤い盾の研究室に運ばれたそれはごく僅かな細胞レベルでの生体反応が認められ、研究員をはじめ彼らを一様に驚かせた。
それは彼の生存を願ってと言うよりも、むしろ翼手研究の対象として…。それがまさか、この様な結果に至るとは誰も予想してはいなかった。
いや、出来なかったと言う方が正しい。
慎重に培養液の中に保管されたそれは、やがてまるで何かを急ぐかのように再生を始める。見守る研究者の前で、果たしてそれは、再び寸分の違いもなく『ハジ』と成り得るのか…。黒く焦げた部分は剥がれ落ち、その下からは新たな白い皮膚が現れる。
失われていた髪も程無く生え始め、分厚いガラスの向こう、培養液の中で彼は元通りの肉体を取り戻した。
 
暗い窓ガラスの向こうを睨みながら、デヴィッドはその時の事を思い出していた。
濡れて額に纏わりつく黒髪の下から、見上げる鋭い青い瞳。
デヴィッドの知るかつてのハジの瞳は冴え冴えとした月の様に鋭く、そして思慮深く冷静で、常に己の主である小夜の後ろに控えながら彼女の言動を深い愛情を持って見守っていた。決して自己主張する事のない静かな中にも、時折彼の内に秘めた情熱の一端が垣間見える人間らしい眼差し。
しかしその時、デヴィッドの目の前に体を横たえたハジの姿は、それまで知る彼のどの姿とも違って見えたのだ。
いや、見た限り…その端正な横顔もすらりとしなやかな手足も、記憶の中のハジと寸分違いはしない。
どこが違うとは指摘出来ない程の僅かな違和感、彼の纏う空気の差異。
 
デヴィッドは思い詰めた様に告げた。
「…ジョエル。しかし、本当に彼をハジと呼んで良いものかどうか…。私にはまだ戸惑いがあります…」
「……彼はハジだよ。間違いないじゃないか…。第一彼女が…小夜がそう認めている…」
「しかし…」
「…記憶の事を言っているのかい?…彼が過去の事を、小夜の事すら何も覚えていないから、そう感じるんだろう?」
「小夜は、彼の肉体が一度はほとんど死んだと呼べる状態にまで損傷し、残されたたった数粒の細胞から再生したのだと言う事を知りません」
デヴィッドの言わんとしている事は、ジョエルにも理解出来る。
彼の肉体は、人類の基準で判断すれば一度は死んだのだ。
彼が人間であったなら、確かにあのまま死んでいただろう。
しかし、以前にベトナムで暴走した小夜に切り落とされたハジの右腕は再生した過去がある。
実際にはベトナム以降ハジの行方は途絶え、その腕の再生を間近で観察する事は叶わず、記録は残っていない。だが再び彼らの前に現れたシュバリエは異形とは言え完全な右腕を備えていた。
翼手の、その再生能力の高さには限度と言うものがないのか。
仮に再生が腕一本に留まらず全身となるなら、それは既に本人ではなく、全く同じ肉体を備えた別人言わばクローンと呼ぶべきではないのか…。
過去の記憶がないと言うのは、そう言う事ではないのか…。
デヴィッドの意を汲むように、ジョエルは小さく頷くと視線を伏せた。
「デヴィッド…。小夜はもう、新たなシュバリエを持たないだろう…」
「…はい」
それは誰の目にも明らかであろう…。
小夜は自分が翼手である事を、罪だと思っている。
この一連の不幸な出来事を、全て自分のせいだと思い込まされていたのだから。
しかし、ジョエルの口からは思い掛けない言葉が発せられた。
「小夜は、ハジを愛している…」
それは先程も、彼が気にかけていた話題だ。ここで話が繋がるのかと…デヴィッドは小さく嘆息を吐いた。
「……………」
「我々には、『ハジ』が必要だ。間もなく、小夜は再び休眠に入るだろう…。増え続ける翼手を完全に一掃出来ない以上、彼女の役目はまだ終わらない。次の目覚めを正しく導く為にも、シュバリエが必要なのだ」
「解かっています…」
「一旦眠りに就いた小夜を、正しく目覚めさせられるのは…ハジだけだ…」
ジョエルの声は、些か感情的な響きを帯びていた。
 
□□□
 
泣き晴らした目が痛い。小夜はすっかり乾いた涙の痕をきつくこする様に手の甲で押さえた。
傍らに既にソロモンの姿はない。
金色の髪をしたあの男が、目の前に跪き何と言ったのか…。
ハジを、連れ戻すと…?
いや。そんな事が出来る筈ない。
それとも、あれは全て夢だったのだろうか…。
近頃は何をしていてもどこか夢の中を彷徨っている様な感覚が付きまとう。
小夜は伸びかけの髪を揺らして辺りを見回した。
白い壁、白い天井。締め切った寒色のカーテン。
何の装飾もなく、部屋の中は閑散としていた。
今の小夜にとって、赤い盾が用意したこの寒々しい部屋が帰るべき唯一の場所なのだった。ハジが傍に居れば、あまりの居心地の悪さに甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いたのかも知れない。
 
