仔うさぎのお留守番5

「…シンデレラだって、午前0時までは付き合ってくれるんですけどね…」
まるで思い出したかのように、ポケットから取り出した花柄のハンカチを手に、ソロモンは小さく呟いた。シンデレラが忘れていったのは、ガラスの靴ならぬ可愛らしい花柄のハンカチだった。
 
 
 
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『何か、ハジには言い辛い事で、悩んでいたんじゃありませんか?…小夜さん』
そう問いかけたソロモンに、少女は頑なな態度を崩さなかった。
小さな音を立てて手にしたカクテルグラスをテーブルの上に戻すと、隣に腰掛けた男に向き直り、小夜はきっぱりと…暗に相談に乗りますよ…と言うソロモンの申し出を断った。
「…彼にも話せない事を…他の人に、話せる訳ありません」
その取りつく島もない潔さにはむしろ喝采を送りたいほど…。ソロモンは呆れる様に頬杖をついて肩を落とした。そんな彼の様子に流石に悪いと思ったのか…小夜もまた小さく『親切にして貰ったのにごめんなさい…』と謝った。
「…いえいえ、良いんですよ。…もしかしたら、当事者じゃない方が話しやすいかと思ったんですけど…」
そう素直に謝られては、こちらとしてもそう答えるしかあるまい。
ソロモンは苦笑した。
約束のカクテル一杯にはまだ早いというのに、小夜は思い詰めた様子で立ち上がった。礼儀正しく頭を下げてソロモンに礼を述べる。
「待って、マンションの前まで送りますよ」
確かそう約束したはずだ。
腰を浮かしかけるソロモンに…けれど、小夜は再び大きく首を振った。
頑なで臆病な彼女らしい。
もしかしたらそれだけ男として意識されているという事かも知れなかったけれど、どのみち自分に分が悪いのは覆しようがない。
強引に迫れば、彼女は二度と自分に近寄りはしないだろう…。
「……まだこの時間なら大丈夫です。一人で帰れます」
申し訳なさそうに…再びぺこりと頭を下げて、ちらりとまだ少し残ったカクテルグラスに視線を投げる。支払いの事を気にかけているのだ。
しかし、こんな場所で露骨に財布を出して良いものかどうか戸惑っている様子が手に取るように解る…そんな初々しい小夜の様子に…ソロモンもまた素直に微笑んだ。
「…こちらが無理を言って誘ったんですから、これ位は奢らせて下さい…」
「………………。ご馳走様でした。…すごく美味しかったです」
男のメンツを立てる様に、素直に愛らしく笑う。そんな彼女の笑みを間近に見られただけでも、今夜は満足しなくてはいけないのだろうか…。
口に出して彼女に確かめるまでもない…小夜の目にはハジしか男として映っていない事は解っている。
けれど、それを知っていてもなお…自分はそんな頑なな彼女が好きなのだ。
思わず、面と向かって『好きです』と…『僕もあなたの事を好きになってはいけませんか?』と、腕をつかみ引き止めて問い質したい衝動に駆られる。
けれど、ソロモンのそんな様子に気付いた風もなく、小夜は軽やかに背中を向けた。
まるで逃げる様に、ドアを出ていく小さな後姿。
こうも見事にフラれるなんて…。
しかも、自分の気持ちすら伝えていないというのに…。
肩を落とし、カウンターに向き直ると…足元に何かが落ちている。
手に取ると、それは優しい花柄のハンカチで…。
そう言えば、小夜がバッグから取り出すのを見た覚えがある。何時の間に落ちたのだろう…、忘れた事に気付けば、ここに戻って来てくれるだろうか…しかし今の彼女にはそんな事に気付く余裕すらないだろう。無くした事に気付けば、少なからずがっかりするかもしれないけれど…だからと言って、このハンカチをすぐに彼女の元へ届ける手立てはないのだ。
ほとぼりが冷めた頃…また時間を作ってあの店へコーヒーを飲みに行こうか…。
 
 
 
ぼんやりと小夜の事に思いを馳せながら、手にしたハンカチを再びポケットに戻そうとした瞬間、背後から静かな声がしてソロモンを呼びとめた。
「あなたが使うには、随分可愛らしい花柄ですね。ソロモン…」
 
