仔うさぎのお留守番 2

 
壁際のホワイトボードに書き込まれた出張の文字をちらりと目の端で捉えて、ソロモンは長い吐息を吐きながらキーボードに置かれたままの自分の指先に視線を落とした。
ハジは昨日から北海道に出張なのだ。
予定は一週間。
経営破綻したリゾートを買収する、その為の現地視察と言うのが今回彼に与えられた仕事だ。
これも社長の趣味なのだろうが…我がゴールドスミスホールディングスはこのところ、ホテル部門にかなり力を入れている。野薔薇屋を再生した功績があるだけに、重役の誰もが面と向かって社長の方針に異を唱える事は無く……今回もまた、北海道へ社長自ら直々に赴く力の入り様だった。
ハジはその補佐として社長に同行したのだ。
 
すぐ目と鼻の先にある彼のデスクの上はいつもの事ながらきちんと整理整頓がなされている。
正しく彼の性格をそのまま表している様に…。
日頃、アフター5の付き合いも半分は仕事の内としてとらえているのか、特に付き合いが悪いと言う訳でもなく穏やかで面倒見の良い性格は、性別を問わず…部下からの信頼も厚い。
ハジは、根がとても気真面目なのだ…。軽率な行動をとる様な事はまず考えられない。
どんな場面でも常に冷静で気配りの出来る性質は、こうした秘書としての資質に恵まれ…いざとなれば面と向かって社長に意見を述べるだけの胆力も備えている。社長にもそうした彼の有能さを買われて、こうして取り立てられたのだ。
すらりとした長身に、緩くうねる艶やかな黒髪、白く肌理の細かい肌は女性にも劣らない。
仕事が出来るだけでなく容姿にまで恵まれ、整った面に浮かぶどこか陰を感じさせる穏やかな微笑みに晒されれば、きっと女性はひとたまりもないだろう。しかし全てに恵まれている様で、温かな家庭と言うものには縁が薄く…そんなところもまた女性の母性本能を擽るのだろう。
例え、それが彼の本意ではないにしろ…。
そして、ソロモンに言わせれば…それは中途半端に優しくて『来るもの拒まず』とも取れる曖昧さ…ああいう男は本当に罪作りだ。
社内だけでも、密かにハジに思いを寄せている女性社員は決して少なくはない。
そんな出来の良い同僚の静かな横顔を思い浮かべ、ソロモンはまた一つ小さな溜息を吐いた。
 
それはきっと、まるでドラマの様な…劇的な出会いだったのだろう…。
あの冷静な男が、夜の街で助けた少女をそのまま自宅に連れ帰り…、そして二人は恋に墜ちた。
彼らにとって、確かにそれは運命的な出会いである事に変わりはない。
しかし、そんな劇的な状況で出会ったからこそ…何の接点もなかった二人が不可抗力に恋に墜ちてしまったのかもしれない。大体…偶然街で擦れ違っただけでは、普通は恋には墜ちないだろう…。例え目があって惹かれ合ったとしても、それだけでは付き合う事にはならない。
正しく…劇的な出会い…。
ソロモンが傍で見ていても、彼女に出逢ったばかりの頃のハジは珍しく我を無くしていたと思う…、いや…いつも冷静な男の内面にああ言った情熱もまた秘められていたのだと、感心し共感すらもした。
 
しかし………………。
しかし。
 
まさか、ハジの仔うさぎが…あの少女だったなんて…。
 
 
…小夜さん
 
 
ソロモンは、自分の胸に燻る炎の正体が単に生真面目な同僚の恋を羨む程度のものであってくれれば…と願わずにはいられない。
しかし、恋と言うものは真剣になればなるほど、厄介で手に負えないものときている。
そしてそれは本人の意思でどうこう出来るものではない。
 
