闇夜


月も星も無い…空は漆黒の闇で、朝の気配はまだ遥か遠くに感じられた。
 
刃から滴る鮮血が、ぽたぽたと地面に落ちる。
黒く湿った土に血痕は吸い込まれる様に消え、辺りには生臭い血の匂いだけが残された。
乱れる呼気が湿った空気を震わせ、目に見える程大きく細い肩が揺れる。
 
……………………!
 
次の瞬間…男の危惧したとおり、刀を振るうには余りにも華奢な少女の背中が頼りなく崩れた。
足元からがくりと力を失って屑折れる体を、男は風の様な素早さで難無くその腕に受け止めていた。絹の様な黒髪が乱れ、少女の横顔を隠している。男は労わる仕種でそっと彼女の前髪を払うと、青く血の気を失った瞼が閉じて睫毛の先が微かに震えていた。
「…小夜」
男の低く良く響く美声が、心配げに少女の名前を呼んだ。喪失した意識を呼び戻す為に白い指先がそっと頬に添えられる。もう一度、その名前を呼ぶ。
「小夜…」
と、既に塞がっていると思われた裂傷から、どくん…と鮮血が溢れた。
 
明らかに、傷の再生が遅れている。
 
男の眉間が厳しい表情を作り、大きな掌が血に塗れるのも構わず少女の傷を押さえた。先程までの激しい戦闘で、襲いかかる翼手の鋭い爪を肩で受け止めた。幸いにも間一髪の差で深手を負う事は免れた様であったが、しかし本来の彼女であるのならばこの程度の傷はものの五分とかからず、その皮膚は再生する筈なのだ。
男は苦悩に満ちた表情を浮かべて自らのシャツの袖を引き裂くと彼女の傷をしっかりと押さえ、反対の手で傍らに投げ出された刀の刃を握り締めた。
そのまま迷う事無く滑らせると掌の皮膚が裂けて見る間に血が溢れ出す。男は流れるそれを素早く唇に含むと気を失った少女の顔をじっと見降ろした。僅かに覗かせた躊躇いを振り払って、その柔らかな唇にそっと唇を重ねる。ふっくらと柔らかな唇を強引に割って彼女に血を与える。
それは決して彼女の望まない行為だ。
けれど、そうするしか…男にはもう手立てはない様に思われた。
小夜に、休眠期が近付いているのだ。
 
短い活動期と三十年にも及ぶ休眠期を繰り返す…それは翼手の女王である小夜にとって、どうしても避けられない習性だった。休眠期の間、女王は真っ白な繭玉に包まれて深く眠る。そうして眠る事で、まるで何度も繰り返し生まれ変わるかの様にその肉体の瑞々しさと強い生命力を維持しているのだ。 
休眠期が近付くと、体温は下がり、傍目にも明らかな程に体力が低下する。夜と言わず昼と言わず、突然に激しい眠気に襲われ徐々に睡眠時間が増してゆく。当然、傷の再生にも時間がかかる様になる。
幸いな事に、小夜を囲む仲間の誰も…まだその事実に気がついてはいない。しかし小夜の眷属である男にはそれが自分の身に起きている事の様に伝わっていた。
そしてまた、小夜自身もそれに気が付いている筈だった。
 
小夜の唇から一筋、血の滴が零れ落ちた。
白い喉が小さく嚥下すると、腕の中で細い体がぴくんと痙攣し、そしてうっすらとその瞼が開く…焦点の定まらない瞳が一瞬にして正気に戻ってゆく。小夜にとって、それだけ男の血は強い影響力があるのだ。
少しでも小夜が回復し、休眠を遠ざける事が出来るのなら…男は例え全身の血液を抜かれても本望だろう。
そんな深い眼差しで、男はじっと腕の中の少女を見詰めていた。
次の瞬間…口の中に残る甘い血の味に、小夜は弾かれた様に間近に覗き込む男の顔を見た。
円らな瞳が悲しみに見開かれる。
「…嫌、止めて…。ハジ…血は要らない。もう…大丈夫だから…」
そうして、尚も男の腕から逃れ刀に手を伸ばそうとする。
しかし強い力にそれは阻まれた。
男の胸に引き戻されて、小夜は異を唱える様にハジを見詰め返した。まるで全身の毛を逆立てた猫の様だ。
「…敵は去りました」
「まだ追える…」
「いけません…小夜。もうこれ以上追ったところで…」
今の小夜がシュバリエのスピードに追いつける筈も無く、傷の回復も遅れるばかりだ。
一旦戻って体勢を立て直すべきだと、ハジの言う事も小夜には解かっていた。
強く反対されて、漸く少しだけ肩の力を抜く。
 
だけど…。
あの…シュバリエ…。
 
小夜の脳裏に、鮮やかな金色の髪とエメラルドの瞳が蘇った。
 
彼が…ディーヴァのシュバリエだったなんて…。
未だに、信じられない…。
 
初めて出会ったのは、ベトナムのリセだった。
紳士的な態度で小夜をダンスに誘った。
あの晩…過去の記憶を持たない小夜にとって、あの一時は自分の置かれた状況を忘れさせてくれる甘い瞬間だった。と、同時に…踊った事も無いワルツを、自分の体は確かに覚えていて…小夜を戸惑わせた事も事実だ。
 
