野薔薇の秘密 1


 野薔薇屋と言う屋号は、まだ創業して間もない頃、この付近一帯に野薔薇が自生していてそれは見事な景色だったから…とか何とか。

創業当時は鄙びた田舎の一軒宿だったが、源泉かけ流しの温泉の質の良さ、それにきめ細やかなサービスと美味しい料理が評判の旅館だった。
 
 
ゴールドスミス・ホールディングスがその野薔薇屋を買収したのは、何年前の事だったろう…。
世間は不況の真只中。

いくら評判が良くても所詮は資本も知れた個人経営の野薔薇屋は、不況の煽りで宿泊客が激減し経営が行き詰っていた。そんな野薔薇屋にゴールドスミス・ホールディングスは援助の手を差し伸べたのだ。
勿論、敵対的買収ではない。
野薔薇屋はこのまま名前を替える事無く営業を続けられる事、そして従業員も全て引き受けると言う条件で…その負債を負ったのだ。
ゴールドスミスと言えば、世界的にも名が知られる大企業である。それがどうしてこんな田舎の、特別な価値があるとも思えない小さな旅館の為に動かなければならないのか…。
息を吹き返すかどうかも解からないたかが小さな旅館の買収に、重役達はこぞって反対したが、社長の独断で押し切った。
社長のアンシェル・ゴールドスミスは無類の温泉好きなのだ。
ほとんどその買収は趣味だった……と言っても良い。
実際、野薔薇屋の株の60パーセントはアンシェルの個人名義である。
周辺の広大な土地を買収し、アンシェル自らの指揮の元、野薔薇屋は大掛かりな改修を経て、数年後の今では創業当時のもてなしの心はそのままに観光ガイドで特集を組まれる程の名物旅館に生まれ変わった。野薔薇屋の売りは、何といってもその広大な敷地に点在する貸し切り露天風呂の多さだろう。
とかく予約を取るのに一苦労する貸し切り露天風呂の悩みを一掃すべく、野薔薇屋では一気にその数を三倍に増やした。特に予約を入れる必要もなく空いてさえいれば内鍵をかけて入る事が出来るシステムで、手入れの行き届いた和風の庭を眺めながら、それぞれ趣向の違う作りの露天風呂を親しい人だけで気軽に楽しめるのだ。
それ以外にも広々とした大浴場や、露天風呂、サウナやエステ、岩盤浴施設まで完備している。
広大な敷地に建つ本館と細い渡り廊下で連なる別棟、特別室を備えた離れ、本格的な和風庭園。
建物はどれも今時流行りの和風モダンで、洒落た造りは老若男女に人気の宿なのだった。


宿を買収した際も…改修工事の際も、ハジは東京から度々足を運んでいる。
まだ今の役職について間もない頃で、ワンマンな社長の扱いに慣れず苦労したのが、今となっては懐かしい思い出だった。
 
 
 
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「……野薔薇屋…ですか?」
そんな野薔薇屋の名前が、小夜の口から飛び出したのは、ちょうど夕食の片付けが終わった時だった。
小夜はハジの反応を伺う様に、少し不安げな様子で覗き込んでいる。
「…うん。知ってる?………なかなか予約が取れない人気の旅館なんだって…。凄く広いお庭に貸し切り露天風呂がいっぱいあって…、岩盤浴とかエステもあるの…」
とても良く知っています…と言いそびれ、ハジは曖昧に頷いた。
何しろ開業の折には直接現場の指揮を執りたがる社長の手足として、携わる業者の調整など雑務に走り回ったのは自分なのだ。どの部屋が一番良い眺めだとか、離れの特別室の床柱が一本幾らだとか、そんなどうでも良い様な事まで野薔薇屋の事は知っているが、もう何年も足を運んではいない。
お世話になった女将は引退して代が代わったらしいが…今も元気だろうか…とハジはぼんやりと当時を振り返っていた。
小夜はそんなハジの様子に気付いた風もなく、やはり不安げな様子で話を続けた。
「…大学の友達に誘われているの…。あ、も…勿論…女の子ばっかり。…あのね、香里のテニスサークルのグループなんだけど、一人行けなくなっちゃって。それで、代わりにどう?…って誘われたの…。だって四人一部屋で申し込んでるのに、三人になったら宿泊代が高くなっちゃうでしょ…」
もじもじと、それはまるで良い訳をする様な口調だ。

