全てがあの夜終わる筈だった。
愚かしい争いの全てが終焉を迎え、そして彼女の歩むべき未来は良い方向へと向かう筈だったのだ。
そう思えば、全身を押し潰す瓦礫の痛みすら苦ではなかった。
小夜…
唇を震わせる余力すらなく、愛しい少女の名前は喉の奥に張り付いたまま。それでも、彼女が再び生きる気力を取り戻してくれたのならば…それで良い。
例え、このまま死ぬのだとしても…、本望だ。
さ……や…
それを最後に、男の意識は途絶えた。
 
散り逝く花の薫りにも似て…                      
 
暗い部屋の中に浮かび上がる青いデジタルの文字。
無機質な数字がその日の終わりを告げると同時に…また同じ一日が始まる。埃っぽいカーテンの隙間から覗く夜の街はどこか異世界のようだ。この時間、普段ならばまるで帰る場所を持たないかのような酔客や、黒いスーツを纏った呼び込みが通りを賑わせていると言うのに…。三日程前から降り止まない雨のせいなのか、道を行く人影はまばらだった。
そんな表通りからも更に一歩奥に入った、うらぶれた路地裏の、何やらいかがわしい界隈。
安っぽく派手なネオンが雨に濡れたアスファルトに歪んでいた。
その片隅の、古く小さな雑居ビルの一室で男は寝起きしている。色のない無機質な空間に、小さなキッチンとユニットバス、そして六畳ほどの居室にはただ体を横たえる為だけのベッドが申し訳程度に備わっている。
他には何もない。
尤も、今の彼に必要なのはそのどれでもなく…
胸の中にぽっかりと置いた空洞を埋める何か…、そしてこの渇き切った体を潤してくれる何か…。
けれど、彼自身…自分に不足しているものが何なのか、解らないでいる。
男は、物憂げにベッドから体を起こした。
暗闇の中に浮かび上がる白い肌、しなやかな筋肉には無駄がなく、たったそれだけの動作にも優雅な印象が先立つ。
長い髪をうるさそうにかき上げた指先で無意識にサイドテーブルの上を探ると、潰れかけたタバコの箱から最後の一本を取り出した。
薄く形の良い唇にそれを咥え、百円ライターで火を灯す。
闇の隙間を縫うように立ち上る紫煙の、その頼りない陰を目で追いながら、男は大きく息を吸いタバコの煙を肺に満たした。
タバコを吸うと言う行為に、依存している訳でも、ましてや魅力を感じる訳でもない。
ただ、この空虚な体を満たすものが欲しい。
心の中に空ろに開いた風穴を埋める何かが欲しい。
その思い自体が、既に依存かも知れないと…男は暗く視線を伏せる。
乾いた舌先にちりちりと痺れる様な刺激が走り、その痺れが指先にまで広がってゆく錯覚に襲われ、麻痺した意識を呼び覚ますように軽く頭を振って立ち上がると、胸元をゆるく寛げた白いシャツの上に黒いコートを羽織った。天井の低い室内にそうして立つと、男の長身が一際目立つ。
すらりとした体躯、白い肌と緩くうねる長い黒髪。
感情の読めない…まるで作り物のような端正な顔立ち。くわえタバコのまま室内には一瞥もくれず、男は共用の廊下へ続くドアを開けた。主が立ち去った室内は静まり返っていた。
男の持ち物は少なく、壁際に無造作に置かれた黒く古びたチェロケースが一つ。
単にチェロという楽器を持ち運ぶためだけの入れ物にしては、少し大ぶりで細部にまで厳かな装飾が施されたそれは、一見するとまるで棺桶のようにも見えた。
 
