温かい季節なら、きっとガーデンパティーも素敵…。
 
和やかな人々の談笑を背後に、小夜はぼんやりとそんな事を想いながら…ほぅ…と甘い吐息を零した。
 
 
隠れ家風の一軒家。
ライトアップされて浮かび上がる白い壁に庭の豊かな緑が映えて、そこは夢の中の様な景色だった。
周囲を高い塀に囲まれ表通りから離れているせいか…外の喧騒もここまでは届かない。
ほんのりと香り立つような夜の湿り気を帯びた空気は、一瞬ここが都会の真ん中だと言う事を忘れさせてしまう。
小さな可愛らしいチャペル、そして披露宴会場となる南仏風のフレンチレストラン…広い庭とそれらをぐるりと一周する回廊。
傍らに流れる小川のせせらぎ。
どこか優しくてほっとする空気。
和やかな談笑の声。
新郎新婦の嬉しそうな笑顔。
 
 
『いつか、私と結婚して下さい…』
 
 
あの晩、そう言ったハジの言葉がちらりと小夜の脳裏を掠めた。
あれ以来、ハジがその事に関して触れた事は一度も無かったけれど…あれは確かにプロポーズだった。
ハジは小夜の目を見て「いつか結婚して下さい」と言ってくれた。


まだ学生である小夜には、そのいつかと言うのがいつの事なのかは…良く解からなかったけれど…。
 
いつか…。
いつか自分達も、こんな風に結婚式を挙げる日が来るのだろうか…。
女の子だったら誰だって素敵な結婚式に憧れる筈…、そう思うのは…あまりに素直過ぎるだろうか…。
そんな漠然とした甘い空想に浸るのは、いけない事だろうか…。
 



Love Love Love * 前篇

 
賑やかな歓談の輪から離れ、小夜は一人窓際の一番テラスに近い席に佇んでいた。
 
 
飲み物を取って来ます…と言って席を立ったハジはまだ戻らない…どこかで誰か知り合いにでも捕まっているのだろうか…。知り合いもなく…一人で待つのは心細いけれど…しかし、勝手の解からない場所で彼を探して歩き回る勇気も小夜にはない。
幾ら、素敵な場所だとしても、自分一人では居場所が見つからない。
どこか自分は場違いなのではないか…。
本当にここに居ても良いのだろうか…と、不安な気持ちさえ胸を過る。
美しい庭園に面した窓ガラスに映り込む自分の姿は普段の自分とは全く別人のようで…つい気後れしてしまう気持ちを勇気づける様に小夜はしゃんと背筋を伸ばした。
 
 
ハジ…早く戻って来て…。
 
 
□□□
 
 
それは年明けすぐの出来事だった。
静かな三が日を過ごし、世間はまだ冬休みで…夜更かししたツケの様に遅い朝を迎えた二人はのんびりとブランチを楽しんでいた。
おせちにも飽きて、久しぶりにスープとトーストの朝食。
ハジが作ってくれたシーザーサラダに、小夜の焼いた目玉焼きは少しいびつで…久しぶりのコーヒーの香りが何気ない日常が始まった事を象徴していた。
 
