少年の日


 

図書館は好きだ。

連日のように図書館に通う小夜に同行したのは、姉を心配して・・・と言う理由からだけではない。

しん・・・と静まり返った空気はぎゅっと背筋を伸ばしてくれる。

リクは、大きく肩で深呼吸した。

古い紙の匂いが鼻先をくすぐる。ここは言葉にも不自由するフランスだけれど、

どこか慣れ親しんだ図書館の匂いは変わらない。

小夜はずっと過去の記録を調べるのに夢中で、昼食も取らずにもう夕方になってしまった。

窓の外は、もうすっかり夕日に赤く染まっている。

西向きの窓に寄って、リクはガラスにそっと触れてみる。

よく磨かれた硬質な表面には、自分の顔がくっきりと映った。

何も変わらない。

少し線の細い顔立ちも、癖のない真っ直ぐな髪も・・・。

コツン・・・

ハジのように足音を忍ばせようとしても、どうしても上手くいかない。

スポーツの得意な兄と比べるまでも無く、リクはこれと言って運動神経が良い訳ではなかったし、

どちらかと言えば本を読んで過ごすのが好きで・・・。

シュバリエになったからと言って、この先どう考えてもハジのように強くなれるとは思えなかった。

自分の中の何が変わったのだろう・・・。

食事を摂らなくてもお腹が空かなかったり、全く眠くもならなかったり。

怪我だってあっという間に治ってしまう。

そんな劇的変化が自分の体に起きたと言うのに、リク自身は何も変わっていない。

はあ〜と長い息を吐く。

これでは、小夜を守るなんて到底無理に決まっている。

 

リクは思い出したかのように、ポケットから小さく畳まれた紙片を取り出した。

それにはいくつかの書籍のタイトルが記されていたけれど、どれもフランス語なので、

なんと発音するのかさえぴんと来ない。探すのも案外手間取りそうだった。

それは以前ジョエルがメモしてくれたものだ。

 

昆虫が好きなら、読んでみると良いよ・・・

 

