満開の桜並木の下で、彼女はそれでも幸せそうに笑っていた。
愛した男とは一生添い遂げる事が叶わなかった。
けれど……。
『いつか、貴方にも必ず大切な相手が出来るから…』と。
眩しい光の中で、咲き零れる桜の花の下で…。
それが彼女の遺した最後の言葉…。


凍雨     三木邦彦


人の住まわない家屋と言うものは、こうも痛みが早いものなのか…。
少年はがらんとした室内を見回して、ほんの少しだけ表情を曇らせた。
家具の位置一つ変わっていないというのに、そこはもう彼の知る自宅ではなくなっていた。
火の気のない寒々しい茶の間、汚れたガラス窓…年老いた祖母がいつも座っていた広縁の板の間には薄らと埃が被り、長年磨かれて纏った亜麻色の光沢は見る影もない。
季節ごとに庭師の手が入り美しかった庭も、ひと夏の間に雑草が蔓延り荒れ放題だった。
そんな光景を目の当たりにしても…もう、涙すら出なかった。
半ば諦めにも似た気持ちで、彼は懐かしい室内を見回しながら、この家の主はもういないのだ…という事を実感する。それまではどこか、夢を見ている様で実感のなかった彼女の死が現実のものとして迫ってくるのだった。
と、同時にそれは…彼は唯一帰る事の出来る場所を失った…という事を意味している。
大正時代に建てられたのだというこの屋敷を、彼の祖母は何度も補修を繰り返しながら大切に守ってきた。しかし…こんな住宅街の真ん中にこれだけの敷地を空き家にしておくのは、周辺の治安と言う意味でもあまり宜しくはない様に感じられ…彼は自分の生活が落ち着いたら…いずれこの土地を更地に戻す事も視野に入れている。
このまま誰か、管理してくれる人間を雇う事も出来るが、しかしこの建物をこのまま残したところで、この家の主が戻ると言う訳ではない。
悪戯に他人の手を入れるより、このまま静かにこの家の歴史を終わらせたい。
ここへ来て、その思いは一層強くなる。
此処へはもう最後のつもりで、別れを告げに来たのだ。
二度ともう、ここへ戻る事は無いだろう…。
それはどこか、決意にも似た思いだった。
彼は立ち止まる事なく、祖母の居室に足を運んだ。
純和風の屋敷の中で、祖母の部屋だけが洋間風の設えになっていた。この家を建てた当時の流行だったのだろうか…凝ったデザインの柱や欄間は時代を感じさせる。
足腰に優しいからと言う理由で運び込まれたベッドも彼女が生活していた時のそのままだ。彼はしばらくその時間の止まった室内の景色を眺めやっていたが、やがて目的を思い出したかのように…迷う事無く壁際の扉を開けた。クローゼットの片隅に立て掛けられた、古惚けた黒い革張りの楽器ケース。銀の金具で装飾されたデザインはやはりこの部屋と同じように時代を感じさせるものだ。
それなりに由緒正しいものの様に見受けられたけれど、詳しい事は解らない。
何でも少年の祖父と言う人物はチェロ奏者だったのだそうで…これは彼にとってその顔も知らない祖父の唯一の形見という事になる。
何より、祖母が…この部屋の主が何よりも大切にしていた品だ。
自分の荷物になど大した執着は無いけれど、流石にこれだけは勝手に処分されては困るだろうと…最後に取りに戻ったのだった。



