仔うさぎのお留守番3


駅前のハンバーガーショップの店内は比較的空いていた。
入口に面した長いカウンターの中央で、小夜は少し迷ってチーズバーガーとサラダのセットを頼む。サイドメニューをサラダにしたのはやはり全体のカロリーを気にしての事で、決してフライドポテトが嫌いだった訳ではない。寧ろ好物であるそれに未練を魅かれながらも会計を済ませ…女性店員が商品の準備をする間、さりげなく見渡した客席にソロモンの姿はまだ見当たらない。小夜はショルダーバッグをしっかりと肩にかけ直すと、準備の整ったトレイを手に、どの席に着こうか…と戸惑いながら、なるべく手前のカウンターから近いテーブル席に落ち着いた。
待ち合わせと言うものはどこか落ち着かない。例え相手が誰であろうとも…。
携帯電話で時間を確かめると、待ち合わせの午後8時を漸く少し回ったところだった。
ソロモンはハジと同じポストなのだから、きっと忙しい毎日を送っている筈で…そんな人に急にこんな風に約束を取り付けてしまった事に、少々気が引ける。
勿論、小夜は彼と食事がしたかった訳ではなく…誘ったのは彼の方だけれど…。
ハジが出張中なのでどうせ帰宅しても一緒に食事する相手はいない事を思い、それなら…と、夕食のつもりでチーズバーガーを頼んだものの、だからと言ってソロモンが姿を現す前に自分だけ食べ始めている…と言うのも憚られる気がして、小夜は小さく鳴ったお腹の音に気付かなかった事にすると、ひとまず温かいカフェラテに指を伸ばした。
飲むと言う程でもなく…熱い紙カップの縁にそっと唇を付ける。
ハジは今頃、どうしているだろう…。
流石にもうお仕事は終わっているだろうか…。
それとも、仕事先の相手と食事に行っているかもしれない。
毎晩必ず、ハジは小夜の携帯に電話をかけてくれるけれど…それは大抵小夜がお風呂を済ませるのを見計らったかの様に10時頃の事で…。
当たり前だけれど、今こうして自分がソロモンと待ち合わせをしている事などハジは知る筈もないし、わざわざ連絡するような事でもない。
…筈だ…。
少し、質問をするだけ…。
そう…。ほんの少しだけだ。
ソロモンに質問したいのは、他でもない…ハジの事だった。
直接、本人に聞けない様な事ではなかった。
けれど、どうしてそんな事を知りたいのか…と問われたら、勘の鋭いハジの事だから小夜の抱える細やかな悩みのようなものに気が付いてしまうかも知れない。
まさかこんな風に待ち合わせする事になろうとは思ってもみなかった…ただその場の思い付きで、ソロモンに聞いてみようと思ったのだ。
ソロモンの目から見たハジと言うものにも少し興味があったのかも知れない。
ハジは中々認めないけれど、しかし小夜の目に彼らは気の置けない友人同士と言う様に映らなくもない。実際はどうなのだろうと、今更ながらほんの少し不安に思ったりもする。
 
「小夜さん…」
驚いてビクンと大きく肩を揺らすと、申し訳なさそうに笑って男が頭を下げる。
考え事に耽っていた小夜の前に、突然…当のソロモンが現れたのだ。
「すいません、少し遅刻してしまいましたね…」
そう言って優雅な物腰で小夜の向かいに座る。
手にしたトレイには、ごく当たり前の様に新発売のハンバーガーとポテトとブレンドコーヒーのセットが乗っていた。
有り触れた日常の景色の中で、しかし彼と言う存在はかなり目立っている。こうして目の当たりにしていても、スーツ姿の彼がハンバーガーを齧る姿はどこか不自然な気がするほど…。
すぐ近くの席に座るOL風の二人連れの女の子の視線が、不自然な程ソロモンに向いている。
いや、その二人だけではなく、店中の女性の目がソロモンに…そしてその待ち合わせ相手の小夜に集中していた。
しかし、ソロモン自身は至って気にした様子もなく、小夜の向かいに座ると改めて『遅れてすみません』と頭を下げる。
「あ、あの、いえ…。私も今来たところですから…」
手にしたカップをトレイの上に戻し、小夜もまたぺこりと頭を下げた。
 
