「…ねえ、私がハジにチョコレートをあげたら可笑しい?」

答えは解かり切っていた。
シュバリエである青年が小夜の言葉を否定する事などあり得ない。
しかし数日後に迫ったバレンタインに自分はハジに対して一体どんな態度を取れば良いものか…人知れず思い悩むうち…思いがけず零れてしまった言葉を、もう取り消す事など出来なかった。
小夜は大きな瞳を伏せる様にして、美しい青年から視線を逸らした。



Bitter sweet…   三木邦彦



ハジは唐突な小夜の問い掛けにもその表情を大きく動かす事はなかった。
ただその静かな青い瞳を穏やかに緩め、優雅な手付きで手元のティーポットを取ると小夜の白いティーカップに紅茶を注いだ。ふわりとした白い湯気と共に、優しい紅茶の香りが部屋中に広がる。
鼻孔を擽るその香りは、小夜にとって遠い昔を彷彿とさせる…酷く懐かしいものだ。
咲き乱れるバラの庭を眺めながらゆったりと過ごした午後のひと時、あれからどれ程長い時間が流れたことだろう…。
小夜は変わらず傍らに控える従者をちらりと見やった。
その多くを眠って過ごす小夜とは違い…目まぐるしく移ってゆく荒々しい時代の流れを彼の青い瞳は絶えず映してきたというのに…その色はあの頃と少しも変わらない。
いやむしろ穏やかになった。

ハジが、自分の傍らに居てくれる。

あれから気の遠くなる程の時間が流れたと言うのに…それ自体がまるで一つの奇跡の様で、小夜は信じられないものを見る様にじっと青年の流れる様な動作を目で追っていた。
小夜とは違い、大きくて少し骨ばった手は美しくて見ているだけで飽きない。
小夜の前に紅茶の注がれたカップを勧めると…長い指で小さな器に盛られた頂き物の焼き菓子の中から、蜂蜜色のマドレーヌを添えた。
「…どうぞ」
良く響く…美しいテノールは三十年前と少しも変わらない。
いや、変わらないどころか…以前よりもずっとその響きはふくよかで深い。
流れる様な美しい動作に、小夜は見惚れていた。


言葉数が少ないのは昔も今も変わらないけれど、その表情は格段に柔らかくなった様に小夜には感じられた。戦う必要のない世界が、ハジをこんなに穏やかに変えたのだ。
そう思うと…小夜は自分の眠っている時間が如何に長いのかを実感して、尚更彼の顔を真っ直ぐに見る事が出来なくなった。


彼がまだ少年であった頃…彼はどこか早熟なところがあって、時折…随分大人びた微笑みを浮かべる事があったけれど、その頃の少し背伸びした様な危なっかしさがとても懐かしく感じられた。
外見こそ彼がその時間を止めた二十歳を幾つか過ぎた頃と少しも変わらないと言うのに、その瞳の青は彼の生きてきた時間の長さを映してか…とても思慮深い色を湛えている。
穏やかと、たったその一言では説明し切れない男の纏う空気。

たった二、三年の短い活動期と三十年あまりの長い休眠を繰り返す翼手の女王である小夜は、目の前に静かに佇む自らの忠実なシュバリエから再び目を逸らした。
申し訳ない…と言う気持ちなのか…自分でもそれは説明がつかない。
ハジを長い間独りにしてしまう。
以前にも同じような事を詫びたら、シュバリエである自分にそんな風に気を遣う事はないのだとやんわりと窘められた。


「…ありがとう」
胸の内に降り積もるどことなく疾しい思いを拭う様に、小夜は温かいカップに指を伸ばした。
じわりとカップの温もりが指先に染みて、ほぅっと吐息が零れる。
それはまるで彼が小夜に向けてくれる心遣いそのものの様だった。

訳も無く胸が締め付けられるような愛しさに襲われる。
けれど、自分の胸に溢れるこの愛しさが、女王とシュバリエと言う垣根を越えてしまう事を、小夜は長い間…無意識に恐れていた。
いや、垣根を超える以前に…ハジから拒絶される事を恐れていたのだ。
自分達が置かれてきた戦いの日々を開放してくれるものは、『死』以外には有り得る筈はなかった。
遠い昔から、確かに自分の心の中に存在した柔らかな感情の襞を敢えて見ない様にして、その上に大きな重しを乗せて押し殺してきた。
この想いは自分が滅するまで…身も心も塵となり果てて消えるまで、誰にも明かす事はない。
そしてその瞬間はもうすぐやって来るのだと…。
そう思う事で、小夜はどこか安堵さえ感じていたのだ。

けれど、小夜は今もこうして生きている。

ハジはテーブルの反対側に腰掛けると、大きな掌をテーブルの上で重ねた。
左右の長い指が折り重なる様にして組まれるのを、小夜はどこかうっとりと見詰めていた。
「…それは…バレンタインの?」
静かな視線を小夜に置いたまま、ハジは改めてそう尋ねた。
この季節にチョコレートと言えば、バレンタインと相場は決まっている。
休眠から覚めたばかりの小夜とは違い、眠る事すらなく人の社会に溶け込んで暮らしているハジがそれを知らない筈はなかった。
小夜自身こそ、つい最近までバレンタインと言う習慣を知らなかった。
以前ジョージの娘として暮らした一年弱の間に、小夜はバレンタインというものを経験していない。
その季節、目覚めたばかりの小夜は言葉すら覚束なかったのだ。