暗に『行っても良い?』と尋ねているのだろう…。
そんな事まで自分の許可を得なくても良いのだ…と思いつつ、ハジは苦笑して小夜をリビングのソファーに招いた。小夜は大人しく従いながら…しかしハジの隣ではなく、その正面のラグの上にペタンと直に座り込んだ。
頭一つ分は優にある身長差のお陰でいつも彼女はハジを見上げているけれど、こうして改めてじっと見詰められると意図的に甘えられている様な気さえして…こんな瞳で見詰められては、思わず何でも許してしまいそうだ。
「…折角なのですから、楽しんでくると良いですよ」
相好を崩したハジの一言に、小夜の不安げな表情が一変し、ぱぁっと明るいものに変わる。
「………良いの?」
「………勿論ですよ。…それに野薔薇屋はとても良い旅館です。…保証します」
『行った事あるの?』と小夜の瞳が丸くなった。
と、ハジは笑って小夜に手を差し伸べ隣に座らせた。
「あまり表に名前が出る事はありませんがゴールドスミス・ホールディングスは野薔薇屋の株主なのです…。きっと予約を取るのが大変だったでしょう?…先に話して頂ければ、何かと融通出来たかも知れませんが…」
「…そ、そうなの?」
小夜はさも感心したように、耳を傾けている。
「ええ、まあ。社長が温泉好きなので…。本人も度々お忍びで通っておられます。私も仕事で何度か…」
「凄いね…」
「…そうですか?」
小夜は素直な表情で『うん』と頷いた。
しかしすぐにまた表情を曇らせる。そんな小夜を前にこんな事を言っては不謹慎なのかもしれないが…彼女と居ると、本当にコロコロと良く変わるその豊かな表情についつい見惚れてしまう。
表情の乏しい自分とは正しく正反対で…そんな素直な小夜だからこそハジはこれ程までに彼女を愛しいと感じるのかも知れない。
じっと見詰めるハジの視線に僅かに頬を染めながら、しかし先程までの嬉しそうな表情を若干潜めて、小夜は口を尖らせた。
「でも、私…。こんな風に遊んでいても…良いのかな?」
沖縄の父と弟に悪いと思うのか…小夜のその気持ちは解からなくもないけれど…何かにつけて、小夜は何かと自分を責める傾向がある様に感じられる。
「…どうして?」
ハジはそう問わずにはいられなかった。
「だって…」
「…こうして友人と自由な旅行が楽しめるのは学生の内だけですよ…。それに授業を受けてアルバイトをするだけが学生生活ではないでしょう?…私は小夜に楽しい思い出を作って欲しいと思っていますよ…」
その言葉を噛み締める様に、小夜はきゅっとその柔らかな唇を固く結んでハジを見上げた。
「ありがとう…ハジ…」
「………小夜」
そうっと差し伸べた腕に、小夜は躊躇いがちに身を寄せた。
臆病な仔うさぎを驚かさない様に、ハジはゆっくりとその腕を小夜の肩に回した。
小夜は大人しく、されるがままだ。
しかしあの晩以来、二人の距離は微妙な位置関係で固まっている。
二人の関係は、肌を重ねた事でそれまで以上に親密になった様ではあったが…小夜はあの晩…その行為が滞りなく最後まで達成されなかった事を自分のせいだと思い込んでいる様子だった。
抱き寄せれば…小夜は敏感に察して…その体はすぐに固くなってしまう。

