仔うさぎの言い分



今年は暖冬なのだそうだ。 
もう十二月に入ったと言うのに、紅く色付いた街路樹の並木が未だ葉を落とす事無く西に傾いた夕陽を受けて燃える様に輝いて見えた。
しかし幾ら暖冬だとは言え…流石に十二月。
日中の好天にも関わらず、夕方になって風は急にその冷たさを増したようだ。
講義時間をとうに過ぎた構内は肌寒そうに肩を竦める学生達が三々五々と散らばっている。
皆急ぎ足に見えるのは、気のせいだけではなかった。
小夜は、ドアからの隙間風にぶるりと体を震わせた。
 
携帯が鳴るまで外に出ない様に…と強く念を押されていた小夜は、それぞれに放課後の予定を持っている友人達を見送り、講義を終えた教室でぼんやりと窓の外を眺めていた。
教壇の後ろの壁に取り付けられた古い掛け時計は几帳面に秒針を進めるのに、小夜には待っているその僅かな時間すら長く感じられて仕方がない。
珍しい事に、今日は平日だと言うのにハジが年休を取っていて…。
小夜は随分以前からこの日のアルバイトのお休みを願い出ていた。しかしどうしても休む事の出来ない講義があって…こればかりは休む訳にもいかず…講義が終わってからハジに車で迎えに来て貰う約束をしていた。
学校まで迎えに来て貰うからと言って、特にこれと言う用がある訳ではなかったけれど、ただこうして迎えに来て貰う非日常が小夜には嬉しいのだった。
 
平日の夕刻の事、予想外に道路が渋滞して約束の時間に間に合いそうにないと電話があったのはつい二十分程前の事だった。到着するまでは外に出ないように…と念を押されてはいたものの、きっともうその辺りに来ている筈だと思うと、小夜は待ち切れずに教室のドアを出た。
廊下を過ぎ階段を駆け下り、外に通じるドアを開けた途端に身を切る様な冷たい風が小夜を襲う。
思わずぎゅっと全身を固くして、小夜は吹き付ける向かい風に逆らう様にドアの隙間から外に出た。
待ち合わせの駐車場までの道を、小夜はパーカーのポケットに手を入れて歩く。
ハジは校舎の中で待っている様に念を押していたけれど、もうすぐ会えると思うと冷たい風も小夜には気にならなかった。
長い階段を降り切った先が待ち合わせの第一駐車場だ。元々台数は限られていて教職員や許可を受けた車だけが駐車出来る事になっているのだが、校舎からは一番近い事もあって皆待ち合わせや送り迎えに車を乗り入れる事が多い。
階段の一番上から見渡すと、ちょうど入口の方から見慣れたパールブラックの車体が西日を浴びて入ってくるところだ。小夜は満面の笑みを隠す事なく、嬉しそうに駆け出した。
 
 
□□□
 
 
「寒かったでしょう?…どうして校舎の中で待っていないのです?」
慌てて車を降りてくるハジに、小夜は『大丈夫…』と首を振った。
「…今来たところなの…。待ち切れなくて…」
ハジはいつもの様に小夜をエスコートすると助手席側のドアを開け…弾む息を整えながら小夜が車に乗り込むのを確認すると、静かにドアを閉めた。
…そんな事で風邪でも引かれたら困ります…と、困った様に笑うハジの横顔に、小夜はつい頬が赤らむのを感じていた。それは何も冷たい風の中を駆けだしたせいではない。
小夜がやや緊張した面持ちで居住まいを正すと、ハジは静かに車を発進させた。
「折角ですから、今夜は外で食事しましょう。…何か食べたいものはありますか?」
そう提案されて、小夜に異論などある筈もなかったけれど…何が食べたいと聞かれてすぐに思い付くものがない。しばらく考え込んだ末に…
「…ハジがいつも行くお店が良い…」
と答えた。
特に深く考えての発言ではなかった。ただ、具体的に食べたいものが浮かばなかったのと、日頃小夜の知らないハジの世界を垣間見てみたかったのだ。
ハジがちらりと小夜に視線を投げて少し驚いた様な表情を覗かせる。
「……それは接待で?…それともプライベートに?」
少し考え込むと真面目な顔で提案した。
「………ぷ、プライベート!!」
決まってるでしょ?と、小夜が笑う。他愛もなく柔らかで温かい空気が車内を満たしていた。
ハジは再び考え込むようにして小夜の様子を伺うと、何か思いついた様に車線を変更する。
「好き嫌いはありませんよね?」
「…うん。あ…でもドレスじゃなきゃ駄目って言う様な上等なお店は困るよ!」
一応デートとはいえ昼間は講義に出るのだし、毎日顔を合わせているのに、あまりにもお洒落に気合を入れるのは恥かしくて…小夜は今日、普段着のシンプルなタートルネックに膝丈のスカートにブーツ。上にカジュアルなパーカーを羽織っただけの軽装だった。
「勿論ですよ。…普段私がどんな店に通っていると思っているのですか?」
「だって…」
小夜は恥かしげに笑った。
「……そうですね…。…車は会社の駐車場に置いて、帰りはタクシーで帰りましょう…」
運転する横顔を見詰めながら、小夜は小さく問い返した。
「……どうして?」
「折角ですから…隠れ家にご招待しますよ…。小さな店ですから駐車場に困るのです。それに運転の心配がなければ気兼ねなく飲めるでしょう?……と、それから…その前に…」
 
