野薔薇の秘密3


「…小夜…さん?」
ふいに名前を呼ばれ、通り過ぎようとした小夜はビクンと大きく肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。

敷き詰められた四角い御影石の敷石に響く下駄の音が耳に心地よい。
この時間であっても露天風呂に向かう客の為、庭園の小道はかなり明るかった。

自分を呼び止めたのがソロモンであると知り…
「……………」
明らかに驚きを隠せない彼女の表情もまた良く見える。
余程警戒しているのか返事はなかったが、ソロモンは気にした風もなく続けて話しかけた。
「本当に偶然ですね…。また、こんな場所でお会いするなんて…。本当に僕達は赤い糸で結ばれているかも知れませんよ。名前…小夜さんというのでしょう?」
「…あの、私」
驚いた表情が徐々に困惑に変わる。
「…そんなに迷惑そうな顔をしないで下さい。幾ら僕でも、傷付きます…」
別にあなたを待ち伏せしていた訳ではないんですから…と、微笑んで見せる。
夜の闇の中でも明るい金色の髪、モデルの様に整った顔立ち、透明な緑の瞳。
自分の容姿の魅力を充分に意識した柔らかで甘い笑み。
女性なら誰しもがついうっとりと見惚れてしまいそうなソロモンの表情に晒されて、無防備な小夜もまたやや面食らった様に頬を染めて一歩後退さる。
女性宿泊客向けサービスの巾着袋を手首に提げて、胸に大きな包みを抱えた小夜の様子に、ソロモンは『ああ』と納得したように頷いた。
「今から、露天風呂ですか?」
「…そ…です…」
ソロモンの問いに、小夜は渋々と言った様子で答えた。
「……お一人で?」
「……友達が…酔って寝ちゃったので。……でも折角来たんだし…と思って…」
「…そうですか?…それは…お友達は残念な事でしたね…。楽しい旅行で少しハメを外してしまったのかな…。でも僕は素直に嬉しいですよ…偶然とはいえ…あなたにまた会えて」
「………………」
小夜の顔には、あからさまに『迷惑』と書かれてある。
それはそうだろう…いきなり通りすがりに呼び止められて『嬉しい』も何もあったものではない。
しかもソロモンは過去に一度言葉を交わした事があると言うだけの仲なのだ。
「……すみません。迷惑ですね……。警戒されるのは当然です」
ソロモンは『申し訳ありません…』と小さく謝罪を零し、先程の美しい微笑を浮かべた。
そう素直に出られてはつい無下にも出来ないまま…小夜は曖昧に言葉を重ねた。
「…警戒って…いうか…」
「無理もありませんよ。でもここでお会い出来たのは本当に偶然ですね。僕は…今日は社員旅行でこちらに…」
「…!…………社員旅行って…ゴールドスミス・ホールディングス……ですか?」
社員旅行の一言に、小夜はつい大きく反応してしまった。
ゴールドスミス・ホールディングス以外に、今夜は団体客が入っている様子はない。
では、この目の前に居る男はハジと同じ会社で働いていると言う事だ。
それも同じ部で…。
親しいかどうかは解からないけれど、きっと名前くらいはお互いに知り合っているだろう…。
何と言っても、ハジも…この目の前の男も、そうは見かけない程の二枚目なのだから、きっと社内でも目立たない筈はない。それならばきっとお互いに相手を知らないと言う事はあり得ないだろう…と尚更緊張を滲ませて…小夜はぎゅっと唇を噛んだ。
「…ゴールドスミス・ホールディングスに…お勤めなんですか?」
「…ご存知ですか?…ああ、確か、ロビーにでもそう書いてあったかな?…そう、僕はそこで働いています」
ソロモンは、しかし小夜の内心の動揺に気付く事はなかった。
「……え…と。あの、………名前…位は…知ってます…けど」
「………ああ」
ソロモンは笑って、『会社の話は良いじゃないですか…』と小さくごちた。
「……小夜さん、座りませんか?……」
「結構です」
きっぱりと断る小夜の態度を、ついつい笑わずにはいられない。
ソロモンはその小夜の頑なさに、どこか自分にはない強い何かを感じ、尚も食い下がった。
「あなたに大切な人がいる事は充分に承知していますよ。…その可愛らしい大切な指輪…お風呂で無くさない様に気をつけて下さいね…」
「……………じゃあ」
私、行きます…と言いかけたところで、ソロモンがそれを遮った。
「小夜さん…ひとつ、伺っても良いですか?」
「……………何ですか?」
仕方なく、小夜は答えた。
「…どうしてそう、一人の相手に…一途でいられるのですか?…何も、少しくらい隣に座って言葉を交わしたからと言って、それが浮気になる訳でもないでしょう?」
「い…一途?」
ソロモンの問いに、小夜は思わずきょとんと眼を丸くした。
どうしてこの人はこんな簡単な事を聞くのだろう…とでもいった風に…。
「それとも、そんなに僕は胡散臭く見えるのかな?」
「あの…酔ってるんですか?」
そうでなければ、初対面も等しい自分にこんな質問をする常識が解からない。
「…まさか!そんなに飲んではいませんよ…」
即座に否定する。
けれど、目の前に座る男の態度は小夜の目には明らかに酔っている様に見えた。
ソロモンの、ふざけて自分を卑下する様な口調に閉口しつつも、早く解放されたい一心で小夜は仕方なく頑なな態度をほんの少し弱め、ソロモンの目をまっすぐに見つめ返した。
 