いつの間にか眠りに落ちていたらしく、深夜だと言うのに室内は蛍光灯の明りが皓々として眩しいままだ。
容赦のない眩しい光に眼が霞む。どこか焦点の合わないまま、小夜は無機質なパイプベッドから体を起こした。
こんな時、いつも傍らに寄り添ってくれた人はもうここにはいない。頭の中ではその事をきちんと理解して、心の整理もした筈なのに…、ふとした瞬間に伸ばされる筈の指先を期待している自分が辛い。
あの夜。生死を分かつあんな場面で、切なくなる程の優しい微笑みを浮かべ、『あなたを愛しています』と言ってくれた人。
思い返せばいつだって、差し出される指先にも名前を呼ぶその短い声の響きにさえ、彼の気持ちは溢れていた。
そしてそれは小夜も同じだ。
それを素直に口にするには、あまりにも多くの事情が込み合っていて、もうずっと長い間告げる事すら出来なかった恋だ。
彼が自分のシュバリエだから…と言うのではない。
もうずっと昔、初めて出会った少年の日から変わらない優しさで、ハジは小夜を包んでいてくれたのだ。
少年の頃から、彼は小夜の従者として彼女の身の回りの世話をしてきた。小夜の傍に上った時には、生きていく事の厳しさを肌で知り、実際の年齢よりも随分と成熟した子供だった。
一見可愛げが無い程、その態度は辛辣だったけれど…それは彼が生きていく為に身につけた鎧であり、本当はとても心根が優しくて…。
ハジの摘んできてくれた甘い薔薇の香りを小夜は今もありありと覚えている。
あの頃はまさか、こんな風に長い時間を彼と共に旅する事になろうとは想像も出来なかった。そして彼が小夜にとって自分の命よりも大切な存在になろうと言う事も…。
しかし今、ハジの姿はもう小夜の傍らには無い。
長年、幾ら心の中で彼を翼手にしてしまった事を詫びていようとも、自らの血の呪縛から解放されて自由になって欲しいと願っていたのだとしても…ハジの心の中から自分の存在が消えると言う事態を想像した事すらなかったのだと、小夜は今になって思い至る。
まるで空気の様に、ハジは小夜の傍らに寄り添っていた。
離れた事などない。
そう、彼女が過去の記憶を失い沖縄で何も知らず過ごした一年の間にも、彼はただじっと黙って小夜の事を陰から見守っていてくれた。
しかし…これから自分は…全くの一人なのだ。それを思うと、気が遠くなるような寂寥感が不意に小夜を襲った。あまりに突然な別れに、自分の心はまだ追いついていないのだろうか…。
 
『貴女を愛しています…』
 
ハジ…私だって貴方を愛している。
貴方のいない未来なんか欲しくはないよ。
 
しかしその思いはしかと告げられる事のないまま、封印しなくてはならない。
 
あの夜。
実の妹を手に掛け自分も死ぬ筈だったのに、あろう事か…愛する男と共に生きる事を望んでしまった自分に対する、きっとこれは罰なのだ。いや、罰どころか…死んだと思われていた彼が生きていたと言うだけでも、神に感謝しなくてはならない。
そして彼は記憶を失う事で漸く、ずっとそうあるべきだと願っていた通り始祖の血の呪縛からも解き放たれたのだから…。
それなのに、どうして自分は泣いてしまうのだろうと、小夜はもう一度潤んだ目元を手の甲で拭った。
 
ディーヴァを倒したというのに、暴走する下等翼手の数は一向に減る様子を見せず、現段階ではその原因すら突き止められていない。
サンクフレシュのばら撒いた医薬品や食料、飲料水は世界中に出回り、それを口にしたとされる人々の数はいまや把握出来ないほどだ。
その中に混入されたディーヴァの血は、人を翼手へと変える。
摂取した量は勿論、人種、年齢、性別、体格、生活環境、その他様々な要因によってその発症率に差はあるのだろうが、汚染された数え切れない程の人々は全て翼手へと変わる可能性を秘めている。
当初、人から翼手への変化を誘発する重要な鍵はディーヴァの歌声を耳にする事だと考えられていた。
しかし、当のディーヴァが死亡しても、世界の各地で薬害翼手達は生まれ続けているのだ。
本来、翼手とは人にその存在を知られる事無く、人類の社会に溶け込むようにして、うまくそのバランスを保って共存してきた種族である。人類を遥かに凌ぐ優れた身体能力を持つと同時に、高い知性を備え、その翼の生えた姿の目撃談は今も世界中に神話や伝説として残っている。しかし件の…いわゆる薬害翼手達は理性を手放し、まさしく化け物となり暴走する。こうしている今この時でさえ…翼手は増え続けているのかも知れない。
自分に、泣いている暇などない。
低過ぎる程の体温も、常に付き纏う眠気も、それが休眠前の症状である事は十分に自覚している。今、こうして起きて居られる事だけでも奇跡的な事なのだと言う事も…。
この体はもう間もなく…休眠に入るだろう…。
自らの半身…もう一人の始祖であるディーヴァと全ての黒幕であるアンシェル、この二人は既にこの世に居ないのだとはいえ、この状況で仲間達を残し休眠に入る事はひどく躊躇われた。
それに…。
もう、変わらない姿で自分を待っていてくれる人はいないのだ。
たった一人で目覚める三十年後の世界を思うと、無意識に体が震えた。今度眠ったら、もう自分には目覚める意味など見出せない。
彼が居なければ…
今まで、彼が居てくれたから…
「…ハ………ジ…」
掠れた喉から絞り出すように、その名前を唇にのせる。
 