コーヒーカップを手に…ハジはテーブルの脇に積まれた年賀状の山を何気なく捲っていた。
一枚だけポツンと遅れて届いた賀状にじっと目を止める。
そして唐突に…
「…2月の13日の土曜日ですが、予定は空いていますか?」
何の前振りも無く、小夜にそう問いかけた。
言葉数の少ない彼はいつも突然に話を切り出す事が多くて、度々ドキッとさせられる事がある。
その日もまさにそうだった。
2月13日と言えばバレンタインの前日。
二人が出会って初めてのバレンタインであり、まだ先の事とは言え勿論ハジにチョコレートを贈る気満々でいた小夜の胸がどきんどきんと高鳴った。
一か月以上も先の予定などまだ具体的に決まっている筈も無い小夜が、温かなミルクのカップを手にしたまま『うん…』と曖昧に頷くと…ハジは小夜の返事にそっと微笑んだ。
「元同期の結婚式なのですが、その二次会に招待されていて…小夜も一緒に行きませんか?」
「…………。…どうして?」
小夜はハジの言っている言葉の意味を理解出来ずに瞬きを繰り返したけれど、一呼吸置いて漸く声を発する事が出来た。どうして自分がハジの元同僚の結婚式の二次会に参加するのか…と言う疑問がぐるぐると脳裏を回り、それ以上が言葉にならない。ハジはそんな小夜の反応を予想していたのか、表情を変える様な事はなかった。
「……披露宴ではなくて、会費制の二次会ですからずっと場は砕けていますし…会費を払えば小夜も出席出来るのですよ」
「…あのね、そう言う事じゃなくて…。私その人達の事何も知らないのに…」
「義理もあって…どうしても私は欠席する訳にはいかないのですが…ああ言う賑やかな席はとても苦手なのです。それでも小夜が隣に居てくれればきっと楽しい時間が過ごせると思いまして…」
「…だって」
そう言われても尚気の引ける小夜に、ハジは付け加えた。
「……一軒家を貸し切ったレストランウェディングで…二次会は同じ会場で夕方からの立食パーティーなのだそうです…ゲストを入れ替えて。…きっと美味しいものがあると思いますよ…」
ほんの少し、小夜の表情が緩む…。
小夜も人並みに年頃の女の子であり、レストランウェディングと言う響きに抱く漠然とした憧れ。
そして華やかなパーティー。
しかし、じっと見詰めるハジの視線に慌てて小夜は断りを入れた。
「そんな…私、食べ物なんかで釣られる訳ないじゃない…」
頬が思わずかぁっと赤く染まった。まるで心の中を見透かされた様な気分だった。
「顔を出して挨拶さえすれば義理は果たせます。後は二人で美味しいものを頂いて、自由に楽しめばいいのですよ」
「…………」
「少々帰りが遅くなるかもしれませんが…小夜は留守番の方がよろしいですか?」
テーブルの上にカップを戻し、ハジが覗き込んでくる。
「…………」
「少し洒落たレストランで食事するだけですよ…」
 
ハジと一緒に、少しお洒落なレストランでお食事するだけ…
 
食事はともかく…折角バレンタインの前日だと言うのにハジがそうして一人で出掛けてしまうと言うのは、とても寂しい様な気がして…、小夜は流される様に「うん」と頷いてしまったのだ。
 
 
□□□
 
 
ガラスに映り込む淡いコーラルピンクのフェミニンなワンピースに丸襟ジャケットのスーツはこの日の為にレンタルしたものだった。レンタルでなくても気に入ったものを買ってあげますよ…ハジの表情はそう語っていたけれど…小夜はそれに気がつかないふりをし通した。
それは二次会用の衣装の中では随分と大人しい方だったけれど、普段の生活には必要のないものだ。そんな物を買う為に何万円も払える筈はなかった。
自分にはレンタルで充分…いやレンタルだとしても充分過ぎる位だと思う。
レンタルとはいえ、偶然にも新品だったし…それにアクセサリーとパンプス、バッグの分…それらの一泊分のレンタル料は何とか自分にも払う事ができた。全部一から揃えて購入するのに比べたら格段にお得な筈だった。

ハジは事あるごとに小夜の面倒を見たがるけれど、自分の事は自分で…まるで幼稚園児の様だけれど…自分で何とか出来る事は自分で何とかしたい…それが小夜の気持ちだった。
そうでなければ、とても彼と並んで歩ける大人の女性にはなれない様な気がするのだ。
 
普段はほとんどメイクなどしない小夜は、化粧品もごく簡単なものしか持っておらず…悩んだ末に…何回か通った美容院へ行って「結婚式の二次会に参加するので…」と、メイクと髪のブローをしてお願いした。
自己流のそれとは全く違い、プロの手によるメイクはナチュラルなのに華がある。
整えた眉、優しい色合いのアイシャドーと付け睫毛は小夜の大きな瞳をよりくっきりと際立たせ、ほんのりと健康的なチークは小夜の頬を瑞々しい果実の様に見せた。仕上げにそっと色を差したリップは艶やかなピンク色でスーツの色にもよく似合っている。
ほんの少しの事なのに、見違えるように垢抜けた鏡の中の自分…。
ハジは「とても綺麗ですよ…」と誉めてくれたけれど、小夜にはどこかくすぐったいばかりだ。
 
