野薔薇の秘密4


 ふわりと野薔薇が香っていた。
 
アンシェルの後についてディーヴァが通されたのは二間続きの和室だった。
僅かに開いた襖の隙から奥の間には就寝用の布団が敷かれているのが見えた。
その寝具にはまだ乱れはない…。
目の前の黒い漆塗りの大きな座卓の上には透明なガラスのちろりと盃が一つ並んでいる。
それはまるで美しく暮れかけた薄紫の夕空の様な色…。
ディーヴァはその美しいガラスの色にじっと目を奪われていた。
 
アンシェルは自ら座卓の反対側にディーヴァの為の座布団を敷くと…
「とにかく座りなさい…」
…と席を勧め、自分もまた反対側の肘掛け付きの座椅子に腰を下ろした。
 
ディーヴァはただじっと彼の前に立ち尽くしたまま、少しだけばつが悪そうに頬を膨らませてぷいと視線を逸らした。あまりにも子供じみた態度に、アンシェルは小さく肩を落とし、静かな落ち着いた声で…
「座りなさい…」
と、もう一度繰り返した。


アンシェルの向かいに座布団はなかった。
奥の部屋に敷いてある布団も一組だけだ。

そして卓の上の盃は一つ。
本当に彼は一人でここに宿泊しているのだ。
勿論、連れがいてはここまで通してはくれないだろう…。
熱くなっていた頭がすっと冷めてゆく。観念した様子で、ディーヴァは気不味そうに座布団の上に小さくなって座った。
 
どうしてこの男とこういう関係になったのか…ディーヴァにとってそんな事はもう今更どうでも良い話だ。教師と生徒だろうが社長と秘書だろうが、男と女であればほんの少しのきっかけ一つで、誰もがこうなる可能性を持っている。どんなに綺麗事を並べても、ベッドに入ってしまえば男と女がする事は皆同じなのだ。
諦めにも似た気持ちで、ディーヴァはそう思っていた。
そんな彼女ではあっても…勿論社長であるアンシェルに誘われた時、数多くいるのだろう彼の愛人の一人となる事に、戸惑わなかった訳ではない。当時、ディーヴァはまだ入社して一年も経っていなかった。
結局断らなかったのは、断り切れなかったのか…それでもそこに何か温かいものがあると感じられたからだったのか…彼女はもう覚えてさえいないけれど…
付き合ってみると…ディーヴァにとって、アンシェルは都合の良い男だった。
社長と言う魅力的な立場。
実際に彼は、ディーヴァの欲しい物は何でも与えてくれた。
ブランドのドレスも、宝飾品も、旅行も、およそ手に入らないものはない様な錯覚をディーヴァに与えた。
気付いていない筈はないのに、他の男と会っていてもそれを咎める様な事もしない。
時折会って、そしてディーヴァはベッドで甘えさえすれば良い。

しかし。
何故かアンシェルは、彼女がいくら望んでも、この「野薔薇屋」にディーヴァを伴う事だけはしなかった。
最初こそ、どんな理由があろうとも…それならそれで構わないと思っていた。
別に単なる旅館の一つだ。
そう思っていた。


それがいつからだろう…?苛立ちに変わったのは…。
ディーヴァは、アンシェルの数多くいるだろう愛人の一人でいる事に、ちくちくとした胸の痛みを感じ始めていたのだ。いつも綺麗に化粧をして、美しく着飾って、知性と教養を身につけて、これまでいつも、どんな場所でも、自分が一番だったというのに…。
それなのにアンシェルにとって自分は、沢山いる愛人の中の一人でしかないと言う事実に、無性に腹が立った。腹が立ち…自分が一番になりたいと思った。
男への思慕は、そんな風に最初から少し曲がっていたのかもしれない。
 
自分に一番執着して欲しくて、ディーヴァは尚更他の男と火遊びを続ける。
アンシェルの一番身近にいる存在であるハジに、これ見よがしに気のあるそぶりをして見せる。
それでも…アンシェルの態度は変わらなかった。
それを咎めようともしない。
それはつまり、男にとって自分はどうでも良い飾りの様なものだと言う事だ。
そして、たかが愛人のくせにそうしてアンシェルの関心を引こうとやっきになる自分がみじめで、また腹が立つのだ。
最初は自分のそんな気持ちに気付いてさえいなかった。
 