そうだ…。この真っ直ぐな瞳に…僕は惹かれるのだ…と…。
ソロモンが小さく息を吐いた…。
 
「…どうしてそんな事を質問されるのか、私…解かりません。あなたが胡散臭いとかそういう事でも無くて…私…彼を好きな事に…特別な理由なんてありません…。他の誰でも無くて…ただ彼が彼だから…好き…それだけです。…一途とか何とかって…」
小夜には言っている意味が理解できない。
「それが一途って言うんじゃありませんか。僕は、あなたの彼がどんな男性か知りませんけど。…しかし理由もなく、人は誰かの事を愛せると言うんですか?」
「人の事は知りません…。ただ、私の気持ちをお話しただけです…」
「なるほど…?」
「やっぱり…酔ってるんですね?」
どうして自分はこうも酔っ払いに絡まれる運命にあるのか…小夜はそんな自分を呪いつつ、踵を返した。これ以上、付き合ってなどいられない。
早くこの場を立ち去りたくて、小夜は赤い鼻緒の下駄を鳴らした。
小さな…けれどしゃんと立つ真っ直ぐな背中にソロモンは更に続ける。
「あなたのような可愛くて一途な女性に、僕も愛されてみたい。……相手の男は…幸せ者ですね…」
「…彼がどう思ってくれてるかなんて…知りません。…ただ本当に、私が勝手に好きなだけです…」
「本当にそう?…彼に…見返りを求めた事はないのですか?……本当にその彼に愛されていると信じられるのですか?」
 
小夜は返す言葉を失い、耐える様にぎゅっと唇をかみしめた。
 
…そうだ。
本当に、ハジが自分の事をどう思ってくれているかなんて…解からない。
ハジは元々優しいから…だから何も言わないけれど…。
でもあの晩以来…本当は嫌われているかも知れないのだ…。
 
 
「…そんな意地悪な事、言わないで下さい…」
幾ら相手が酔っているとは言えほぼ初対面の相手に…どうしてそんな事を言われなければならないのだろうか。
 
「…すみません。…本当に……」
「いえ…。…あの…、あなたは…そんな風に誰かの事を好きになって…愛した事はないんですか?愛して欲しいって、人に強請ってばかりいるんですか?先に相手から愛してくれなくちゃ…最初から必ず愛される保証がなくちゃ…誰の事も好きにならないの?」


小夜の言葉は、いつしか自分自身にも向けられていた。
まさか、自分だってハジの事をこんなに愛してしまうなんて…思いも寄らなかった。
ただどうしても、ハジに惹かれてしまう自分の気持ちを押し留める事が出来なかっただけだ。その想いは幸いにもハジに受け入れてもらえたけれど…しかしもし仮に、ハジが他の誰かを愛していたとしても、自分のハジを愛する気持ちに代わりがある筈もない。
もしそうならきっと、苦しくて…苦しくて…堪らないだろうけれど…。
 
目の前に座るこのソロモンと言う男は、そんな風に無償で誰かの事を愛した事がないと言うのだろうか…。愛して欲しい…。
愛して欲しい…。
彼のその気持ちに嘘はないのかもしれないけれど、ただ欲しがるばかりで誰の事も愛した事のない様な人間が本当に誰かからそんな風に愛して貰えるのだろうか…?
けれど、小夜はそんな彼の気持ちを完全に否定する事も出来ないまま、ずきんと自分の心が痛むのを感じた。
 