勿論あの晩の事は少しも小夜のせいではない。

むしろ自分に非がある様にハジは思う。
しかしきっとそう言葉で教えたところで、説得力などないだろう。
初めてだった小夜にとって、『たまたま、うまくいかなかった』のではなく、上手くいかなかった事が全てなのだ。
本当ならばあの後すぐにでも、きちんと最後まで抱いてやれば良かった。
そうでなければ、到底小夜の心の澱は晴れないだろう。
しかし、ハジもまた…あの晩の後ですぐに再び求める事が出来なかった。
忙しかった事も理由の一つではあるが…。
結果的には自分が上手く小夜をリードしてやれなかったという事なのだろう。
小夜はハジを拒絶したりしない。
けれど抱き締める度に腕の中で緊張する小夜を前につい心のどこかで躊躇ってしまう。
小夜を前にすると、どこか自分の抱く男の欲求が酷く醜く滑稽なものの様な気さえしてくるのだ。

そうして、ハジはずっとタイミングを逃し続けている。
「ねえ…ハジ?どうしたの?」
男の緩い拘束の中で、小夜が不思議そうな表情を覗かせた。
「…いえ、何でもありませんよ」
ハジの思惑など知らないまま、小夜は迷いのない純真な瞳でハジを見詰めている。
紛らわす様にハジは笑って見せた。
「…お小遣いは足りていますか?…野薔薇屋は良い旅館なだけに宿泊代も馬鹿にならないでしょう?」
「……うん。…いつもハジに全部払って貰っちゃてるのに…ごめんね…」
それは食費や光熱費の事か…。
「そんな事は気にしないで…」
小夜と過ごす事になるこれから先の時間の長さを思えば、何一つ焦る事はないのだと…ハジは肩を抱く手を引っ込めた。
壁に掛けられたカレンダーの前に立つと、小夜も軽い足取りで付いてくる。
「それで…日程は?」
「……ええとね。今月末の土日…。二十六、二十七…かな」
「………ちょっと、待って下さい…」

ハジはその日付に…そう言えば…と、思い出す。
社内行事にあまり関心はないし、大して内容も確かめずに欠席の届けを出したので、自分には全く関係がないと思い、すっぱり忘れていたのだ。
念の為、アタッシュケースから電子手帳を取り出して確認する。
「何…?」
小夜が興味深そうに手元を覗き込んだ。
「……ちょうど同じ日程で、社員旅行なのです。…行き先も同じ野薔薇屋で…。株主ですから、何かと融通が利く事と…どうやら女性社員からの要望が多かったらしくて…。半分は社の保養施設の様な扱いですね…」
ハジを見上げ、驚いた様に小夜が再び目を見張る。
「…向こうでハジに会えるかも?」
驚きながらもどこか嬉しそうな表情の小夜に、ハジは申し訳なく頭を下げた。
「…すみません、私は欠席なのです。その日は…社長のお伴で…一日運転手をさせられる予定なので…」
例え向こうで会えたとしても、他の社員の手前…家に居る時の様にはまるで振る舞えないのだけれど…。
『ええ〜〜〜』とあからさまに残念そうな表情を覗かせる小夜が愛しくて、ハジもまたその目の前にある幸せに目を細めるのだった。
 
 
 