自分の本心が見えない…と言う経験は、ソロモンにとっても初めての事なのだった。
 
 
□□□
 
 
通勤時間から外れている為か、小夜の予想以上に駅構内は静かだった。
まだ比較的新しい地下の駅はどこもバリアフリーで、近代的なデザインがまるで未来都市のようにも感じられる…のは小夜の緊張のせいだろうか…。
初めて降り立つ駅の景色に、小夜はほんの少し強張った面持ちで背筋をしゃんと伸ばした。
ゴールドスミスホールディングスは世間に疎い小夜でも名前を知っている様な大企業で…だから壁に掲げられた駅周辺の案内地図の中でも一際大きな面積を占めてわざわざ探すまでも無く、この地域のランドマーク的な存在の様だった。
表示された通りの出口から地上を目指す。
長い階段にはエスカレーターも併設されていたけれど、しかし小夜はまるで一歩一歩…どこか覚悟を決める様な潔さでその長い階段を昇り始めた。
地上に出た途端…もう既に暦は秋だと言うのに貧しい陽光が小夜を照らした。
気配は確かに秋のものだけれど、その眩しさはまるで真夏の様に感じられる。
小夜は一瞬、瞳を細めた。
綺麗に舗装された道路の先に、目指す大きなビルがある。
ハジが勤めているゴールドスミスホールディングス…その本社屋である。
ハジの口から、何度となく会社の話は聞かされていたけれど…小夜が実際にここに来るのは初めての事だった。
もし…万が一働いているハジとばったり出会う事になったら気不味い事この上ない…いや、そもそも女子大生である小夜には何の用も無い。ハジがどんなところで働いているのか、全く興味が無い訳ではなかったけれど…わざわざ会社を見に来るような機会はまるでなかったのだ。
しかし、今日は違う。
ハジとここで出逢う心配は全くないのだ。
彼はまだ出張から戻っていない。
昨夜も、律義に小夜の携帯に電話があって…北海道はもう肌寒いのだと訴えていた。
アルバイトを休む訳にはいかないので、仕方なく午後からの講義をサボってしまった。
そうまでして、小夜は彼の働いている場所を知りたかったのだ。
小夜は真っ直ぐ前に聳える大きな本社屋の建物を見上げながら、ゆっくりと歩いた。
彼の席は、あの大きな建物の一体どの辺りに在るのだろう?
社長付き…と言う役職は外資系には珍しいポジションだと訊いたけれど、社長の片腕と言う事はかなり上の方にあるのだろうか…。偉い人ほど上の階に居る…と言うのは、単純に小夜の持つイメージに過ぎないのだけれど…。
丁度その前まで辿り着くと…流石に中に入る事は出来ず…小夜は歩道の端からそっと様子を伺った。
大きな会社だと言う事は知っていた。
けれど、実際にその大きさを建物のサイズで実感する。
何階建なのか…数える事も出来ない。
大きなガラスが一面に使われた玄関に広い車寄せ。
ぴかぴかに磨かれた半円形の自動ドアは光を反射して、それ以上奥の様子は伺えない。
もしも…万が一この会社に用があったら、あの玄関から入って良いのだろうか…そう思わず気後れせずにはいられない程、小夜の知る世界とは掛け離れている。
小夜は緊張していた体を、ほんの少し緩めた。
どうして…、どうしてハジはこの会社に入ろうと思ったのだろう?
持ち株会社の業務というものが、ハジのやりたいと思える仕事だったのだろうか?
そう言えば、学生の頃からこの会社でアルバイトをしていた…と言う様な事を言っていたような気がする。
だとしたら、彼はもう小夜の年齢の頃には自分のしたい仕事を見付け、着実にその道に進んでいたと言う事なのだろうか…。
今の、漠然とした自分との差に小夜は驚かずにはいられない。
それとも、それが普通で自分がのんびりし過ぎているのだろうか…。
もし、今ここにハジがいて尋ねる事が出来たなら、彼は何と答えるだろう。
大きな会社に就職する事は、それはそれでとても立派な事だし大変な事だと小夜は思う。
確かめた事はなかったけれど、きっと学生の頃からハジは成績優秀だったと言う事だろう…。勿論成績だけで就職が決まる訳ではないと思うけれど…。
就職活動など、まだした事の無い小夜の漠然としたイメージだ。
こんな自分はやはりのんびりしているのだろうか…。
小夜の脳裏に友人達の言葉が蘇る。
 
『小夜はいざとなったらハジさんと結婚するんでしょう?』
 
そしてまた、大好きなハジの言葉も……。
 
『いつか、結婚して下さい』
 
いつか…で良いのです…と微笑む穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。
 
さやは無意識にきつく唇を噛んでいた。
ハジの事は好きだ。他に比べる対象が見つけられないくらい、小夜には特別な存在だ。
このままこうして彼の隣で、一緒に笑っていられたら良い。
何があっても、ハジさえいてくれれば自分はどんな場所でだって頑張れる…そう思う…けれど。
小夜の胸の奥で、ちくんと何かが痛む。
ハジは…それはもう…考えられない程、自分の事を大切にしていてくれるけれど…小夜の心の中には本当にそれで良いのだろうか…と疑問に思う気持ちがない訳ではないのだ。
友人たちにも語った様に、もちろん就職だってしたいと思っているし…それに…。
 
それに……。
 
「小夜さん…」
いきなり背後から声をかけられて、小夜は飛び上がらんばかりに驚いて振り返った。
小夜のあまりの驚き様に少々申し訳なさそうな表情で…目の前にソロモンが立っている。
「あ…えっと。どうして…?…ソロモンさん?」
「どうしてって…」
ソロモンは半ばあきれた様子で、肩を竦めた。
「…ここは、僕も働く会社ですからね…」
「…あ、…そ、そうですよね…」
勿論、彼の存在を忘れていた…という訳ではないけれど…まさか出くわすとは思っていなかった。
小夜は本気で申し訳なく頭を下げた。
「で、また今日はどうしてこんなところで?……ハジが出張中で留守なのは勿論ご存知でしょう?何かうちの会社にご用でも?」
ソロモンは気にする風もなく、素朴な疑問を小夜に投げかける。
彼女とは度々こうして偶然に出会うけれど、しかし劇的というにはあまりにも程遠い。
ソロモンは美しい金色の髪を幾分うるさそうにかき上げた。
「いえ、会社に用がある訳じゃなくて…」
ただ単に、一度ハジの働く会社をきちんと見ておきたかっただけだ。
見て…だからどう…と言う訳ではないのだけれど…。
「……そう?……こんな時間に、用もないのにこんな所で会うなんて…。僕はまた…ハジに言えない悩みでも相談しに来てくれたのかと期待してしまいました」
 
…ハジに言えない…?
 