「…愛…する?」
「……ううん。良いの…。忘れて下さい…。…生意気な事を言って、ごめんなさい…」
小夜は、足早にその場を立ち去った。
柔らかな照明に照らされた小道を掛けてゆく下駄の音が次第に小さくなる。
ソロモンは、ただじっと彼女の去った小道を見詰めていた。
 
 
 
□□□
 
 
 
「…ディーヴァ」
俯いたその小さな肩が震えていた。振り解いた手首を、彼女は反対の手でギュッと握りしめている。
「…すみません」
別に彼女に対して意地悪をしようと思った訳ではない。
けれど、結果的には自分の行動は彼女を傷付けるばかりで…今はただ…謝罪の言葉しか浮かんでは来なかった。
「……………」
「すみません。しかし…私は…あなたの事を…」
「…解かってるわよっ!…古い話を持ち出すのは止めて…。私は…」
自分から『あの時…』と話を振った癖に、ディーヴァはやや混乱した様な様子で、もう一度繰り返した。
「私はあなたのそういうところが嫌いなのよ。何でも解かった様なふりをして、冷静な態度を崩さない…。あなたみたいに、女の気持ちが解からない男なんてこっちから願い下げよ…」
ぎゅっと唇を噛む。
『女の気持が解からない』とまで言われ…少なからず傷付いた気持ちで……、しかしハジはこれ以上こうして彼女と話しても無駄だと悟った。
彼女自身が変わらなくては、彼女を取り巻く環境は決して変わらない。
「いい加減にして下さい。…ディーヴァ…」
 
 
決してディーヴァの事が嫌いな訳ではなかった。
けれど…唐突に『私と付き合って…』と、言われた時…それは何かが違っているように思えた。
だから、即座に『それは出来ません…』と断った。
ディーヴァは入社したてで、ハジの事など何も知らないと言うのに…。
当時からハジは、望むと望まないに関わらず、その容姿のお陰で社内でも目立った存在だった。
ディーヴァはただ自分の隣に並んでも申し分がない程度に見目が良く将来は出世しそうで、つまり単純に自分にとって都合のよい男が必要なだけの様に感じられたのだ。
しかし、交際を断られた事で彼女のプライドは大きく傷付けられたのか…それ以来、事あるごとに着き纏われ…絡まれてきた。
事情はどうあれ、自分にも原因はある。
それを一言『迷惑』と片付けてしまっては大人気ないと、これまで敢えて何も言い返さなかったけれど…。
 
それは、もう何年も昔の話だ。
 
そして今でも…ディーヴァは、本当に好きな男に対する当てつけの様に、様々な男と火遊びを繰り返す。
本当はその気もないくせに、『彼女にとって男はステイタスである』というスタイルを崩そうとはせず、ハジには今でもまだ気のあるそぶりを周りにちらつかせる。
あたかもハジが本命の様に振る舞う。
しかし、ハジには自分が…ディーヴァの本命に対してあて馬としての効果があるとは、到底思えなかった。
ただ一番身近な存在であり、幾ら誘っても本気にしない男だから、彼女は安心していられるのだ。


しかし自分が小夜に出会った今…ハジにははっきりと解かった。

誰かを愛すると言うのは理屈でも体面でもなく、ましてや自分自身の都合のよい様にコントロール出来る感情ではない。
小夜を思う時、どうしようもなく心と体の奥底から溢れ出してくるこの温かく柔らかな何か…それは駄目だと自らを禁じても、到底押し留められるものではなかった。
 
当時のディーヴァの本心は誰も知らない。
もしかしたら、本当にハジの事を好いていたのかもしれない。
けれどどちらにしても、それはもう取り戻せない程遠い過去の話だ。
 
第一…本当に人を愛すると言う事の意味を…気持ちを…もう、ディーヴァ自身も知っているだろうに…。
「……あなたがどうしても自分から動く事が出来ないと仰るのなら、……私には少しだけその背中を押して差し上げる事が出来ますよ」
もういい加減勘忍なさい…と悪戯な子供を叱る様にハジはそう言って、再びディーヴァの腕を取った。
「…っちょ、ちょっと待って。……どこへ連れて行こうと言うの?止めて…」
ハジはディーヴァの腕を引いたまま離さなかった。
ずんずんと廊下を進む。
そうして、長い渡り廊下の端へ赴くと、ガラスの戸を開け、いつでも庭先へ出られるように用意された下駄を履く。
 