ハジもまた、本当に美しい人だけれど…。
ソロモンはハジとはまた違った魅力が溢れていた。
出会ってからの経緯もあり、小夜は何かと警戒してまじまじと彼を正面から見た事もなかったけれど…睫毛の先まで光を弾く綺麗な金色の髪、深い緑色の瞳、傷一つない肌。
整った柔和な顔立ちは優しげで、初対面では少し怖く感じたハジとは…同じ美形とは言えあまりにもタイプが違った。疾しい気持ちなど一切ないと言いうのに、真っ直ぐに見詰められただけでどこかドキドキしてしまうのは女の子なら仕方のない事なのかも知れない。
しかし、小夜は気を引き締める様に背筋を伸ばした。
「…やっとこんな風に会って貰えましたね…。小夜さん…」
小夜の緊張など気付きもしない様子で、ソロモンはコーヒーに口を付け…小夜にもまた食事を勧める。
「…こんな風って…。私…」
「……どんな用件だとしても、思いがけず貴女と待ち合わせ出来て…嬉しいと思う気持ちに嘘はありませんよ。邪魔する誰かは出張中ですし…」
小さく楽しげに笑いハンバーガーの包みを開く男に、小夜は言い返す言葉も浮かばず…仕方なく自分もまたチーズバーガーを手にする。
俯き加減に一口頬張って顔を上げると、見惚れる様にソロモンの視線が自分に向いている。何故だか恥ずかしくなって、小夜は思わず頬が赤らむのを感じた。
「見ないで下さい…」
「見ないなんて、不自然ですよ…。…こうして向き合っているのに…」
「…じっと、って事です!」
「まあ、そうムキにならないで…。そういう所が可愛いんですよ。…小夜さんは…」
「…………………」
自分がハジと暮らしている事も知っているというのに、どうしてこの人はこう困った態度を取るのだろう…いっそもう質問などどうでも良いから帰ってしまおうか…と言う考えすら小夜の頭に浮かぶ。
「とても美味しそうに食べるんですね…」
感心する様にソロモンは微笑み、小夜は肩を落とす…そう言えばハジも以前そんな事を言っていた。料理上手の父に育てられた所為か、確かに食べっぷりは良いのかも知れないが、そんな事を感心されても、年頃の女の子としては嬉しくはない。
「………………」
無意識に唇を尖らせる様に、ソロモンはますます相好を崩したけれど、小夜にはそれが何故なのかよく解らなかった。
「…………ああ、それで。…僕に聞きたい事って?」
意外にもさらりと、ソロモンは本題を切り出した。小夜は、改めて彼にこんな事を質問してどうなる訳でもない…という事を意識せずにはいられなかった。
しかし、やはり気になる事なのだ。
小夜は、チーズバーガーをトレイに置いて、こほんと居住まいを正した。
「…あの、すごく唐突なんですけど…。どうして今の会社に就職したんですか?」
流石に『ハジは』と言う一言を付けそびれる。
それでも一般論として、その理由を知りたかった。
「……本当に唐突ですね…。まるで就職活動の面接官みたいですよ…」
ソロモンは笑ったけれど、暗に小夜がハジの事を気にしてそんな質問をしているという事に気付いてはいるのだろう…。
「…すみません」
「謝る必要はありませんよ…」
ソロモンは優しく笑って、コーヒーを飲んだ。
少し考えて、答える。
「…僕の事で答えさせて貰えば…。僕は何も今の会社に就職する事が目標だった訳ではありませんが、まあ色々な事情がありまして…。社長のアンシェル・ゴールドスミスとは遠縁にあたりまして…だからと言って縁故で就職した訳ではなく、きちんと入社試験を受けたんですけどね…」
「……はあ」
「…本当は、僕は医者になりたかったんですよ。……途中まではそのつもりでいましたが、そうもいかなくなりましてね…」
その事情と言うものが気になったけれど、流石に好奇心だけでそこまで追求出来る筈もなかった。小夜は小さく『そうなんですか…』と呟いた。
「……あの、一生の仕事を選ぶっていう点では男の人の方が…。いえ、女の子がいい加減って意味じゃなくて…その……」
途中で言葉に詰まる小夜に、ソロモンはすぐに察したようだった。
「就職の悩みですか?」
「………あ、ええと。……そんな感じかも…知れません」
「……まさかうちの会社に就職したいって訳でもなさそうだけれど…」
「……あのそういう事じゃなくて…」
「………小夜さん、まだ二年生でしょう?……そんなに真剣に就職について悩むにはまだ少し早いような気もしますけど…、それについて、ハジは…彼は何て言っているんです?」
「ハジは何も…」
小夜の脳裏に、ハジの言葉が蘇る。
『いつか、結婚して下さい』
…しかし、それをそのまま口にする事が出来ずにいると、ソロモンはまるで小夜の頭の中を読むように続けた。
「…もうプロポーズでも、されてるんじゃありませんか?」
「……あ、あの…だって…。それは…」
また別の問題ではないだろうか?
指摘されて慌てる姿に、ソロモンが瞳を伏せた。
「……でも就職はしたい…ってところでしょうか?…まあ、そんな大切な事は今の僕に追及する権利はありませんし…。本当は小夜さん、ハジの事が知りたかったんでしょう?」
「……あ、ええと…」
もう誤魔化す事も出来ない。
「良いんですよ。……でも僕は彼がどうして今のこの会社を就職先として選んだのか…知っている訳ではありません。彼との付き合いは就職してからですし…」
「……………ごめんなさい」
「……小夜さんが謝る事ではありませんよ。……確かにゴールドスミス・ホールディングスは大きな会社ですから、まあ安定はしていますし…。就職先としては人気がある方かも知れません。しかし…ハジがどんな理由でこの会社を選んだのかは知りませんが、彼だって本当はこんなサラリーマンになりたかった訳ではないと思いますよ…」
「……………そう、なんですか?」
普段自分の事など大して話もしない恋人の、自分の知らなかった一面のような気がして…その気持ちは素直に声に出てしまったようだ。
ソロモンもまた意外そうに、小夜を見詰める。
まるで、『恋人なのに知らないんですか?』とでもいう様な表情だ。
「…僕も、詳しい事は知りませんよ。……でも、彼はそもそも音大の出身ですし、学生時代は将来有望なチェロ奏者として…なんていうコンクールだったかな…。チェロのコンクールで優勝もしているんです。だから…本当はこんなサラリーマンではなくて…音楽の道に進みたかったのではありませんか?」
「……チェロ?」
「そう…。楽器の…」
ソロモンは微笑んで、見様見真似にチェロを構えて見せた。
 