…………どうしてこうタイミングが悪いのだろう…。
 
思い掛けない人物の登場に、ソロモンは苦虫を噛んだ様に顔を歪めた。しかしくるりと椅子ごと振り返ると、わざとらしい程にっこりと笑う事は忘れない。
しかしハジの表情はピクリとも笑っていなかった。
「…予定よりも随分と早いお帰りですね。確か予定の便は今日の夕方でしょう?」
「……一日早く仕事が片付きましたので。…社長はまだ向こうに残るそうですが、私は今朝一番の便で…」
「そうですか。仕事がスムーズで何よりです…。お疲れ様…今日は直接自宅へ戻るだろうと思っていましたから、驚きましたよ」
同僚の仕事を労いながらも、こんなタイミングで現れる彼に対してどうしても険の籠った口調になってしまうのは仕方のない事だろう。
「重要書類は自宅へ持ち帰らない方が望ましいでしょう?」
そう答えながら…出張から戻ったばかりの男は、スーツケースを脇に置いたままネクタイの襟元を少しだけ緩めると、目敏く見付けたハンカチを興味深そうに観察している。
「…何か?」
「…いえ…どうも私はそのハンカチに見覚えがあるのですが…。見間違いでしたら、謝ります…。ただ、どうしてあなたがそんな可愛らしいハンカチを持っているのか…少し、……興味がありまして…」
「どこにでもある花柄でしょう?」
言い終わらないうちに、背後から身を屈めた男の指がすっとハンカチに伸ばされる。
「ええ、でも。よく見ると…ここに、少し染みがあるでしょう?……これは…、ミートソース……でしょうか…」
言われてみれば…指先には確かに、淡くオレンジ色の染みが見える…だろうか?
気のせいのような気もするし、確かに染みがあるような気もする。
振り返ると、間近にハジの見透かしたような視線とぶつかる。
既に何もかも知っているというのだろうか…。
冷ややかな男の視線に耐えきれず、ソロモンはつい口を滑らせた。
「ミートソースの染みは中々取れないのですよ…」
「………。…………よくそんな細かい事を…。変に勘繰らないで下さい…何も僕達に疾しい事はありませんよ」
そうだ、少し会って話をしただけで…その指先に触れた事すらない。
「…僕達?……………疾しいも何も…。…何も、言っていませんが?…私は」
「…………………………!」
他愛もない。
何も彼は最初から小夜の名前すら出してはいないのに…。
普段ならしらを切り通す事位訳もないというのに…それだけ今の自分は彼に対して余裕を失っているのだ。
実際はどうあれ、心の中は疾しい気持ちで満たされている…という事か…。
ソロモンはぐっと口を噤んだ。
ハジはソロモンの前をすっと素通りすると、コートを脱いでカバンから取り出した書類のファイルをデスクの引き出しに仕舞いロックを掛けた。何事も無かったかの様にパソコンの電源を入れると、男はいつも通りにメールのチェックを始める。
あまりにいつも通り過ぎて、気味が悪い位だった。
「…帰らないんですか?」
「……帰りますよ。急ぎの用件が入っていなければ…」
受信したメールに順番に目を通しながら、ハジは顔も上げずに答えた。
特に変わった様子はない。
自分の恋人と同僚とが、自分の留守に自分に内緒で会っていたかも知れないというのに…どうしてこう鷹揚に構えていられるのか…
ソロモンもまたパソコンのモニターを見詰めながら、しかしうわの空でハジの様子を伺ってしまう。彼は至っていつも通りで、ざっとメールのチェックを済ませると何件かのメールに返信をし、何件か電話連絡を入れ、パソコンの電源を落とした。
このまま何も問い質す事無くこのまま帰宅するのか………伺う様にソロモンが顔を上げると、ハジはやっと気が付いた様子で彼に話しかけた。
「…………出張の土産は女の子に渡しておきましたから。人気の期間限定スウィーツだそうですから、宜しかったらあとで、皆さんで召し上がって下さい。…それから。…………そのハンカチ。……もし、小夜に返すものであれば、預かって行きますが…?」
いつも通りの態度が、余計に腹立たしい。
ソロモンは仕方なく、デスクの上に置きっぱなしだった小夜のハンカチをハジに手渡した。自分から進んでバラした訳ではないにしろ、二人で会った事が彼に知れてしまった事に、心の中で深く小夜に詫びながら…。
「…ミートソースの染みだなんて…。そんな細かい事までチェックする様な細かい男は…いつか小夜さんに嫌われますよ…」
「…まさか…………。…いちいちそんな細かい事を覚えている訳ないでしょう…」
捨て台詞に振り返り、男は思いがけず情けない表情で笑った。
 
 
 