 
『少し洒落たレストランで食事するだけ』…ハジは確かにそう言った。
挨拶が済めば後は自由に楽しめばいいのだと…。
 
 
その言葉通り、ハジは会場に到着するとまず初めに小夜を連れて本日の主役である新郎新婦の元を訪れ祝いの挨拶を済ませた。
新郎新婦とは面識のない小夜を『恋人です』と彼らに紹介もしてくれた。
小夜は、今までそんな風に彼の友人に紹介された事はない。
恥かしくて、緊張のあまりろくに言葉を発する事も出来ないまま、小夜は小さく頭を下げた。
今度は逆の立場で冷やかされたけれど、ハジはこんな時にもいつもの態度を崩す事はなかった。
ちくちくと周りの視線が痛いのは自意識過剰なのだろうか。
こんなに素敵なハジの恋人が自分の様な…特に美人でもない平凡な女の子である事に、きっと周りの人々は驚きを隠せないのではないか…。
ハジはどこに居ても、下手をすれば今日の主役である新郎新婦よりも目立ってしまいそうだ。
四分の一は日本人の血が流れているのだとは言え、見た目はそっくり外国人そのもので…モデルの様なスタイルも芸能人の様な整った容姿も、まるで映画の中の登場人物の様なのに…。
それに引き換え、自分は…。
小夜は居た堪れない気持ちで、ハジの広い背中に隠れていた。
 
しかし、その後は気楽に楽しめばいいと言うハジの言葉の通り、小夜にとっても楽しくて和やかな時間が過ぎていった。乾杯を済ませれば、後はそれぞれが自由にパーティーを楽しみ新郎新婦を祝った。
ハジは小夜も楽しめる様に常に傍らで気を配ってくれていたし、ブッフェ形式の料理はどれも美味しくて…ソフトドリンクのグラスを片手に小夜も随分と食べ過ぎてしまったようだ。
 
そうしてパーティーを楽しみながら、しかし…いつしか小夜の頭の中は別の事で支配されていた。
デザインを優先させた小ぶりなバッグに忍ばせた小さなチョコレートの包み。


偶然にも明日はバレンタインで…。
一緒に暮らしているから尚更、家のリビングでテレビを見ながら渡すよりも、お洒落をして二人でデートしている時に渡したい…。だから、一日早いけれど…小夜は折角おしゃれして出掛けるこの機会にチョコレートを渡そうと密かに心に決めていたのだ。
流石にこれだけお世話になっているハジへのプレゼントがチョコレートだけでは気が済まなくて…もう一つ別に用意した秘密のプレゼントは部屋の引き出しにこっそり隠してある。
小さなバッグにはとてもプレゼントの包みが二つも入らなかったからなのだけれど、しかしそれは帰宅した後にでも渡せば良い。とにかく、今夜はハジに出会ってからこれまでの感謝の気持ちと、それから自分がとてもハジの事を好きなのだと言う事を伝えたかった。
 
『ハジが大好き…』
 
小夜の心を占めるのは、ただ純粋にその強い想いだけだ
そんな曖昧な言葉では、この間のプロポーズの返事にはならないのかもしれないけれど…。
今はまだ、小夜にはそれが精一杯なのだった。
一緒に暮らしてはいても、一つのベッドで眠ってはいても…。

そして素敵な結婚式に憧れはしても、結婚なんてまだまだ小夜には実感はない。
 
いつか…
本当にいつか…
 
今すぐは無理だけれど、いつか…その相手がハジなら良いと…。
いや、今の小夜にはハジしか考えられないのだけれど…?
漠然とそんな風に思うのが精いっぱいだった。
 
それにしても…どんな風に切り出せばいいのだろう?
こんなに大勢の人に囲まれているのに…上手く二人きりになれるタイミングがあるだろうか…?
それとも、帰り道で渡した方が良い?
今夜はアルコールが入る事も配慮して往復共にタクシーを利用する予定だけれど…幾らなんでも…流石に運転手さんもいる車内でチョコレートを渡す勇気はない。
無事にチョコレートを渡し、ハジに気持ちを伝える事が出来るだろうか…それを考えるだけでも心臓がどきどきと大きく高鳴って、小夜はとても緊張していた。
 