 
「ディーヴァ…、今夜は一体どうしてそんなにむくれている?」
「…………」
真っ直ぐに顔が見られる訳はなかった。
どうして自分が散々強請ってもこの「野薔薇屋」に連れて来ては貰えなかったのか…。
アンシェルは、この宿の筆頭株主だ。
買収する際には一斉に反対する重役達を強引に押し切り、それこそ私財を擲つ程の入れ込みようでこの宿を再生した。この宿の存在自体を、長年とても大切にしている。何度となく彼はこの宿にお忍びで宿泊していると言うのに、ディーヴァは一度として連れて来て貰えなかった。
それが面白くなかった。
もしかしたら、他の誰かを連れて行っているのかも知れない。
何か、自分には知らされない何かが、この宿にはあるのだ。
自分は愛人の一人のくせに…。
ギブ&テイクで割りきった関係である筈なのに、これでは醜いただの嫉妬だ。


ぎりと唇を噛むディーヴァの横顔に、アンシェルは再び小さく肩を落とした。
盃に残っていた冷酒を飲み干し、アンシェルは一つと息を吐いてゆっくりと席を立つ。そうして座卓を回り込むと、小さくなって座るディーヴァの隣にゆっくりと屈み込む。
「…折角の社員旅行だろうに、…こんな風に抜け出して悪い子だ…」
そんなアンシェルの言葉にも、ディーヴァは黙っている。
「………………」
「………………突然訪れては私も驚くだろう?」
「………の…?」
彼女の唇から零れた小さな声が、途切れた。
アンシェルの手が、宥める様にそっとその背中に触れる。
「…どうして、ここには…私を連れて来てくれなかったの?………ここがアンシェルにとって、どんな場所なのか…知りたかったの…もしかして、私以外の誰かを連れて来る為の場所なの?………アンシェルはここにどんな秘密を隠してるの?…ハジなら、それを知ってると思ったの…だから…」
ディーヴァは一息にその心の中のわだかまりを男にぶつけていた。
やや余裕を無くした彼女にも、アンシェルの態度は変わらず穏やかだった。
「…それで、ハジは何と?」
「……自分で直接、確かめなさい…って…」
「…なるほど。…後でハジにも詫びなければな…。……お前は私を誤解しているよ。…ディーヴァ」
男の眉が、僅かに歪む。
「…………………」
「ディーヴァ、私にはお前以外に恋人などいない…」
アンシェルの口から洩れた、恋人と言う言葉に…ディーヴァは円らな瞳を更に大きく見開いた。
「……愛人の間違いでしょ…?恋人なんて…」
「………親子の様に年の離れたこんな親父が恋人では、ディーヴァは嫌がるだろうと思っていたからね。…私の態度が紛らわしくて、誤解させていたと言うのならば謝ろう。…それに……いつも自由なお前を縛り付ける様な真似はしたくない。今でも、お前は自由だ。本当にハジの事が好きだと言うのなら、あの仔うさぎから奪えば良いだろう?……そうはしないのか?」
「……私の気持ちも知らないで…勝手な事を言わないで!……私がいつ…ハジの事を好きだなんて言ったの?………私は…」
呆れた様に顔を上げて男を見ると、先程まで隠れていた月がゆっくりとその姿を現した。
柔らかい光に照らされた男の表情は、過去にディーヴァが一度も見た事がないもので……。
「………私は…」
言いかけた言葉を、ディーヴァは飲み込まざるを得なかった。
 
 
 
□□□
 
 
 