赤い盾の長官だという青年は一見穏やかで親切な物腰をしていて、リクにはとてもそんな秘密組織のトップだとは思えなかった。

眠りから覚めたリクをわざわざ私室へと案内して、以前自分が着ていた物だけど・・・と断って、何着かの衣服をリクに与えてくれた。

実の兄であるカイとは随分タイプが違ったけれど、リクにはどこか歳の離れた兄が増えたような感覚だった。

その時に、メモしてくれたのだ。

今がどんな状況かも忘れて、世間話をして、まるで初めて会った遠縁の親戚か何かのように・・・。

今になって、リクにはジョエルがわざわざ自分の緊張を解く為にそうしてくれたのだという事が解った。

実際彼はとても忙しいらしく、その後赤い盾本部が置かれたあの大きな船を降りるまで、

二度と2人で言葉を交わす機会は得られなかった。

パリに到着してから、慌ただしくてすっかり忘れていたのだけれど・・・。

せっかくだから・・・と開いたメモは全てフランス語で、英語ならまだしも・・・見つけたところでリクにはまともに読めそうも無い。

読めそうにはないけれど・・・、ジョエルの好意を無駄にしたくはない。

高い書棚を見上げて、リクは無造作に手を伸ばした。

多分、この辺り・・・。

幸いどれも昆虫の図鑑だという事は分かるので、何とか棚の位置は探し当てた。

指先に触れた背の部分に爪を引っ掛けて、何とか取り出そうとしたのに、大きな書籍はビクともしなかった。

何度も繰り返し、指をかける。

偶然触れただけのそれが目的の本でないだろうとは判るけれど。

もう少し・・・。

そう思った瞬間、勢いが余った。

とっさに大きな本が頭上に落ちてくる事を覚悟して、ぎゅっときつく目を瞑った。

しかし、いつまで経っても自分を襲うはずの衝撃はなく、身をすくめた背後から静かな声がリクを嗜めた。

「無理をするものではありません・・・」

そっと目を開けて振り返ると、長身の青年が立っていた。

その手にはリクが落としかけた大判の図鑑があった。

「助けてくれてありがとう、ハジ・・・」

ハジは姉のシュバリエだ。

いつも姉の傍らに影のように控えていて、決して自ら自己主張する事なく、けれど主の危機には誰よりも早く反応し、小夜を守っている。

とても無口で取り付きにくいようだけれど、リクには以前から親切にしてくれる。

彼もまた、リクにとっては兄のようだ。

ハジは片手でその図鑑をリクに手渡した。

表紙にはとても鮮やかな蝶の写真。

やはり目的の本ではないけれど、それもまた魅力的な表紙だった。

「ジョエルさんが読むと良いよってメモしてくれたんだけど、なかなか探せなくって・・・。小夜ねえちゃんの用は終わりそう?」

視線を投げるとここからでも小夜の背中が見える。

机に向って、まだ視線を落としている。

「まだ、かかりそうだね・・・」

「リクは飽きましたか?」

「そうじゃないよ。図書館は好きだし・・・。でも、小夜ねえちゃんお昼も食べてないんだよ。疲れちゃうんじゃないかと思って・・・」

「・・・・・・」

答えないまま、ハジは再び壁際に下がる。

小夜の背中を視界におさめながら、決してハジは彼女の行動を邪魔しない。

こうして立っているのも、多分姉に何かあったら即対応出来る為だろう。

リクは大きな図鑑を両腕に抱えたまま、ハジの隣に並んで壁に体を預けた。

「読まないのですか?」

横目でちらりとリクを見て、ハジが言った。

「うん、少しここにいても良い?ハジ・・・」

ハジはそれには答えなかった。

それが了解の意であることも、リクには判る。

ハジが普通の人ではないと言う事は、以前から判っていた。それでも怖いという感情は芽生えなかったし、

一度だけだったけれどチェロも教えてくれた。

あの時は色々あって、結局そのままになってしまったけれど・・・。

「ねえ・・・、ハジ。僕は・・・足手まといなんじゃない?」

それはずっとリクの頭を離れなかった事・・・。

一度は死に掛けたというのに、姉のお陰でシュバリエとして生き返った。

そのせいで小夜が心を痛めている事にもリクは気付いている。

ハジはもうずっと以前から小夜のシュバリエだ。

彼になら、自分の気持ちを解って貰えるだろうか・・・。

少なくとも、この世界中でハジだけがリクと同じ生物なのだ。

「どうして・・・そんな事を?リク・・・」

「だって・・・、僕はハジみたいに強くないし、いつだって小夜ねえちゃんに庇って貰ってる」

「・・・・・・・」

「僕、小夜ねえちゃんのこと、すごく守りたいと思ってるのに・・・」