 
ハジはまだだろうか…。
ドキドキする鼓動に加え、なかなか戻らないハジに…小夜の心には次第にそわそわと心細い気持が首をもたげ始めていた。
 
 
□□□
 
 
ふいに小夜の背後に人の経つ気配がした。
当然ハジが戻ってきたのだと思い込んでいた小夜が、何の疑いも無く無防備な笑顔を覗かせて振り返ると…
しかし、そこに立っていたのは全く見知らぬ男性であり…小夜は見知らぬ男性に笑い掛けてしまった恥かしさにかぁっと頬が熱くなるのを感じた。
思わず立ち上がると「すみません!」と小さく頭を下げる。
明るい色合いのスーツを着た男性は少し驚いた様子ではあったものの、「いえいえ」と逆に驚かせてしまった事に謝罪すると「お一人ですか?」と隣に座ろうとしてくる。
予想外の展開に小夜の思考は完全にストップしかかっていて、うんともすんとも答える事が出来なかった。
男性は少し酔っている様子で顔が赤く、以前バニーガールのアルバイトをした時の記憶が蘇ってか…尚更身じろぎすら出来ない。アルコールも飲んでいないのに、意識が遠くなりそうだった。
そんな小夜に、男性は慣れ慣れしく「君も座って…」等と細い腕を掴もうとした。
ギュッと目を瞑る…思わず小夜が悲鳴を上げそうになる、それより一瞬早く…別の存在が二人の間に割って入っていた。

「すみません、連れが何か?」

そう言うと、さりげなく小夜を背中に庇う。
どうやら男は早々に立ち去った様だったけれど、小夜の視界は広い背中に遮られて何も見えなかった。
一瞬、ハジかと縋る様な気持ちで目を開ける。
しかし、視界を埋めるスーツはハジのものではなく、見上げたそこに見慣れたあの美しい黒髪はなかった。
「……………」
「…小夜さん。いつものカジュアルな貴女も可愛いけれど、今夜は一段と素敵ですね…」
まるで溜息を零す様に、男がそう言って振り返った。
小夜は目の前の存在が信じられない様な気持で、小さく礼を述べる。
「…助けてくれて…どうもありがとう、ございます。…ソロモン…さん…」
どうして彼がここに居るのだろう…、ハジはどこへ行ってしまったのだろう…。
小夜の心細さはピークに達しようとしていた。
ソロモンは改めて小夜に向かい姿勢を正すと、まるで姫君を前にする様な仕種で「どういたしまして…」と、一礼した。
「漸く名前を呼んでくれましたね…。それにしても、また彼は貴女を一人にして…。どこで油を売っているんだか…」
少し呆れた様な口調はハジに向けられたものだと小夜にもすぐに解かった。
「…どうして、あなたが、ここに?」
「……それは僕が訊きたいところでしたよ、こんな場所で貴女を見付けて…思わず運命を信じたくなる程に…」
そんなソロモンの軽い口調にも、小夜の瞳から疑問の色は消えない。
ソロモンは小夜の疑問に答えるべく説明した。
「…ハジとは同期ですからね。つまり彼の元同僚は僕の元同僚と言う事でもあるんですよ…」
それを聞いて、ひとまずなるほど…とやっと小夜の表情から疑問符が消える。
「ハジが戻るまで、僕がここに居てあげますよ。また変な男が寄ってきたら厄介でしょう?…結婚式の二次会だなんて言って、半分は合コンだと思って参加している輩も多いですから、小夜さんの様な可愛い人が一人で座っていたらまた間違いなく声を掛けられますよ…」
「そんな…」
しかし先程、見知らぬ男に腕を取られそうになった時の事を思い出すと、小夜は強い口調でソロモンを断る事が出来なかった。
ソロモンは先程までハジが掛けていた席に、すっと腰を下ろした。
「ハジはそう言う駆け引きが嫌いですから…だから貴女を連れて来たのかな…。隣に女性を伴っていれば誰も声を掛けられないですからね…」
「………………」
「それにしても未成年の貴女をんな所で一人にしておくなんて…少し迂闊過ぎるな…」
「………………」
「……いつもはお化粧なんてしていないでしょう?…だから見違えて…別人かと思いました」
ソロモンは黙り込んでいる小夜を気にした風も無い。
スラスラと紡がれる言葉に、どんな返事をしたら良いのかも解からなかった。
「………そんな」
「しかし、化粧なんて…小夜さんには必要ありませんよ。飾り立てなくても貴女は本当に可愛らしい」
「…………なんかそれ、嘘臭いです」
「僕の言葉を疑うのなら、ハジに聞いてごらんなさい。彼もきっとそう答えます」
「…そんなの………ますます信じられないんだから」
小夜の答えに、ソロモンは肩を揺らして笑った。先程とは打って変わった無邪気な表情が大人の男性と言うよりもずっと身近で…まるで少年の様だ。
「彼は、小夜さんを溺愛しているからね…。あの堅物が貴女みたいな恋人をモノにするなんて…」
 
何を言っているのだろう…?