屋外のむせかえる様な緑の香り。
夜の濃密な空気が震えた。
 
「…どこへ…行くの?」
ディーヴァの声は、先程よりもずっと小さく不安げに震えていた。
「………特別室へ。…まだ行った事はないでのでしょう?…いつも強気なあなたらしくない…今にも泣きそうな顔をして…。泣くのなら、私の前でなく…本当に好きな男性の前にして下さい…」
これ以上あて馬にされるのは御免です…と。
「…やっ」
嫌がる女性に無理を強いるのは本意ではないが、ハジは強引にディーヴァの体を抱き上げると傍に置かれた縁台に座らせ…その前に跪くと…彼女の白い足に下駄を履かせた。
お節介だと知りながらもハジは宥める様に…ディーヴァを見上げ、穏やかに微笑んで見せた。
「うちの社長は、多少我儘ではありますが…そんなに器に小さい男ではありませんよ…」
私よりずっと、あなたの方がよく御存知でしょう?と…。
「…何を言ってるのよ。そんな事…知る訳ないじゃない…」
「…まあ、私はどっちでも良いですけど」
 
 
どこからともなく虫の音が聞こえる。
りぃりぃりぃ…と微かに鳴くそれが、辺りの静寂を物語っている。
 
 
その特別室は、本館から最も遠い庭園の片隅にひっそりと建っている。
そこだけは、まるで野薔薇屋が創業した当時の面影を留める様に、野趣溢れる草木が自然の風景を作っている。暗い闇の中に浮かび上がる様に咲く小さな白い花は、この旅館が野薔薇屋と呼ばれる所以ともなった野生の薔薇だ。
花屋に並ぶ大輪の薔薇とは違うほのかで控えめな芳香がしっとりと辺りに立ち込めていた。
 
 
まるで一軒家の様に構えた和風の玄関。
ハジは、隙があれば逃げ出そうとするディーヴァの腕を掴んだまま、その玄関先に取り付けられたインターホンを鳴らした。
しばらく、返事はない。
根気良く待つと、室内から微かな気配が伝わった。
ハジはインターホンに向かって…
「…お休みのところ申し訳ありません。…ハジです…」
と、名乗った。
そうして、ディーヴァを自分の前に立たせる。
やがて、ゆっくりと玄関の引き戸が開いた。
現れた浴衣姿の壮年の男は、目の前に気不味そうに立つディーヴァの姿に少なからず驚いた様子だったが、説明を聞くまでもなく、事情を察したように…その背後に立つハジに向かい…
「…ご苦労だったな。あとはもう良い…お前は戻れ」
と、告げ…
目の前に立つディーヴァに向かって…
「…ディーヴァ、お前は。…宴会を抜け出して…またハジに迷惑を掛けたのか。…仕方のない事だ…」
と、静かで柔らかな笑みを浮かべた。
「…失礼致します」
ハジは言葉に従い、一礼すると背中を向け…元来た道を戻った。
やがて、背後でがらりと戸の閉まる音がして…ハジはほっと胸を撫で下ろした。
 
ふわりと野薔薇が香る。
控えめで優しい…その甘い香りに、ハジはふと小夜の明るい…そして優しい笑顔を思い出すのだった。
 
 
 
□□□
 
 
 
「……………どうしよう」
不安な気持ちを紛らわす様に小夜はぽつんと零した。
似たような曲がり角を何度か曲がり、小夜は途方に暮れていた。
先程の男とのやりとりで、本当に自分がハジに愛されているのか……見返りは求めていないと虚勢を張ったものの……小夜はすっかり自信を失っていた。
そうして逃げる様にソロモンの前を立ち去り、夢中で歩く内に広い庭園の小道で迷ってしまったのだ。
露天風呂へ行く為に持参した、簡単な案内地図も、どこかで落としてしまったらしい。
ちらちらと明かりの見える方へ行けば、多分部屋へ戻る事は出来るだろう…。
しかし折角露天風呂へ行こうと思っていたのに…これでは時間ばかりが過ぎてゆく。
日頃それほど意識した事はないけれど、自分がここまで方向音痴だったとは…。地図がないのでは仕方ない、案内板も出ている筈だというのに、深く考え込むうちに見過ごしてきたらしい。
せめて昼間なら、もっと意欲的に歩き回る事も出来るのに、流石にライトアップされているとはいえ…道に迷ってしまうと夜の闇は少し怖く感じられた。