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………えげつない事をしてしまった…。
 
あの後、ソロモンにはカマを掛けたの何だのと散々文句を言われたけれど…しかし他に自分はどうすれば良かったのだろうか…。
ハジはポケットのハンカチを握りしめてほぅっと長い溜息をついた。
確かに、このハンカチの柄に見覚えはあった。
小夜が殊の外大切にしていた一枚だ。確かに特に高価なものではない…どこにでもある一枚500円の花柄のそれは、しかし彼女がハジと初めて出会ったあの夜に持っていた…あの火災の難を逃れた数少ない持ち物なのだ。
けれど、それが小夜のものであるという確証は持てなかった…。
ストレートに『それは小夜の物なのではありませんか?』と訊けたら良かったのかもしれないが、しかしどうしてソロモンが小夜のハンカチを持っているのか…と、その素朴な疑問が頭に浮かんだ瞬間、説明のつかない嫌な気持ちが彼を支配していた。
内心の動揺をそのままソロモンに知られるのが嫌だったのだ。
無表情など別段誉められたものでは無いけれど、それでもたまには役に立ったのだろうか…。
 
 
自宅玄関前に立つ。
予定より早く仕事が片付いたので朝一番の便に席が取れた事をメールしておいたけれど、
昼過ぎのこの時間…流石に小夜はまだ帰宅していないだろうから、敢えてインターホンを鳴らすような事はせずカードキーを翳し久しぶりの玄関ドアを開けた。
奥のリビングから物を落とした様な大きな音がしてパタパタと慌てた様子で小夜が駆け出してくる。
もし犬の様な尻尾が彼女についていたとしたら、きっと千切れんばかりに振り切れている事だろう。頬を真っ赤に染め土間に転げ落ちそうな勢いでハジの胸に飛び込んでくる。
勢い良く抱きついてくる少女の体を何とか胸で受け止めると、ハジは漸く黒いキャリーケースから手を放した。
「お帰りなさい!ハジ」
「…ただ今戻りました。…小夜?」
今の今までずっと小夜の事を考えていたのだ。
まだ授業中である筈の彼女がここにいる事に面食らう。
「小夜、授業は?」
「…大丈夫、友達に代返もノートも頼んであるから…」
「………いえ、そういう事では」
………………………なく。
まさか自分が予定より早く帰って来るという理由で講義を休んでしまったのだろうか…。
ハジのそんな思いを察して、少女は噛みつくような勢いだ。
「…だって!………ハジ…一週間も、留守だったのに…」
「出掛ける時は、平気だと仰っていたじゃありませんか?」
「…留守番くらい出来るけど、…でも会えないのが、こんなに寂しいと思わなかった…」
ハジの胸に腕を回して男を見上げる小夜は、甘える様に尖らせた唇が艶やかに濡れてまるで男を誘っているようにさえ見えた。
まるで無自覚なのが、彼女の凄いところなのだけれど…。
それだけ、自分もまた彼女と離れていた事が堪えているのかも知れない。
離れていたのはたった一週間だというのに…。
これでは、海外出張で一か月以上留守にする事にでもなったら、互いにとてもやっていけないのではないだろうか…と思われる。
しかし、一週間ぶりであろうとも流石に玄関先で彼女を味わうようなまねができる筈もなく…ハジは何とか理性の力でその誘惑に耐え、そっと唇を額に重ねるだけにとどめると、覗き込むようにして微笑んだ。
「小夜…、お願いですから…せめて靴くらいは脱がせて下さい」
 
 
 
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『コーヒー入れるね!』と、そう言ってキッチンへ消えた小夜を見送ってから、ハジはやっと着替えるべくスーツのジャケットを脱いだ。
脱いだそれをハンガーに掛け、ネクタイを解き、シャツのボタンを外す。
一連の流れの間も彼の頭の片隅を、あのハンカチの事が支配していた。
小夜との間に何があったのか、ソロモンに尋ねるほど間の抜けた事があるだろうか…。
馬鹿な男の意地かも知れなかったけれど、とてもソロモンにそんな弱みを見せたくはなくて。だからと言って…まさか小夜にこのハンカチを突き付けてソロモンとの事を問い質す様な真似が出来る筈もなかった。
 
これでは…。
『小夜に返すのなら…』も何も…。
情けない話だけれど…。
 
荷物を開き、一週間分の洗濯物を洗濯籠に押し込みながら、ハジは悩んだ末にその花柄のハンカチも一緒に洗濯籠の底に入れてしまう事にする。
洗濯物の山に混ぜてしまえば、うやむやのままさりげなく小夜の元にハンカチを返せるだろうと思ったのだ。
彼らの間に何があったのかは、結局解らないままになってしまうけれど…。
 