ソロモンは確か以前、小夜にこう言ったのだ。
 
『何も貴女が特別ではありません』
 
…と。
 
しかし、それでは溺愛していると言うのはどういう事なのだろう…。
小夜がぼんやりとしていると、ソロモンはつまらなさそうに付け加えた。
「そこは、モノにするなんて…の先を、問い返す場面ですよ?」
「…え…モノにするなんて?」
小夜は言われるままに、問い返した。まるで棒読みの台詞の様だ。
「こう続くんです。なんて羨ましいっ!!…ねえ、小夜さん…女の子はよく運命の赤い糸の話を信じていたりするでしょう?」
「…………?」
「でも、知ってますか?…運命の赤い糸は、実は二本あるんです…」
そんな事は初めて聞いた。小夜は思いがけないソロモンの話の展開に思わず「そうなの?」と興味の色の灯った瞳を向けた。
「ほら、ここ…」
「え…。ええっ?」
小夜の注目を浴びて、ソロモンは自らの左の小指を立てるとまるでそこに本物の糸が結ばれている様に手繰り始めた。
「ほらほら…。この糸、どこに繋がっているんでしょうね?…あれ、もう手応えがありますよ………ほらここ…」
ソロモンの指先がつん…と小夜の左の小指を突いた。
「…ここに」
「…………?」
訳が解からずに小夜が金色の髪をした男の顔をまじまじと見上げると、ソロモンの表情は今までに見た事も無いほど真面目なものだった。
「…ここに。貴女の指に結ばれていたら…良いな…と思ったんです。ハジなんてやめて、僕にしませんか?」
「…止めて下さい。ふざけないで…」
そこへ来てやっと、小夜はソロモンの言う言葉の意味をおぼろげながら理解する。
幾らハジの同僚だと言っても、こんな風にからかうのは止めて欲しい。
小夜には、そんな冗談を上手くかわせる様な経験はない。
「僕は、ふざけてなど…」
「………嘘」
「…考えてみて下さい。…僕と彼とはどこがどう劣ると言うんです?……彼が貴女を助けたあの晩、彼は社長のお供だったんです、そしてそれは時に僕の役目でもある。あの晩、たまたま貴女と出会ったのはハジだったけれど…それはもしかしたら僕だったのかも知れない…」
ソロモンの言う言葉の意味を、真に受けて良い筈がなかった。それは今だからこそ言える方便なのだ。
彼が言う事の意味を突き詰めると、それはつまりソロモンが自分を好きだと言う事になるのだろうか…。
それにしても…このソロモンと言う青年は一体どこまで自分とハジとの事を知っているのだろう…。
「……そこに居たのがハジではなくて、僕だったとしたら。貴女を最初に助けたのが僕だったとしたら…貴女は僕を好きになっていたんじゃありませんか?」
「劣る、劣らない、の話じゃありません。そんなの…もしもの話じゃないですか?…実際に助けてくれたのはハジだもの…」
「ですから…」
落ち着いて下さい…とソロモンが言い募る。
「小夜さんは、ハジの何を知っていると言うんです?」
小夜は、髪を揺らした。図星をさされた様な気がして、ずきんと胸が痛む。
「それでも私は!!…私…ソロモンさんの言う事は信じられません…」
「酷いな…。ハジの言う事は何だって頭から信じるのに?」
「…だって。それは…」
「…小夜さん、貴女のは生まれたばかりのヒナが初めて目にした動くものを親だと信じるのと同じです。たまたまハジが貴女の窮地を救ったのかもしれませんが…」