……少し寄り道をしても良いでしょうか?
 
ハジは静かな声でそう付け足した。
 
 
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真夏ならばまだ小学生だって外で遊んでいる様な時間なのに…小夜が車を降りると、外はもう濃厚な夜の色に包まれて…美しい藍色の空は直に漆黒に沈む直前だ。
先程、大学の構内の並木はまだ美しい秋の様相だったけれど…実際にはもう十二月なのだ。
一段と冷え込む今夜の空気は暦通り真冬の様相だ。
澄んだ空気に頭上輝く星がいつになく眩しく感じられた。
「…小夜」
ぽかんと空を見上げる小夜の頼り無い足元を心配してか、ハジが右手を差し出した。
「…ハジ」
「前を見ないとぶつかりますよ…」
僅かに身を寄せる小夜を、ハジの腕が引き寄せる。
ギュッと手を繋ぎ合って身を寄せ合うと、冷たい向かい風もどこか楽しく感じられるから不思議だった。
季節柄、街の景色は華やかだった。
澄んだ冬の空気にきらきらと輝くイルミネーション、街路樹の枝に取り付けられた小さなLEDライトがまるで地上に舞い降りた星屑の様だ。クリスマスのデコレーションは尚更心を弾ませる。
ハジは、とかく景色に見惚れがちな小夜の手を引いて黙々と歩いている。
一体どこへ行こうと言うのか…。
そんな事ももう、こうして二人で歩いていれば小夜はどうでも良い様な気がしてくる。
 
程なく、不意にハジは立ち止った。
見るとそこは一軒のブティックの前だ。
しかも、それはいつも小夜が雑誌でチェックしているお気に入りのブランド。しかし、実際にはとても今の小夜に手が出る値段ではなく、小夜はキャミソール一着すら購入した事はなかった。
勿論店頭を覗くのも初めてだ。
「…ハジ?」
「……いつも雑誌のページに折り目が付いていたので…。きっとお好きなのだろうと…」
「…そう言う事じゃなくて…」
戸惑う小夜の背を押して、ハジは強引に店内に入った。
にこやかな女性店員が、高い声で『いらっしゃいませ』と声をかける。
小夜は、尚も気後れするかのようにハジを見上げた。
「ねえ、そう言う事じゃなくて…」
「…こんな寒い夜にパーカー一枚というのはどうかと思うのですが…。まだ小夜はコートを持っていなかったでしょう?」
「…だって、私…」
突然そんな事を言われても…。
バイト代はいつもギリギリで…それにこんなに急に寒くなるなんて思ってもみなかったから…まだ大丈夫なんて呑気に構えていたのだ。
勿論今、財布にそんな余裕はない…。
ハジが小夜に支払いを求めていない事は明らかだったけれど、それでも当たり前の様にそれを受け入れる事は酷く躊躇われる。
最初に出会った時にもこうして彼は有無を言わさず小夜に洋服を買い与えたのだ。
あの時は火事で焼け出され、半分は仕方なかったのかもしれないけれど…。
どうしてこの人は、こんなに自分に甘いのだろう…。
勿論、嬉しくないと言ったらそれは嘘なのだけれど…こんな風に男の人に何度も高価なプレゼントを貰う事に小夜は慣れていない。
しかしハジはそんな小夜の思いを先読みしたように、小夜に向かって微笑んだ。
「…プレゼントしますよ」
「駄目だよ…。誕生日でもないのに…」