『本当にそう?…彼に見返りを求めた事はないのですか?……本当にその彼に愛されていると信じられるのですか?』
 
 
男の何気なくぶつけたひと言が今も小夜の鼓膜に張り付いていた。
 
見返り…?
そんな事を意識するより先に、自分はもうハジの事を引き返せない位に愛してはいなかったか?
愛されたいと願うより先に、自分はハジを好きになっていて…もうどうしようもないほど…だった。
 
見返りは求めていなかった…。
ただ彼に自分の気持ちと助けて貰ったお礼を伝えなくては…そう思っていた。
 
それでもこうしてハジに自分の気持ちを受け止めてもらえた事はこの上もなく嬉しくて、ふわふわと夢を見ている様な毎日で…。
 
自分勝手なもので、いつしか優しくされる事が当たり前になっていて…。
 
彼の傍にいたくて…
一緒に話して…
ハジに笑って欲しくて…
手を繋いだり…
キスをしたり…
 
…………優しく、抱き締めて欲しくなって…
 
………そう言うのも、見返り?
 
……………………なの?
 
 
小夜は一人で、ぶんぶんと首を振った。
例えハジが自分の事をどう思っていても、自分が彼を好きだと言う気持ちに変わりはないのだ……。
 
けれど、もしかしたら…自分がそう思っているだけで、ハジは自分が思うほどに自分の事など思ってくれてはいないのかも知れない。
彼はいつも冷静で、静かで、穏やかで…自分の様に取り乱す事もない。
彼の生活の中心にはお仕事があって…。
自分の頭の中がハジの事で大半を占めていても、彼にとって自分は…仕事や日常の出来事のうちの一つでしかないのかもしれない。
大体、自分の方が百万倍は彼に夢中なのだ…。
 
それなのに………。
あの夜以来、ハジは一度も小夜をベッドに誘う事はなかった。
抱き締められてキスを交わしても、ハジは…抱きたいと思う程は…もう自分の事なんか好きでいてくれないのかも知れない。
 
どうして、あの時…自分は最後まで意識を保つ事が出来なかったのか…。
あんな事はもう二度とないかもしれないのに…。せめて最後まで、ハジの事を覚えていたいのに…
 
そんな事をぐるぐると考え出すと小夜はもうキリがなくて…つい露天風呂の事も忘れ、くすん…と鼻の奥が湿り気を帯びてくる。
乾杯で飲んだグラス半分のビールが今頃効いて来たのだろうか…。
じんわりと両眼に涙が溢れて来るのを、もはや止めようもなく…ポロリと頬に零れた涙を浴衣の袂でそっと押さえても、涙は次々と溢れて止まる事はなかった。
 
 
『本当にそう?…彼に見返りを求めた事はないのですか?……本当にその彼に愛されていると信じられるのですか?』
 
 
あんな風に言われるまで、あの晩の事はともかく…彼の優しい気持ちを疑う事なんてなかったのに…。
いや、あんな風に言われた位で…こんなにも自分に自信が持てなくなってしまうなんて…。
 
小夜はぽろぽろと零れる涙を、次々と袂で拭った。
 
会いたい…。
 
無理だと解かっていても…。
今すぐにハジに会いたい。
会って、自分の気持ちをきちんと伝えて…ハジの気持ちを確かめたい…このどうしようもない不安の気持ちを何とかしたいのだ。
 
「…ハジ」
 
たった一晩離れて過ごすだけだと言うのに………。ハジが傍に居てくれないと言うだけで、自分に自信が持てなくて…こんなにも心細くなってしまうなんて…。
 
 
 
 
その時。
 
 
 
 
「…小夜?」


穏やかなテノールが、優しく小夜の名前を呼んだ。
一瞬、空耳かと自分を疑って体を固くした小夜は、信じられない気持で後ろを振り返った。
 
……………………。
 
「…やっぱり。…小夜…こんな暗い所に一人で…」
どうしたのですか?
…と、小夜が今一番会いたいと願っていた男は、優しく微笑むと、軽い足取りで小夜の目の前に立った。
 
