ハジの右の肩には古い傷があって、ベッドの中でそれに触れる度…私の胸は小さくチクンと傷んだ。
 
 
 
傷痕     三木邦彦
 
 
 
朝。
眠る事のないハジはいつも私より先に起き出して、朝食の支度をする。
体温の低いハジでも、やはりベッドで一つになってシーツにくるまっているとその肌はほんのりと温まる。
私を起こさないようにそっと彼の体がベッドから出ていく瞬間、その喪失感が寂しくて、私は彼を引きとめる様に寝惚けたまま腕を伸ばす。
成功率は五割を切るくらいだけれど、体を繋ぐのとも違う…そうしてただ子供の様に甘える朝の一時に私は限りない幸せを噛み締める。決して口数の多くないハジが、それを補う様に優しく髪を撫でてくれる…その優しい指先が好き。覗き込む瞳の澄んだ青い色が好き。
「…小夜」
たった一言だけど、そうして名前を呼んでくれる低い声の響きが好き。
 
 
裸の肩に、そっと指を伸ばす。しなやかな黒髪がさらりと零れ落ち、彼が一旦起こし掛けた体を再び横たえてくれる。私は瞼を閉じたまま…寝惚けているふりを装って指先を滑らせると、ハジの広い胸に額を押しつけた。

その瞬間、私の指は彼の滑らかな皮膚の上に一か所だけ微かに盛り上がった傷に触れて…。
無防備だった私は、思わずぴくんと指先をはねてしまった。
「………ぁ」
微かに声が漏れてしまう。
いつも……絶対に気付かないふりをしてきたと言うのに…。
 
私のシュバリエであるハジの体は、生物としての常識を覆す生命力を備えていて…深い傷を負ってもたった数時間で何事も無かったかのように回復する。
長い戦いの中で幾度となく命を落とし掛け…その度に彼の体は再生を繰り返した。
 
けれど…。
 
この傷…。
 
ハジは私の喉から零れた声に含まれる罪悪感の響きに敏感に気付くと、まるで子猫の悪戯を窘める飼い主の様に甘い瞳で私を覗き込んだ。
思わず咄嗟に目を閉じる。
「起きていらっしゃるのでしょう?」
そんな事を言われても…とても瞼を開ける事が出来ない。
ハジの長い腕がそっと体を抱き締めて、とうとうその唇が優しく瞼を啄ばんだ。
余りに近過ぎて焦点が合わない。
「…ハジ」
「………この傷の事を、覚えていらっしゃいますか?」
ハジの声音は、いつにも増して甘く優しくて…、私は小さく頷くと逃げる様にハジの胸に顔を埋めた。
 
 
あれはまだ、彼が幼い少年であの閉ざされた広大な屋敷で暮らしていた頃。
きっかけが何だったのか…我儘を当然のものと捉えていたあの頃の私は、些細な事で腹を立てて庭の片隅に聳える古い常緑樹にドレスのまま登った。
勢いで登ってはみたものの、上手く下りる事が出来なくて…。
次の瞬間、するりと手が滑って……………
 
…………………………っ!!
 
敷き詰められたレンガに打ち付けられる衝撃を覚悟して、私はギュッと目を瞑り…でも、その衝撃は予想していた程のものではなくて…、気がつくと私はまだ少年の細い体を下敷きにしていた。
高いところから落ちたにもかかわらず、私の体には傷一つなくて…けれどその身代わりの様にハジは私の体を受け止めた衝撃で派手に後ろ向きに転倒し…偶然その場に突き出ていた植え込みの枝で肩に大怪我を負ったのだ。ドクドクと沢山の血が流れ、怖くなって…悲鳴を上げた私とは対照的に、ハジは鋭い痛みに耐えて酷く冷静だった。
けれど、ハジはその晩から発熱し一時は利き腕に障害が残るかもしれないと言われて…。
私は自分のせいでハジが右腕を使えなくなるかもしれないと、泣いて…泣いて…泣いて過ごした。
幸いにも、ハジの怪我は後遺症を残す事も無く完治したのだけれど…。
 
私はずっと長い間、この傷の存在も…そしてあの日の恥かしい自分の態度も忘れていた。
思い出したのは、こうして彼と素肌を重ねる様になってからの事…。
 
「……小夜?」
「………あの時は、ごめんなさい」
 
世間の事も、自分の事も何も知らず…ただただ我儘だった恥かしい過去の私。
ハジはそんな私の思いを知ってか知らずか、ただふわりと微笑んでいるだけで…私の小さな謝罪にゆったりと首を振った。

「…いいえ。小夜…」
「…………………?」
「何一つ、あなたが気を病む事などありませんよ。…右腕は無事でしたし…」
「……………………でも、この傷…。本当は消せるんでしょう?」
ハジをシュバリエにしてしまったのは不幸な事故が事の始まりではあるけれど…それでもシュバリエとなった彼ならば、消そうと思えば消せる筈だった。

滑らかな白い肌に、誰も知らない一筋の傷痕。
彼がどうしてこの傷を、この傷だけを消そうとしないのか…無言の内に我儘だった自分の過去を戒められている様で…。
 
ハジが大きな掌で私の頬を包み込む。
「あの頃から、あなたの事を……愛していましたよ。…そう、本当にまだ…ほんの子供の頃から」
「………ハジ?」
「小夜…」
溜息の様な囁き。
その優しい指先が好き。
覗き込むあなたの澄んだ青い瞳が好き…。
 
ハジ…。
 
「ですから…この傷は消しません。解かりましたか?」
 
…………ハジ
 
上手く、声を発する事が出来ない。
「………ハジ」
「……今はもう、あなたを受け止め損ねる様な失敗はしませんから、ご安心ください。小夜…」
「…ハジ」
「……小夜。…ですからもうそんな表情をしないで…」
「……ハジッ!!」
 
とん…弱々しい力で、一つハジの裸の胸を叩く。
 
「…小夜」
 
 
……………溢れそうになる涙を懸命に堪えて…私は肩に這わせた指先に…そっと力を添えた。
 
窘める様な…それでいて優しく全てを包み込む様な…穏やかに響く低いあなたの声が好き…。
 
 
好き…………
 
ハジ…。
 
 
 
 
                           ≪了≫


20100510の日付になっていました。
ブログに載せて、そのまんま忘れていたようです。