二人で歩くこの夜道が、ずっと続けばいい…
小夜がふわふわと甘いそんな気持ちに包まれる頃…不意にハジが言った。
「…私は、女心が解からない朴念仁だそうですので………」
「………朴念…仁?…誰がハジにそんな事?」
突然何を言い出すの…?と小夜は隣に並ぶハジの顔を見上げた。
「朴念仁の自分には、解からないのですが…」
ハジはゆっくりと歩くスピードを緩めた。
「…少しばかり社会的にも経済的にも力のある一人の男がいるのです。…昔、とても愛していた女性と過ごした思い出の場所が、無くなってしまうかも知れない…と知った時に…男はどうしても見過ごす事が出来なくて…あらゆる手を尽くして、その場所を守ったのです…」
誰の話だろう…?と小夜は相槌を打ちながらもハジの横顔をじっと見詰めた。
「…うん」
「時が流れて…新しく…男にはとても大切な存在が出来たのですが…どうしても…新しい恋人を…その場所には連れて行けなくて…。何しろ…亡くなられた奥様との思い出の場所ですから…単純に…気恥ずかしかったのだと思いますよ」
「………………うん?」
「……彼の新しい恋人は、その大切な場所に自分が連れて行って貰えない事に、そしてその理由すら教えて貰えない事に……とても…」
「…とても?」
「…悩んでいた…のでしょうか?」
ハジの語尾が上がる。
話が急に疑問符に変わり、小夜は苦笑した。
「ねえ、それ…。私に訊かれても…」
「…それもそうですね」
ハジもまた、尤もだと思ったのか情けない表情で苦笑を零した。
「…でもね。……その彼女の気持ち…私、解からない事もないよ。…だって…誰でも…好きな人の事は全部…知りたいって…思うでしょ?」
真っ直ぐに見上げる円らな瞳が当然とばかりに細められる…その一瞬の笑顔に、ハジはやや頬が熱くなるのを感じて、暗い空を見上げた。
「彼女は…多分、彼にとっての自分の価値と言うものに気付いていないのです…。きちんとそれを伝えない男にも責任はあるのでしょうが…」
しばし言葉もないままに、二人は歩いた。
りいりいりい…とただ辺りには虫の音が響く。
やや間をおいて、ハジが問い掛けた。
「…小夜も?」
「………え?」
「………全部、知りたいと…?」
ぎゅっと握った指先の力がそっと増してゆく。
小夜は恥かしげに…しかし目を逸らすことなくもう一度ハジの顔を見上げた。
ゆっくりとした歩みが止まる。
思い切った様に、小夜が言った。
「…………そうだよ。ハジの事、全部知りたい。……ハジは…違うの?」
小夜の頬がリンゴの様に赤い。
堪らなくなって、ハジはその赤い頬に掌を差し伸べた。
夜風に冷えた指先が、そっと小夜に触れる。
小夜ははっと息を飲んだ。
「…違いません。私も…貴女の事が全て知りたいと…思っていますよ。…小夜」
ふわりと額に唇が触れる。
優しい額への口付け、…その触れるだけの感触を小夜はどこか寂しく感じていた。
いつもハジは優しい。
時に優し過ぎるくらいに…。
あの晩、小夜を抱き締めて『壊してしまいそう…』と言ったハジ…。
あの時…そんなに簡単に私は壊れないよ…と言えたら良かったけれど、そんな事を言う余裕など小夜にある筈もなく、結果的には本当に意識を失ってしまう事で、自分はハジを傷付けたのではないか…。
だから、もう求めて貰えないのではないか?…誰にも相談できないまま、小夜にはそんな悩みがあった。
時折小夜を抱き締めてキスしてはくれるのに、あれ以来ハジは小夜にその先を求めない。
小夜は優しいキスをくれる恋人の横顔をじっと見詰め…
「ねえ、ハジ…。あの時…ごめんね…」
思い切った様に謝罪の言葉をハジに告げた。
突然の事に、ハジは意表を突かれた様な表情で小夜を見詰め返した。そうしてまじまじと見つめられると、小夜は思いがけず自分がじわじわと緊張している事に気付いた。
ハジはしばらく黙った後、真面目な表情で、
「……小夜が謝る事など何一つありませんよ。…どちらかと言えば…私が…」
と言葉を切る。
小夜の『あの時』と言う言い回しに、ハジはすぐにあの晩の事と気付いてくれたのだ。
「私の方こそ…優しく出来なくて…。すみません…」
「ううん、違うの…。ハジは…優しいよ。……あの時も…優しかったから……すごく…」
小夜がハジの指先をぎゅっと握りしめたまま黙り込んだ。
「…小夜?」
俯いた耳が赤い。戸惑いながら、小さな事で小夜が告げた。
「……あんなに気持ち良く……あんなに優しくしてくれたのに、やっぱりごめんなさい。あのね、でも……私の事…嫌いにならないで…」
「…嫌いになどなる筈がないでしょう?…小夜こそ…もう嫌になってしまったのではないかと…」
少し考え込むようにして…再びハジは黙り込んだ。
その横で、俯いたままの小夜は肩先に延びた髪を揺らし、ぶんぶんと首を横に振った。
 