そんなものは恋ではありません……。

差し出されたソロモンの指先が、そっと小夜のブローした毛先に触れようとした瞬間…。

すっと小夜の肩先に舞い降りた掌がソロモンの指先を払った。
「……人の恋人に馴れ馴れしく触れて欲しくありませんね。ソロモン…」
全身に張り詰めていた力がふっと抜けてゆく。
小夜が背後を振り返ると、小夜の肩にそっと手を置いてハジが立っていた。
「…戻るのが遅くなってすみません。小夜…」
「ハジ…」
小夜が縋る様に手を伸ばして立ち上がると、ハジはもう一度すみません…と頭を下げた。
そうして傍らに寄り添う小夜を庇う様にして前に出ると、同じように立ち上がったソロモンに向き合う。
「小夜を、怖がらせないで下さい…」
「怖がらせてなどいませんよ。…あなたこそ、こんな可愛い恋人を一人にして…さっき向こうで綺麗な女性に捕まっていたじゃないですか?……小夜さんにおかしな男が寄って来たので、あなたが戻るまで少しお相手していただけですよ」
「そうですか…。それは私からも礼を言うべきなのでしょうね…。ありがとうございます…ソロモン。小夜が世話になりました…」
二人の視線が絡むと同時に、まるで火花が散る様な錯覚を覚えた。
「ねぇ…ハジ…」
二人の男のどこか険悪ともとれる会話に、小夜は恐れをなしたようにハジの袖を引いた。
心配げに見上げる小夜をハジがゆっくりと振り返る。
「…お願い。喧嘩しないで…」
「喧嘩などしていませんよ。……彼とは付き合いが長い分だけ気心も知れていますから…」
「……そうですよ。小夜さん…小夜さんが心配する様な事ではありません」
長身の男二人が僅かに身を屈めるようにして両側から小夜を覗き込んでいる。
遠巻きに見ていた女性達の視線が一気に集まった。
「お願い。ハジ…もう止めて…。ソロモンさんも、ありがとうございました…」
小夜はすっと伸ばした指先でハジの腕にしがみ付いた。
ハジは心配そうな表情を隠そうともしない小夜に向き直ると、安心出来る様に尚更優しく微笑みかけた。
「…小夜。大丈夫と言っているでしょう?心配しないで…私達の会話はどうせいつもこうなのですから…」
「……本当に可愛らしい人ですね。貴女の好みがこんな清純なタイプだと知ったら、きっとディーヴァが気を悪くするでしょうね…」
「…何が言いたいのですか?ソロモン…」
「別に……」
ソロモンはさらりとハジの質問をかわすと、小夜の目線にぐっと背を屈めた。
「ハジに飽きたら、いつでも僕のところにいらっしゃい。……さっきの…僕は本気ですから…」
にっこりと笑う笑顔は、それこそ物語に出て来る王子様を彷彿とさせた。

さっきの…と言うのは…
 
『貴女の指に結ばれていたら…良いな…と思ったんです』
 
と、言った事だろうか…?
小夜の胸がどきんと鳴った。
まさか…彼が本気でそんな事を言った…だなんて俄かには信じられはしない。
いつでも僕のところにいらっしゃいだなんて言われて…、ハジはそれをどう思うだろう…?
誤解されはしないかと小夜はギュッとハジの腕にしがみついた指に力を込め、恐る恐るハジの反応を伺った。
ハジは小夜の腰を抱き寄せたまま、ただ黙っている。
「折角のアイスクリームが溶けてしまいそうですから…僕は行きますよ。ではまた…週明けに。お二人とも…ゆっくり楽しんで下さいね…。小夜さん、またコーヒーを飲みに伺います」
ソロモンはちらりと脇のテーブルに視線を投げて、一礼するとそのままくるりと背を向けて去って行った。
すぐにその周りには華やかな女性の群れが集まって来る様子がちらりと伺える。
しかし、小夜はそれどころではなく…大好きなハジの腕の中から身を翻すと、じっと黙っているハジの顔を覗き込んだ。
ソロモンの事を何か言われるだろうか…。
しかし小夜のそんな心配をよそにハジは小夜の前髪にそっと指を伸ばし、青い瞳を小夜に向かって緩めると長く彼女を一人にしてしまった事を詫びた。
「一人にしてしまってすみません」
「ううん…。大丈夫…」
本当に大丈夫だったのかと言えばそれは怪しかったけれど、小夜にはそう答える事しか出来なかった。
あの時、ソロモンが現れなければ、自分は思わず悲鳴を上げていたかもしれない。
おめでたい結婚式の二次会の席で、しかも全く場違いな存在である自分が大きな声を上げたらきっとこの場の和やかな空気を台無しにしてしまうところだった。
悪気はなかったのだろう…あの男性にも迷惑を掛けてしまう。
そうならなかったのは、勿論ソロモンが間に入ってくれたお蔭だけれど…彼の軽口を真に受ける気持ちはない。
「貴女の好きなストロベリーアイスクリームが丁度無くなっていたので…、スタッフに頼んだのですが…新しいものを出して来て貰うまでに思った以上に時間がかかって…」
 