何かが足りないと言う感覚は、どこにいても付きまとった。一人きりの部屋でも、真夜中の路上でも…。
 
吐く息が白い。
深夜、雨に濡れた街は、ひんやりとした冷気に包まれていた。
けれど…不思議とそれを寒いとは思わない。そう言えば、あの部屋にも暖房設備など一切無いのに、男は今までに一度も寒いと感じた事がなかった。ベッドに体を横たえる事はあっても、明らかな眠気に襲われる事も無ければ、食事すら強いて摂取する必要を感じない自分の肉体はどこかおかしいのだろうか…。
自分の中に明確な答えなどある筈も無く……。男はいつの間にか無意識に自分の内側を探ろうと試みる思考を止めた。
息を吸って、吐いて…そしてまた吸う。
その繰り返し…黒い雲から絶え間なく落ちてくる雨粒に打たれ…夜の雨に潤った冷たい空気を肺に満たして…。
何も考えない方が良い。
手繰り寄せようとすればする程、指の隙間から零れていってしまうような曖昧な記憶に縋るより…余程。
…この体が、例えこのまま闇に溶けてもしまっても構わない。
自分は、この世にたった一人、自由な筈…なのだから…。
いつしかそんな思いさえ脳裏を掠める。
けれど、どこかで男を呼ぶ声がする。
それは心の深いところから、魂を揺さぶるように切なく響く…。
 
…ハ
 
………ジ
 
それが自分の名前なのか…。少女のものと思しき、柔らかな声…。それが誰なのか…。思い出せない自分に生きている価値など無いのではないか…。
訳も解らず、そんな自責の念が男の心に渦を巻く。
 
「ハジ…」
それは心の奥で響く少女の声とは明らかに違う、男の声だった。
空耳ではなく、確かに発せられた男の声。
「帰って来て下さい…ハジ」
「………」
その声は、暗闇から発せられたようだった。声のする方向に向い、無意識に体が構えていた。全身の神経が張り詰める。
それは理屈ではなく、体の奥底から湧いてくる本能のようで、男の体の中に流れる血が自分とは相反する何かに反発している。
彼の意思とは全く別の次元で、その存在に畏れを抱いているような感覚だった。
暗闇の路地から、すっと音も無く現れた青年は、眩しい金の髪をしていた。
「ハジ…」
どうやらやはり、「ハジ」と言うのが自分の名前なのだろう…金色の青年は再びその名前を呟いて、もう一歩闇から踏み出した。
夜の闇の中でさえ…まるで太陽を宿したような眩しい金の髪、透ける様な白い肌は女性のように肌理が細かいのに決してひ弱な印象を与えず、
ハジと並んでも見劣りしない長身に、上質な黒いダブルのスーツをきっちりと着込んでいる。この界隈でよく目にする、所謂客引きやチンピラとは明らかに違う、清冽な空気を身に纏っていた。そして青年もまた、酷く雨に濡れていた。
ハジは黙って身構えたまま、じっとその青年から視線を逸らさない。そんなハジの態度に青年は少し苛ついた様な表情を覗かせ、しかし…きつく唇を噛むと尚も続けた。
「小夜が待っています…、ハジ…」
青年の唇から発せられた「小夜」…という名前に、ハジの心がざわつく。
「さ…や…」
確かめるように唇にのせる。心の琴線に触れるその響き…。しかし……ハジの表情には、そうと読み取れる変化は伺えない。
「まさか…」
青年は、信じられない様子で言葉を詰まらせた。
「…まさか…本当に…。全て忘れてしまったと言うのですか?…赤い盾は一体…」
ハジをこのままどうするつもりだと言うのか…
青年の脳裏に、俯いた小夜の顔が蘇った。
 