時折吹く微かな風に、彼の髪が揺れた。
 
「………あ、…えと…」
 
何も言葉に出来ず、小夜はただ目の前に立つ男の姿に呆然と見惚れていた。
 
いつもより緩く束ねた黒髪が漆黒の夜の闇と溶け合っている。それと比例する様に際立つ肌理の細かな白い肌、形の良いほっそりとした輪郭がくっきりと浮かび上がり、力のある青い瞳の色は変わらない。
見慣れない浴衣姿の男の、僅かに開いた胸元、広い肩幅………。
大きな掌が『どうかしましたか?』と、いつもの様に小夜を労わって差し出された。
袂から覗く手首からすんなりと長く力強い腕のライン、普段から見慣れている筈のその大きな手の甲の関節の一つ一つさえが…浴衣を着ていると言うだけでいつもとはまるで違って見える。



こんなにも…ハジの事が愛しくてたまらない。
会いたいと思っていた、今すぐに会いたいと…。
そんな男が突然に目の前に現れて、つい我を無くしてしまいそうな小夜は、なんとか、気を取り直すと愛する男の名前を呼んだ。
「…ハジ…。…ど、して…?……ここに?」
跳ねる様にハジに駆け寄る。
ハジは目の前の存在をまるで幽霊を見る様な気持で見詰める小夜の驚きを理解しながらも、その頬に涙の跡を見つけると、そっと背を屈めて覗き込んだ。
「…驚かせてしまってすみません。実はあの後急に予定が変わってしまい、私も遅れてこちらに来たのですよ。一応、携帯にメールを入れておいたのですが…まだご覧になっていなかったのですね?」
「………ごめんなさい…。携帯…バッグの中に入れたまま…」
「そうだろうと思いました……」
ハジはそう言って、親指の腹でそっと小夜の目尻を拭ってやった。
「…こんな所で一人…何を泣いていたのです?……もう大丈夫ですから、泣かないで…」
「…ハジ」
「…どちらにしろ、お知らせしたところで……。…会えるとは思っていませんでしたから…」
「……ハジ」
差し出された腕に、小夜はぎゅうとしがみ付いた。
「……どうしたのです?」
「会いたかったの!………今すぐ…会いたくて…こうして抱き締めて欲しかったの…」
先程までの想いがいつもよりずっと小夜を大胆にしていた。
「………どうかしたのですか?小夜…」
訝しみながらも、ハジは小夜の体重を受け止めた。
その体を胸に抱き止めて、小夜の望み通りにすっぽりと強く抱き締めてくれる。
「……だって」
しかし先程の男とのやりとりをうまく説明する事は出来ず、言い淀みながら…小夜は自分を抱きしめてくれる男を見上げた。
心細かった。
露天風呂に辿り着けないまま道に迷った事も、男の言葉に自分に自信が持てなくなって、事もあろうかハジの気持ちを疑ったりした事も…こうしていると全てがゆっくりと氷の様に溶けていくのが解かる。
「…どうしてハジは、…いつも私が一番心細い時に助けてくれるの?」
初めて会った夜のクラブでも…。
あの火事の現場でも…。
小夜が一番困っている時に、彼は現れるのだ。
そして…今も…。
「……………そうなのですか?…何故と訊かれても…返答に困りますが…」
相変わらずの優しい笑顔を小夜に向けて、ハジはなお一層腕の力を強めた。
貴女の役に立てているのなら、良かった…と。
ハジとの身長差は頭一つ分は優にある…小夜は今でもつま先立ちしているのに、強く抱きしめられると足が地上から浮いてしまいそうで…しかし思い切って全身の体重を預けてもハジの体はびくともしなかった。次の瞬間、ふわりと体が浮く…しがみ付く華奢な体を…まるでどこかの姫君に対するように…ハジは難なくその腕に抱き上げたのだ。
「……会いたかったのは、私も同じですよ。…たった一晩の事だと言うのに…。今朝、車で貴女がキスをくれて…どれほど引き止めたい衝動に駆られたか…なんて、貴女は知らないでしょう?」
「…ハジ」
小さくその名前を呟くと、ハジの唇が続く言葉の全てを奪った。
「……ん。……ん…ぁ」
甘い吐息が零れる。
 
