Temptation


温かいお湯にゆっくりと浸かって…大好きな入浴剤の香りに包まれる。
泡立ちの良いボディーソープで体の隅々を綺麗に洗い、時には新発売のシャンプーやトリートメントを試してみる。時間に余裕があれば、お風呂にファッション誌を持ち込んで半身浴をしたり、あれこれと取り留めのない空想に耽る。
湯上りには必ず、鏡の前で自分を見て…『後もう少しバストが大きかったら良かったのに…』とか『あと3センチウェストが細かったら…』なんて溜息を吐く。
洗い立ての柔らかなタオル、お気に入りに下着にピンクのパジャマ。
濡れた髪を思い切り良くタオルで拭いて、ドライヤーで乾かして…。
湯上りには良く冷えた牛乳…まるで小さな子供みたいだけれど…。
それが小夜のほっとするひと時。
一日の授業とアルバイトを終えて、やっと肩の力を抜く事が出来る。


その晩も、そんな風にしてゆっくりと入浴を終えて小夜がリビングへ戻ると、ハジが帰宅したばかりのスーツ姿で冷蔵庫から取り出したビールのプルタブを開ける場面に遭遇した。

元々忙しい彼の事だから、残業は珍しくない。
それでも今夜は早い方で…きっともっと帰宅が遅くなるだろう事を予想していたからこそ、小夜はハジの帰りを待たずに簡単に食事を済ませて先にお風呂を頂いたのに…。
玄関が開く音にも、彼の足音にも、バスルームまでは届かなかった。