□□□
 
「お願い…ハジを…探し出さないで……」
少女は最早涙交じりの声でそう訴えた。細い指が行こうとする青年の黒いスーツの袖を掴んで震えていた。
彼を見上げる真紅の瞳は涙に濡れて普段の彼女より幾分幼ささえ感じさせるのに、その瞳の奥に宿る熱は体を内側から焦がすほど熱い一人の女のそれだ。全てを捨てる程に愛した少女が目の前で泣いている。
けれど、彼女の唇から発せられる名前は、彼女のたった一人のシュバリエである男の名前ばかりだった。
ソロモンは紳士らしく柔らかな微笑をその口元に浮かべると、振り向きざまに彼女の指を一本ずつ外した。
「泣かないで、貴女の言わんとしている事は解ります…小夜」
「でも…」
「貴女の仰る事も、そしてあの男の事も、私には良く解ります。だから連れ戻さなくてはいけないのだと言う事も…。どうかそんな風に泣かないで………」
恭しく少女の前に跪き右手を翳すと、瞬時にその白い掌が鋭い刃へと姿を変えた。
彼女を傷付ける事が無い様に注意深く、己の喉下へ切っ先を当てる。
「中世の騎士は、愛する姫にその剣を捧げたそうですよ…小夜。…私の剣は未来永劫貴女に捧げたものであると言う事を忘れないで…。そしてハジもまた…同じなのですから」
「…止めて…ソロモン。…私は…」
あなたに応えられない…と小夜の瞳が揺れている。
「私は貴女のシュバリエとして生きていきたいのです。決して貴女の望まない様な事はしません。信じられないというのなら…、今すぐこの刃を私の喉に突き立てれば良い。私を殺せるのは…貴女だけなのです。小夜…」
小夜はただ黙って、力無い指でソロモンの右手を引き留めた。
「そんな事…出来る筈無い…。出来る筈無いよ…ソロモン、私はもう…誰の命も奪いたくは無いの」
「貴女は一言…私に命じれば良いのです。ハジを連れ戻せと…」
「だって、だって…ハジは、ハジは今やっと自由なんだよ…やっと私の血から解放されたの、だから…良いのよ。このまま…」
その言葉を裏切るように、小夜の瞳からは新たな涙が次々と零れ落ちた。
 
ソロモンは床に崩れ落ちる少女に手を差し伸べ彼女の体を優しく支えると、耳元で短く『全て私にお任せ下さい…』と囁いた。
いつになく険しい浅葱色の瞳が、じっと白い壁を睨んでいる。
赤い盾は…一体、ハジをこのままどうすると言うのか…。
 
□□□
 
ほの暗い夜の闇の中に降りしきる雨。
濡れた体に寒気など感じる筈もないと言うのに、ソロモン・ゴールドスミスの背筋に冷たいものが走る。
ディーヴァを倒すという同一の目的を持つ仲間だとしながらも、所詮人類にとって翼手とはこの地上から一掃すべき化け物だという事なのか。
彼らにとって必要なのは、翼手を倒す為の唯一の武器である小夜の「血液」であり、そのシュバリエなど使い捨ての道具でしか有り得ないのか。
本能に突き動かされるようにして、自分を睨み返すハジの青い眼光に以前のような力強さはない。
いや、鋭さという意味では、決して衰えてはいないだろう。
今の彼は…むしろ触れれば切れる妖刀のような色香すら身に纏っている。
ただ守るべき者を見失った男の瞳には生気というものが感じられない。
哀れを誘う迷子のような…目的を失った男の抜け殻。
これが、あの…『始祖翼手小夜』の血を受けた最強のシュバリエと呼ばれた男の末路だというのか…。
こうして無為に、自分が何者であるかも知らないまま…この薄暗い街の片隅に埋もれ、消えてゆくというのか。
 
赤い盾は一体…
そして小夜は……。
 
ソロモンの脳裏に、小夜の泣き顔が蘇る。
泣き腫らした瞳で『ハジを連れ戻さないで…』と訴える彼女の信実の心は、そんな強がりとは裏腹にこの男を求め続けているというのに。
『ハジを連れ戻さないで…』
 