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朝一番の電車に乗る小夜を駅まで送る。
まだ早朝と言う事もあり、ラッシュ時に比べれば人影もまばらだ。
彼の住むマンションは再開発地区に建っている事もあり、駅は真新しくまだ一部は工事中のフェンスで囲まれていた。マンションからは徒歩十五分程で、小夜は毎朝歩いてここまで来て、電車に乗るのだ。
『いつも通り歩いて行くから大丈夫…』と言う小夜の言葉を押し切り、車で送ったのはハジの意思だ。
新しく整備されたロータリーの外周をぐるりと回り、車寄せの先頭で車を停めると、ハジは自らもまた車を降りて後ろの座席から小夜の荷物を下ろした。
荷物と言っても一泊旅行用の小さなボストンバッグ一つきり、真新しいそれを小夜に手渡す。
「…ありがとう。ハジ…」
「いえ…。気をつけて…私の分も楽しんできて下さい」
別れ際に話す事など…たかが知れている。
「…あ、ええと…。うん、お土産楽しみにしてて…」
小夜の返事もまたどこかぎこちない。
考えてみれば一緒に暮らし始めて以来、二人は離れて夜を迎えた事がない。
小夜がやってきてからは、ハジはどんなに忙しくても必ず帰宅するようにしているのだ。
たった一泊の事なのに『離れて過ごす事が酷く寂しいのだ』と言ったら、小夜は笑うだろうか…。
友人達との待ち合わせ場所までは『恥かしいから』という理由で同行させて貰えない。
恋人として、ここは一言『小夜がお世話になります』と挨拶しても良かったのだが、流石にそれは恥かしいらしい。気持ちは解からないでもないので、大人しく引き下がり再び運転席に乗り込むと、荷物を手にした小夜が運転席側に回ってコンコンとウィンドーを叩いた。忘れ物かと慌ててハジがウィンドーを開けると、小夜はハジに目線を合わせる様に腰を屈め、僅かにはにかんだ。
「…どうしました?小夜…」
「何でもない…。…ハジ、………ちょっと、…目瞑って…?」
「…は?」
「…良いから…!お願い…」
急かす様な口調にハジが大人しく従って目を閉じると、ふわりと甘い香りが鼻先を擽る。
次の瞬間、柔らかな唇がそっとハジの唇に舞い降りた。
一瞬…そっと優しく触れただけの唇が、触れた時と同じようにそっと離れてゆく。
思いがけない小夜からのキス。
「…さ…小夜?」
「……じゃ…じゃあ、行ってくるね…ハジ…」
頬も耳も真っ赤に染めて…そんな風に微笑まれては…。
小夜は尚更はにかんで、ハジの顔もまともに見られない様子で慌ただしく改札へ駆けてゆく。
まさか、『行ってきます』のキスがしたかった…だなんて…。
改札の前で一度だけ振り向いて小さく手を振る様が、ハジには愛しくてならなかった。
 
 
 
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野薔薇屋は、施設の大きさに比してとても静かで落ち着いた宿だった。

沖縄で生まれ育った小夜は、そもそも温泉旅館と言うものが初体験なのだから余所と比べようもないのだけれど。


午後三時のチェックインに合わせタクシーで乗り付けた大きな正面玄関は趣ある和の設えで、宿泊客の到着を待つ仲居達がすかさず丁寧に歓迎の旨を述べ荷物を受け取ると、玄関の中へ案内された。
初老の下足番に脱いだ靴を預け、とても旅館の備品とは思えない質の良いスリッパに足を通す。
すると、
「野薔薇屋へようこそおいで下さいました。…この旅館の女将でございます」
色味を抑えた上品な和服を纏ったまだ若い女将が、どこからともなく現れて丁寧に頭を下げた。
とてもこんな大きな旅館を仕切っている様には見えない、どこかたおやかな雰囲気を纏った彼女は、小夜達をフロントではなく、大きな池の見える立派な応接セットに案内すると、改めてにこやかに頭を下げた。
そうして入れ替わりに、これまた若い仲居が現れて、まるでオーダーを取る様にウェルカムドリンクの好みを確認する。やがて運ばれてきた和菓子と温かい緑茶にほっと体の力が抜ける頃会い、担当らしき仲居がチェックインの用紙を携えて小夜達の元を訪れた。
まだ時間が早いせいか、宿泊客の姿は少ない。
宿の説明を受けながら、小夜は珍しいものを見る様につい視線をあちこちに投げてはその雰囲気にうっとりとしてしまう。ここは時間がゆっくりと流れている。不思議と、その建物の高級なイメージとは相反してほっと肩の力が抜ける様な和む空気なのは女将や仲居達、全ての従業員の柔らかで温かみのある対応のお陰なのかもしれない。
ハジは何度か来た事があると言っていたが、それは完全に仕事で…なのだろうか…。
それとも…彼もここでこうして、もてなしを受けたのだろうか…。
ただ…もし隣に居るのが友人ではなく彼と二人の旅行だったら…などと想像すると、柄にもなく頬が緩んでしまいそうで、小夜は尚更ぎゅっと口元を引き締めた。
 
