"Good-night. Tomorrow."

パソコンのキーを叩く規則正しい音が微かに響くリビング。
 
毛足の長い柔らかなラグの上に、サヤはいつもの様にペタンと腰を下ろしてファッション雑誌のページを捲っていた。ちらりと盗み見ると、ハジには見慣れない今時流行りのファッションアイテムや美容に関する写真や記事がずらりと並んでいた。風呂上がりのピンクのパジャマ、半乾きの髪を無為に揺らす俯いた横顔に、ハジはふっと零れる笑みを禁じる事が出来ない。
こうしていると、女の子と言うものはその存在自体が男とは全く違うものなのだと実感する。
興味をひかれる対象も、物の感じ方も…。
そして、そこに居てくれるだけで、どこか部屋の空気がほっと和むような…。
 
一人の時は、殺伐としていたこの部屋も、小夜がいるだけで様子が少しずつ違ってきている。
例えば、洗面所には赤いハブラシと小夜の使う化粧水の小瓶。
リビングには、小夜が気に入って購入したパステルカラーの膝掛けとクッション。
食器棚にはやはり可愛らしいデザインのご飯茶わんと湯飲み。
基本的にはモノトーンでまとめられていた室内に、ぽつんぽつんと花が咲いたようだ。
 
少し肌寒さを感じる季節になって、一層この部屋は温かみを増したように思う。
小夜がこの部屋に現れる前は、単に寝る為だけに帰る場所でしかなかったここが、今ではハジに癒しを与えてくれる。
互いに違う事をして…会話など無いけれど、こうして同じ部屋で互いの気配を感じながら過ごす時間に、ハジは今までに経験ない充足感が心に満ち足りてゆくのを感じていた。
 
早く布団に入らなければ風邪をひきますよ…
 
そう喉まで出かかった声をついかけそびれたまま、ハジは持ち帰った仕事を淡々とこなしていた。
そうして、時折視線を上げては小夜の様子を伺う。
確かに明日は日曜日で夜更かししても構わないだろうが、………時折漏れる欠伸から………小夜がかなり眠くなっている事は容易に想像出来た。
 
ついこの間まで、真夏の日差しが照りつけていたと言うのに、近頃はすっかり秋も深まって、特に朝晩は手足が凍える程冷え込む事もある。
今夜は特に、冷え込むようで…こうしていてもパジャマ一枚ではどこか肌寒い様な気がする。
無防備な小夜の白い素足が尚更血の気を失っている様に見え…。
時計はそろそろ日付が変わる頃で…。
あふ…と漏れる堪え切れない欠伸に、つい失笑が零れて…ハジはまだ終わらない仕事にキリをつけた。作成していた資料を保存し、手順に従ってパソコンの電源を落としてゆく。
パソコンの電源を落とす気配に、小夜はとろんとした目をして顔を上げた。
「もう…おしまい?」
「ええ、月曜までの仕事ではありませんから、一旦キリをつけようかと…」
ハジの言葉に、小さく頷いて小夜もまた開いていたファッション雑誌を閉じた。
眠い目をこすりながら、マガジンラックに雑誌を戻すと、再びハジの足元に舞い戻る。
「眠いのに…待っていてくれたのですか?」
「…ううん、そう言う訳じゃないけど…。いつまでお仕事するんだろうと思って…」
否定はするものの、ハジが仕事を終えるのを待っていた事は見え透いている。
ハジは手早く、ノートパソコンを畳んだ。
 
「…………。…じゃあ、お休みなさい…」
雑誌を手に抱え…躊躇いがちにそう言って小夜が、笑った。
はにかんだ笑顔に思わず引き止めたい衝動に駆られ…、ハジもまた戸惑いがちに小夜を見詰め返した。
「………………」
 
どうしたの…?
 