聞き流してくれれば良いのに…今更、まじまじとそんな事を聞かないで…と思う、しかし自ら話を振っておきながら…小夜が答えない訳にはいかなかった。
「…そうだよ、バレンタイン」
視線を合わせられないままに、小夜は答え…『素敵な習慣だね…』と付け加えた。
女性から、好きな男性にチョコレートをプレゼントして自分の気持ちを伝える、だなんて…。
時にそれは義理であったり、日頃の感謝を込めて友人と贈り合うものだったりもするが、やはりバレンタインのチョコレートと言えば、日頃伝えられない想いを女性から打ち明ける為のものらしい。

日頃、伝えられない想い…

自問自答を繰り返す内に、つい…唇から零れる様に小夜はハジに問い掛けてしまったけれど…、考えてみればこんな事を質問するなんてどうかしている。

ハジは向かいの席で静かに小夜の様子を伺っている。
柔らかな曲線を描く黒髪がはらりと額に落ちかかった。
長い指がすっとそれを耳に掛ける。
「ごめんなさい。そんな事…聞くなんて…ハジには、答えようがないよね…。大体チョコなんて食べないのに…。あのね…ハジには感謝しているの…。傍にいてくれて…。だからその気持ちを…私…テレビでバレンタインって言う習慣を初めて知って…それで…」
小夜は小さく謝罪して、闇雲に言い訳を並べて…ハジの淹れてくれた紅茶を一口唇に含んだ。
テーブルの上に用意されたカップも、添えられた焼き菓子も小夜のものだけだ。
シュバリエであるハジはもう食物を摂取する必要すらない。
しかし…忠実なシュバリエである青年は、きっと小夜の与えたものならば石でも口にするのだろう。
そんな彼に、『チョコレートを渡したら可笑しい?』だなんて…。
想いを告げるも何も、これでは最初から自分達は同じ場所に立ってさえいない…。
人として育ちその自覚も無い小夜に、女王であると言う枷の如何に重い事か…。
深い感謝も、この胸を締め付ける切ない思慕も、どう伝えれば上手く彼に伝わると言うのだろうか…。
『愛しています…』と、ハジが言ってくれたのは、小夜にとってはつい昨日の事の様だけれど、ハジにとってはもう三十年も昔の事なのだ。

その気持ちは、まだ彼の中に息衝いていてくれるだろうか…。
例え、そうであっても…自分は彼の気持ちにそっくり応える事が出来るのだろうか…。
小夜の心の中にいつしか芽生え、そして知らぬ間に大きく育っていたハジへの愛情は…果たして彼の中にあるそれと同じものなのだろうか…。
ただひたすら、絶望の中で戦う事だけを求められた自分達が…こうして静かな日々を過ごす事が許されるのだろうか…。

ディーヴァ…
私のこんな気持ちを知ったら、貴女はなんて言う?
怒る?
それとも呆れて嗤うのかしら…?


それでも、目覚めて一番に感じた自分の素直な気持ちを、もう小夜は抑える事が出来なくて…。

ハジがそこにいてくれるだけで幸せ…。
もう、二度と会えないかも知れないと、半ば覚悟さえしていた…。
でも、ハジが生きていてくれて…。
もう女王を守る義務からは解放されたと言うのに…以前と変わらず…こうして傍らに寄り添ってくれるだけで…。

どくんどくん…と胸が脈打つ。
この体は赤い結晶に化して脆く崩れ去る事無く今も強く脈打ち、生きて続けている…。
確かに自分達は生きていて…。
ハジを見ていると、押しつぶされそうに胸が苦しくて…甘くて…。

ハジ…。
平和な世界と言うのは…迷う事ばかり…。

「ごめんなさい。良いの…もう今の…忘れて…」
しかし、ハジは小夜の迷いを振り払う様に…その瞳を細めた。
「貴女からバレンタインのチョコレートを頂ける日が来るとは、想像すら出来ませんでした。本当は私から差し上げたい位なのに…」
「……ハジ」
向かいの席でハジが微笑んでいる。
「…小夜。……そんな表情をしないで…」

そんな表情…?

向かい側からさし伸ばされた指先が、そっと目尻を拭った。

…涙?

「泣かないで…。チョコレートも何も…。私は、今ここにこうして貴女がいて下さるだけで…充分に満たされる事が出来るのですから…」
「ハジ…」
ハジはそっと立ち上がると、ぐるりとテーブルを回り込んだ。
すぐ傍に寄って床に片膝を付く。

ハジの静かな微笑みが、涙で歪んだ。
優しく伸ばされた指先が頬に触れる。

ハジの形の良い唇が小さく囁く。

今まで…どうしても甘える事の出来なかった男の胸に小夜は崩れる様にしがみ付いた。
何とか堪えようと思うのに、見る間に涙が溢れてハジのシャツの胸元がぐっしょりと濡れた。
今までずっと堪えていた何かが、崩れて形を失ってゆく。
脆く…。

しゃくり上げるほど激しく、涙は枯れる事が無くて…。
子供の様に、小夜はその胸で泣いた。

泣いて…
泣いて…
泣いて…
全てを押し流す様に…泣いて…

長い時間を掛けて漸くその涙が乾く頃…
根気良く小夜の背中を抱き締めていてくれた男が、小夜の頬に指を添えて顔を上げさせるとその赤い目元にそっと唇を押し当てた。

もどかしい程に優しく…。
ほろ苦く…甘く…。

「泣きたい時に、泣きたいだけ…泣いていいのですよ。…小夜」

覗き込んでくる瞳は、子供の頃に見上げたあの澄んだ空の様で…。
私はいつも変わらずにここにいます…と、小夜に囁きかけている様で…。

バレンタインは女性から好意を寄せる男性に、日頃伝えられない想いを伝える日…。

「ハジ…私…。…私ね…」

男の腕の中で…小夜はそうして、一人の少女に戻ってゆく。

                          ≪了≫



20100317

2010/02/18のブログに載せたバレンタインSS。本編の二人編。
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