そうでなくても、ハジには日頃から食費も光熱費も、そしてこれまでにも様々なものを買って貰っているというのに…。「…………。もうすぐクリスマスですから…」
「まだまだクリスマスじゃないよ…!」
取って付けた様な理由に、小夜も怯まず言い返す。
「クリスマスまで待っていたら、小夜は確実に風邪をひきます」
「…それにハジはサンタさんじゃないでしょ!」
あまりにも子供じみた台詞が零れて、小夜自身自己嫌悪に陥りそうな気分だった。
でも、きっと彼は…クリスマス当日はクリスマス当日で小夜にプレゼントを用意してしまうのだろう…。
小夜は小夜で、ささやかながらもハジに何かクリスマスのプレゼントを渡したいと思っていた。
それなのに、こんな風にハジから高価なプレゼントばかり貰っていたら、自分に用意できるプレゼントがあまりにも幼稚な物に感じられてしまう。
 
それにハジはどうしてこんなに何もかもに慣れているのだろう?
車の乗り降りから、小夜をエスコートしてくれる立ち居振る舞い。一緒に暮らしているからと言って、いつの間にか小夜の好みにまで通じていて…。
いつも忙しくしているのに、こんな風に細やかにハジは小夜に意識を払っているのだ。
じっと見上げる小夜に…
「これは…無駄遣いではありませんよ。コートは今至急に必要なものなのですから……。こんな事で貴女に風邪をひかせたら、お父さんに合わせる顔がありません」
けれど小夜の思いを余所にハジはそうきっぱりとそう言い切って、優しく小夜の背中を押した。
 
 
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結局。
ハジが小夜の為に見立てたのは、真っ白でクラシカルなデザインの一着だった。
取り外しの利くファー付きのフードがカジュアルな着こなしも対応するし、丸襟に付け替えればどこかお嬢様風でもある。
勿論、小夜の気に入らない筈はなかった。
小夜にしてみれば値段もそれなりで思わず腰が引けてしまいそうだったけれど、ハジは気にした風もなくカードで支払いを済ませると、今まで小夜が着てきたパーカーを袋に詰めさせて、タグの取れたそのコートを小夜の肩に着せ掛けた。
そうだ…。
こんな慣れた仕種が小夜を根拠のない不安に陥れるのだ…。
自分とはかけ離れたそつのない大人の男を匂わせる横顔に…会った事も、噂を聴いた事も無かったけれど…ハジの過去の恋人達にも彼は同じ様な心遣いを見せたのだろうか…。
当然、彼の事だから、小夜が初めての恋人という筈もない…。
自分の抱いている子供じみたヤキモチを、小夜が素直にハジに打ち明けられる筈はなかった。
 
「行きましょうか…」
気を取り直す様にハジが言った。
「…え。……ど、どこへ?」
思わずそんな風に答える小夜に、面白そうに笑う。
「…隠れ家へお連れすると言ったでしょう?」
そう言われて、小夜は改めて…ああそうだった…と我に返ったのだ。
 