ラグの上で素足が立ち止り…小夜がきょとん…とした表情でハジを覗き込んでいる。
「あ…いえ…。……その…」
「……ハジ?」
「………客間ではなく…主寝室で休みませんか?」
毎晩、こうして共に過ごしながら…時間がくると『おやすみ、また明日…』そんな風に笑って、律義に違う部屋へ戻って眠る事に違和感を覚えるのは、何も自分だけではない…と、思いたかった。
「……主…寝室?」
小夜がその意味を理解するまでに数秒の時間を要した。
きょとんとしていた表情が、意味を理解するなり真っ赤に染まる。
「主…主寝室って…。その……。…ハジ?」
ハジのマンションで寝室と呼べるのは…つまりハジの部屋以外にはなく…。
勿論、ベッドはハジが使っているセミダブルが一つきり…。
「…別に、…疾しい気持ちで言っている訳ではなく…。いえ…まあ、時にはそう言う事もあるかと思いますが……」
「…………あ、だって…。そんな…」
「小夜と…朝まで、一緒に居たいと思うのは…私の我儘でしょうか?」
「…そんなの……ドキドキして…眠れないよ!」
真っ赤な顔で、手をバタバタと振って、とんでもないとばかりに小夜が訴える。
さっきまでの眠そうな表情が嘘の様だ。
「…なるほど……それは困りましたね…」
固く腕を組み、思案顔でハジが相槌を打った。
そんなハジを見て…
「ね…?」
それは困るでしょう?…と、小夜は曖昧に笑った。
赤い顔からは今にも湯気が噴き出しそうだ。
真っ直ぐにハジの顔も見られず、モジモジと後退る。
純情な小夜らしい反応に、ハジは尚更目尻を下げて…
「それは、早く慣れて頂かないと…」
と、嬉しそうに微笑んだ。そんな表情で微笑まれたら…とても小夜には反論出来ないだろう事を、ハジはきちんと心得ていて…。
解かっていてそうして微笑むのだから性質が悪い。
小夜は真っ赤な表情のまま固まっている。
いつしかぎゅぅっと握られていたパジャマの裾から小夜の細い指を丁寧に一本ずつ外し、ハジは強引に小夜の体を腕に抱きあげた。
「今夜は何もしませんよ。ただ…貴女と一緒に居たいだけです…」
「……こ、今夜って…ハジ?」
「もう眠いでしょう?………それでも、もしご希望とあれば…」
「ご希望してないから!!…ハジ!!」
ハジの腕の中で小夜がぶんぶんと首を振る。
ハジは楽しそうに笑った。
「そんな風に思い切り否定されるのも…」
傷付くのですが…と。とても傷付いた風にも見えないのに…。
小夜の体を抱いたまま、ハジは壁際の照明スイッチの傍に寄り…手のあかない自分の代わりに照明を落とす様に小夜に促した。
仕方なく小夜がメインのスイッチを落とす…と、ふっと辺りが闇に包まれ、代わりに優しい常夜灯の明かりが点った。
淡いオレンジ色の照明の下で、覗き込んだハジの表情は酷く真摯なものだった。
「……私一人の我儘ではないでしょう?」
こんな風に見詰めるなんて、ハジはやっぱりずるい…と、声にしたいのに言える筈もなく…。
「…………………」
「何もしなくてもただ、貴女の傍に居たい…小夜…」
「…………ぅん」
細い腕がするりとハジの首筋に巻きついた。
触れるだけのキスが、ふんわりと小夜の額に舞い降りる。
廊下を挟んで、右が小夜の使っている客間、そして左のドアがハジが眠る主寝室。
その差は、単に広さの違いだけではないのかもしれない。
この一線を越える事で、ここが本当に自分の家になる様な…小夜はそんな予感を感じていた。
いつか…このマンションが本当に、自分の自宅になる…の…?
そんなふわふわとした予感…。 
ハジは器用に小夜を抱いたまま寝室のドアを開けた。
小夜の使うソファーベッドも決して寝心地が悪い訳ではないけれど…、この腕の中は格別…。
ゆっくりとベッドに下ろされると、柔らかな羽根布団にじゃれつくようにして潜り込む。
ハジもまた、ゆっくりと小夜の隣に滑り込んだ。
額が触れる程傍で、どちらからともなく…くすりと笑みが零れる。
そっと伸ばした小夜の指先をハジが捉え…そっと掌に包み込んだ。
言葉もないままに、優しくその指をからめ合う…。
「お休みなさい…小夜…」
「…お休みなさい…ハジ…」
はにかんだ笑顔、目を閉じてしまうのが惜しい程に愛しくて…、ハジは小夜の瞼がゆっくりと閉じられるのを……眠れないと言いながらも……いつしか静かな寝息が聞こえるまで…見守っていた。
今までに感じた事のない、幸福感に満たされながら…。

                                     ≪了≫

20091013
別に誰も悪くないんだけど、先日(日曜日?)こっそり凄く落ち込んでいて、
気分転換に書き始めたSSです。
落ち込んだ時には、やはり現実逃避…いえいえ、甘いハジ小夜です。
でも、これが甘いかどうかはさておき…。

一緒に住んでるけど、寝室は別…。
それってなんか不自然じゃないかな〜?

この二人って私の頭の中では案外不器用で、色々してても延々と別の部屋で寝ていそうでしたので…こんな一コマを書いてみました。

一番楽しかったのは、ハジの…
「…別に、…疾しい気持ちで言っている訳ではなく…。いえ…まあ、時にはそう言う事もあるかと思いますが…」
というセリフなのでした(笑)

それではここまで読んで下さいまして、どうもありがとうございました!!