しかし、ハンカチを隠そうとしたその瞬間…。
「…どうして…。どうしてハジがそのハンカチを持っているの?」
不意を突かれたように、背後から小夜に手元を覗き込まれた。
内心の動揺を押し隠す様に、ハジは穏やかに微笑むと、さもこのハンカチがどうかしたのですか?と言った何気ない口調で小夜に答えた。
「…今、ここで…洗濯籠の後ろから見付けたのですよ。落としたまま洗い忘れたのではありませんか?」
「嘘!」
小夜の答えは、きっぱりとしていた。
「洗濯籠の後ろだって洗濯機の後ろだって、私…隅から隅まで探したんだから…。あの日持って行ったバッグの中も、コートのポケットも全部…」
「……小夜?」
…あの日?
「…だから」
そう言ったきり、小夜は暫く黙り込むと、何かを決意した様にぎゅっと唇を噛み締めて男の白いワイシャツにしがみ付いた。
顔も上げられないまま…胸の中で、小夜が小さく問う。
「……それ、………もしかして、ソロモンさんが持っていたの?」
「……………今、洗濯籠の…」
「…ハジっ!」
どうしてどんな見え透いた嘘を言うの?…と、その円らな瞳がハジを射る。
けれど、再びハジの胸に顔を埋めた。
「…………さい」
「………小夜?」
「……ごめんなさい」
震える、その小さな背中をそっと抱き寄せる。
背を屈め覗き込むと、予想通り彼女はもう半べそをかいていて…改めて…とても小夜を問い詰めるような真似は出来ないと、自分の中で胸の奥に詰まっていた何かが形を変えていくのを感じた。自分の留守にいったい何があったのか…気にならない筈は無かったけれど、それでも自分が彼女の事を何にも代え難く愛している事に変わりはないのだ。
 
ハンカチは、今…偶然洗濯籠の後ろに落ちていたのを見つけただけ…。
もう、それで良い。
 
「…何か、私の留守中に…小夜が謝らなければならない様な事が?」
胸に強くしがみ付いて、小夜が首を振る。しかしそっと顔を上げるともう一度『ごめんなさい』とハジに謝った。
「どうか、したのですか?」
「…………だって」
「……………小夜?」
「本当は、ハジの顔を見たらすぐに謝るつもりだったの…。でも…」
「ですから…」
「私、この間…ハジに嘘…ついたの。…わざとじゃないけど…でも…」
「小夜…」
「…ちゃんと、謝らなきゃ…って…」
生真面目にハジを見る…そんな小夜を信じていない訳ではない。
こうして、今腕の中にいてくれる彼女が愛しい…ただそれだけで…。
「この間、外にいる時にハジが電話くれて…、私咄嗟に…香里と一緒って言ったけど…でも本当は、ソロモンさんと居たの。…駅前の…マクドナルド…」
「…マクドナルド?」
ああ、あの時…。
いつもより少し早く電話したあの夜、思いがけず小夜の声はどこか賑やかな場所にいる様に聞こえて、何気なく尋ねたハジの一言に小夜は『大学の友人の香里と居る』と答えたのだ。どこか少し様子がおかしかったけれど、携帯の声が聞き取り難いせいかと納得もした…あの夜。
「……昼間、ハジの会社の前まで行ったの。そしたら偶然ソロモンさんと会って…」
「…一緒にハンバーガーを食べる約束を?」
「……………ちょっと質問したい事があって。そしたら…今は忙しいからって…」
「なるほど…」
ソロモンに何を質問しようとしたのか…想像もつかないけれど…。
そういう事なら、有り得なくもない。
「……電話でなんて説明したらいいのか…解らなくて…」
そんな小夜を、ハジはただそっと優しく抱きしめた。
「………小夜」
「…嘘ついて…ごめんね…」
尚更強くしがみ付く少女を覗き込むと、ハジは出来るだけそっと穏やかに微笑んでみせると、耳元に『こちらこそ…』と、囁いた。
「…私も、嘘を付いてしまいました…」
意外そうな表情でハジを見上げる小夜に、ハンカチを示す。
「…………お互い様ですから」
「…………ハジ」
涙に濡れた赤い瞳が、とろんと潤んでいる。
どうしようかとハジが躊躇っていると、腕の中の小夜が背伸びして小さく訴える。
「………キス…して…」
「………………」
そんな引力に、男がもう逆らえるはずもなく…。
そっと唇に触れると、小夜が噛みつくように口付けが深くなる。
離れられるはずがない…。
甘い吐息と共に解放すると、念の為に質問する。
「………………小夜、………キスだけ?」
広い背中を抱き締める細い腕にぎゅっと力が籠る。
「…………………………。………ゃ、…………もっと、………えっちな事…」

したい。
吐息の様な声が震えながらハジに答えるのを、ハジは深く瞼を閉じて聞いた。
 
 
                  《続》


20101225
6は裏行き決定デスネ…苦笑。すみません…なんつうか…。小夜たんにつくづく甘い男です…仔うさぎハジ(に限らず…デスネ)
多分7で終わるので、そこまでお付き合い頂けましたら嬉しいです。
   
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