野薔薇の秘密2


十畳と十二畳の二間続きの和室に踏込とバストイレと言う間取りは、社員旅行には些か勿体ない。
しかもこの広さに六人と言うゆとり。
勿論どこの部屋もこれ程広い訳ではない。
十畳の方は幹事の控室として、今や宴会で行うゲームの景品や帰りのバスで配る菓子類などの雑多な荷物置き場と化していた。幹事は大抵入社二年目の有志数名で構成されている。
勿論、同じ人事総務部に籍を置くとはいえ社長付を務めるソロモンとハジに今更そんな役目が回ってくる筈もなかった。
 
二人の勤める社長付と言う役職は、この大企業の中で少々特殊な扱いで…一応所属は人事総務部と言う事になってはいるが、日頃は全くの別行動で直接社長の指示に従って動いている。
待遇も部長クラスであり、社内ではそれなりの権限も与えられていた。
 
懸命に宴会の段取りについて打ち合わせを繰り広げる後輩達を面白そうに眺めながら、ソロモンは手持無沙汰に冷蔵庫からビールを取り出した。
とても宴会前に入浴を済ませる事など出来そうもない彼らを尻目に、ソロモンは既に一風呂浴びて浴衣に着替えている。濡れた金髪もそのままに普段は掛けない眼鏡姿だ。
年齢こそそれほど違わないが…そんな恐れ多い先輩にこうも好奇の視線で観察されては打ち合わせも進まないだろう…。
しかしそれを解かっていて、後輩を気遣って席を外す様な彼ではない。
そもそも、人事総務部では変わり種の社長付である。
ハジさえ参加してくれたのなら、もう一部屋あてがって二人で一部屋と言う強引な部屋割りも出来たかも知れないのに、流石に彼一人に一部屋を割く事も出来ず、この幹事部屋に割り振られたのだ。
どうせ幹事達は忙しくて部屋で寛ぐ暇など無く、ともすれば夜この部屋で眠る事も叶わないかも知れない。
経験上そんな事情も良く解かっていて、ソロモンはこの部屋割りを快く承諾したのだ。『うるさくしてすみません…』と恐縮する後輩に、ソロモンは缶ビールを唇に運びながらひらひらと手を振った。
「いやいや、構いませんよ。どうぞ続けて下さい…」
どう見ても、彼らのテンパった様子を酒の肴に楽しんでいるのだ。
その時、キンコーンと部屋のインターホンが鳴った。
「ああ、良いよ。…僕が出る」
部屋の時計を見ると、そろそろ午後五時を回る頃だ。
案外に早かったな…と、ソロモンは座布団から腰を浮かせた。
 
 
ソロモンがドアを開けると、温泉宿にはどこか不釣り合いなスーツ姿の男がやや不機嫌そうに立っている。
「やあ、いらっしゃい…。お疲れ様…ハジ…」
既に酔いが回っている訳でもないのに、ご機嫌な様子でソロモンがハジを中に招き入れた。
「ありがとうございます…」
手荷物はいつものアタッシュケース一つだけだ。
「案外早かったね…。それで…今回は何がきっかけで、突然社員旅行に合流する事になった訳?」
ハジは踏込で無造作に皮靴を脱ぐとひとまずはそれを下駄箱にしまいソロモンの後について和室に踏み入った。
「…知りませんよ。突然『午後からの予定をキャンセルしろ』と仰いまして…。手配するこっちの身にもなって欲しいものです…」
ハジはスーツのジャケットを脱ぎ幾分荒々しくネクタイを緩めた。
「それから後始末も。…まぁ、社長は僕ら下々の苦労なんか知った事ではありませんからね…」
「ここまで急だと仕方がないので、社長は急病と言う事にしてありますから…」
「そんな見え透いた仮病が通じる筈ないでしょう…、滅茶苦茶です…」
呆れかえりながらも、同僚の到着を労う様に座布団を勧める。
ハジは勧められるままに座卓の前に腰を下ろした。
そんな二人のやり取りに、開け放した続きの十畳で打ち合わせをする後輩達が、尚更恐縮するように静まり返っている。
ハジは突然の参加で迷惑をかけた事を彼らに丁寧に謝罪し、今座ったばかりだと言うのに再び腰を上げ、部屋の隅の押し入れから一組の浴衣と帯を取ると、ソロモンを誘った。