「本日はお客様方の他にも団体客が入っておりますので、何かとご不便をお掛けする事もあるかと存じますが…」
長い渡り廊下…荷物を手に客室までの案内をする仲居の言葉に、小夜は思わず顔を上げた。
…ハジの会社の人達だ…
しかし、他の誰にも小夜のその微かな反応に意識は払う者はいなかった。
 
 
 
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「お前は幸せそうだな…ハジ…」

背後からの声に、ハジは一気に現実に引き戻されていた。
渋滞中の車内は静まり返っていたせいで、余計にその声は大きく聞こえ…気を取り直す様に、ハジはハンドルを握り直した。
バックミラーを覗くと、社長のアンシェルが太い腕を胸で組んでじろりとこちらを見据えている。大柄な体を黒いダブルのスーツで包み、傍目には持ち株会社社長と言うよりヤクザの組長の様に見えるのは間違いない。
そうすれば、おのずと自分もその筋の人間に見えているのだろうと、ハジは肩を落とす。
「…いえ、気のせいかと…」
不覚にも、今朝の小夜の愛らしさを思い出して口元でも緩んでいただろうか…。
出来るだけ冷静を装って、ハジは短く答えた。
小夜との出会いはこの社長のお陰とは言え、その後を報告する義務はない。
「何も隠す事はない。…ソロモンから聞いている。あのうさぎとはまだ続いているらしいじゃないか…」
「……はぁ」
最初からソロモンに口止め出来るとは思っていないが、それでも一言釘をさしておくべきだったか…。
敢えて隠す様な付き合いではなく小夜との交際は結婚を前提とした真面目なものだが、普段仕事一辺倒の部下の恋愛事情がよほど面白いらしい。
隠し事をすれば、余計に興味をひいて勘繰られる事は目に見えていた。
ハジはなるべく穏便に話を済ませたかったのだが、アンシェルはハジが否定しない事に尚更気を良くした様子だった。
「……一緒に暮らしているらしいじゃないか?」
「………彼女とは真面目な付き合いをさせて頂いています…」
「……まさかもうプロポーズした訳でもあるまい?」
バックミラーの中で、アンシェルは大仰に呆れて見せる。
「いえ、…ただ、自分の誠意は伝えておきたかったと言うだけです…」
「……お前が…あんな小娘に……一目惚れか…」
ふん…と鼻を鳴らす。
組んだ腕もそのまま、アンシェルは流れ出した車窓の景色にぼんやりと視線を移した。
そうしてしばらくは黙っていたものの、ふと思いついたのか…再びアンシェルはハジに話しかけた。
「…今日は社員旅行だったそうだな?」
「…はい。今回は…人事総務部のみですが…」
「済まなかったな…。お前も行きたかっただろう?」
誠意の籠らない口調だが、社長として一応は部下を労わるという気持ちはあるようだ。
「いえ…」
「行き先は?」
「今回は、女性社員からの要望で…野薔薇屋に一泊だそうです」
「……野薔薇屋か…」
彼自身も思い入れのある宿の名前に、アンシェルが感慨深く呟いた。

一瞬、嫌な予感がする。

そして、その予感は見事に的中する。

「ハジ…午後の予定は全てキャンセルだ。…お前も今から飛ばせば十分…宴会までに間に合うだろう?」
「……は?」
何を言っているのか…意味が呑み込めない。
意味が呑み込めないままのハジに、アンシェルは指示を下す。
「今から野薔薇屋へ向かえ。途中で野薔薇屋の女将に電話して特別室の用意と、それからお前の分の宴会の席と寝床を確保するように…」
この男の我儘と気まぐれには随分慣れているつもりだったが…。
まさか、いくら筆頭株主と言えど…アンシェルがそれを知っている筈はない。が…しかし…今夜は、小夜も野薔薇屋に宿泊しているのだ。
もし、小夜の顔を知る社長の前で、本当に彼女と顔を合わせたりする事にでもなれば、まずくはないだろうか…。
「…………今から…ですか?」
耳を疑う様に、つい念を押す様に確認せずにはいられない。
「…午後の…予定…全て…ですか?」
「そうだ…。何とかなるだろう…?」
しかし『社長の決定に異議を唱えるな…』とばかりの返事に、ハジは大人しく『承知しました…』とだけ答えた。
 