 
優しげに笑った……彼が、まさか切らねばならない敵だったなんて…。
 
 
今までに何度も繰り返した煩悶が僅かに首を擡げる。
しかし、それはもう最初から割り切っていた筈だ。
 
 
翼手は切る。
 
全て…。
 
 
この世から翼手を抹殺する為だと言うのなら、自らの命さえも躊躇いも無く切り捨てる…。
 
 
小夜の瞳がじっと遠い彼方を見詰めている事に、ハジは気付きながらも言葉はなく…ただ小夜の判断を仰ぐように傍らに膝をついた。
 
 
………ソロモン
 
 
微かに呟いた小夜の唇の動きを察して、ハジの視線が一層鋭さを増した。従者として、シュバリエとして、絶対の主人である小夜に異を唱える事は、男の本意ではなかった。
しかしまた、彼の中に息衝いている感情が黙っていられる筈も無かった。
心のずっと奥深くに沈めた筈の熱い想いが燻り始め…堪え切れず、男は突き動かされる様にして…言葉短く小夜に問うた。
 
「気に、なるのですか?」
 
あの男が…。
 
誰がとも、何が…とも、それは言わなくても伝わっている。
振り向きざま、強い風が吹いて小夜の表情を隠した。
そして…細い指先が前髪をかき上げるとその時にはもういつもの小夜に戻っていた。
 
「怖い顔…」
小夜が傍らのハジを見降ろす様にして呟いた。
怒っている様でもあり、呆れている様でもあり、甘えている様でもある。
「………………………」
 
長い沈黙を受けて、小夜が続けた。
 
「そんなに………怖い顔、しないで…ハジ…」
「………………………」
足音も立てず…まるで野生の獣が歩み寄る様なしなやかさで、小夜がハジの前に立つ。
そうして自分を見上げる男の元に、小夜もまた両膝を地についた。
「……心配しないで…。ハジ…」
「………………小夜」
先程が嘘の様に、ハジを覗き込む…その瞳は静かだった。
「…あの男の言葉には、惑わされないわ。…私の願いはただ一つ…翼手を切る事…。この地上から全ての翼手を抹殺する事…」
「…………………」
ハジは黙っている。
忠実な従者の無言に、小夜は尚も男の白い顔を覗き込んだ。
「………私は自分のすべきことを忘れた事など無いわ…。ただ、あのシュバリエ……」
「…………………小夜?」
「………………何でも、ないの…」
 
あの、ソロモンと言う名前のシュバリエは最初から少し変わっていた。
穏やかな態度で小夜を誘う…出来れば貴女とは戦いたくないとまで言った。
 
それを本気にして良い筈がない事は解かり切っているけれど…。
 
血に濡れて赤く染まった指先が乾いていた。
荒んだその細い指先を、そっとハジの青白い頬に伸ばす。
微かに触れたその爪先を、ハジは自らのそれで捉えた。
 
冷たい…。
 
「心配しないで。…ハジ」
「…………………」
「…あの男がどんなに甘い言葉を囁いたとしても、私の願うものはそこにはないわ。……ハジ…。……ハジ、約束…覚えていてくれるでしょう?」
逃げる事を許さない真っ直ぐな瞳が、ハジを捉えて離さない。
…ハジだけは私の気持ちを解かっていてくれるでしょう?とでも言う様に、じっと男を見詰める
 
ハジは、ゆっくりと答えた。
「…はい」
誤魔化す事など出来る筈も無い。
小夜はこの長い戦いの旅を、ただその瞬間だけを思って耐えてきたというのに…。
「………覚えています、小夜」
ハジの返事を確かめると、小夜は急に安堵したように…瞼を伏せた。
何の躊躇いも無く、そっと男の胸に体を預ける。
「…ありがとう。…………ごめんね、ハジ」
「…………………」
ハジはそれには答えず、腕の中の細い体を強く抱き締めると小夜を抱いたまま立ち上がった。
仲間の待つあの部屋に戻る為、男が踵を返そうとすると…珍しく腕の中で小夜がそれを拒絶する。
「…まだ、戻りたくない。この傷を見られたら…余計な心配を掛けてしまうもの…」
「…………………では」
どこへ行けば良いと言うのか…。
血の匂いの立ち込めるこんな場所で、長い時間を過ごさせたくはない。純粋に主を気遣うシュバリエとしてハジが短く問うと、細い腕を男の首筋に巻き付け耳元に小夜が小さく囁いた。
「…………………」
「……ハジ」
愛らしい唇が男の名前を呼ぶ…その柔らかな響きに揺れる心を、ハジは厳しく戒めた。
 
ほんの束の間…何もかも忘れて…、今はただその傷付いた体が癒えるまで…。
 
男は少女の体を抱き締めたまま、高く地を蹴った。
その影はすぅっと漆黒の闇に吸い込まれて、すぐに見えなくなる。
 
今はただ…。
今、この世界が朝の光に包まれるまでは…。
 
………ハジが傍に居てくれるなら、どこでも構わない。だから…この手を離さないで………
 
男の耳元に、その響きがどれだけ甘い事か…。
 
 
世界は、静かな漆黒に包まれている。
二人にとって…朝の光は、まだずっと遠い彼方にあるのだった。
                         
  《了》


20100502
何か更新したかったのと、6月のプチ合わせの個人誌に載せようかと思ってましたが、仔うさぎの話が長くなりそうな事と、仔うさぎのと闇夜では余りにテイストが違うので、一冊に収めるのに抵抗があったので、もういいや…ってアプする事にしました…。
本来ストイックな筈の本編…しかもニューヨーク辺りのつもりで書きましたが、どうしても甘味を求めてしまう私なのでした…。
さて、自分を追い詰めて…仔うさぎに取り組みます。


ここまで読んで下さいまして、どうもありがとうございました!!