 
やがて、辿り着いた露天風呂の建物の前で、二人は立ち止った。
表には渋い藍染に白抜きの平仮名で『ゆ』と書かれた暖簾が掛かっていた。ハジが磨りガラスの嵌った引き戸に手を掛けると、それは難なくガラガラと音を立てて開き、ハジはほっと安堵の表情を浮かべる。
もしここが入浴中であれば、また別の露天風呂へ行かなくてはと思っていたのだ。
 
中へ入るとそこは小さな下足になっており、その奥にもう一つ戸があってその向こうが脱衣室になっている。貸切の露天風呂と言うだけあってそれほど広くはない。
四畳半ほどの広さに片側の壁が一面棚になっており、籐製の脱衣籠が並ぶ。
通りがかりに入浴する客の為に、洗濯したばかりのバスタオルも準備されていた。
反対側の壁には鏡の取り付けられた洗面台、片隅に首の長い扇風機、藤製の丸椅子が置かれていた。
洗面台の上には、化粧水や乳液、男性用のトニックや、ブラシ、綿棒などの用意が整えられ、足元には素足に心地良いマットが敷かれていた。
掃除の行き届いたそれらの設備に、小夜は無邪気に「わぁ…」と歓声を上げ、その向こうのガラス戸に気付くと恐る恐るそれを開けた。
「……すごい!」
小夜は思わず感嘆の声を上げた。
沖縄で生まれ育った小夜にとっては生まれて初めての純和風露天風呂だった。
ぐるりと高い白壁に囲まれた空間。
決して広くはないが、美しく紅葉した紅葉の木。
その紅い葉が下からのライトに照らされて、闇の中に浮かび上がっていた。
対照的な白砂と植物の黒い影が生み出すコントラスト。
こぢんまりと落ち着いた和風の壺庭。
庭を見渡す様に少し高い位置に設えられた浴槽は趣深い岩風呂で、かけ流しの湯がこんこんと溢れていた。
その脇には簡単ながらも一通りの洗い場まで設けてある。
湯が直接かからない様にもう一段高くされた縁台には休憩用に和風のリクライニングチェアが二つ。
これならのぼせ過ぎない様にゆっくり風呂を楽しむ事が出来る。
「…ハジ、すごい!」
「…気に入って頂けましたか?」
素直な小夜の喜びように、ハジもまた嬉しそうに笑う。
「うん、素敵!…ほらいつの間にか月も出てきたよ…」
見上げれば、先程まで雲に隠れていた月が漆黒の空に浮かんでいる。
「…こんなお風呂、初めて!!」
「…では、時間を気にせずゆっくり楽しんで下さい。…私は…表で待っています…」
目を細めたハジの言葉に、小夜がふと真顔に戻った。
見開かれた大きな瞳。
いつもの様にぎゅっと唇を噛む。
何かを決意した様な…思い詰めた表情の少女はごくんと一度だけ喉を鳴らし、大きな瞳でハジを見上げた。「………小夜?…どうか、しましたか?」
「…あ、あのね…。あの…あの…ハ、ハジが…もし嫌でなかったら…なんだけど…。一緒に…入る?」
瞬きを忘れた瞳、どもりながらも最後まで言い終えると、小夜はハジの返事を恐れる様に俯き、そして耐えきれない様にぐるりと背を向けてしまう。
その小さな肩が小刻みに震えていた。
「………………………小夜?…無理をしないで…」
「…っ無理とか…そんな事…ないよ…」