 
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観光バス二台、総勢八十名近い団体が先程までの落ち着いたロビーの空気を一掃していた。
ロビーのあちこちにグループの輪を作っては談笑の花を咲かせ、順番に幹事からのチェックインの指示を待っている。

そんな雑然とした中で、ソロモンは自分の携帯が鳴っているのに気付いた。
胸ポケットから携帯を取り出すとそっと人の輪から外れる。


「……はぁ。…そうですか…では、社長は…いつもの特別室で。あなたは仕方がありませんから、僕の部屋に…。女将にはもう?…解かりました…。それでは、僕が…。ええ…」
思い掛けない急な連絡に、ソロモンはやれやれと呆れた風情で通話を切った。
薄いシルバーの携帯を二つに折って再びシャツの胸ポケットに仕舞うと、明るい金色の髪を利き手でかき上げる。
秘書室のきれいどころが、遠巻きに声をかけるタイミングを伺っていた。
しかし…それに気がつきながらも、ソロモンは敢えて声をかける隙を作らず、すいと視線を逸らした。
 
 
「全く…」
それは思わず口から零れてしまった一言だ。
突然かかってきたその電話はハジからのものだった。
彼は今日、一日社長のお供で社員旅行には参加せず東京に残るという話だったのだが、いつもの社長の気まぐれで、突然にこちらと合流する事になってしまったらしい。
日頃から社内行事に積極的に参加する事のない彼の事だから『社長命令で残念です』と言いながらも本心は断る口実が出来て丁度良いとでも思っていたのではないか…。
しかし彼の参加を望む女子社員の多かった事…それがこんな風に突然、宴会に姿を現わせば大騒ぎにでもなりかねない。一体どうしてこんな事になったのか…。


とは言え、社長のアンシェル自身が直接宴会に参加する様な事はない。
社員同士の親交を深める為の場に、社長の自分がいたのでは堅苦しくて皆寛げないだろうと言う理由で…アンシェルはいつも社員旅行に顔を出す事はないのだ。
しかも…この野薔薇屋を訪れる時に限っては、彼の為に用意された露天風呂付き特別室に引き籠る。
広い特別室で、たった一人で過ごす。それはこの野薔薇屋の創業当時から続く社長の、この宿での過ごし方だ。夜の街ではあれ程派手な豪遊を繰り返す彼が…。
それが何故なのか…社長は何も言わないけれど、ソロモンとハジは社長の一番傍に控えている事もあり、大よその理由を察していた。
しかしよりによって…こんな晩に…。
「何をやってるんだ…。ハジは…」
小さな叱責を零す。
勿論…彼に非がある訳ではない事も充分に解かっているのだが…。
ふと視線を投げると、天井まである大きなガラスから美しい庭が夕景に沈んでいた。
社長とハジが到着するまでにはまだ一時間以上はかかるだろうか…。
所々に配置された照明が風情豊かに灯り始める。
それを傍目に収めながら…ソロモンは幹事を探した。
 
 
 
幹事にはそのまま社員の速やかなチェックインを勧めさせ…ソロモン自らフロントに赴き、変更の旨を告げた。若く美しい女将は勿論嫌な顔一つせず…特別室の準備と宴席の変更について館内電話で指示を出してくれた。馴染みの女将はよく心得ている。ひとまずこれで、問題はないだろう。
社長は社員と顔を合わせる事無く特別室へ案内される。



