仔うさぎのお留守番



「その点、小夜は良いよね〜」
唐突に掛けられた友人の台詞に、小夜は我に返った。
昼休みの学食は賑やかで、学生たちはそれぞれにテーブルを陣取ってはそれぞれの話に花を咲かせている。
小夜達のグループも丸いテーブルにぐるりと椅子を並べて、昼食のトレーを前にかしましい事この上ない。
そんな有り触れた…年齢相応の日常の騒がしさはどこか小夜をほっとさせる。
しかし、小夜はどちらかと言えば付き合いの悪い方だ。
同じクラスの仲良しグループに混ぜて貰ってはいるものの、放課後はほとんど真っ直ぐにアルバイト先に向かってしまう。それでも、彼女達は小夜の置かれた事情も気持ちもよく理解してくれて、必要以上に小夜を拘束する様な事はしなかったし、時間が合えば必ずこうして誘ってくれる。
話を聞いていなかったらしい小夜の様子に、傍らの席の香里が半分冗談めかして説明する。
「卒業後の話だよ。…今ってかなり就職難しいけど、小夜はいざとなったらハジさんと結婚するんでしょう?」
「………え、ううん。…あの、…まだそんな事」
考えた事も無かった…。
まだ卒業は二年以上先の事だと言うのに…。
「…でもねえ…」
最初に声を掛けた友人も回りと目配せしてくすくすと笑っている。
ハジとの関係を隠してはいないから、周りの友人達がそう思うのも無理はない話なのかもしれないけれど、小夜は正直なところ卒業後の進路とハジとの事を同レベルで考えた事など無かった。
確かにハジには『結婚して下さい』と言う様な事を言われてはいるけれど、しかし彼は卒業後すぐに…とは言っていない。小夜の気が済むまで自由にして良いと言ってくれているのだ。
それにハジとの結婚を、まるで就職出来なかった時の為の保険の様には捉える発想すら小夜には無かった。
今更に『なるほど…』と感心したりもするけれど、それとこれとは小夜にとって全く別の次元の話なのだ。
「ううん…。本当に、そんな事考えてないよ。就職だってしたいし、……それに…」
「ねえ、ね…。小夜の彼って、あのゴールドスミスホールディングスに勤めてるんでしょ?」
友人からの質問に、小夜が曖昧に頷くと、周りは一斉にきゃぁきゃぁと騒ぎ出した。
今時、いつ何があって職を無くすか解からない様なご時世であっても、やはり大企業に勤めていると言うのは、結婚相手としてある意味理想なのだろうか…。勿論半分は小夜を冷やかしているのだろうけれど…。
「し、か、も、すごいエリートなんでしょ?…この間学校に小夜を迎えに来てるところチラッと見たよ。遠目だったけど、すごい美形じゃない?稼ぎも良くて、美形で優しい…なんて出来過ぎだよ!小夜が羨ましい〜!」
「そうそう、すごいイケメンなの!…イケメンって言うとなんか軽々しいけど、イケメンって言うより…美形って言葉がしっくりくる感じ…」
「小夜の彼氏だって解かってても、目の保養だよね〜」
当の小夜本人をそっちのけに盛り上がる彼女達を尻目に、小夜は手にしたフォークをサラダのトマトに突き刺した。
やはり…そうなのだ。
小夜は再び、ぼんやりと考え込む。
ハジは誰の目から見ても美しく、その上穏やかで優しく思慮深い性格だ。
そして誰もが認める大企業のエリートで。
付け加えるならば、面倒と思われがちな親戚付き合いも無く…親戚どころか、将来世話をするべき両親すらいない。多分、彼女達の言うとおり…ハジは完璧な理想の結婚相手なのかも知れなかった。
何より、小夜の事を誰よりも大切に愛してくれている。
小夜だって勿論、ハジの事を愛している。
例えこの先何年過ぎても、ハジ以上に愛せる相手など現れるとは到底思えない。
…簡単にそう考えてしまうところは自分の経験不足に他ならないのかもしれないけれど。
ハジは確かに理想の結婚相手かも知れない。
そんなハジに求婚されて、もしかしたら彼女達の言うとおり…卒業後は大人しくハジにお嫁に貰って貰う事が一番安心な将来と言えるのかもしれない。
いつかは結婚したいと思っているのなら、……どうして小夜の胸はこんなに腑に落ちない思いが溢れてくるのだろう?
トマトの程よい酸味が口中に広がる。
ポケットから取り出したハンカチで、口元を押さえる。
そうして、漠然とした将来の姿を想像してみるのだ。
彼は相変わらず忙しい毎日を過ごしているだろう。
…例えハジの方が家事に長けているのだとしても…自分は彼の妻として、今と変わらずあの部屋で暮らし…ハジが快適に過ごせるように家事に勤しみ、心地良い安らげる空間を提供する…。
外で働く必要はなくても、赤ちゃんが出来るまでは少しくらいなら外で働く事は出来るかも知れない。
あくまで家事と両立出来れば…という話かもしれなかったけれど。
 