…だめ…誰かに…見られちゃう…
 
しかし、会いたかったと言う言葉通り、ハジはなかなか小夜を開放する事はなかった。
優しく舌先で口内を辿られると、たまらず小夜はその背中に爪を立てる。
口付けが息苦しさを増す頃、漸く唇が離れてゆく。
そうして、そっとその腕から下ろされる。
腕の中から解放されると、ハジはそっと手を添えて小夜の危うい足元を支えた。
「…………浴衣姿も…可愛らしいですね…」
まじまじと小夜の全身を視界に収めると、ハジがぽつりと告げる。
「…あ、その…選べる浴衣なの…。ありがとう…ハジも……素敵…」
たった今まで、ほんの数十秒前まで、その浴衣の胸に抱き締上げられていたのだと思うと、小夜の頬も自然と赤らんでいた。
話を逸らす様に、小夜は視線を逸らすと言葉を続けずにはいられない。
「………あのね、露天風呂に行こうと思って…」
「一人で?」
「……香里も他の二人も…寝ちゃったの。…でも折角来たんだもん」
どうしても入りたかったの…。
そう言って唇を尖らせた小夜は、夜の露天風呂なんて入った事がないから…とはにかんで笑った。
「…それで?」
「…うん、それで…。…途中で道に迷っちゃったの…。ハジが言ってた通り凄く素敵な旅館だね、ご飯も美味しかったよ…。……でもお庭が広過ぎ!」
それで泣いていたのですか…と、漸くハジも納得したように頷いた。
しかし本当はそれだけではないのだけれど…。
勿論小夜が望んでの事ではないにしろ…ハジと同じ会社の人…ソロモンと面識が出来、あんな話をした事は言える筈もなく…小夜は曖昧に笑って誤魔化した。
「それはすみません。私の方から、もう少し露天風呂までの案内を解かりやすく表示させるように伝えておきます。………露天風呂、まだなのでしたら…私がご案内しますよ」
そっと差し出された片手。
「………うん、ありがとう」
小夜がその手を取ろうと指を伸ばすと、ハジの長い指が小夜の細い指先を絡め取る。
「……………ハジ。…誰かに…見られちゃったら…」
「…私は別に、構いませんが、小夜は…困りますか?」
穏やかな瞳で、小夜を振り返り…まるで当然とばかりに…ギュッと絡め合った指先を再び強く握り返される。
先程までの不安な気持ちが嘘のようだった。
いや、本当の事を言えば…まだ不安が残っていない訳ではなかったけれど、先程は一人でとぼとぼと歩いた夜の小道を、小夜はハジに手を引かれて歩いていた。
風に揺れる梢の音と、虫の音。…それから、二人の歩く下駄の音が同じテンポでカラコロと響く。
ハジは時折小夜を顧みて、『足元に気をつけて下さい』と気遣った。
ハジは優しい。
…とても…。
だから…。
小夜はずっと心に引っかかっているあの晩の事を、どうしても問い質す事が出来ないまま、彼の優しさに甘えて今夜まできた事を深く反省していた。
きちんと自分の気持ちを伝えよう…。
ハジの手を握りしめながら、小夜はその想いを強くしていた。

                                             ≪続≫


20091007
一旦、ここで更新〜。
どこで切ろうか悩みましたけど…。

漸く、ハジと小夜たんが会えたのは良いけれど、なんじゃこりゃ〜なバカップルでした(まあそれはいつもなのですが)
書いてて恥かしいです。
折角色々と積み上げて(ってほどでもないけど)頑張ってハジ小夜以外のシーンを延々と書き続けてきたのに、
この二人が出会っただけで、今までの苦労はなんだったの?別になんだって良かったんじゃ?と疑いたくなる程の
バカップルぶり。
いえ、でも本望ですよ。

ディーヴァたんとアンシェルについて…もう少し次回で踏み込めたら良いなあ〜と思います。
いっそこの二人でSS書いても良さそうだ…。
私、親父好きなので、アンシェル書くの案外好きなのです…。

そして次。次で終われたら良いなあ〜。
もう我慢してきた分、次回甘い展開になりそうです。
そうそう、野薔薇屋の秘密も次回で明らかに…かな?
そんな大した秘密ではないですが…。

ではでは、ここまで読んで下さってどうもありがとうございました!!
では、また次回〜!!