口数の少ない姉のシュバリエは、しばし思いを巡らせるように黙っていたが、僅かに視線を小夜から外してリクを見下ろした。

うまく言葉が見つけられないかのように、何度も言いかけては口を閉ざす。

やがて幼い弟を宥める様に、ハジはポツリポツリと言葉を模索し始める。

必要以上に口を開かないハジの言葉をリクは根気良く待った。

「小夜の・・・」

「・・・・・・・」

「小夜のシュバリエになった事を、後悔していますか?」

静かな声は責めるでもなく淡々としていた。

「ううん。そんなことないよ。最初は戸惑ったけど・・・。小夜ねえちゃんが僕を助けたいと思ってくれた事、すごく嬉しいんだ」

「でしたら、自分を足手まといだ等とは思わない事です・・・」

「・・・・・・小夜ねえちゃんの役に立ちたいんだよ。でも・・・・」

ハジは額に掛かった前髪を何度もかき上げた。

小夜を守りたいという・・・それはシュバリエの本能で、リクの気持ちはハジにも良く解る。

「リクは小夜の隣で笑っていればいい・・・」

「でも、それじゃあ・・・」

「リクが変わらず、笑っていてくれる事が小夜には何より大切なのです・・・。守るべき者が居る事で、人は強くなれる。小夜には・・・」

「・・・・・・・」

「小夜にはリクが必要です・・・」

「・・・・・・・」

リクは離れた姉の背中をぼんやりと見詰めた。弟の自分の目にも、小夜の細い肩に圧し掛かる重い自責の念と枷が解る。

だからこそ、小夜の役に立ちたいのだ。

「それで、いいのかなあ・・・僕」

理屈は解るけれど・・・。

「・・・ねえ、じゃあ、ハジは小夜ねえちゃんが居るから、そんなに強くなれるって事だよね・・・。

小夜ねえちゃんが笑っていてくれたら、ハジは嬉しいんだよね・・・」

「・・・・・・それは」

「それって何だか。・・・愛の告白みたいだね。ハジと小夜ねえちゃん・・・」

覗き込むと、ハジは否定も肯定も出来ず、視線を逸らしてしまう。

でも、リクにはそれがハジなりの、限りない肯定なのだと判る。

傍目にもハジの姉を見詰める視線の優しさは言葉で表現できる類のものではなく・・・。

長い時を共に生きてきた二人の年月の重さを感じさせる。

姉にハジが居てくれて良かったと思う。

ハジが居てくれなければ、姉はどうなっていただろう・・・。

ハジがいてくれたから、リクは小夜にめぐり逢えた。

ハジがいてくれたから・・・。

「リク・・・メモを・・・」

「・・・え」

「探して来ましょう・・・。フランス語は苦手なのでしょう・・・」

唐突に、ハジはリクの手から小さなメモを取り上げると、リクを残し書棚の向こうへ消えた。

ハジの事を、無口で愛想がないと兄のカイは言うけれど、リクはそんな風には思わない。

小夜に対してだけでなく、ハジは基本的には誰にでも親切で・・・。

そして、とてもシャイなのだ。

「ありがとう・・・、ハジ」

小さなリクの呟きは、きっとハジの耳に届いているだろう・・・。

 

いつの間にか夕日の色は消え、窓の外はもうすっかり夜の闇に包まれていた。

こうして、嘘のように穏やかな一日は終わりを告げるけれど、もう二度と少年に安らかな眠りが訪れる事はない。

もう、夜の闇は彼にとって恐れるものですらなく、時は永遠を刻み始めている。

「でも、やっぱり・・・。身長はせめてカイ兄ちゃんくらい欲しかったなあ・・・」

ため息と共に手の届かない書棚の天辺を見上げて、リクは誰にともなくこぼす。

「ハジくらい・・・なんて言わないからさ・・・」

永遠の少年は、暗いガラスに映った自分の輪郭に指を這わせ、そっと瞼を閉じた。

 

                   リクの永い時間はまだ始まったばかりだ。

20060508
ええと、ハジ×リク。こんな感じでした。ハジ×リクと言いながら、
あくまでもハジ×小夜(基本)です。
リクは凄く良い子なので、きっとシュバリエになってしまった事も前向きに受け止められると
思うし、大体小夜ねえちゃんが好きなので、今のところ問題はないかも知れないけれど
いつか、自分が人でなくなってしまった事の意味を解る・・・と言うか、実感する日が来るだろうと
思います。その時彼がどう感じるかは、また別の話で。
しかし、ハジみたいに大人になってからシュバリエって言うのはすんなり納得できるけど、
リクみたいな歳でシュバリエって言うのは、どうだろう。
彼は永遠に少年なのです。なんだか、憧れるような・・・勿体無いような・・・。
これから、小夜が眠っている間はハジ一人じゃないんだな〜。
いいね、可愛い義理の弟が出来て・・・。マジに義弟じゃん。