ソロモンがほんの少し肩の力を抜いて振り向くと…。


「きゃっ!!」

どんっ…と胸に軽い衝撃。
出会い頭の事故に、ソロモンはよそいきの笑顔を取り繕っていた。
「すみません…。お嬢さん…」
愛らしい紺地に赤い花模様の浴衣、鮮やかな黄色の帯結び。
肩先で今時真っ黒な髪が揺れる。
ソロモンの胸に勢い良くぶつかった少女に、ソロモンは条件反射の様に手を差し伸べた。
「…いっ…痛…」
「大丈夫ですか…?…すみません。考え事をしていたので…」
勢い良く振り向いた瞬間に、頭一つ分低い少女の存在に気が付かなかったのだ。
少女は取り落とした小さな巾着を手に、ゆっくりと顔を上げた。
しかし…差し出された手を取る事はなく、じっとソロモンを見詰めている。
 
「小夜ぁ〜!!」
その時、バタバタと賑やかな足音を立てて彼女の友人らしき三人が廊下の向こうから派手な音を聞きつけて現れる。
「…………………」
「……小夜さんと、おっしゃるんですか?」
ソロモンは自分の手を取ろうとしない少女に、今度は自ら視線を合わせる様に片膝をついた。
「…………知りません」
こんな所で…。
まさか本当に再会するとは、どちらも思ってはいなかった。
「…小夜さん」
ソロモンはその名前を呼ぶと、柔らかい頬笑みをその面に浮かべた。
「…………………」
「…ダンマリですか?」
小夜に追いついた友人達が『知り合いなの?』と小夜を覗き込む。
全身固まっていた小夜は、小さく…しかしはっきりと首を振った。
小夜の、『彼氏』に対するその健気な態度が愛らしくて…気にした様子もなくソロモンは笑った。
その手を強引に取って、体を起こさせる。
「こんな所で再会するなんて…。もしかしたら…本当に、赤い糸で結ばれてでもいるのかな?僕達は…」
ソロモンのふざけた様な軽口に、小夜はただ闇雲に、激しく首を振って否定するのだった。

「し、失礼します」
そう言って友人達と駆けてゆく背中を、ソロモンは嬉しそうに見送った。
あんな可愛らしい少女がもし自分の事を愛してくれたのなら…そんな気持ちがぼんやりと彼の胸を温かくしていた。
大学生くらい…だろうか…。

「ねえ、小夜。本当に知り合いじゃないの?」
友人の言葉に再び少女が激しく首を振る。

ソロモンは、どうしてそこまで頑ななのだろうかと肩をすくめた。

「……さんにお土産選ぶんでしょ?」
途端に少女の肩が飛び跳ねる。照れたようにぽかぽかと友人の肩を叩く。

………今、何と言った?

しかし、再び幹事から呼ばれ、ソロモンもまた小夜に背中を向けた。

「……まさかね」

自分はあまりにも彼を意識し過ぎなのだ…。

                                    ≪続≫        
          

20090921
ええと〜。社員旅行編『野薔薇の秘密』1を何とか更新出来そうです。

自分があまり社員旅行というものを経験した事がないせいか…
今一つ、まだ社員旅行っぽくないのですが、2ではハジやソロモンや小夜たんを温泉に入れたり
宴会をしたりとそれっぽく進められたら良いなあ〜と思っております。
長くなりそうだ〜〜〜〜〜。でもあのとても楽しく書かせて貰ってますので、
読んで下さる皆様にも楽しんで頂けたら嬉しく思います。

前回の「七月の仔うさぎ」「七月の狼」が七夕の夜の出来事だと言うのに…、
このお話は九月末頃をイメージして書いています。
もうそれほど暑くもなく、快適なんだけど風は秋の風で朝晩はちょっと寒い。
ハジ…あんな感じで未遂のまま、一か月以上も小夜たんを放置したのか?
と言う鋭い突っ込みは無しにして(苦)そこは温かい目で一つ見守って下さい。
書きながら、自分としてはそんなに時間は空いてないけど…、
お話の中の時間の流れを考えたら、ちょっとまずいかな…と焦ったりして…。

そのうちにきっちり書かせて頂きたいと…。
ええ、激しく迷い中です。

ではでは、ここまで読んで下さいましてどうもありがとうございました!!!



…ハジは社員旅行…途中参加(宴会宿泊のみ)と言う事になりそうです。
帰りはまた社長を乗せて運転手さんかな〜。