仔うさぎのお留守番4


「……小夜さんでも、彼に嘘を付くんですね…」
小夜はびくんと大きく肩を揺らし、正面に座るソロモンの顔を伺った。
笑っている…さもおかしそうに…。
小夜自身、ハジにこんなあからさまな嘘を付いた事など今までになかった。
ハジに隠し事をするなんて考えてみた事もないのだ。
咄嗟にその言葉が自分の口から出た瞬間、ポツンと小夜の胸に疾しさが染みた。その染みはソロモンに言及された事で猶更ジワリと小夜の奥に広がってゆく。
しかしいくら彼らが友人同士とは言え…暗くなってから…こんな風にソロモンと二人でハンバーガーを食べているなんて、電話で何と説明すれば良かったのだろう…。
大体、ありのままを話したところで…どうして彼といるのかと聞かれたら、自分がハジの事を直接本人にではなく、ソロモンから聞き出そうとしていた事がおのずと彼に知られてしまう。
嘘を付いたのは、彼に心配をかけたくなかっただけなのに…疾しさは後から後から湧き上がり、小夜の心を満たしてゆく。とっさに誤魔化しただけなのに、電話越しのハジの声を思い出すだけで彼に対する申し訳なさで胸がいっぱいになるのだ。
「僕はお友達の香里さんじゃありませんよ。彼に…誰と一緒か訊かれたのでしょう?」
年上の男の鋭い質問に、言葉が出てこない。
「………………。………い、今の状況を、電話でうまく説明する自信が無かったんです!」
「…確かにね。……ハジを抜きにして僕と貴女が二人で会うって事自体…今までに有り得なかった事ですから…誤解されかねません。…ああ見えて彼は、独占欲の強い男ですからね」
ソロモンの解釈に小夜は素直に頷いて、冷め掛けたカフェラテをこくんと飲んだ。
「私…彼に心配、かけたくありませんから…」
小夜の答えに頷きながらも、どこかソロモンの瞳は不穏な色を湛えている様に感じられた。
何を考えているのか解らない。
何度も言葉を交わした事のある相手ではあっても、自分はソロモンの事を何一つ知らないのだ…と気付く。
急にこうしている事が怖くなった。
もう質問などどうでも良い。
早く帰りたい。
早々にチーズバーガーを食べ終えると、そわそわと店頭の時計を仰いだ。
「本当に小夜さんは良い子ですね…。彼が帰るのは明後日なんですから…少し位羽目を外したってばれたりしませんよ…」
「…は、羽目を外すって…」
「………たまには少し位心配させた方が良いって事です…」
「……………ぇ?」
「例えば…今から僕が、折り返しハジの携帯に電話をかけて…先程の小夜さんの言葉は全て嘘で…今僕達は一緒にいるって事を彼に教えたら…」
「…こっ!困ります!!…そんな…」
「このタイミングで折り返し電話すれば、いくら彼でも僕の言葉の方を信じると思いますよ」
今にも泣きだしそうな瞳で、小夜はきつくソロモンを睨み付けた。
「ど…して、そんな意地の悪い事を言うんですか?…私が何かソロモンさんの気に障る事をしたんですか?」
「…そうではありませんよ」
少し冗談が過ぎてしまったかと、ソロモンは素直に手にした携帯電話をポケットにしまった。
自分は彼女を泣かせたい訳ではない。
寧ろ心から笑っていて欲しいと思う…それなのに目の前の少女は一向にソロモンに気を許す事は無い…笑うどころかいつも緊張した面持ちで自分との距離を保とうとする。
ハジと言う恋人の存在が彼女をそうさせているのか…それとも、臆病で用心深いのは彼女の元々の性格なのだろうか…。
女性に声をかけてこんな風に思い通りにいかない事は初めてで…、その上…上手くいかなければいかない程自分はこの少女に惹かれている。何も意地悪をしようと思った訳ではない。ほんの少し彼女を誘う糸口が欲しいと思っただけなのだ。
「………じゃあ、どうして…?」
ソロモンはその問いには答えなかった。
「……電話は止めにします。…僕は何も…小夜さんを困らせたい訳でも…泣かせたい訳でもありません。……その代り、今からもう一軒付き合って下さい」
その代りも何も…。
ソロモンは心の中で自嘲する。
彼女には何の非は無いというのに、こんな陳腐な台詞でまるで脅す様に誘う事しか出来ないなんて…。
「……………一軒?」
「そう、カクテル一杯だけ…。それ以上は引き止めませんし、きちんとマンションの前まで送って差し上げます。貴女が嫌がるような事は何もしませんよ、約束します」
「………本当、に?」
おずおずと、『本当にそれでだけ良いの?』と男を覗き込んでくる。
彼女がそんな取引に応じる必要などないというのに…小夜のあまりの素直さに、ソロモンは毒気を抜かれたように笑った。
「…本当です。流石に僕だって…ハジの恋人である貴女に悪戯に手を出せるほど…いい加減な男ではありませんよ。僕は貴女を泣かしたい訳でも…ハジを怒らせたい訳でもないんです。もう少し、…静かな場所で小夜さんと落ち着いて話がしたい。…でもこうでも言わなければ貴女は了解してくれないでしょう?」
随分迷った様子で、小夜は俯いて黙り込んでいた。
手元のカップのカフェラテはもう残っていない。チーズバーガーも丸めた包装紙を残して小夜の胃に納まってしまった。
ソロモンもまた根気よく小夜の答えを待っている。
小夜は覚悟を決めたように、ぎゅっと唇を噛んで顔を上げた。
 