小夜は初めて聞く話だった。確かに、彼はクラシックのCDを沢山持っているし…うろ覚えながらチェロと言う楽器は彼によく似合っている様に思えた。
しかし……。
 
その時、不意にバッグの中から携帯の着信音が鳴り響いた。
「すみません…」
一応は謝罪して、小夜は携帯を取り出した。
まるでタイミングを見計らっていたような…ハジからの電話だ。
表示を見て、思わず躊躇ってソロモンを見ると、彼はどうぞ…とばかりに頷いた。
電話に出なければ、ハジを心配させる。
小夜は思い切って電話に応じた。
『小夜…?』
電話の向こうから、大好きな声が自分を呼んでいる。
「…あ、出るのが遅くなって…ごめんなさい」
小夜が謝ると、ハジは逆に忙しかったでしょうか?と、小夜を気遣った。
昨夜も話したというのに…ハジの声はどうしてこんなにも懐かしい気がするのだろう…。
「……あ、ううん。…そんな事、ないよ」
『…まだ外にいるのですか?』
電話口から周囲のざわめきが聞こえるのか、鋭い指摘に小夜は慌てた。ただでさえ、小夜の知らないハジの過去をソロモンの口から聞かされたばかりなのだ。
疾しさとも何ともつかない気まずさが込み上げる。
「…あ、…う…うん。そう…ちょっと…。香里と……」
つい、ソロモンと一緒である事を誤魔化す様に…小夜はそう口走っていた。
悪気がないとはいえ、思わず嘘を口走っていた事に、きゅうっと胸が痛む。
ハジは電話口で小夜の事を気遣ってくれる。
迎えに行かれないのだから、帰り道は十分に気を付ける様に…と。
どこか上の空で、小夜が電話を切ると、向かいの席で一部始終を聞いていたソロモンがニヤリと笑った。
「……小夜さんでも、彼に嘘を付くんですね…」
…と。
そのどこか怪しげな微笑みに、小夜はビクンと肩を揺らしたのだった。
 
                               《続》

20101123
長らくお待たせしてしまいました…。お留守番の3がようやく更新できます…。
とはいえ、話自体は全くと一定ほど進んでおら…。
思わず、ソロモンの事を内緒にしてしまう小夜たんなのでした…。