意味を解かって言っているのだろうかと…ハジは咄嗟に言葉を失いかけた唇を戦慄かせた。
「…小夜。………小夜、貴女がどんなつもりでそう仰っているのか解かりませんが…。…貴女はあまりにも男と言うものを解かっていない」
ハジもまた大きく肩を揺らして息を吐いた。
「…ど、どんなつもり…って、何も……私…。そんな…」
「……例え貴女がそうでも…。…私は…勘違いしてしまいます」
「……勘…違い?」
一歩、ハジが前に足を踏み出すと…小夜は目に見える程大きくびくんと背筋を震わせた。
「……貴女が思っている程、私は…大人でもなければ、…忍耐強い訳でも無いのですよ。……小夜…」
その細い肩に指を伸ばす。
そうして、優しい力でこちらを振り向かせる。躊躇いながらゆっくりとこちらを向いた小夜は、今にも涙が零れそうなほど目を赤くしていた。
泣かないで…。
何度も繰り返してきたセリフを飲み込んで…。
その代り…ハジは小夜の小さな体をその腕の中に大切に押し抱いた。
 
 
 
□□□
 
 
 
ばたんと客室のドアが開いた。
部屋のドアはホテルの様に各自にカードキーを渡されている。
迎えに出る必要はないのだが、ソロモンは踏込を伺う様に覗き込んだ。。
勿論襖が閉まっているので、向こうは見えない。
しかし、丁寧に下駄を脱ぎ揃える気配がしてその相手が知れる。
襖はすぐに開いた。
ソロモンの予想通り、そこに立っていたのは、宴会を途中で抜け出したまま行方が解からなかったハジその人だった。
宴会の途中、ハジがディーヴァに連れ出されたのが八時を少し過ぎた頃だったと、ソロモンは記憶している。あれから、四時間近く。
どこをうろついていたんだと悪態を突こうとしたが、現れたハジの顔がやや赤みを増している。
長い髪も濡れている様子から、どうやらハジが再び温泉に行っていた事は一目瞭然だった。
「時間がかかりましたね。…ディーヴァは?」
「特別室に連れて行きましたから、今夜はあちらで休むでしょう…」
「……それで帰り道に、ついでに露天風呂ですか…」
独り言の様なソロモンの言葉に…ハジは表情を替える事なく、一言だけ…
「少し長湯し過ぎました…」
と答えた。
座卓を挟んでソロモンの向かいの座布団に腰を下ろす。
ソロモンは冷蔵庫から良く冷えた缶ビールを取り出すと、無造作にハジの前に置いた。
「例え、プライベートな領域だとしても…世話の焼ける上司のフォローも僕達の大事なお仕事ですからね。…ご苦労様…」
「……ありがとう。これで、あの二人も少しは落ち着いてくれれば良いのですが…」
「ありがとうなんて……やけに素直で気味が悪いですね。…何か良い事でも?」
「…いえ」
ハジは曖昧な返事一つで缶ビールに手を伸ばした。
「…飲み直しましょう。僕も今夜は色々と考えさせられる事があって…一人では少し滅入っていたのですよ」
幹事の連中は予想通り、この居心地の悪い部屋には戻ってくる様子もない。
自分もまた新しい缶のプルタブを開けて、ソロモンは黙って缶を差し出した。
ハジもまた応える様に、缶を差し出すとその淵を小さくソロモンの缶に当てる。
音もなく、ささやかな乾杯を済ませて、二人はビールに口をつけた。
「あなたにしては…それこそ珍しいですね…。滅入るだなんて…」
言い返すでもなく、ソロモンはただ肩をすくめて見せただけだった。
 
 
 
□□□
 
 
 