でも……。
 
「ねえ、小夜?どうしたの?」
さっきからまたぼんやりとしている小夜に、香里が声を掛ける。
「…ぇ。…あ、ぅうん…。何でもない…」
そう答えて、再び小夜は友人達の賑やかな会話に耳を傾けた。
しかし、小夜の中に生まれたちいさな疑問の泡が消える事はなかった。
 
 
 
□□□
 
 
 
 「…戸締まりと火の元には充分気を付けて下さいね」
何度聞かされたか解からない注意事項に、小夜は内心うんざりしながらも、素直に『うんうん』と頷いた。
「解ってるよ。心配しないで…私そんなに頼りない?」
少しわざとらしくそう訴えると、目の前の男は不本意な様子を一瞬だけ覗かせて口の端を歪めた。
例え大丈夫だと解かっていても…それでも、心配なのだと言いたいのだろう。
ハジのその気持ちは素直に嬉しいと思う。
しかし、小夜も小学生ではない…幾ら頼りなく見えても留守番くらいは出来る。
男の、この過保護ぶり。
不満げに首をかしげる小夜に、ハジは『そう言う事ではありません…』と繰り返した。
もう昨夜から何度このやりとりを繰り返した事だろう…。
 
ハジは、今日から一週間ほど北海道に出張する。
経営破たんしたリゾートをハジの会社で買収するのだそうで、その現場視察なのだそうだ。
 
確かにハジと一週間も離れているのは…出逢ってから初めての事だった。
「心配しないで…。ちゃんと気を付けるから。…戸締まりも…火の元も…。それから知らない男の人にもね…」
ハジが本当に言わんとしている事を、しっかりと付け加えて小夜はにっこりと笑って見せた。
「…貴女を信頼していない訳ではありませんよ」
「うん。ハジこそ…気を付けてね。いくら一週間も離れてるからって…浮気しちゃ駄目だよ…。接待に誘われてもススキノで女の子の隣に座っちゃ絶対駄目…」
「小夜…」
流石にその程度の事では浮気とは呼べないと解かってはいても、小夜がそう調子に乗ると流石に眉を潜める。
憮然と抗議する様な声音は、冗談ではないと言いたいらしい。
「…もし貴女がこのトランクに入るなら、今すぐにでも連れて行きますよ…。………いや、もし何なら、今から一緒に行きますか?…隣の席は無理でも、同じ便にまだ席を取れるのでは…。着替えも化粧品も向こうで調達すれば…」
「ちょ…ちょっと待って!幾らなんでも無理言わないで…私にだって…」
都合と言うものがあるのだ。
本当は小夜だって『全く心細くない』と言えば嘘だけれど…それでもハジは仕事なのだから仕方がない。
もし仮にここで『行かないで…』と言ったら、もしかしたら本当に出張をキャンセルしかねない。
『連れて行って』と小夜が一言そう言えば、彼は難無くそうするべく手配するだろう
それ程に、自分が溺愛されている自覚が小夜にはあるのだ。
それはつい最近気付いたものだけれど…。
小夜に叱られたと感じたのか、ハジがじっと黙り込む。
大の男の人が…こんな事で…。
胸の奥から愛しさが込み上げて、小夜は既に玄関先で革靴に履き替えている男に腕を差し伸べた。
彼の頬にそっと指を伸ばす。
すぐさま大きな掌が包み込んだ。
ハジは優しく頬を寄せると、真面目な声で言った。
「何か困った事があったら、すぐに電話して下さい。…勿論、向こうに着いたら電話します」
