ぽたりと無垢のフローリングに水滴が落ちて染みを作った。
それは、後から後からぽたぽたと落ちて…まるで少女の後ろを追い掛けている様だ。
心此処に在らずと言った様子で、冷蔵庫から冷えた牛乳の紙パックを取り出すとお気に入りのグラスに牛乳を注ぐ。ハジは膝を付き、白い厚手のクロスで小夜の零した滴のあとを拭き取りながら、キッチンに立つ小さな後ろ姿に声を掛けた。
「…………ゃ。…………。……小夜?」
「……………ぁ」
何度目かに漸く振り返った少女に、男は腑に落ちない様子で首を傾げ、殊更に優しげな表情を浮かべて微笑んだ。
「…遅くまで出歩かせて、少し疲れさせてしまいましたか?」
少しだけつんと尖らせた唇が彼女の不機嫌を物語っている様な…その表情はどこか精彩を欠いていた。
それほどまでに疲れさせてしまったのであれば、誘った身としてはどこか申し訳がなかった。

壁の襟紋掛けには先程脱いだばかりの浴衣。
ダイニングテーブルの上には、屋台ですくった赤い和金が、取り敢えず…今晩だけのつもりで用意したガラスの瓶の中を涼しげに泳いでいる。

確かに…蒸し暑い大勢の人出の中、慣れない浴衣と下駄で長い時間を過ごしたのだから、帰宅して小夜が思った以上に疲れていても不思議ではない。しかも混雑した人込みの中、車を停めた場所まで歩くのはなかなか困難で、一駅だけ利用した電車の中でも座る事すら出来なかった。

ハジは、小夜に気付かれない様に小さく吐息を吐いた。

今夜は、花火大会だったのだ。

□□□

七夕に沖縄へ帰る事が出来なかった埋め合わせに…と言うのは所詮都合の良い言い訳に過ぎない。
もう随分前から、ハジは小夜を今夜の花火大会へ誘うつもりだったのだ。
仕事の関係で、毎年『宜しければ…』と、何枚かの桟敷席のチケットが手に入るのだが、昨年は早くから知人に頼まれていたせいで一枚も手元に残らなかった。
仕事が多忙を極めていた事もあり、結局小夜には声を掛けられないままだったのだ。
だからもう一年近く前から、ハジは来年こそ小夜を花火大会へ連れて行きたいと言う強い思いがあった。
小夜だって何も花火大会自体が初めてではないだろうが、間近で見上げる大きな花火をきっと彼女は喜んでくれるだろうと思った…そんな小夜の嬉しそうな表情を想像するだけで、密かにハジまで幸せな気持ちになれるのだから…彼女の為に買い揃えた浴衣一式も、小物も下駄も、安いものだ。
しかし…もしかしたら…すぐにケジメを付けたがる小夜にとって、それはハジが思う以上に心の負担だったのだろうか?


七夕の夜…花火大会の事を話すと、ハジの予想通り、小夜は花火大会をとても喜んでいた。
日付を確かめると早々にカレンダーに赤いマジックで大きな花丸の印を付け、当日までの日数を指折り数えていた。事ある毎に、花火大会の話題を口にしては、それはとても楽しみにしていたのだ。
しかし…。
「疲れてなんかないよ。花火大会、すごく楽しかったし…」
そうは答えるけれど…けれどその小夜の表情はどこか優れないのだった。

□□□

呉服屋の、小上がりの畳の上いっぱいに反物を広げ姿見の前で何度も肩に当ててみては…恥かしがりながらも嬉しそうな表情で、小夜が悩みに悩んだ末に選んだのは、すっきりとした黒地に濃い赤紫の手毬とピンクと白の八重桜模様の浴衣だった。
帯は同じく桜の地紋が美しい光沢のある白い半幅帯を後ろで愛らしく飾り結びにして。
重なる羽根が可憐なその帯結びは『なでしこ』と言うのだそうで…度々お世話になっている美容室の鏡の前で、小夜は恥かしそうにくるくると回って見せては、そう教えてくれたのだ。
涼しげに見える様にと、襟足を短く切り揃えた髪に真っ白な大輪の花飾り。
細い縮緬の丸紐で細工されたリボンの先に付いた小さな鈴は、小夜の動きに合わせちりちりと優しい音を立てた。
ほんのりと染まった頬。
際立つほっそりとした白い項。
今時は、肌も露わな…様々な浴衣がある様だけれど、小夜の浴衣姿は清楚で可憐な中にも凛とした女性の強さの様なものを感じさせた。
ハジは一目見るなり、思わず息を飲み…言葉を失くした。
浴衣姿の小夜は予想以上に愛らしく、艶やかで、そして美しかった。いつもの元気な表情から打って変わって、女性らしい色香の様なものをふんわりと漂わせていた。出逢った頃にはまだまだ幼い少女の愛らしさばかりが目を引いたけれど、いつしか彼女の中にも大人の女性らしい一面が芽生えているのを思い知らされ……そして、そんな小夜を独占出来る喜びの様なものが男の胸に込み上げてくるのを感じた。
小夜を守りたい。
過保護だと言われようが、何だろうが…小夜を傷付ける全てのものから遠ざけてやりたい。
すっぽりと自分の腕の中に閉じ込めて、彼女の傍らでその笑顔を一生見守っていたい。
そんな深い想いに浸るハジの隣で、小夜は男の言葉を期待してか、円らな瞳を恥かしげに瞬かせてじっと黙っている。
勿論、ハジの脳裏にはありとあらゆる賛辞の言葉が浮かんだ。
しかし、どんな誉め言葉も今の小夜の前には色褪せどこか軽薄で男の下心が見透かされる様な気がして…自分から『浴衣姿を見せて下さい』だなんて言い出したくせに、ハジは何とか、一言だけ『良くお似合いです…』と微笑むのが精いっぱいだった。

