無題


まばらに生えた木立の向こうに、まるでのめり込む様に落ちてゆく夕陽。
辺りは一面の銀世界…吹く風は相変わらず身を切る様な鋭さを含み、吐く息はすぐさま凍りついてキラキラと光りを弾いた。
好天にさえ恵まれればこんな北の果ての地であっても、太陽は燃える様な赤い色を覗かせるのだ。

降り積もったばかりの柔らかな雪に足を取られながらふと立ち止まった小夜は、ただ呆然と太陽の沈む様を見ていた。
旅の途中。
今日は天気のお陰か…思っていたよりもずっと長い距離を進む事が出来た。
次の町までは後半刻と言うところか…。
日が沈み切る前に、何とか休める場所に辿り着きたいと先を急ぐハジは、小夜がふと後ろについてきていない事に気付くと、今来た道を小夜の元まで戻り僅かに心配そうな瞳でじっと小夜を見詰める。
「……………小夜?」
静かな声音は普段と変わる事はない。
小夜はじっと自分を見詰めるハジに、視線を投げた。
「…何でもない。行きましょう?」
思いを断ち切る様に踵を返し、小夜はハジが踏み固めた雪の上を進んだ。
ハジはそんな小夜の背中を追いながら、彼女の異変に敏感に気付いていた。
しかし…。
ハジには小夜に掛けるべき言葉を見付ける事が出来なかった。
自分は小夜のシュバリエとなったのだ。
自分は既に遠い過去を懐かしむ幼馴染でも、ましてや恋人でもない。
小さな小夜の背中。
その両肩に圧し掛かる重圧と、その柔らかな心を苛む罪の意識を…どうしてやる事も出来ない。
そんな無力感がハジを満たしていた。
「…ねえ、ハジ…」
不意に小夜がハジを呼んだ。
ハジは小さく返事を返すと、振り返った小夜の前に頭を垂れた。
小夜はそんなハジの様子に一瞥をくれただけで、再びじっと沈みゆく夕陽に視線を投げている。
先程よりもやや深く沈んだ夕陽の影が、雪の上に長く尾を引いている。
直に夜が落ちて来る。
夜の優しい暗闇が、きっと涙を隠してくれる。
だからもう少し…。
小夜はきつく唇を噛み締めた。
「……小夜?」
「…ハジ」
小夜に呼ばれ、ハジもまた小夜の見詰める先に視線を向ける。
燃える様な夕陽。
いつか二人、沈む夕陽を並んで見詰めた幼き日の思い出。
あの時、『綺麗…』とはしゃいだ小夜は、ここにはもういない。
そして自分も…。
こうしていると、小夜が一体何を思い、何を感じているのかが…手に取る様に解かった。
しかし、自分はもう彼女を苦しめる眷属となったのだ。
この体はもう、眠る事も、食する事もない。凡そ、人として大切である感覚を失った。
しかしそれ故に、自分は今小夜の傍らでこうして彼女の身を守る事が出来る。
それに何の不満があろう…。
それに何の…。
それこそが彼の本望であった筈だった。
しかし、堪え切る事が出来ない様に…ハジは小さく呟いた。
「ボルドーの景色に似ていると思うのは、気のせいでしょうか…」
似ている筈がないと言うのに、そう思わせるのは久しぶりに顔を覗かせた夕陽のせいだろうか…。
あの日…。
いや、数え切れない程の日々。
何気なく見詰めてきたボルドーの美しい夕焼け。
幼い日の美しい思い出。
小夜は一度だけ、泣きそうな瞳でハジを見上げた。
そして切なく眉間を歪めると、崩れる様にハジの腕に縋った。
折れそうに細い小夜の体に、何も感じないと決めたハジの胸も痛む。
しかし、それはほんの一瞬の間。
彼女はすぐに気を取り直す様に、再び自分の足で雪を踏みしめた。
「…行こう。ハジ…」
休む間など無い。
直にまた休眠期がやって来る。
宿敵を追っている様で、まるで追われる様に…追い立てられる様に、小夜は再び足を前に運ぶ。
前に…。
ただ前に進む事…。
過去を振り返る様な感傷は要らない。
もう、すぐに夜がやって来るから…。
夜の闇が全てを奪ってくれるから…。

ハジはただじっと前を行く小夜の小さな背中を見詰めた。

沈みゆく夕陽を『綺麗』と素直に言える二人はもうここにはいないのだ。

                               ≪了≫


20101130 
2010年1月17日のブログに載せたSSです。こっちに移すのを忘れていました…。

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