「で?…用件は何だったのですか?」
「お前はバスで帰れ…と」
ハジのその答えに、ああ、そう…と、ソロモンは無関心そうに頷いた。
 
翌朝、一番でハジの携帯が鳴った。広い和室に敷き詰められた6人分の布団。
その一番端で目覚めたハジは慌てて携帯を取ると、短く『承知しました』とだけ答えたのだ。
隣で聞いていたソロモンは、漠然とその電話の内容を想像出来たが、念の為にそう聞いたのだ。
結局、あのまま特別室に泊まったディーヴァは、きっとこのまま別行動になるだろうと二人は予想していた。

ハジも別段それに驚いた様子はない。
少なくとも帰りの運転手は免れたのだから、その方が良いだろう。
まさか、社長とその恋人を乗せて東京まで一人で運転するのも居心地の悪いものだ。


「帰りのバス…女の子達が大騒ぎしてあなたの隣に座りたがるでしょうね…」
まるで他人事の様に言うが、しかしソロモンもまた似たような立場である。
 
「まだ朝食には時間がありますから…」
朝風呂にでも行こうかと背伸びをするソロモンの横で、ハジが寝乱れた浴衣を直していた。
「あなたはどうします?」
一応は声をかけて、ちらりと視線を投げる。
「いや。私は…」
背を向けて答える、その背中にふとソロモンの視線が止まる。

「………………。……真面目な顔して、あなたもしっかりやる事はやっているんですねえ…」
ちらりと浴衣から覗く白い背中…。
ソロモンは問答無用とばかりに、その襟紋を引いた。
腰の位置で締めた帯で浴衣はとどまっているものの、不意をつかれたハジの背中が大きくむき出しになる。「随分と艶めかしいものを背負ってるじゃないですか?それは長湯にもなる筈です…」
その白い背中に鮮やかに残る無数の赤い痕。引っかき傷。
両脇から縋り付いて爪を立てた様なそれの意味するところを、ソロモンが気付かない筈はない。
しかし、指摘を受けたハジは至って平然としていた。
「…昨夜風呂に入った時にはありませんでしたよね?この傷…」
「流石に目敏いですね…」
「これだけ派手なら誰でも目につくと思いますが?帰ってうさぎちゃんになんて言い訳するのかと思って…。相手はこの課の女の子…ですよね?」
「………浮気じゃありませんよ。ご心配なく…。一々あなたに報告する様な義務はないでしょう?」
「それはそう……………って。…浮気じゃない……?」
思わず問い返すソロモンに構わず、乱れた浴衣を諦めたのか…ハジはさっさと昨日着てきたスーツに着替え始めていた。
肌の白さ故に余計に目立つ赤い傷痕は、ソロモンに昨夜のその行為の激しさを想像させた。
ソロモンは不快な様子でその妄想を振り払う。
「浮気じゃないって…まさか、うさぎちゃんを一緒に連れて来ていた訳では…ないですよね?」
…………………」
 
そうだ…。
幾ら、目が届かないとはいえ…ハジが浮気をする様な男でない事くらい自分は良く知っている。
いくら今まで来る者は拒まなかったとはいえ、彼が本当はとても一途で誠実な事も…。
 
その時、ふいにソロモンに脳裏に昨夜の小夜の横顔が過った。
彼の中で予感の様なものが閃く。
 
 
…彼がどう思ってくれてるかなんて…知りません。…ただ本当に、私が勝手に好きなだけです…
 
 
……小夜さん…
 
…………まさか、
………あなたが…うさぎちゃん…?
 
 
……浮気じゃないって……
 
そして…多分、その予想は正しいのだろう…と、自分の勘の鋭さが忌々しく感じられる。
もし…たまたま偶然、『うさぎちゃん』が友人達との旅行で昨夜この宿に宿泊していたとしたら?
あの時間、あの場所、彼らが外で出会っていたとしても不思議ではない。
ハジが昨夜ここに泊まったのは、アンシェルの突然の気まぐれのせいで……だから多分本当に偶然?
確証がある訳ではないけれど…。