 
ガラスの自動ドアが微かな音と共に開く。
暖かな店内の空気に忘れかけていたけれど、流石に冬の夜の空気は冷たくて、小夜は尚更コートの温かさが身に染みた。どうぞ…とばかりに…ハジに促されるまま、小夜は素直にその腕にそっと腕を絡めると、手を繋いでいた時よりもずっと二人の距離は狭まっている様な気がした。
この温もりが単にコートのお陰なのではなく、傍らに寄り添う男の存在がそうさせるのだと今更ながらに小夜は気が付いたのだ。
自分はしっかりとハジに守られている。
彼の大きな掌の上で、自分は…。
そう思うと、どこか胸の奥がほんのりと甘く…そしてまたきりりと微かに痛んだ。
小夜はじっとハジの顔を見上げた。
今、こうして歩く二人の事を擦れ違う誰もが間違いなく恋人同士だと認識するだろう…。そう言えば、いつだったか…手もつなげない事に焦りを感じて彼を困らせた事があったと、小夜は薄らと頬を染めた。今は踏み出せるその一歩が、あの時には踏み出せなかった理由を思うとその恥かしさは一層深まる。
そうだ…あの時も、ハジには指輪を買って貰ったのだ。
本当に、幾らハジが社会人だからと言って、こんなに物を買って貰ってばかりで良い筈がない。
小夜は白い息を弾ませると、思い切ってハジに告げた。
「ねえ、ハジ…コートありがとう。…でも本当に…私、いつも買って貰ってばかりなんて…困るよ…」
思い詰めた様にそう言う小夜に、ハジは少し意外そうな表情を覗かせた。
「どういたしまして。しかし……沖縄に帰った時に、お父さんともお金の事は色々と話したでしょう?……貴女の学費は貴女のご両親が残された預金から全額出せるとして…貴女は学業に影響が出ない程度にアルバイトをしてお小遣いは自分で何とかする。…それはきちんと守っているでしょう?」
「うん…」
「ですから、生活の上でそれで賄えない部分は私が補います…」
至極当然と言う表情で、ハジはきっぱりとそう言いきってから…改めて言い直す。
「…いえ、補います…というより、私はいつでも貴女を養ってゆく用意がありますから…」
「…………?」
「…日本語が、おかしいでしょうか?」
「………ええと…」
「では、解かり易く…言い直しますよ。………いつか、結婚して下さい。…私と…」
「…………………」
衝撃的なフレーズが小夜の耳を通り過ぎる。
その意味をゆっくりと噛み砕く。
見上げるハジはいつもと何も変わらない態度で、小夜の顔を振り向きもしなかった。
「ねえ…ちょっと待って…!」
「……歩きながらする話ではありませんね…」
「ハジ…もう一回…言って…」
「………少なくとも、私は必要なものしか買っていません。コートもなしに…こんな寒い夜の街を連れ回せないでしょう?」
「…そこじゃなくてっ!!」
歩いているお陰か、会話の衝撃か、小夜は風の冷たさもすっかり忘れていた。
しがみ付いた腕に必死で付いて行きながら、小夜は先程のハジの台詞を何度も心の中で繰り返していた。
 
 
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………いつか、結婚して下さい。…私と…
 
 
彼は確かにそう言った。
小夜は暖かな布団にくるまって…いつまでも訪れない眠りの縁で繰り返しその言葉を反芻していた。
結局ハジはあの後二度と同じ台詞を言ってくれる事は無くて、こうしているとあれは自分の聞き間違いだったのかも知れないと自信がなくなってくる。
勿論、沖縄で…彼は確かに言ったのだ。
『結婚を前提としたお付き合い』…と。
だから…だから、確かにそういう事なのかもしれないけれど…。
しかし、『結婚を前提としたお付き合い』…という言葉のニュアンスと、単刀直入に『結婚して下さい』ではそのインパクトが違う。
少なくとも、小夜にとっては…違ったのだ。
ふわふわとした甘いときめきと共に…今まで漠然としていた未来が、急に現実味を帯びる様な…戸惑い。
 
 
すぅ…と隣で寝息が響く。
憎らしい程安らかに、小夜のすぐ隣でハジは眠っている。
閉じた彼の白い瞼、くっきりと長い睫毛、整った大人の男性の寝顔。
小夜はそっと体を起こし、隣で眠る男の寝顔をじっと覗き込んだ。
彼は一体どんなつもりで、その言葉を言ったのだろう…。直接問い質して、彼の口から本心を聞きたい様な…訊くのが怖い様な…。
 
ただ好きという気持ちだけで…。
ずっと一緒に居たいと言う気持ちだけで…ずっと浮かれていた訳ではないけれど…。
彼はもういつ結婚してもおかしくはないだろう年齢かもしれないけれど…。
小夜はまだ去年の今頃は高校の制服を着ていたのだ…。
確かに小夜が…子供の頃から…いつか大好きな人と結婚して真っ白なウェディングドレスを着る夢を見ていたのだとしても…それは漠然とした遠い夢の話の様で、こんなリアルな話ではなかった。
勿論、嫌な訳ではない。
ハジの事は誰にも渡したくはないと思う程大好きで…いつかは彼のお嫁さんになれたら幸せだと思う。
だったら、どうして自分はこんな風に戸惑うのか…。
自分の彼に対する気持ちには疑いようもないと言うのに、小夜はほぅっと小さな溜息を吐いて…ハジの唇に注意深く指先で触れた。
 
