祈り

 

この地上には、無駄な命など一つも無いのですよ。

 

遠く、風に乗って届く血の香りに小夜の意識は一気に目覚めた。

瞼を開けると、ハジは彼女の隣で既にその異変に気付き、緊張に険しい表情をして闇を睨んでいた。

小夜を庇うように身を乗り出して跪く。

「目覚めましたか?小夜・・・」

静かな声で気遣い、背中越しにちらりと横目で小夜を確認する。

小夜は慌てて体勢を整えると、脇に立て掛けた刀剣に手を伸ばした。

 

月が明るい夜だ。

 

赤い盾が崩壊し、再び二人きりの旅が始まって以来、二人は人目を避けるように野宿を続けている。

小夜の匂いを嗅ぎつけて、いつ翼手が襲ってくるか解らない。

これ以上、関係のない人々を巻き込むような真似はしたくなかった。

 

ざわざわと木々の緑が風に音を立て、それに混じって二人の耳には翼手の雄叫びが聞こえてくる。

小夜は弾かれた様にハジの腕からすり抜けて、前に出ようとする。

ハジはいち早くその動きに反応して、刀に置かれた小夜の手を押さえた。

「小夜・・・、私が・・・」

小夜を気遣っての言葉に、しかし小夜は頑なに首を振った。

「駄目・・・。私が行かなくちゃ・・・」

言葉の奥にある固い決意を尊重して、ハジは一旦退いた。

小夜は刀の鞘を掴むとすっくと立ち上がった。

ハジは小夜の身をいつでも庇えるだけの間合いを意識しながら、心持控えて彼女の隣に並んだ。

じっと夜の闇に目を凝らすと、木立の向こうにギラリと鋭い眼光が光った。

二体の翼手が、闇に紛れて唸っている。

純血の、いわば一族の女王である小夜の気配はそれだけで同族の感情を昂ぶらせるのか、しきりに遠吠えを繰り返した。

胸が締め付けられるような、悲痛な叫びだ。

来る・・・

言葉にするまでも無く、一層の緊張が二人を包む。

小夜は刀身を鞘から抜き放つと、柄をきつく握り直し、ゆっくりと構えた。

不思議な刃だった。

切っ先まで鋭い溝が切られ、それは何かの護符の模様のようにさえ見える。

柄の根元には月の光を弾く真っ赤な血の色の石が嵌め込まれていた。

青い月の光を背に受けて、ゆらりと二体の翼手が小夜の前に立ちはだかった。

血走った目をして、真っ直ぐに小夜を見る。

その肉体は既に人であった頃の面影も無く、背筋は曲がり、四肢は太く長く、

頑強に発達した筋肉に覆われて、皮膚は鱗の様に硬質な艶を帯びていた。

ぎょろりと突出した目玉は異様に血走り、その鼻面は馬の様にも長い。

禿げ上がった頭部にはまるで髪が生えていた名残かのように、針金のような触覚がまばらに靡いていた。

鋭い爪と牙を持つ。巨大な化け物だ。

小夜は、じっと二体の翼手から視線を外さないまま、迷う事無く左手を己の刃に翳した。

すっと音も無く引くと、彼女の掌の皮膚は赤く線を引いたように大きく裂けて、刃の溝を彼女の血が滴り落ちる。

一瞬の痛みに耐え、切っ先まで届いた事を確認するように切っ先を翻し、小夜は改めて二体の翼手と対峙した。

それを待っていたかのように、生臭い息を撒き散らしながら、二体の翼手は歓喜の雄叫びを上げる。

大きな姿態からは想像できない素早さで、翼手は身を翻した。踊るように両腕を振り翳し、突進してくる。

小夜はよろける様にして、その最初の一撃をかわした。

思わず間に割って入りそうなハジを、きつい視線で制する。

無意味な戦いを長引かせないように、小夜は自ら先を切って翼手に斬りかかった。

 

随分強くなったとハジは思う。

徐々に戦いに対する迷いは消え、少しずつ無駄な動きが削がれていく。

戦う事を選んだ小夜が・・・サヤとして、本来あるべき姿がここにある。

しかし、それは見ていてこれ以上無い程、痛々しい姿だった。

以前の小夜はよく笑い、怒り、見ていて飽きる事が無いほど表情豊かな少女だったというのに・・・。

出逢った頃は、豪奢なドレスに身を包み貴族のお姫様然として、何不自由ない生活をしていた彼女が、

今は翼手の返り血を浴びても顔色すら変えない。

 

今も目の前で、二体の翼手が斬り倒された。

突進した勢いでつんのめり、そのまま前方の大木に激突して砕ける。

首筋からは血が噴出していた。

大きな化け物が、自らの血を受けて見る間に全身が石化していく姿を、小夜は傍らで見守っていた。

やがてそれは儚い音を立てて、赤い結晶となり砕けてしまう。

夜の風に吹かれ、月の光を弾いて降り積もる砕けた結晶の真ん中で、小夜はじっと一人で佇んでいた。

その姿には、以前にはなかった、倒した相手に対する慈愛のようなものが感じられる。

掛ける言葉も無く、ハジはそんな小夜を見守る事しか出来ない。

彼女の気が済むまで、見守るしかなかった。

 