「小夜…。それでも私は…この男を連れ帰ります…。例え…力づくであろうと…」
そうでなければ…、貴女も…そしてこの男も生きてはいけないのでしょう…。
ソロモンの呟きが凍えた空気を微かに震わせた。
青年の発した『小夜』という名前に、再びハジの表情が強張る。
金色の髪を揺らして、ソロモンはハジの前に右手を翳した。
ヒュンと風を切る音がして、彼の白い指先から肘の付け根までが鋭い刃へと姿を変える。冷たい雨粒を弾くように、白く浮かび上がる…光を放つかのような鋭さ。
それが本能というものなのか…。
相反する血を受けた兄弟は、例え記憶を失っていようとも、その体は闘争本能を手放してはいない。
ハジは身構えたまま、決してソロモンの間合いへは踏み込まず、隙のない身のこなしでタイミングを計っている。
動きは無い。けれど、二人の間に存在する空気はびりびりと…一触即発の緊張感を孕んでいた。
…無傷で、連れ帰る事が出来るだろうか…?
ソロモンは、きつくその唇を噛んだ。
ベトナム以来、ハジは吸血という行為を断っていた。
最強と謳われながらも、この長い戦いの渦中で彼がその本来の力を揮う事はついに無かった。ハジの戦闘能力については、未だに計り知れない。ハジとそれについて直接語った事は無いが、彼の中では翼手としての己の力を揮う事はどこか禁忌にも似た意味合い持つようだとソロモンは感じ取っていた。その彼が、過去の記憶という枷を失う事で初めて…彼自身が持つ本来の力を発揮出来ると言うのだろうか。
ソロモンは小さく舌打ちした。
どうして…
どうしてこの男なのだろう…?
どうしてこの男でなければならないのだろう…?
小夜…。
ハジが、最初から翼手としての力を封じてさえいなければ、小夜はこれほどまでに苦しむ事も無かったのではないか?
元々は小夜と敵対するディーヴァのシュバリエでありながら、ソロモンはそんな疑問を抱かずにはいられなかった。
憎い恋敵が目の前にいる。
目の前の、漆黒の髪を持つ最強のシュバリエ。
その見目麗しい横顔で、彼女を虜にしたのか…。
その青い瞳に小夜一人を映し、愛を囁いたのか…。
もし…ハジさえこの世に存在しなければ…。
自分こそが、彼≠ナあったのなら…。
そんな思いさえ、ソロモンの脳裏を過ぎる。
しかしハジは、たった一人の小夜のシュバリエだ。
小夜の事だ。きっとこれからも、新たなシュバリエを持つ事は有り得ない。だからこそ…ハジを失う訳にはいかないのだ。
彼を失ってしまえば、小夜もまた生きてはいないだろう。
出来る事ならば、正々堂々と小夜をこの男から奪いたい…。
ソロモンの瞳が妖しく血の色を宿した。
金の髪に鮮やかなカーネリアンの瞳。
古代イスラエルの王であり賢者の名を頂く青年は、覚悟を決めたように、その形の良い唇から小さく吐息を吐いた。
 
殺しはしない。
小夜の前に連れて帰るだけだ。
 
次の瞬間、一陣の風がかまいたちの様にハジの脇を擦り抜ける。
まるで風の動きが見えるかのようにハジは身をかわし、その隙を突くように青年の刃が振り下ろされる。
数メートル先の路上に居た筈の青年が、一瞬の間に眼前に迫っている。その腕、その動き…明らかに人ではない…。
しかし、それ以上にハジを驚愕させたのは、彼に対峙した自分自身だった。
思うより先に体が反応していた。
振り下ろされた刃の下からするりと身を翻し、左の腕で受け止める。人であるならば、明らかに腕を切り落とされる…そんな状況でハジの腕は僅かな痺れを感じるのみで青年の攻撃に耐え、持ち堪える。
どうして、自分にこんな事が出来るのだろう…。
「小夜が…待っています…。ハジ…」
ぎりぎりと力が拮抗する、その狭間でソロモンが訴える。
ハジの心を揺さぶる『小夜』の名前。
しかし自分にとって、もし『小夜』がそれほど大切な存在であるのなら、どうして自分は『小夜』を覚えていないのだろう。
全てを振り払うように、ハジは伸ばした右手でソロモンの胸倉を掴み、力任せに投げ飛ばした。
勢いでバランスを失いながらも、青年は器用に宙で体を捻ると、まるで猫のようなしなやかさで路上に着地する。
雨は絶え間なく降り続いている。
ソロモンは乱れた襟元を、自らの左手で寛げると小さく肩を揺らした。
「お前は何者だ?」
ハジが問う。
「…愚問です。あなたは全て知っているのだから…。思い出して下さい。…小夜の事を…。彼女はあなたの全てだったはず…」
言い終えると同時に、二の太刀が振り下ろされる。
雨を吸って重く垂れる漆黒のコートを翻し、ハジは跳んだ。
その跳躍はまるで背中に翼を持つ者のそれだ。重力の存在を感じさせない、軽やかで優雅な身のこなし。
「小夜とは…一体…」
「これ以上、彼女を悲しませるな。…何があろうと、あなたが小夜の唯一のシュバリエである事は変わらない筈…」
びゅんと風を切り、その切っ先に水滴を滴らせ、ソロモンの右腕がハジを追い詰める。
 