その時、眠っているとばかり思っていたハジに瞳がゆっくりと開いた。
「…小夜?」
「は…ハジ…!」
起こしてしまったのか…それとも最初から起きていて眠ったふりをしていたのか…小夜の思考がぐるぐると回るその僅かの間に、ハジは起きぬけの瞳を緩ませて体を起こした小夜に手を差し伸べた。
「……眠れないのですか?」
「…ううん。もう眠るところ…」
その胸元に抱き寄せられると、小夜は観念したようにほぅっと甘い吐息を吐いた。
「本当に?…全然そんな風には見えませんよ…」
「じゃあ、どんな風に?」
「…寝込みを襲って貰えるのかと…少し期待してしまいました…」
「……馬鹿…!」
そんな事ある筈ないでしょ…と、憤慨する小夜の髪をハジの長い指が優しく梳いてくれる。
小夜はぴたりと小夜の胸に頬を押しつけた。
とくん…とくん…と規則正しいハジの心臓の音が直に耳に響いた。
生まれたばかりの赤ちゃんでなくても、その音はとても落ち着くリズムだ。
小夜は大きく深呼吸を繰り返した。
今ならもう一度尋ねる事が出来るかも知れないと、小夜はゆっくりと心を決める。
そうして男の胸に頬を押しつけたまま、小夜はもう一度昼間の言葉を繰り返した。
「…ハジ。…あの時、…なんて言ったの?」
ハジは小夜の質問に、長く息を吐いた。
またその話ですか?と言わんばかり…。けれど、もう彼は誤魔化す事無く小夜の肩をしっかりと抱き直した。
「……いつか、私と結婚して下さい。冗談ではなく…本当に…」
「………ハジ」
プロポーズする時はバラの花束を渡すのが夢だったのですが…、つい口を滑らせてしまったんです…とふざけて笑う。
しかしその瞳の色は真剣そのものだ。

本当も、嘘も、冗談も無い。
小夜は僅かにハジの胸から体を起こして男の顔を覗き込んだ。
薄闇の中で、ハジが…仕方のない人ですね…とばかりに穏やかに微笑んでいる。
「別に…コートや指輪で貴女を縛り付けようと思って言っている訳ではありませんよ…。私が貴女の為にお金を使う事を、貴女は申し訳ないと思うのかもしれませんが…、そんな風に思う必要もありませんと言っているのです…」
「……だって」
小夜はぎゅっと唇を噛んだ。
出会って以来自分はハジに与えて貰うばかりで、こんな風に住む所も食べる事も全部おんぶに抱っこで…。
その時になって、小夜は自分の中に燻っている想いがどういう形をしたものなのかに思い至った。
「…小夜?」
「……だって、私…ハジに守って貰うばかりで…、ハジに何もしてあげられてないのに…。そう言うのが嫌なの。私だって…ハジに何かしてあげたいって…いつも思ってるのに…。ハジはいつも、何でも出来て…何でも持ってて…何でも先回りして…ずるい!…私、私だって…ハジに…」
まだ他にも彼に言いたい事は山ほどある様な気分だったけれど、それ以上…上手く言葉に出来なかった。
ハジは少し驚いたようだったけれど、静かにそれを聞いてくれた。
そして少し考える様にして黙り込んだ。
「………………」
「…ハジ?呆れた?」
恐る恐る訊いてみる。