「…まさか…」
 
「……何か言いましたか?」
耳聡く振り返る同僚の顔を、ソロモンはまじまじと見詰めた。
 
ああ、もしそうであったなら…
彼らの言っている事が、全て矛盾なく…つながっていく様な……。
 
何よりも、この目の前の男と彼女とは、とても自然で似合っている様に思えた。
ハジの『うさぎちゃん』に対する溺愛ぶりも、そして彼女のあの絶対的な信頼も…そう仮定すればどこか納得がいく。
 
「何でもありませんよ…。浮気じゃないっていうその昨夜の彼女…紺地に赤い花の浴衣でした?…一緒にいる所をちらっと見かけたんですよ。遠目でしたから声もかけませんでしたけど…背が高くて髪の長い男なんてあなた位でしょう?」
 
ソロモンは内心の動揺を隠したまま、そう質問していた。人違いであって欲しいのか…自分は何の為に確かめようとしているのだろう…?

ハジは答えなかった。

しかし否定もしないまま…
「ソロモン…、この事は他言無用ですよ。特に社長には余計な事を言わない様に…」

想念を押す。ハジの青い瞳が、その時だけは異様に力を帯びていた。
ソロモンは、曖昧に笑った。
「ええ、解かりました…。……この宿には秘密が似合います。全部…僕とあなたの秘密にしておきましょう…。……その方が、ひとまずは丸く収まるでしょうから…」

ソロモンのどこか含んだものの言い様に
、ハジはただ黙ってその青い瞳を鋭く細めたのだった。


≪了≫


20091021
なんじゃこりゃ〜。と言う突っ込みはお許し下さい。
何とか、自分が思っていたラストに辿り着きはしましたが…この流れ…
なんだか次に続いててすみません!!
オチが…。オチが〜〜〜〜。もう少し何とかならんかったのか?
上手くまとまらない。と言うよりも、これは仕方のない事なんだろうな。
この展開だから…(開き直り??)

このお話を書こうと思い立ったきっかけは、
拍手コメントで社員旅行に行ったり…と言うネタを振って頂いたからなのです。
その節はどうもありがとうございました。

そしてタイトルは適当です。
野薔薇と言うのは私が個人的に好きな言葉で、別にバラに詳しい訳ではなく…
ただ単に改良を重ねたものではなく、原種に近いバラの素朴な感じが好きだったから…です。
で、語呂合わせの様に「野薔薇の秘密」とつなげてはみたものの、
その時点では単に社員旅行と言う事しか決まっておらず、
本当に行き当たりばったりにここまで書いてきました。
その割に、ディーヴァとアンシェルの関係がいきなり明かされたりして
お話としては(自己基準)番外編と言うものでもなく、
ひとつのヤマを越えたかな〜と思っていたり。
なんと言ってもソロモンと小夜たんは気付いた(笑)
ハジはまだ知らないんだよ〜(可哀想…)
それはまた後々につながるので、置いといて…。

タイトルに秘密…と言う言葉を使ってしまったので、なんとか秘密に絡めようと必死でした(笑)
結局本当は何が秘密なんだか…(笑)

どうやら、ハジと小夜たんは…無事に結ばれた様ですよ…あはは。無責任〜。
それが秘密か。一番の…。
アンシェルとディーヴァが付き合っているのは、ハジとソロしか知らない秘密で〜。
野薔薇屋がアンシェルの思い出の宿だってこともずっと秘密でしたね…ディーヴァたんに。
あと、ソロモンはうさぎちゃんの正体に気付いた事も、小夜たんと面識がある事も
全部秘密(笑)

で、肝心の露天風呂のシーンを裏に持って行って、詳しく書こうかとも悩みましたが、
折角のタイトルなので今回は描写せず…。すみません!!(誰も望んでないから…)

よくよく考えると、「狼」で途中までは経験したとはいえ、
本当の初めてが、露天風呂って…おい…。

そこを書こうと思うと、多分そこだけですごく長くなっちゃうので…。
このまま敢えて書かず…ってのも良いかな…。

どなたか読みたい方…いらっしゃいますか??

ではでは、なんでこんなに後書き長いんだよ〜(言い訳じゃん!)

最後までどうもありがとうございました。
ひとまずこれでB+の聖地、沖縄へ旅立つ事が出来ます〜。