…どうしました?…小夜
 
耳に蘇る優しい声音…
労わってくれる穏やかな響き…
 
小夜の白い頬を、丸い涙の粒が零れ墜ちた。
駄目だ。
こんな事では…。
もっと強くならなくては…。
 
後どれだけの時間が自分に残されているだろう…。
ハジを失った自分にどれほどの事が出来るのか…。
こんな自分にもう生きている価値など見出せないとしても…。
それでもまだ、自分にはするべき事が残されている。
守るべき人達と、その未来の為に…。
自分に、今出来る事。
 
…やはりこうして、同族殺しの罪を背負い、返り血を浴びて生きる事が自分の償いなのだろう…。
 
小夜は傍らに立て掛けられた日本刀にそっと指を伸ばした。
慣れ親しんだその柄の感触と重み。
柄の根元に埋め込まれた赤い石が、蛍光灯の白い明かりを弾いて鈍く煌めいた。
 
□□□
 
「一旦眠りに就いた小夜を、正しく目覚めさせられるのは…ハジだけだ…」
 
ジョエルの感情的な声にも、敢えて冷静な態度を崩す事がないように留意しながら、デヴィッドは事務的に告げた。
「…確かにハジは…シュバリエは必要です。しかし、ご存知ですか?研究者の中にはシュバリエはハジでなくても良いのではないか…と言う考えを持つ者もいます…」
「それは、一体どういう意味だい?」
六代目ジョエル・ゴルトシュミットは穏やかで柔らかな物腰の男だ。
しかし彼がそれだけでない事を、デヴィッドはよく知っている。
彼は単にゴルトシュミット家の長男としてこの世に生を受けたから親の敷いたレールに安易に乗る、そんな理由でこの巨大な組織の長に収まった訳ではない。
この重責を放棄する事も出来たのだ。
しかし、それを真っ向から受け、背負い、歴代の長官の為し得なかったそれを、もう少しのところで達成しようとしているのだ。
彼の穏やかな視線と口調の裏にどこか鬼気迫るものを感じて…デヴィッドは気付かれない様に、小さく喉を嚥下した。
「…シュバリエを、新しく小夜のシュバリエを作れば良いのだと」
「馬鹿な…今更血分けなど…」
「解かっています」
「一体誰がそんな事を…。簡単にそんな言葉を口にするものではないよ。それが、どういう意味か…解かって言っているのか?」
「いいえ。恐らくは…。ただ、不老不死と言うものは、それだけ『人』にとって甘い魅力が感じられるものなのではありませんか?…それに、そう思いたくもなる程、彼らは優れた美しい生き物です」
暗い窓の外、大きな窓ガラスに不意に雨粒が当たる。
「だからと言って、私は血分けなど絶対に許さない。シュバリエに…自ら翼手になると言う事がどういう事なのか、解からないと言うのか…。これだけの惨劇を目にした組織の中にあって、そんな子供染みた発想をする者が居るだなんて…」
嘆く様に俯く若き長官の背中に、デヴィッドは初めてその名前を呼んだ。
「…ジョエル」
その時、労わりに満ちたデヴィッドの声に重なる様にして、不意にスーツの内ポケットで彼の携帯が鋭い音で鳴り響いた。忌々しいと言った仕草で、仕方なく呼び出しに応じる男の表情が豹変する。
「…デヴィッド?」
「…長官。…ハジに、ソロモンが接触しました。市街で派手にやり合ったようです。…二人の存在に触発されたのか、同ポイントに無数の翼手が集まっています」
ジョエルの表情もまた一変する。
先程までの煩悶とした表情が消え、険しいそれに代わる。
「すぐに増援を。…デヴィッド、君も行ってくれ」
「了解しました。…それから…」
「…それから?」
珍しく言い淀むデヴィッドに、まだ何かあるのかとジョエルが厳しい視線で問い返す。
「小夜が…。小夜も部屋から姿を消したとの連絡が入りました…」
「っ…なんて事だ。今の彼女は一人で外に出られる様な状態ではない」
解かっています…と、無言で意思の疎通を図ると、デヴィッドは踵を返しドアの前で礼儀正しく一礼し足早に部屋を立ち去った。
バタンと音を立てて閉じた重厚な木製のドアを見詰めて、ジョエルは言う事をきかない自らの足を呪う様に、小さく拳で打った。
 
どうか…
どうか…
どうか…
 
ジョエルの想いを吸い込む様な夜の闇の向こうで、雨は音もなく降り続いていた。

                                  

                           《続》


20110116                           Back