そう言えば先日も、彼はそんな事を言っていた。
ソロモンは面白そうに小夜の出方を伺っていた。
ダークグレーのスーツはこの陽ざしには少し暑そうにも見えたけれど、ソロモンは汗ひとつかいた様子はない。
そう言えば、ハジもまたどんなに真夏の眩しい日差しの下でもどこかその表情は涼やかだ。
先程から…緊張のせいもあってか、びっしりと汗をかいていた小夜とは違い、やはり美形という人種はどこか人間離れしているのだろうか…。
タイプは違うけれど、彼らは美形という点では同じグループに属する人達なのだ。
そう思った瞬間、不意に思いがけない発想が浮かぶ。
 
彼なら…きっと自分よりずっとハジの事を知っている。
 
…多分。
 
…少なくとも、同じ会社で働く大人の意見というものを教えてくれるかも知れない。
 
小夜は握りしめた拳にギュッと力を込めて、考えるよりも先に唇が開いている自分に半ば呆れ驚いていた。
「あの…質問しても良いですか?……私…」
それでも流石に、面と向かってハジの事を教えてくださいとは言えなかった。そんな事を言えば、きっと小夜の方がよく知っている…と軽くあしらわれてしまう。
困った様に、小夜はじっと背の高い彼の事を見上げた。
そんな小夜にソロモンは、苦笑した。
こんな表情をされたら、どんな男だって嫌と言えるはずがない…と。
「何を知りたいのか知りませんけど…そんな思いつめた表情をするものじゃありませんよ。小夜さん…」
笑いながら、腕時計を確かめる仕草はやはり大人の男性のもので…小夜の胸は一瞬ドキッと高鳴った。
当たり前だけれど、彼もまた学生ではないのだ。仕事の邪魔をして良い筈はない。
「忙しいのに…突然…ごめんなさい。私やっぱり…」
帰ります…と言いかけた小夜をソロモンが強く遮った。
「謝らないで…。…今すぐと言う訳にはいきませんけど、…今晩、一緒に食事に付き合ってくれるなら…僕に答えられる事は全部教えてさしあげますよ…。きっと……また、ハジの事なんでしょう?」
優しげな緑色の瞳が細められる。
食事を一緒に…と言われて、戸惑わないはずはない。
一瞬、脳裏に『ハジなんてやめて僕にしませんか?』と言った彼のセリフが蘇ってくる。
勿論それは冗談だったのだと小夜は思っているけれど…。
「…あ、あのええと…。夕方からアルバイトがあるんです」
やんわりと辞退するものの、その程度でソロモンが怯む事はなかった。
「何時に終わるんですか?…迎えに行きますよ…。もし、二人きりになるのが怖いのなら…小夜さんのバイト先の向かいにあるハンバーガーショップで待ち合わせる事にしましょう…」
それなら良いでしょう?
と、微笑むソロモンの前で小夜は唇を噛む…。
確かにそこならば、店内は明るく賑やかで、別の場所に移動しないだけ小夜の気持ちも楽になる。
もしソロモンの車でどこか知らない場所にでも連れて行かれる事になったら、自分では容易に帰れないかもしれない…そんな不安があったのだ。
少し位なら…。
それに彼はハジとも仲の良い同僚なのだから、話を聞いて貰うには一番適切な相手なのかもしれない。
小夜は考え直すと、目の前でにっこりと小夜の答えを待つソロモンに小さな声で答えた。
「じゃあ…8時に…お向かいのマクドナルドで…」
「分かりました。ではまた、8時に…」

「…………………………」


長い睫毛を伏せて頷く姿を間近に見詰めると、彼は睫毛の先まで光をはじくような見事な金髪なのだった。

すごく…きれい…。
そんな当たり前の事に、今更感心しながら…小夜はスーツ姿の青年にぺこりと頭を下げたのだった。
                                   ≪続≫

20101019
ええと、もう前の更新から一か月も経っていて本当にお待たせしていてすみません…。
色々と立て込んでいましたが、これからは何とか落ち着いてペースを上げて書いていきたいと思います。
今回もまた、ソロモンが出張っておりますが、どうしてハジ出張中なんだよ…って気分です。
自分で書いておきながら…。
ハジの出番は後半になりますが、ちゃんと出てきますので…ご安心を。
ではまたなるべく早く更新できるように頑張ります!