やがて小夜は振り返った。小夜の瞳は、覚醒時の赤い色を残したまま、ハジの目には涙で潤んでいるように見えた。

少し伸びた前髪が、夜風に靡く。

「小夜・・・」

ハジの労りの呼びかけに、小夜は無表情のまま答えた。

「少し・・・疲れたみたい・・・」

ハジが力なく崩れ落ちそうになる少女の体を抱きとめると、彼の腕の中で小夜は静かに瞳を閉じた。

翼手を倒す力を持つとはいえ、彼女は永遠に17歳の少女のままなのだ。

 

 

優しい匂いがする。

濡れ羽色をした青年の髪からは、切なくなる程懐かしい香りがして、時折小夜は涙が零れそうになる。

崩れ落ちた小夜の体を、ハジは愛しそうに抱きしめていた。

意識を失って・・・目が覚める時、いつも、一番に感じるのはハジの懐かしい体臭。

ハジの腕の中は、どれだけ時間が過ぎても変わらない。

ずっとこうしてハジの腕に守られていたいけれど・・・、

小夜は頑なな決意と共にほんの少し首を傾けて、自分が目覚めた事を青年に主張する。

ハジはそっと抱き締めていた腕の力を緩めて小夜の自由に任せた。

急に頼りなくなって・・・、自分からそう仕向けたというのに、小夜は名残惜しく感じながらハジの胸から体を起こした。

ハジもまたそれに倣って体を起こす。

直に朝日が昇ろうとしていた。間もなく朝になる。

どうやら意識の喪失は一時程だったらしい。

翼手が活動するのは、総じて夜間が多い。

今は焦っても仕方がないのと解っているけれど、こうしている間にもディーバは力を蓄えているのだと思うと、

小夜はじっとしていられない。

「急ごう・・・」

立ち上がりかけた小夜を、ハジの腕が引き戻した。

「もう少し、休んで下さい・・・。小夜・・・」

「何を言ってるの?ハジ・・・。こうしている間にも・・・ディーバは・・・」

「体が弱っています・・・」

「そんな事・・・」

本当は解っている。自分の体が今どんな状態にあるかと言うことも・・・。

昨夜も二体の翼手と戦いながら、自分の体力の限界を感じ続けていた。

血が・・・

血が欲しい・・・

しかしそれは人でありたいと願う自分自身を否定する欲望だ。

そしてまた、そんな心の半面で、小夜は自分自身を既に人ではないと、自分も翼手であるのだと言う事を認めている。

毎夜のように襲ってくる、そして夜の巷を恐怖に落とし入れている翼手もまた

自分と同じ血の流れる同族であるのだと知りながら、小夜は刀を振るう。

舞い散る赤い結晶の中で、小夜は倒した相手の痛みを自分のものとして受け止める。

自分もまた、「人」にとって忌むべき存在であると・・・。

「血が、足りないのでしょう・・・」

小夜の白い頬に片手を伸ばして、静かに、抑揚を抑えた声でハジが言う。

「嫌・・・」

今の小夜の言葉にはそれを否定するだけの説得力は無かった。

ハジは自らの長い黒髪を指先で耳にかけると、同じ指ですばやく胸元の襟を寛げた。

小夜に負けずとも劣らない白い首筋が眼前に晒されると、小夜の喉は知らずごくりと嚥下していた。

「嫌・・・ハジ・・・まだ、大丈夫・・・」

小夜はそれでも尚、理性に縋ってハジを拒もうと身を捩った。

ハジは半ば強引にそんな小夜の腕を取ると、逆らい難い力で彼女の体を抱き寄せ、耳元に囁いた。

「私の血を飲んで下さい。小夜・・・」

ハジは小夜の体を腕に抱きとめたまま、片方の手で美しい装飾の施された短刀を取り出すと、自らの首筋に切っ先を当てた。

「・・・駄目っ・・・ハジ」

ハジの血の香りが鼻先をかすめ、小夜は絞り出すように小さく悲鳴を上げた。

それは甘い誘惑の香り。

ましてやそれは愛しい人の血。

小夜の本能は、それを欲して止まず、その反面まだ「人」でありたいと心の隅で願う彼女自身は

それを素直に受け入れる事が出来ないでいる。

しかしまた小夜の記憶の底には、やはり血を必要とした自分がいた。

そして確かに、自分は彼の血の甘さを覚えている。

そうした矛盾を小夜は自分の中に抱え込んでいる。

人として育てられた、しかし明らかに人とは違う自分というものを・・・。

「・・・ディーバを倒す為です。小夜・・・」

「ハジ・・・」

「何があっても、あなたを守りぬくのが私の役目なのです・・・。このままでは・・・」

その前にあなたが倒れてしまうと、有無を言わせないハジの瞳は、雨に濡れた暗い夜の森の様で・・・。

切なくて、涙が出そうになる。

強くなろう・・・強くなろう・・・強くなろう・・・

リクを失い、赤い盾が崩壊の憂き目に会い、もう流す涙が無いほど泣いて、

そう誓った筈なのに、弱い自分は少しも変わってなどいない。