「…いえ。貴女の気持ちは解からない訳ではありませんが、…しかし貴女は気付いていないだけなのですよ…。貴女が私に与えてくれている掛け替えの無いものに…」
「…掛け替えの…無いもの?」
「……ええ」
薄闇の中、真っ直ぐに小夜を見詰めるハジに視線がやけに恥ずかしかった。
小夜は尚も唇を尖らせる。
そんな曖昧な事を言われても、上手くはぐらかされている様な気がする。
小夜は腑に落ちない表情のまま、とん…とハジの胸を指先で弾いた。
促される様に、ハジが続ける。
労わる様に、指先がしきりに小夜の前髪を整えてくれていた。
「貴女が隣で笑っていてくれるだけで…私がどれほど幸せな気持ちになれると思っているのですか…?」
「…そんな言い方ってずるい」
そんな綺麗な顔で、そんな風に微笑んで、こんな間近でそんな事を囁かれて平常心を保てる筈がないと言う事など、ハジは全く解かっていないか…それとも確信犯かのどちらかだ。
「…ずるいですか?」
「ずるい。そんな風に言われたら…私…」
なんて言い返して良いのかが解からなくなる。
「それに貴女はきちんと自分のするべき事をしているでしょう?……勉強も、アルバイトも、良く頑張っていると思いますよ…。今はそれで充分ではありませんか?……本音を言えば、もう少しバイトを減らして欲しい位です」
「…………………」
小夜には、彼が何を言いたいのかが、解からない。
「…貴女に出会う前は、この部屋はただ眠る為だけの場所でした。翌日の仕事に向かう為だけに、体を休める場所でした…」
「………………」
「…夜、明かりのついた部屋に帰ると言う事が、どれほど幸せな事か…解かりますか?」
「………ハジ」
それはどこかぼんやりと、小夜にも納得が出来た。短い期間だったとはいえ、小夜にも一人暮らしの経験はある。
夜、暗くなって帰宅した時の部屋の暗さは、寂しさが増してうすら寒く感じた程だ。
「……貴女がいてくれるだけで…私は…」
「…………そんな事で良いの?」
些か拍子抜けしてしまう程に…ハジの要求はささやかなものに感じられたのだ。
「…男性と女性とでは違うと思いませんか?感じ方も…相手に求めるものも…。……貴女が思っている以上に私は貴女から満ち足りたものを頂いていますし…。…………小夜…言い方を変えましょう」
言い聞かせながらも、しかしハジは小夜のきょとんとした表情の前にそれが伝わりにくいと感じたのか…言葉を選び直した。
「……私に貴女を守らせて下さい。…一生…」
小夜を守る事が、何よりも自分にとっての望みなのだと…。
小夜は全身がかぁっと熱くなるのを感じていた。
ここで黙ってなどいられる筈がない。
「……ハジ。ハジ…私にも守らせて!ハジの事…好きなの…私。守って貰うだけじゃ嫌…私…何も出来ないけど」
…その言い分は矛盾しているだろうか…
しかし、懸命に言い募る小夜の体をハジは胸元に強く抱き締めた。
「ありがとうございます…。小夜…」
耳元でハジが礼を述べる。
結局は上手くはぐらかされてしまったのかもしれない…と、ハジの腕の中で小夜はぼんやりと思う。
小夜は改めて、壁の時計を見ると…もう明日の事を考えれば眠らなければならない時間である事に気付いた。
少なくとも、自分は言いたい事をハジに言ってすっきりしたのかも知れない。
こんな夜中にハジを起こしてしまってまで…こんな風に打ち明ける事ではない筈だ…急にそう反省が浮かんだ。
こうしてハジを振りまわしてしまう事こそが、子供っぽい自分の至らないところだ。
「あ…ご、ごめんなさい…。ハジ…」
仕事のある彼は勿論、…講義のある自分もそうなのだけれど…明日はいつもどおりの時間に起きなくてはならない。寝入り端を起こされて、本当なら文句を言われても仕方のないところだというのに…それをハジは優しく根気強く小夜の言い分を聴いて、相手をしてくれたのだ。深い感謝の気持ちで、もう大丈夫だから寝て…と、小夜がハジの上から体をどけようとした瞬間、それまで緩く小夜の背中を撫でていた男の腕にぎゅっと力がこもる。
「こんな風に起こしておいて…一方的にもう寝てだなんて…ずるいのはどちらですか?小夜…」
「ごめんなさい…。だって、…さっきはどうしても眠れなくて…私…」
小夜の言い分に、ハジはもう一度言い聞かせる様にその名前を呼んだ。
「小夜…私に貴女の事を守らせてくれますか?」
「…………ぅん」
小さな返事に小夜を抱き締めた腕を僅かに緩めて、指先が小夜を導いた。誘われるままに小夜が顔を上げると、ぐいと引き寄せられて…小夜はそっと男の唇に触れた。
触れたらもう少しだけ欲しくなって…小夜は甘える様に瞳を閉じた。するとすぐさま応える様に…小夜の首筋に触れた大きな掌に力がこもり、小夜は素直に従うともう一度ハジが深く口付けてくれる。
甘いキスの合間に、ハジが笑った。
「もっと…素直に甘えて下さい。…貴女がもう良いと思えるまで、私は待っていますから…」
「……ハジ」
小夜を抱いたまま、ハジが深く瞼を閉じた。
ゆったりと静かな深呼吸が小夜の体に響く。そのリズムに誘われる様に小夜もまた瞼を閉じると、このまま眠ってしまいそうな心地がした。そうして暫く、心地良いまどろみの中をたゆたっていると、不意にハジの胸が大きく揺れて、小夜は顔を上げた。
「小夜…」
その声が、先程より微妙に低い。囁くような響きは苦しげにさえ感じられる。
「………ハジ?」
流石にずっと彼の胸に体重を預けていた小夜は、流石に重くて苦しかったのだろうかと、シーツに腕を突く。