寂しいと思った事は無い。
彼は物心ついた時にはもう一人だったから、少年の心が今更一人になった事を寂しいと感じる筈もなかった。ただ、春先に亡くなった唯一の肉親だという祖母の事を思い出すと、ほんの少し胸の奥が暖まり…そしてその分しくしくと痛んだ。
日本語も解らない青い目をした孫を、彼女はとても可愛がってくれたのだ。
共に暮らしたのはたった一年にも満たない期間だったけれど…。
彼女が突然亡くなった時、彼女の遠戚だという見ず知らずの人々が多く少年の元を訪れた。
少年には知らされてはいなかったが、彼女には莫大な財産があったのだ。
遺産のお零れを狙うハイエナの様に、時に優しく少年に取り入り、彼が到底自分達の思い通りにならない事を悟ると、手の平を返す様に彼を罵った。
何時の間にそんなものを準備したのか、祖母は『財産の全てを孫に譲る…』と言う内容の遺言書を遺していたのだ。
それはきちんと法律に乗っ取り弁護士立会いの下に作成されたもので、効力は絶大だった。
色々と面倒もあったが…結局彼は祖母の遺した遺産のほぼ全てを手にした。
当面、彼が成人するまでの間…それらの財産は、祖母が懇意にしていた件の弁護士が少年の後見人としてその財産を管理する事になった。幸いにもその男は善良で、その仕事ぶりに疑うべきところはない。流石に中学生が独り暮らしをする訳にもいかず、しばらくは彼の自宅に世話になったけれど…幾ら共に暮らしても家族になれる訳ではない。
気兼ねしたまま、この先もずっと共に生活する事は少年にとって苦痛でしかなく…次の春に彼は全寮制のインターナショナルスクールに進学する事が決まったのだった。
この街を離れる事に、感慨はない。元々生まれ育った街ではない。しかし、彼のたった十数年の人生の中では、唯一と言える…温かい愛情に包まれて過ごした場所だ。
未練はないと思いながらも、しかしもう一度だけ…祖母と過ごしたこの家を訪れておきたかったのだ。
もう二度と、この家に訪れる事は無い…そんな思いを抱きながら、彼はしっかりと玄関の戸に施錠をすると、無表情のままくるりと踵を返した。
大きな楽器ケースを肩に担いで、駅までの道のりをゆっくりと歩く。
過ごしたのは、たった一年にも満たない日々。
どこかくすぐったい様な、祖母の愛情。
勿論、初めて与えられるそれに戸惑わなかったはずはないけれど………。
こんなにもすぐ失ってしまうのならば、いっそ最初から知らなければ良かったのだろうか…。
薄情にもそんな事を思う自分の心は、人としてどこか欠けているのだろうか…。
何一つ持たない孤児の自分が、まるで夢の様に瞬く間に使い切れない程の莫大な財産を手にした…しかしそんなものはきっと、また夢の様に儚く指の隙間をすり抜けてゆくのだ。
確かなものなど、この世に何一つない。
この青い瞳の色と黒い髪の所以どころか…自分には…自分と言うものすら解らない。
自分がフランス人なのか…日本人なのかも………。
父の顔も、母の顔も知らない。
世界は…何もかもが解らない事だらけだ。

暗い川縁の桜並木は、薄く暮れた夕闇に沈んであの日の面影はない。
祖母と最後に歩いた桜並木。
あの日、彼女は何と言っていただろう…。
遠い昔…彼女がまだ少女だった頃…やはり同じ様にこの桜並木の下を祖父と歩いたのだ…と。結局は離れ離れになってしまったけれど、本当に自分達は愛し合っていたのだと…。



『いつか、貴方にも必ず大切な相手が出来るから…』



いつか…。
いつか、本当に…自分にもそんな相手が出来るのだろうか…。

こんな自分でも、必要としてくれる誰かが…現れるというのだろうか…。

答えてくれる人はもういない。

暗く淀んだ川の畔で一人、ふと空を見上げるときらりと儚い光を弾いて小さな氷の欠片が舞い降りてきた。

雪でもなく…雨でもなく…凍ったまま落ちてくるその雨粒の事を凍雨と呼ぶのだと知ったのは、それから随分と後になってからの事だった。



□□□



優しく肩を揺らす感触に目覚め薄らと瞼を開けると、はにかんだ様子で小夜が覗き込んでいた。部屋は既にすっかりと明るい。
「ねえ、もうすぐお昼だよ…」
いい加減起きて…と、痺れを切らして起こしに来たのだろう…枕元の時計を確かめると時刻は確かにもう十一時を過ぎていた。
どこかぼんやりとした様子の恋人に、少女はきょとんと微かに首を傾げる。

………小夜

無言で差し出した男の腕を、訝しみながらも小夜は素直に受け止めた。
跪いた華奢な体を片腕で引き寄せる。
「……ねえ?…ハジ?」
「…小夜、少しだけ…」
優しくベッドの中に招き入れる、少女は甘い声を上げて僅かに抵抗を示したものの、暖かなベッドの誘惑には勝てないのか、戸惑いながらもするりと男の胸に寄り添うとぴたりと頬を寄せた。おろし立ての白いシャツが皺になるのも構わずに、その華奢な体を抱き締める。
「ね…。本当にどうかしたの?」
そんなハジの態度に疑問を抱きながらも、大人しく身を任せてくれる少女。
こうしていると、胸の奥がほぅっと温かく…自分の胸にもまるで灯が燈るかのようだ。

「ねぇ…本当に。…お昼ご飯冷めちゃうよ…」
やがてあまりに長い男の抱擁に…腕の中で小夜が無邪気に唇を尖らせて…ハジは苦笑しながら優しくその額に唇を押し当てた。

温かい……。

あの夜の凍った冷たい雨粒が、まるで嘘のように…。
あの氷の欠片は…果たして雪になったのだろうか…。
それとも、融けて雨になったのだろうか…。

今更もう…そんな事はどうでも良いのだ…。

漸く彼は、帰る場所を見つけたのだ。

                        《了》


20110107
2010年12月12日のブログより移動しました。
仔うさぎハジの中学3年生の頃のお話。

                                  
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