ハジ…
…ハジ……
脳裏に木霊する優しい声音。
鈴を転がすような柔らかな笑い声。
……ねえ…ハジ…?
 
目の前のこの男が言うように、自分は…本当に全て知っているのだろうか…?
小夜という名前も…
この目の前の、金の髪をした男の事も…
そして、どこへ戻れというのか…?
人とは思えない反応で、男の攻撃をかわし続ける自分は…一体何者だというのか…。
 
濡れた黒髪が額に…首筋にぴったりと纏わりつく…それは、もどかしい記憶の糸口のようにハジを苛つかせた。
白く細い指で、額に張り付いた前髪をかき上げる。
その隙を突くように、ソロモンの鋭い一撃がハジの脇を突く。
ハジの中に存在する迷いが、一瞬の判断を狂わせた。
ソロモンの手刀を避け切れず、ハジは大きくバランスを崩した。勢い余って濡れた路上に片膝を付き、体勢を立て直そうと向き直った眼前にソロモンの美しい顔があった。
止めを刺されると、瞬時に覚悟を決める。しかし、実際にその鋭利な刃物がハジを貫く事は無かった。
青年の…暗がりの中でさえ陽の光を宿したような金色の髪は、いつしかハジの黒髪と同じくしとどに濡れそぼっていた。
「小夜の元に帰って下さい…」
ソロモンは路上に崩れたハジの上に覆いかぶさるようにして胸倉を掴み、酷く冷静な表情でそう告げた。
丁寧な口調とは裏腹に、その瞳は燃えるように赤く、腕の力は鋼鉄のように強い。
ハジは抵抗する事を諦めていた。
コートと薄手のシャツの布地越しに、背中に当たる硬く濡れたアスファルトの感触。
ただ、息を吸って吐く。
生きると言う事は、単にその繰り返し。
今のハジには執着する程の価値すら見出せはしない。
押さえつけられる胸を、ハジは大きく上下させた。
自分の名前すらろくに思い出せないような自分を、一体誰が必要としているというのか…。
「何も…覚えていない。…自分の名前も、小夜という名前も…」
「それでも…」
「殺したいのならば…殺せば良い…」
この男には、自分を殺すだけの力も…そして自分を殺したい理由もあるのだろうと、ハジはぼんやりと思った。
仰向けになった頭上から、容赦なく雨が降りかかる。
「その同じ台詞を、小夜の前で言えるのですか?…ハジ…」
「さ…や…?」
 
ハジ…
…ハジ……
脳裏に木霊する優しい声音。
鈴を転がすような柔らかな笑い声。
……ねえ…ハジ…?
 
胸のずっと奥の方で響く、あの優しい声音。
「私は…一体…」
 
「覚えていようが…いまいが…。あなたは…小夜の元に戻らなくてはならない…」
それでなければ…。
それでなければ、小夜は…。
そして…自分は…。
ソロモンの紅玉色の瞳が暗く揺らめいた。
 
その時、二人の背後で耳を引き裂くかのような雄叫びが上がった。
翼手…。
ハジとのやり取りに気を取られていたせいか…こんなに傍に来るまでその気配に気付かないとは…。
 
