久しぶりに再会したハジは、小夜の記憶の中の彼よりも少し違って見えた。
小夜を見詰める青い瞳も、そのうねる黒髪も、間違いなく小夜の愛するハジだと言うのに…。



Safe haven   三木邦彦



三十年の休眠を経て辿り着いた安住の地、沖縄。
真冬だと言うのに、この島に吹く風はどこか優しい。
そう感じるのは小夜が冬の本当の厳しさを知っているからだ。
思い出すだけで、大きく背筋が震える程…ロシアの冬は冷たかった。
まるで命を拒絶するかのような、凍て付く大地。氷に閉ざされた世界。
しかし不思議と、そんな北の果てにもやがて遅い春が訪れる。
雪の解けた黒い大地からは生命力に溢れた新芽が顔を出す。
厳しい冬を経験したからこそ…何気ない太陽の光の有難味を感じる事が出来る。
その恩恵を体中に感じる事が出来る。


小夜は開け放った窓から吹き込む優しい風に肩先で切り揃えた髪を遊ばせていた。
白い手摺のベランダ。
すぐ傍に迫る南の海。
この時期、北からの季節風の影響で比較的荒れ安い海も今朝は一段と穏やかな様で規則正しい波がここからも手に取る様に解かる。
見下ろせば手入れの行き届いたホテルの中庭が見えた。
一年中生い茂る亜熱帯の緑が冬とは言え美しい。
小夜は綺麗に手入れされた指先をじっと見詰めると、淡い色合いのネイルにほぅっと甘い吐息を吐いた。
予約の時間にはまだ早い。
もう少し、ここでこうして寛いでいても許される筈だ…。
そう思った時、控えめに部屋のドアがノックされた。
瞬間的に小夜には彼だと解かる。
叱られる訳でもないのに、小夜は背筋を正す様に立ち上がった。
「…小夜」
ノックに続いて、優しい声が小夜を呼んだ。
彼もこの部屋の宿泊客なのだから、勿論部屋の鍵をを持って外に出ている筈なのに、わざわざそうして小夜に入室の許可を得るのは幼い頃からの癖なのだろうか…。
「ハジ…」
小夜もまた、信頼し切った声で彼を呼んだ。
それを受けて、ハジがドアを開ける。
海に向かう大きなサッシの窓が開け放たれている事に、少なからず驚いた様子で…手にしていたルームナンバーの刻まれた古めかしいデザインの鍵を丸いテーブルの端に置くと、ハジは穏やかな表情で小夜を窘めた。
「…幾ら寒くないからと言って…まだ目覚めて間もないのですから…」
ハジはそう言って、流れる様な仕種でサッシを締めた。
途端に風が止む。
少し乱れた小夜の前髪を、長い指先が整える…それも昔からの彼の癖の様なものだ。
小夜が目覚めて、二か月足らず。
小夜はまだどこか自分が夢の中に居る様な錯覚に陥っていた。
「ごめんなさい…。でも気持ち良かったの…」
「ええ…」
小夜の言わんとしている事など、お見通しなのだろうか…。
ハジは一言だけそう答えて、頷いた。
小夜にとって、ハジはもう空気の様な存在だ。
傍らに居てくれる事が当たり前。
居てくれなくては、生きて行かれない。
それはまた、私にとっても同じ事なのです…ハジがそう丁寧に小夜に言い聞かせたのは、目覚めて何日目の夜の事だっただろう…。
翼手の女王として、そしてそのシュバリエとして、長い時間を共に生きてきた。
二人にとって共に在ると言う事は、神が空を飛ぶ鳥に与えられた翼が一対で漸くその役割を果たすのと同じ事だ。
とても独りでは生きて来られなかった。
これからも、とても独りでは生きて行かれない。
そんな二人にとって…空気の様な当たり前の事が、三十年の時を経ると…こんな意味を為すのだと、小夜は今更ながらに、甘い吐息を吐かずにはいられない。
まるで、全てが甘い夢の様で…。
どこからどこまでが現実で、どこからが小夜の願望であるのか…もう区別がつかない。
小夜はハジに勧められるまま、テーブルの前のソファーにちょこんと腰を下ろした。
「ハジ…。もう用は済んだの?」
「…はい。当日の確認事項は全て問題ありませんでしたので…すぐに…」
「ねえ、何か飲む?」
小夜はハジを向かいの席に座らせると、自分はそそくさと座ったばかりの席を立った。
どうにも落ちつかないのだ。
どうしてハジはあんなにも、落ちついて構えていられるのだろう…。
しかし、小夜の記憶を辿っても…彼が落ち着きを失う場面などそうそうあるものではなかった。
ただ、昔とは…どこか…何かが違う。それは彼の纏う雰囲気が変わったのだろうか…。
そわそわと立ち上がる小夜を追って、ハジもまた立ち上がる。
客室用の小さな冷蔵庫のドアに手を掛けたまま、小夜がじっと固まると…ハジはそっとその指先を小夜のそれに重ねた。
「緊張しているのですか?」
「…………。緊張しない方がおかしいよ…。こんな…」
ハジは小さく微笑んで、小夜の耳元にそっと唇を落とした。
「緊張しないおまじないを教えて差し上げます…」
「手のひらに人って三回書いて…って言うのは無しだよ…」
「まさか…」
大袈裟にハジは肩を竦めた。
縋る様な目をして自分を見上げている小夜に、ハジはそっと唇を落とした。
額に…そしてうっすらと閉じた瞼に、鼻先に…、頬に、そして最後は柔らかな薔薇色の唇に…。
「…やだ、余計に上がっちゃうよ。…ハジ」
うっすらと微笑んだ柔らかな表情。