「お帰りなさい…」
ハジの帰宅が嬉しくて掛け寄ると、ハジは手にしたビールを一旦テーブルに置いて、『ただいま帰りました…』と、丁寧に答えた。
小夜に対して決して疲れた表情を覗かせないハジの、ほんの少し朝より乱れた黒髪が彼の疲れを物語っている。
「…遅くなるのかと思って、一人でご飯済ませちゃった…。ハジ、ビールじゃなくて…晩御飯は?」
ハジ程料理上手ではないけれど…簡単なものなら小夜にも準備出来る.
パジャマの袖を捲りながらそう訊いてみたけれど、ハジは『構いませんよ…』と笑った。
「…帰りにソロモンと済ませて来ましたから」
ソロモンと言うのは、ハジの近しい同僚の名前だ。
小夜とも何度か面識があり、自分がハジの恋人である事を知っていると言うのに、何かと小夜にモーションを掛けて来る困った存在でもあった。
彼らの間で、自分と言う存在は一体どういう位置づけなのだろうか…と小夜の中には僅かな疑問が存在する。
まさか、二人の男が自分を挟んで本気で争ったりと言う事はないだろうけれど…。
彼らが仕事を離れて、一緒に食事をするところなど想像がつかなかった。
「…お仕事の用で?」
「……まあ、半分は打ち合わせを兼ねていますが…、たまには二人で飲みに行く事もありますよ」
そう言われてみれば、ビールは開けたばかりの様子なのに、ハジからは既にアルコールの匂いがした。
これまでにも、時々はそうしてハジが外で飲んで帰る事もあったけれど、つまり…そのうちの何回かはソロモンと一緒だったと言う事だろうか…。
単に小夜がソロモンを知っているとは思わずに、話さなかったのだろう。
「不思議…。あの人と二人で何を話すの?」
「……下らない世間話ですよ」
「………………」
「…彼の事が、気になりますか?」
そわそわとした小夜の態度に、ハジがそんな意地の悪い質問をする。
真に受けて、小夜が慌てて首を振るのをハジは優しい表情で見守っていた。
片手にビールを取り上げて、唇を付ける。
綺麗な喉仏がごくりと動くのに、小夜は頬を赤らめた。
気になっているのは、ソロモンの事ではなく…ハジの事だ。
時にははっきりと『ハジは止めて自分と付き合ったらいい』なんてセリフを口にするソロモンに対して、ハジがどんな態度で接しているのかが気になるのだ。
勿論、彼らが真剣に自分を取り合う姿など、小夜には想像がつかないのだけれど…。ソロモンがそんな軽口をたたく事をハジだって知っているのだから、少しはハジも気にして妬いてくれたら良いと思うのだ。
けれどそんな事を素直に口に出せる筈も無く、小夜はぷぅっと頬を膨らませて唇を尖らせた。
「…ハジの意地悪」
「…………何が…、どうしてそう言う事になるのですか?」
ぷいっと横を向く小夜に、ハジの口調はあくまでも穏やかだ…焦りとかヤキモチとか…きっとハジにはそんな感情は存在しないのかも知れない。
どうせ自分ばかりが、ハジの過去の恋人や周囲の女性達に対してヤキモキしているだけなのだ。
そう考えると、小夜は胸の奥がぎゅぅと締め付けられるような切なさを感じていた。
その度に上手くはぐらかされてしまうけれど…自分ばかりがハジの事を一方的に好きなのだ…きっと。
「小夜…」
「きゃあっ!!」
なかなか自分の方を向こうとしない小夜に、まるで痺れを切らす様に…ハジの腕が何の予告も無く背後からそっと小夜を抱き締めていた。
「大体…小夜の考えていそうな事は解かります」
湯上りの火照った体の熱が更に上がってゆく。
「…だって。そんな事…言ったって…」
洗い立ての髪の香りを確かめる様に、ハジの鼻先が小夜の髪をかき分ける…尚更腕に力が強まって、もう小夜にはここから自力で逃れる事は出来なかった。
ハジの胸が大きく深呼吸しているのが背中に伝わる。
「…そう言う可愛らしい貴女が愛しいのです」
こんな状況で、そんな事をさらりと言わないで欲しい。
良く響く深い吐息の様な囁き。
「……ねぇ…ハジ、酔ってるの?」
「…………少し」
本当は、彼が本気で酔っているところなどまだ見た事も無かったけれど…。
ぐいぐいと鼻先を押しつけて湯上りの小夜の香りを楽しみながら……ハジが不意に言った。
「……小夜は、誰にも渡しません」
「………………ゃん」
だからそんな事を…耳元で囁かないで欲しい。
わざとやっているのかと疑いたくなる程、甘く耳元に吹き掛けられる吐息…思わず漏れてしまった小さな悲鳴。
ぞくりと背筋が震えた。


それに……。


………誰にも渡しません、だなんて…


恥かしさを誤魔化す様に、小夜はハジの腕の中でもがくと僅かに力の緩んだその腕の中で向き直る。
悔し紛れに、唇を尖らせる。
「ハジ…。…まだお仕事の匂い」
本当に彼はまだ、帰宅してスーツも脱いでいない。
彼の体からは、アルコールと煙草の匂いに混じって、どこか職場の空気のようなものが纏わりついている。
ハジも、朝から晩まで働いて疲れていない筈はないのだ…。
早くリラックスしたいつものハジに戻って欲しい…小夜は彼を労わる様な気持で素直にそう思った。
けれど…。
小夜の言葉を受けて、しばらく黙りこんでいたハジが急に真顔になった。
「…すみません。…これを飲んだらすぐに風呂に行って来ますから。出て来るまで…待っていて下さいますか?」
「…ぇ?……ぅん…。………待ってる、けど…?」

何を待っていると言うのだろう?