しかし、小夜を抱いた腕は彼女を解放しようとはしない。
どうしたの…?と、問おうとして…背中を抱いていたハジの掌が不穏に彷徨い始めるのを感じた小夜はビクンと大きく背中を震わせた。
「大人しく黙っていようかと思っていたのですが…、一つよろしいですか?」
「…な、何?」
「……その、パジャマの一番上のボタンが取れているのは、偶然ですか?…それとも…」
…可愛らしい駄々をこねて、誘惑するおつもりですか?
……と。
「…ボタン?…ゆ、誘惑?」
上半身を少しだけ浮かして見ると、ピンク色のパジャマの一番上のボタンが確かに一つ取れている。
元々パジャマが大きめであるがゆえに、小夜の襟元は随分と開放的な様子なのだった。
ハジの胸板の上で…小夜のバストが押しつぶされる様に深い谷間を作っていた。そんなに豊かなサイズではないつもりだけれど、それでもハジの目線では尚更その谷間は強調されて見えるのだろう…そう気付くと、小夜は慌てて上半身を起こし、違う違うと首を横に振った。
「やだっ!!着た時は取れてなかったのに。…ボタン…お布団の中?」
慌てて掛け布団を剥がそうとする。
「……ですから本当に寝込みを襲ってくれるのかと…期待してしまった訳ですが…」
「襲うって…」
「私は…貴女にしか許しませんよ。そんな事は…」
たまには貴女から襲ってみませんか…?と、ハジは苦笑した。パジャマのボタンが取れていたのは全くの偶然なのだけれど、こんな風に互いの想いを伝えあった後…遠回しに誘われれば、白い枕に流れる様に散ったハジの黒髪が女性の目にも明らかに艶めかしく…つい小夜の体にも火がついてしまいそうだ。
しかし、ハジは小夜の背中を悪戯に撫で回すばかりで、一向に主導権を握ってくれようとはしない。
小夜は焦れた様に、もう一度ハジに覆いかぶさる様にして唇を求めた。
「だけど…明日の朝も早いんでしょう?」
「いっそ、朝まで起きていましょうか?」
本気とも冗談ともとれる表情で、ハジが笑った。
小夜はギュッと目を閉じた。
やや間を開けて呼吸を整えると…覚悟を決めた様に、小夜はハジに問い掛けた。
「ねえ、ハジ…。襲うって…私…どうしたら良いの?」
真顔で…そんな間の抜けた、可愛らしい事を言う恋人に…この分では本当に夜を明かしてしまいそうだと、ハジは再び悩ましげな深い吐息を吐いたのだった。


                                ≪了≫

20091216
…一体何が言いたかったのやら…。あのですね、インフルの熱にやられてお話が全く別の方向に流れてしまいました。(言い訳?)ハジがですね、予定外にポロっと突然に『結婚して下さい』なんて、今更な事を言うので、小夜たんが動揺してしまいました。
本当はあの後、ハジの隠れ家的お店に飲みに行って、彼の生い立ちに触れる…というお話のつもりだったのに、全く生い立ちには触れられなかったし、クリスマスの事にも触れられなかった…。
話の展開もめちゃくちゃだ…がく〜〜〜ん。
単にいちゃつかせただけという…。
すみません。
でも密かに、小夜たんが襲うヴァージョンを妄想して幸せに浸ってしまいました…。
わざとマグロなハジ(意地悪…)
こんな事ではあんまりにも何なので、これはこれでアプして、短くてもクリスマスのSSをアプ出来たら良いなあ〜。
ではでは、ここまで(無駄に長かった…)お付き合いくださいましてどうもありがとうございました!!