そうだ、こんな時だ…。
小夜が、記憶の中のハジと僅かな差異を感じるのは…。

記憶の中のハジは、こんなに柔らかく…まるで小夜を包み込むように微笑んだだろうか…。
勿論彼は昔から物静か…で小夜に対してはいつも優しく、穏やかであったけれど…。


「今日、集まって下さるゲストの方々は…誰もが…心から私達を祝福して下さっているのです。…主役である貴女が…緊張する事など一つも無いのですよ…。懐かしい人々と一同に会える機会は限られています…小夜は今日と言う日をただ楽しめば良いのです…」
「…ハジ」

本当に…?
こんな事が、赦されるの?


三十年の時を経て…
あなたと結婚式を挙げる日が来るなんて…。
…ハジ。


何もかもが…小夜にとってはまるで夢の中の出来事の様だ。
あの三十年前の戦いの果てに…。
あの悲しい別れの果てに…こんな日が訪れるなんて…。

美しい真っ白なドレスも…
零れる様に咲き誇る生花のブーケも…

まるで夢の様に美し過ぎて…怖い位なのだ…。

そして何より…あなたが…。
ハジ………。

感極まった様に溢れだす涙。

「小夜…」
「…ご、ごめんなさい…」

泣くつもりなんて…

謝罪の言葉を漏らし…背を向けようとする小夜をハジがそっと抱き寄せた。
「…泣かないで。緊張してしまうのなら…式の間は…ずっと私の事だけを、見ていらっしゃい…。小夜…」
「ハジ…」
背中から小夜を抱き締める長い腕、そっと前で組まれた大きな両手に小夜は優しく指を重ねた。
ほんのりと色付いた爪先が震えた。

「ハジ…」

小夜の中で、目まぐるしく過去の記憶が過ぎてゆく。
あの業火の夜も、ロシアの凍て付く雪原も…、ベトナムも…。
辛かった戦いの日々が、こんな幸せに繋がっていただなんて…。
…こうして息を吸って、吐いて…、あなたに触れて…風を感じて、太陽の光を浴びて…。
失くしたと思っていたあなたが変わらず傍らに居てくれるだけで…。
生きている事が、こんなに幸せだと感じられる日が来るなんて…。

ディーヴァ…私…。
…………幸せになって、良いの?

まるで小夜の想いを全て受け止める様に、抱き締めるハジの腕がより一層強さを増した。
「…ハジ、ハジ…。私…」
もう一度、ハジはそっと小夜の耳元に唇を寄せ…そして厳かな愛の言葉を告げた。


□□□


「小夜…。もう泣いていたの?」
既に礼服に着替えた香里が呆れた様に小夜を覗き込んだ。
いつの間にか、小夜の母親の様な年齢に達していた彼女だが、昔と変わらず小夜にとっては一番の親友だ。傍らに佇む青年に『もう!今から花嫁を泣かせたら駄目じゃない…』と砕けた口調で注意を与え、ハジもまた慣れた様子で『申し訳ありません…』と微笑んだ。
「あなた達の事だから、今更って思ったけど…やっぱり、式の前日は別室にした方が良かったんじゃない?」
そんな風に笑う香里に、ハジもまた静かに…にこやかな様子で受け答えていた。
涙で滲んだ視界。

ハジ…。

三十年前には考えられなかった。
彼がこんなにも、『人』と馴染んでいる姿なんて…。
私が『人』ではなくしてしまった…、大切な…大切なハジ。

三十年前の彼は…もっと頑なで…、小夜以外の誰をも傍に寄せ付けようとせず…触れれば切れる様で、いつしか微笑む事すら忘れてしまっていたと言うのに…。

それは夢の様な…景色。

生きているだけで幸せ…。

大好きな人と…。
大好きな人達に囲まれて…。
…こうして居られるだけで…私…。

ディーヴァ…私…。


「小夜…。そろそろ…」
枕元のデジタル時計で時間を確認すると、ハジが促した。
花婿より一足先に、花嫁はもうホテルの美容室へ行く時間なのだ。
小夜はハジに渡されたハンカチで後から後から溢れて来る涙をそっと拭くと、エスコートする様に差し出された香里の手にそっと手を重ねた。

「それじゃあ、花嫁を預かって行くわね。…ドレス姿は昔に見慣れていたかもしれないけれど…白いウェディングドレスはきっと格別よ!…楽しみにしていて…」
ハジは『よろしくお願いします』と、頭を下げた。
そうしてもう一度、ゆっくりと小夜に向き直るとあの穏やかな笑顔で小夜に告げた。
「…祭壇の前で、待っています…。小夜…」
「うん…」
「必ず…私の元へ…来て下さいますか?」
「…うん。…ハジ」
……愛してる

滲む視界の中で、ハジが微笑んでいる。


それはまるで…凍て付く冬を溶かす春の日差しの様な…。
愛するハジの…微笑み。

                      ≪了≫


20100119
あはははは〜ん。まあ、笑って許して…。
単に甘い二人…と言うか、30年の時を経て、角が取れて穏やかにしなやかに…更に強くなったハジが書けたらな〜と思ったんです。
…ブログに載せるには、長過ぎたかも…すみません。



2010年1月19日のブログに載せたSSデス。