 
 
□□□
 
 
 
オレンジジュースとレモンジュース、それにパイナップルジュースをそれぞれ三分の一ずつ。
それがシンデレラと言うカクテルのレシピだ。
「心配しないで下さい。これはノンアルコール・カクテルですから…」
磨かれたカウンターの向こうで初老のバーテンダーもにっこりと笑っている。
 
ソロモンが小夜を誘ったのは、都内でも名の知れたホテルのバーラウンジだった。
スーツ姿のソロモンにエスコートされ初めて訪れるその空間は、小夜にはどこか敷居の高い場所だったけれど、幸いにもフェミニンなワンピースにパンプスを履いていたおかげでドレスコードに引っかかる様な事なかった。
長いカウンターは夜景を眺められる様、窓際に沿って設置されていた。
小夜はキラキラと輝く夜景を眺めながら、ついさっきまでチーズバーガーをぱくついていた自分が、どうしてこんな所でソロモンと並んで座っているのか…まるで狸に化かされたような気分だった。
差し出されたカクテルグラスには綺麗な色のミックスジュース、どうして良いのか解らずにソロモンを伺うと、彼の手のグラスには透明な炭酸の泡に一かけらのライムが一層鮮やかに見えた。
促されてグラスに指を伸ばす。
小夜は小さく「頂きます」と断って、形ばかりの乾杯をする。
おずおずと唇を付ける、想像していたより…そのカクテルはずっと美味しかった。
オレンジジュースをベースに舌先に広がるレモンの酸味とパイナップルの甘みが程よいバランスで、ついもう一口…と小夜はグラスを傾けた。
隣で、そんな小夜を見詰めて嬉しそうにソロモンが笑っている。本当に、ハジとは対照的な、どちらかと言えば明るく朗らかな笑み…、ハジはもっと押し殺したように瞳を細めて静かに微笑むのだ。
そうしていても、小夜は無意識にずっと目の前の男とハジとを比べていた。
案内されるまま…ここへ来るまでも、ハジの事が頭を離れた事は無い。
「…今日はまた一段と可愛らしいお嬢様とご一緒ですね…」
どうやらソロモンはこの店の馴染みらしく…バーテンダーが、控えめな社交辞令を述べると、
「……残念だけど、僕の彼女ではないんですよ。今夜は特別に付き合って貰っただけで…。彼女はハジのね…」
ソロモンが肩を竦めて訂正してくれた。その言葉に小夜はほんの少し安心する。
バーテンダーはほんの少し驚いたような表情で小夜を見て、しかし余計な事は言わず微笑んで受け流し、ごゆっくり…と会釈すると、別の客からのオーダーを準備し始める。それはとても無駄のない洗練された動きだった。客の関係に必要以上に立ち入らない姿勢がプロを感じさせた。
………けれど、今の様子からすると彼はハジの事もよく知っている様子だ。
「…たまに、二人で飲むんですよ…。ここで…」
小夜の疑問を敏感に察したのか、ソロモンが答えた。
「……二人で?」
「………ええ。…可笑しいですか?…仕事上の打ち合わせを兼ねている事もありますが…仕事帰りにプライベートでも…たまには…」
そう言えば、何度かソロモンと一緒だったと聞いたことがある。
「…二人で何を話してるのか、…想像付かなくて…」
小夜が素直にそう話すと、ソロモンは、ふふ…と笑った。
この少女は、本当に解り易い…。恋人の話題になると、余程興味があるのか…逸らしがちなその丸い瞳が食いつく様にソロモンを見詰めるのだ。
「…秘密です。…でも多分、親しい友人とは言え…小夜さんとお友達の香里さんの会話とは全然違うでしょうね…。…彼は多分、貴女といる時が一番機嫌の良い時で、一番雄弁ですよ」
そう答えながらも、ソロモンは頭の片隅で冷静な自分を見ている。
これは嫉妬なのか…自分の心の片隅に燻る炎の正体を彼自身掴みかねている。
いや…本当は自分の気持ちを見極めるのが怖いだけなのだ。
本気の恋なんて…自覚してしまえば、苦しいばかりだ。
それならば、もう中途半端に彼女に声を掛けるのを止めたら良い。
自分でも、解っているのに……。
 