シュバリエである二人の気配を感じて、集まってきたのだろうか。
連なる雑居ビルの陰から、何体もの翼手がこちらを伺っていた。オペラハウスでの戦い以来、世界は以前にも増して下等翼手に溢れていた。全てはサンクフレシュが世界中にばら撒いたディーヴァの血を基に作られた薬品そして食料…それらによって生まれた薬害翼手だ。
彼らもまた哀れな被害者である。
ソロモンは、その発生に自らも大きく関与、加担していたのだという責任を感じてきつく唇を噛んだ。
世界中を翼手で満たす…それはディーヴァの願いだった。
そして、この地上から翼手を一層する事、それが小夜の望み。
自分がその一端を担ったのだとは言え、この地上に溢れた翼手を一掃する…今やそれがソロモンにとっても使命となったのだ。
本来、下等翼手など自分達の敵ではない。しかし、ハジは記憶を失い今もこうして地に臥している。
この状況で戦えるのか…。
けれど今はもうそんな事を言っている状況ではない。
「ハジ…。あなたにはまだ、生きてするべき役割がある」
翼手と戦い、小夜を護ると言う役目が…。ソロモンは素早い身のこなしで、ハジの上から退いた。緩々とハジが上体を起こす。
彼の暗く燃える青い炎の様な瞳が、倒すべき敵を認める。
「戦え。そして思い出せ…。自分が何者であるのかを…」
シュバリエとは、始祖翼手を護る為だけの存在。
眠る事も、食物を摂取する事もない、そんなシュバリエにとって、闘争本能と言うものはその根幹を成すものなのかも知れない。
戦い、そして相反する血を持つ始祖と交わる事により次世代の始祖を生み出す、その子種としての役割。
シュバリエにとって己が母とも呼べる主、始祖翼手小夜を愛した男と、小夜へのその深い愛ゆえに主に背いた男。
その昔、翼手とは人にその存在を知られる事無く人類の中に紛れ共存していたのだと言う。
しかし今やそのバランスは崩れ、本来あるべきシュバリエとしての姿がどういったものであるかなどこの世の誰も知る由がない。
何が正しいのかなど、自分で決める事だ。
 
ソロモンは小さく舌打ちした。
決して手に入る事のない相手を愛すれば、いつか自分もその身の内に巣食う闇に飲み込まれてしまうのだろうか…。
かつての、アンシェルの様に…。
ディーヴァを愛し、求め、しかし最期まで報われる事のないまま、逝ったアンシェルの様に…。
それでも…例えその身を業火に焼かれても、今更ソロモンに引き返す気はない。
そして、それはハジも全く同じ気持ちであった筈だ。
いっそ自分が彼ならば良かったのか…?
 
自分の身の内側に抱えた矛盾を打ち消す様に、ソロモンは叫んだ。
 
「戦えっ!ハジッ!」
ソロモンが叫ぶと同時に、耳を劈くような雄叫びが上がり、今まで暗い物陰に身を潜める様にしていた翼手達が、ぞろりと姿を現す。
それまで互いに対峙していた二人は背中を預ける形で、じりじりと輪を縮める翼手達に身構えた。
記憶は失っても、体は戦う事を覚えている。
剥き出しにされる殺意に、ハジの全身に鋭い電流が走った。
体のずっと奥から無限に湧き出してくる力。
それは彼の全身を駆け巡り、やがて一点に集中する。
右腕が痺れだし、次第に激しい痛みを伴い見る間に異形のそれに変貌してゆく。
白い皮膚は黒く硬質な鱗の様なそれに変わり、指は長く鋭い得物となる。
暗い闇の中で、ぎょろりと目立つ赤い瞳、せわしなく生臭い息を吐きながら、二人を見下ろす翼手のうちの一体がとうとう堪え切れないように巨体を躍らせた。
瞬く間に距離を縮め、長い腕が抉るようにハジの眼前を掠めた。
ハジはその長身をひらりと翻して難なく攻撃をかわすと、まるで本能に突き動かされるように異形の右手を振り翳した。

                                《続》

20110110
詳しくは明日のブログに書けたらいいと思っています。
全くの書きおろしと言う訳ではないのですが…。

              
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