ああ、それで時間がかかった上に…その隙に綺麗なお姉さんに捕まっていたんだ…
 
ハジの説明に瞬時にそんな思いが小夜の脳裏に浮かび、小夜は打ち消す様に髪を揺らした。
その場面を見てもいないのに、小夜の脳裏に美しく着飾った大人の女性と並んで微笑むハジの姿が浮かんだ。
小夜の胸がきゅうっと締め付けられるような痛みを覚える。
 
ハジを他の誰にも渡したくはない…そんな強い思いが小夜の心に芽生える。
いっそ部屋の中に閉じ込めて誰にも見せたくない…とさえ思った。
 
小夜は自分で思っている以上に、自分がヤキモチ妬きである事を思い知らされる。
これではハジにソロモンの事を疑われても、お互い様かもしれない。
 
「…小夜?」
「ううん。…ありがとう。本当の事言うと…私、すごく場違いな気がして…居辛かったの…。そうしたら、知らない男の人が後ろに…私…ハジが帰って来たのかと思って笑い掛けてしまって…。それで…腕を掴まれそうになって…怖くて…私…」
きちんと伝わっているだろうか…。
まとまらない思考で、小夜は懸命に状況を説明した。
「それで、ソロモンが助けてくれたのですね?」
促されるままに、小夜は席に着くと少し解けかけたストロベリーアイスをスプーンですくった。
「…うん」
「…たまたまソロモンがいてくれて、良かった。……貴女とも面識があって…」
 
それはどういう意味だろう…。
ハジは、彼と自分の事を疑っているのだろうか…?
 
彼は、『この指に赤い糸が結ばれていたら良い…』…なんて、恥かしい様な言葉を小夜に告げたけれど…しかし小夜に疾しい気持ちは微塵もない。
もし自分とソロモンとの関係をハジに疑われたら、涙が出るほど…それは小夜にとって辛い事だった。
そんな不安が小夜の脳裏をぐるぐると支配し始める。
ただ何も言葉にする事が出来ず、小夜は黙々とアイスクリームの乗ったスプーンを口に運んだ。
 
 
小夜がアイスを食べ終わる頃、…今までずっと黙っていたハジが不意に小夜を誘った。
「…折角ですから、少し庭を見に行きませんか?」
「…う…ん」
チョコレートを渡したくて二人きりになるタイミングを待ち詫びていたくせに、先程の出来事が小夜を委縮させていた。普段から無口なハジだけれど…何だか今は彼が怒っている様にも感じられた。

小夜が、ソロモンと二人で話していたから…?
目の前で、いつでもいらっしゃいなんて…そんな事を言われたから?
しかしそれは小夜が望んだ事ではない。
確かにソロモンには困った場面を助けて貰ったけれど、小夜が頼んだ訳ではない。
それで彼が腹を立てていると言うのなら、どうしてハジ自身がすぐに戻って来てくれなかったのか…とつい責めるようにすら思ってしまう。
小夜はじっと隣に並んで立つハジの横顔を見詰めた。
静かな表情…。
今…目の前で、仮にも自分の恋人が同僚に口説かれていたと言うのに…?
幾らなんでもそれに気付いていない筈はないだろうけれど…どうしてハジがこんな風に黙っているのか…小夜には気になって仕方がない。

彼が元々無口だから?

それでもハジに何か言って欲しくて…この僅かな彼の沈黙が重くて…小夜はぎゅっと胸が苦しくなるのを感じていた。
 
ハジは小夜を促して、クロークに立ち寄るとコートを受け取り小夜の肩に着せかけた。
そして自分もまたコートを羽織ると、行きましょうか?と、左手を差し出した。
 
…こんなに好きなのに。
 
ハジだけが…好きなのに…。
 
右手に提げたバッグの中には今も可愛らしいラッピングに包まれたチョコレートが出番を待っているのに…。
チョコレートを渡す勇気が持てないまま…小夜はハジの顔を真っ直ぐに見る事が出来ないまま…ハジの左腕にしがみついた。



                                           ≪後篇へ続く≫


20100214
何とか前篇だけでもアプ…。
後編もお待たせする事が無い様に頑張ります…。

なんとか小夜たんはハジにチョコレートを渡して(今更な)自分の気持ちを伝える事が出来るのでしょうか…。

しっかし、この二人。
…私の脳内では、一緒にお風呂とか普通に入ってそうです(爆)…また風呂かよ…(笑)