「…あの、……ソロモンさん?」
…何か悪い事を訊いてしまったのだろうか…。
急に黙り込む男に、小夜はつい不安を駆られ覗き込んだ。
 
黒目がちな大きな瞳が、じっと自分を覗き込んでくる。
アルコールも入っていないのに、雰囲気に酔ってしまったのか…どこか濡れた様な艶。
不安げに開かれた半開きの唇は口紅も塗っていないのにほんのりと薔薇色で、ふっくらとしていた。十九と言う年齢の割には、どちらかと言えばまだ幼く可愛らしい雰囲気の小夜の…思い掛けない表情に、男の胸がドキンと大きく高鳴った。
まるで出会いがしらの事故に遭った様な気分だ。
ハジもこんな風に、彼女に惹かれたというのだろうか…。
それとも、今夜に限って…この程度のアルコールに酔ってしまったというのだろうか…。
けれど…。
 
もっと…彼女の視線を独り占めにしたい。
 
それは、柵も何もかもを置き去りにした男の本能の様な思いだった。
不意に込み上げて、彼を飲み込んでゆく。
けれど…。
 
想いを振り切るように、ソロモンは小夜に笑いかけた。
「小夜さん、前に僕が言った事…。覚えていらっしゃいますか?」
「………え?………前?」
「もし、ハジに言えない様な事で困ったら…僕のところにおいで…って言ったでしょう?」
 
 
ああ、確か…。
あの時…。
 
ハジの昔の恋人だった女優「妹尾沙希」が小夜の前に現れた時…。
ホテルのティールームで…。
 
「何か、ハジには言い辛い事で、悩んでいたじゃありませんか?…小夜さん」
「そんな事…」
 
からん…と、ソロモンのグラスの氷が鳴る。
 
全てを許容するような男の眼差しの前で、小夜は否定する事も、肯定する事も出来ず、ただ…じっと固まっているのだった。
                             

                                           《続》


20101217 
やっと何とか更新です。なかなかハジが出せずにいて、自分でも書きながらたまにイラッとしてしまうので、次こそはハジを出そうと思います。満を持して…(笑)

なんだか、嘘を隠すために、もっと言えない事態に陥ってしまう小夜たんなのでした…。

                             
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