浴衣姿の小夜の前で、ハジはそれだけ余裕と言うものを失っていたのだ。

□□□

「…楽しかったよ」
「…それなら、良いのですが…」
その言葉とは裏腹に、小夜の表情は相変わらず浮かないままだ。
小夜はふいっとハジの前を横切ると、リビングのテーブルの上に一口だけ飲んだ牛乳のグラスを置き、恋人に背中を向ける様にしてソファーの上で膝を抱えた。
口では何でもないと言いながらその背中が、ハジに『構って!』と訴えている。
どうやら、小夜自身どうしていいのか解からない感情に苛まれているらしい。
ハジは、覚悟を決めた様にそっと小夜の後ろに腰を下ろした。
自分にどんな非があったのか…ハジ自身見当もつかなかったけれど、今の小夜の言葉を真に受けてはいけない。
何も無ければ、つい数時間前まであんなにはしゃいでいた小夜がこんな風に塞いでしまう筈はないのだ。
「小夜…。明日は金魚の水槽を買いに行かなければいけませんよ。…一匹では寂しでしょうから、もう少し金魚の数を増やしましょうか?…部屋に置くなら四角い水槽よりも、丸い金魚鉢の方が良いかもしれませんね?」
「…………ぅん」
「それとも、バルコニーの朝顔の棚の陰に睡蓮鉢を置いて、そこで飼いましょうか?」
「…………ちょっと、難しそう…かも…」
「…そうですね。きちんとお店の方に飼い方を相談してみないといけませんね」
涼しげな部屋着の薄い生地越しに、細い肩が揺れる。
そこにどんな理由があるのか解からないけれど、訳も言わずそうして独り背を向けて、『私は大丈夫』と装っているつもりなのだろうか…。
そんな強がる様が、堪らなく愛しい。
ハジ自身…心の底から小夜への気持ちが溢れて、もう自分ではどうしようもないほど小夜の事が愛しいのだ。
彼女自身は自覚しているだろうか?
目の前にいる男が、これ程までに骨抜きにされていると言うのに…。

ハジはもう一度、そっと小夜に尋ねた。
「何か、気に障る様な事がありましたか?…もしその原因が私なのだとしたら…」
「……………………」
「…何か?」
忍耐強く重ねて問う。
やや間をあけて、小夜がぽつりと答えた。
「だって…。………だって、だって、ハジ。………全然、私の方見てくれない」

…見て…くれない?

それはあまりにもハジの予想を超えた答えだった。
「…………は?」
思わず、素っ頓狂な声が漏れる。
余程思い詰めていたのか、一度そう口にした小夜は堰を切った様にハジに訴えた。
「…浴衣姿、折角ハジが見せてって言ってくれたのに…。私…」
「………………それは…」
「…あんな可愛い浴衣、買って貰ったのに。…………………私、似合って、なかった、かな?」
しゅん…とした様子で項垂れる様が、小夜が本気でそう思っている事を物語っている。
そもそも小夜はこんな事で駆け引きが出来るほど、器用ではない。
「……ごめんね、折角…。……全然色っぽくも無いし…私…期待外れ…だった?」

…き、期待外れ…?

「…だけど、私…」
「待って下さい、小夜…」
勝手に誤解したまま話を続けて結論付けようとする小夜に、ハジは慌てて『待った』をかけた。
彼女の性格はハジも重々承知していたけれど…、幾らなんでも…期待外れ…はないだろう…。
奥ゆかしい…をとっくに通り過ぎて、自分に自信が無いにも程がある。
小夜はやはり目の前の男が、どれほど自分の事を愛しているかと言う事など大して理解していない。
それがどういう事かと言う事を。
どうして解かってくれないのかと、その思いは最早怒りにも似ていたけれど…しかし自分の目の前で瞳を潤ませる愛しい少女に果たしてそれをそのままぶつける事が出来るだろうか…。
そう誤解させてしまったのは明らかに自分の態度が問題なのだ…。
「……………………」
「それは誤解です。…小夜、…期待外れだなんて…。…私は…ただ…」
小夜の浴衣姿があまりにも愛しく、あまりにも眩しくて、つい…不自然に視線を逸らしてしまっただけなのだ。
背中を向けたままの小夜の、その細い肩にそっと指を掛ける。
顔をそむけようとする彼女の顔を、ハジは強引に覗き込んだ。
観念したのか…小夜はいつもの様に目を赤くして、じっとハジを見詰め返している。
「…………ただ?」
「………ただ」
あまりにも、小夜の事が愛おしくて…

浴衣姿の小夜も…

いつもの何気ない笑顔の小夜も…

そしてこんな風に、唇を尖らせて拗ねる小夜も…


小夜が愛らしい瞳でじっと男を見詰め、ただ…に続く言葉を待っている。

十歳も年下の少女の前で、自分は本当に手も足も出ない。
そしてこんな風に拗ねられるのも、また少し嬉しくて…。

「小夜…」

ハジは小さく彼女の名前を呼ぶと…じっとその瞳を見詰めたまま…ごくんと大きく喉を鳴らしたのだった。


                             《了》


20110108
2010年9月10日のブログより移動しました。
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