「うん。毎晩、寝る前に電話してくれる?」
それ位は、甘えても良い筈だ。
…いや、それ位甘えて欲しいだろう…彼は。
「貴女がそう望むなら…」
「私は…ハジが寂しいだろうと思って…」
「…ええ、寂しいですよ。とても…」
白い瞼を伏せたまま、ハジが小夜の指先に頬を寄せてそう呟く。
その声は冗談など微塵も感じさせない。彼は小夜と離れる事が本気で寂しいのだ…勿論それは小夜だって同じだ。
…けれど…。
小夜の胸は悪戯にどきんと鳴った。
けれど、同時に先日の友人達との会話が蘇った。
誰にともなくこんな自分が酷く恥ずかしくて、小夜は咄嗟にハジの頬から掌を引き剥がした。
「…でも、忙しかったら無理しないで。毎晩電話しなくても、私大丈夫だから。それに、何かあったらちゃんとこっちから連絡するから…」
ハジは、突然の小夜の態度の変わり様に少し驚いた様子だった。けれど、何も言わず…腕時計で時間を確かめると、当然マンションのエントランスまで降りて見送ろうとする小夜を制した。
 
バタン…と玄関のドアが閉まる。
その途端…嘘の様に呆気なく、部屋には静寂が満ちて…『大丈夫』と言って半ば強引にハジを送り出した筈なのに、小夜の胸には急に寂しくて不安な気持ちが湧きあがって来る。
あんな言い方をしなければ良かった。
咄嗟に口を出た言葉が…というのではなく、声の抑揚が…。
まるで自分の恥かしさを誤魔化す様に、突き放す様な冷たい口調になってしまった。
いつになく広く感じるリビングに戻ると、彼の指定席のソファーに腰を下ろす。
小夜が初めてこの部屋に通された時はまだ生活感の欠片も感じられなかったけれど…。
少しずつ増えていった雑貨類のほとんどは小夜がハジに買って貰ったものだ。
可愛らしい食器も、パステルカラーのクッションも。
小夜が床に座るのを気遣って、小夜の好みに合わせてラグも買い換えてくれた。
部屋を見渡せば、どれもこれも…。
強請った訳ではない…つもりだけれど、ハジは本当にさりげなく、押しつけがましくなく、そうして小夜に物を買い与える。どうしても生活に必要なものも、特に必要ではないと思われるものも。
火事の後、初めて彼に衣類と身の回りのものを買い揃えて貰って、使わせてしまった分をどうにか彼に返したいと思っている間にも、どんどんそれは増えていった。
そしていつしか、有耶無耶になり…今に至っている。
勿論、今だって小夜はこんな風にハジに負担を掛けて良いと思ってはいないけれど。
恋人として一つの部屋で生活を共にしていれば…どうしてもそんな風になし崩しのまま『ケジメ』と言うものは無くなってしまうものなのか…。
現に、食費も光熱費も彼に頼っていて…それはもう厳密に小夜が使った分を分ける事など出来はしないだろう。
そして結婚してしまえば、それは当然の事になる…のだろうか?
小夜は誰に遠慮する事無く、深い溜息を付いた。
いつになく長い溜息に、全身の力が抜ける。
独りの部屋は、寂しくて…。
けれど久しぶりに、ぐったりと心おきなく全身の力を抜いている自分を、小夜は思いがけず見付けたのだった。
 
                                    《続》

20100910
勢いだけで書き始めてしまったので、この先どうなるか解からないですね…反省。