ハジがいなければ、一人で立つ事も出来ない。

「さあ・・・」

ハジは小夜の項に掌を添え、自らの首筋に彼女の唇を導いた。

小夜は頬に涙が伝うのを感じながら、彼の優しさに口付けた。

ディーバを倒すのだ。血を分けた、たった一人の妹を。

何が何でも、彼女を倒す事だけが、

そうして全てを終わらせる事だけが、

中途半端な自分に出来る唯一の贖罪なのだ。

過去の小夜の行いによって導かれた悲劇の連鎖を断ち切る為に、失われてしまった多くの命を葬る為に・・・。

強い自分である事が・・・、一人では何も出来ない自分にこうして身を捧げてくれるハジへの償いになるだろうか・・・。

悲壮な決意をかみ締めるように、白い肌に牙を立てると、喉の奥に甘い愉悦が広がった。

それはじわじわと全身に広がり、体に力が蘇ってくるのが解る。

ハジの、愛しい男の血が小夜に溶け込んでいく。

 

「小夜・・・」

唇を血の色で赤く染め、放心したような小夜に、ハジは心配げにそっと呼びかけた。

ハジの声に、小夜は今初めて意識を取り戻したかのように、ゆっくりと頭を擡げた。

口の端に残る血を手の甲で拭うと、ハジはやっと安堵の表情を浮かべた。

小夜の手に付着した血を丁寧に拭き取り、寛げていた襟元を正した。

「ハジ・・・ごめんね。私、もっと強くなるから・・・」

「小夜・・・」

小夜はハジに向き直り、彼の両腕をきつく握って詰め寄った。

「もう、誰も悲しまなくて済むように・・・。もう誰も失いたくない、私・・・」

温かいハジの胸に強く額を押し付ける。

こうしていると、涙が枯れる事は無いのだと思う。

目頭が熱くなり、強くなると言った先からまた弱い自分が首を擡げようとしている。

小夜の掌が力を失うと同時に、ハジの広い両腕が小夜の体を強く包み込んだ。

「強くなるから・・・。必ずディーバを倒して全てを終わらせるから・・・。ハジ・・・。だから、それまで、傍にいて・・・」

ハジは何度も何度も、繰り返し小夜の髪を指先で梳いた。

「勿論です。元より、未来永劫私の全てはあなたのものです。小夜・・・。あなたの為に傷付く事を私は辛いと思った事はありません」

「・・・・・・」

「泣いているのですか?小夜・・・」

胸元から漏れる苦しげな嗚咽に気付いて、ハジは僅かに首を傾けた。

黒いハジの上衣に顔を埋めて、小夜は涙を隠した。

「泣いてなんか・・・」

「涙声ですよ・・・、小夜・・・」

「・・・泣いて、なんか・・・」

「ずっと傍にいます・・・小夜・・・。私の前では・・・泣いて下さい。全てを懸けて、私があなたを守ります」

小夜はずっと堪えてきたものが溢れ出すのを感じた。

昔から、この腕の中だけだった。心から笑えるのも、心から泣けるのも・・・。

「・・・ごめんね。・・・今だけ・・・ハジ・・・」

「無駄な命など一つも無いのですよ。・・・小夜」

ハジは震える少女の肩をあやすように何度も撫でた。

 

声には出さず、ハジは祈る。

昇りくる朝日に、明ける夜に。

どうか、彼女が再び心から笑える時がやってくるようにと。

そして小夜自身、自分もまたこの地上に生まれた大切な一つの命なのだと気付いてくれるように・・・。

どうか、それまで彼女の傍にあって、彼女を守り抜く事が出来るようにと・・・。

それは、シュバリエとしてではない、一人の男の祈りだった。


20060609
最初に書きたいと思った事には、一切触れてない気がします。
前回更新してから、すごく時間が経ってしまって、早く更新したいよ〜と言う一心で書いていたような。
まあ、お約束的なオチで、ものすごく反省しています。
最近は話の展開が早くって、書いてるものが追いつきません。これも結局新しく書いたもので
ずっと書いてたやつは、お蔵入りになってしまうのか??
一年ぶりの小夜は凄く強くなってましたね〜(一見ね)、カッコイイし好きだけど、この一年の間にあった事とか
きっと強くなるには、色々乗り越えたと思います。でもそれもハジが居てくれたからでしょう。
強くなった(一見)小夜が、唯一弱い一面を晒せる場所は、ハジの腕(胸か?)の中が良い・・・と言う願望。
しかし、私の中には一つの疑問があってどうもすっきりしませんが・・・。むにゃむにゃ。
小夜には、翼手の存在・・・そして自分自身の存在、頭っから全否定して欲しくないな〜と思っているので、
冒頭の一行になったように思います。
書きたい事の半分も書けていない。もう少し文章力とか諸々、養いたいです。
しかし、誰が読んでいて楽しいんだか解らない話だと思います。ごめんなさい。