既に晩御飯も済ませてきたと言っていたのに…。

もう一度だけ、ハジの腕が強く小夜の体を抱き寄せた。
ぐいと引き寄せられ、深く唇を奪われる。
「……んっ。…ん…ぁ…ん!」
『ただいま』のそれにしては濃厚過ぎるそれに、やっと小夜はハジの言う『待っていて下さい』の意味を理解する。
『お風呂に入っていないから嫌…』と言う意味で『お仕事の匂い』と言った訳ではないというのに…。
いや、それよりもまず…そう言う…………流れではなかった筈だ。
耳まで赤く染めて固まる小夜の傍らで、ハジが一気に缶ビールを飲み干した。
「…では、行って来ます」
「あ…ねえ。待って…あのそう言う意味じゃ…無くて」
「……そう言う意味とは?」

確かにほんの少しだけ、耳元にかかる吐息に感じてしまったけれど…。
そんなつもりなんて、全く…考えていなかった。

「あ、えっと…お風呂に入らなきゃ嫌とか…そう言う意味じゃなくて…」
気真面目に説明しようと言葉を探す小夜に、ハジは尚更真剣な表情で迫る。
「…すぐですよ。…それまで…待てませんか?」
待てないのでしたらこのままベッドに運びましょうか?…と、事も無げに小夜を抱き上げようとする男の腕を逃れ、小夜はきゅっと唇を噛んだ。
柔らかな髪を揺らして『違う、違う』と慌てて首を振る。
「ち、違うの。……あの、私…そうじゃなくて…」
「……………何が違うのですか?」
「………だから、あの…」
「…だから?」
やんわりと問い返され、長い腕が包み込むように再び小夜を捉えた。
見上げる今にも泣き出しそうな瞳の前に、ハジは溜息と共にくすくすと小さな笑みを漏らした。
「本当に、貴女の無自覚に振り回される私の身にもなって下さい…」
「…む、無自覚って」
「そうやって…何も解かっていないところが…」
「…だって、…だって仕方ないじゃない」
『少し』と言った言葉通り、本当にハジは酔っているのか…小夜を強く胸に抱き締めると尚更楽しげな様子で小夜の耳元に吐息を吹き掛ける。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!止めて…ハジ…」
「……すみません。……これでも、誘っているつもりなのですが…」
なかなか上手くいきませんねと…。
大きく全身を震わせる小夜に畳みかける様に、ハジは小夜の柔らかな耳朶をちろりと舌先で舐めて甘噛みした。
「やっ…駄目…。さ、誘う…って…?」

……何?

「小夜がとても良い香りなので…つい…。誘惑されてしまいました…」
「……してない!!…私…誘惑なんてしてないよ!!」
「とにかく、私が上がって来るまで大人しく待っていて下さいね。………それとも…今夜は都合が宜しくないでしょうか?」
ハジの口調が丁寧なのはいつもの事だけれど…こんな時はわざとらしいほど律義な台詞が憎らしい。
そんな答え辛い事を、真顔で訊かないで…。
腕の中で崩れ落ちそうな華奢な体を、ハジは難なく抱き上げた。
彼はこうして、小夜を逃れられない状況に追い詰めながら楽しんでいるのだ。
絶対に趣味が悪い…と、小夜は男の胸に腕を突く。足が床につかないせいで酷く不安定だった。
落とさないようにと、男の腕が尚更強く小夜を抱き締める。
頬を膨らませ、唇を尖らせて…。
「…小夜?」
「早く…お風呂に行って来て…」
「…………」
「……………ちゃんと、待ってる…から…」


都合なんて…悪い訳ないじゃない…。


覗き込んでくる青い瞳から、小夜はぷいっと視線を逸らしたのだった。

                            《了》



20100415
3月16日のブログに載せましたSSです。
流れてそのまま忘れていたので、こちらに移しました…。

ソロと二人で飲みに行くハジ…本当に何を話しているのかが気になります(笑)
また機会があれば、ソロとハジと二人で飲みに行く話も書いてみようかな〜と思いますが、実際書き始めて見ないと二人が何を話すのかは解かりません…。

ええと、少しは寄ってるのかもしれないけど…多分ハジはずっと一人暮らしだったので、そうして帰宅した時に、「お帰りなさい」って言ってくれる小夜たんに感動しているのかと思われ…。

まあ、そんな時もあるよ…って言う様なお話でした。