「一緒に風呂に行きませんか?…宴会にはまだそれ位の時間はあるのでしょう?」
「僕はもう先に頂きましたよ…」
「それは見たら解かりますが……暇そうですから、付き合って下さい…。私達がここにいて打ち合わせの邪魔をしては申し訳ありません。彼も連れて行きますよ。…それから…社長はこちらには顔を出しませんから特別な気遣いは無用です。」
そう言って、後輩達に気を遣う姿に、ソロモンは『やれやれ』と重い腰を上げた。
「…君達も打ち合わせなんか程々で良いですよ、どうせ乾杯が済めば無礼講のドンチャン騒ぎでしょうし、誰も司会の言う事なんか聞いていませんよ。…困ったら僕達が一曲歌ってあげます…」
「…勝手な事を言わないで下さい。ソロモン…」
そう言いながらハジは部屋の隅でスーツを脱ぎハンガーに掛けると、背中を向けて手早く浴衣に着替えた。
 
 
 
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突然の事に手ぶらで訪れたハジは売店で下着の替えだけを求めると、ソロモンと共に男湯の暖簾を潜った。
大浴場はチェックイン後一時のピークを過ぎたのか…、予想以上に空いていた。
広い脱衣場に人の姿はなく、使用中の籠もぽつぽつとしか見当たらない。
あてもなく涼しい風を送る扇風機がむなしく首を振り、脱衣所と浴室を隔てる曇ったガラス戸の向こうからも話し声は聞こえない。
一緒に風呂に行こうと言ったものの、しかし女性同士の様に和気あいあいとはいかず、口数も少ないまま、二人はそれぞれに浴衣を脱ぎ捨てると浴室へ入った。
広い浴室内にも人影はまばらだった。
二度目の入浴であるソロモンが簡単に体を流して湯に浸かるのをよそに、ハジは丁寧に体を石鹸で洗い流し、顔と長い髪を洗ってから浴槽に向かった。
仕事の上では同じ役職であり、毎日の様に顔を合わせる二人ではあったがこうして並んで温泉に入る事などまずない。あれはいつだったか…やはり入社二年目の社員旅行で共に幹事を務めて以来かも知れなかった。
野薔薇屋ではなかったが当時もやはり温泉に宿泊し、やれ宴会の司会だ、ビールが足りない、何が足りないと、互いに座る暇もなく…折角温泉に来たというのに昼間の汗を流す暇もなく、結局深夜近くになって浴場で鉢合わせしたのだ。
 
肌触りの良い柔らかな湯が肌の上を滑る。
ゴポゴポと音を立てて流れ出す湯の音と、時折響く桶の音。
大きくとられた窓から見える景色は既に闇に沈んでいた。
流石に二度目ではそう長湯出来そうにもないとソロモンが上がろうとすると、ハジは思い出したようにソロモンに話しかけた。
「そう言えば…社長に余計な事を言いましたね?」
上がるタイミングを失い、ソロモンは再び浴槽の縁に背中を預けた。
「何の事ですか?僕は忠実な部下ですから聞かれた事にはきちんと答えますが、自分から何でもべらべらと話したりはしませんよ…」
そう言いながら何気なく隣の同僚に視線を投げると、女性のものと一瞬錯覚を起こしそうな白い肌が湯気に霞んでぼんやりと視界に映る。
生粋の白人であるソロモンも、勿論人の事は言えず肌の色は白いものの…肌理の細かさはハジ程ではない…やはりその四分の一の日本人の血が影響しているのだろうか…と意味のない推測をする。
決して細くはない首筋が、しかしやけにすっきり見えるのは多分全体のバランスなのだろうけれど…。
湯に浸からない様に結わえたられた黒髪の束から、一筋逃れた洗いたてのそれが白い首筋にぴたりと張り付く様が悪戯に艶めかしいから困りものだ。
余程美人の自覚がなければ、彼の隣に並ぶ女性は居た堪れない気持ちになりはしないだろうか…。化粧を落とさない夜の内ならばまだしも、朝…目が覚めて隣に素顔の自分よりはるかに美しい男が眠っていたら、女性は興ざめしないだろうか…。
まあ、所詮自分とは関係のない事だ…。
その思考とは別にソロモンの口から出たのは当たり障りのない一言だった。
「それが何か?」
「…一緒に暮らしていると社長に話したのでしょう?」
ハジは、あからさまに迷惑だという口調ではなかった。
そこに、彼の本気が見え隠れしている様な気がした。
「真面目な付き合いなら…人に知られて困る訳ではないでしょう?」
「…全く。それは……嫌味ですか?」
ソロモンは話を逸らす様に『あはは…』と笑い、大きく両腕を上げて湯に浸かったまま背伸びをするとぽつりと零した。
「僕も…あなたの様に本気の恋がしたい…」
切れ長の目が意外とばかりにちらりとソロモンに向けられる。
「………らしくないですね。あなたの隣が空席だった事など無いではありませんか?」
「……………いないよりはマシって程度ですよ」
「…酷いな」
「実際そんなものでしょう…?下心の見え透いた女性を本気で愛せますか?」
「…それは…あなたもお互い様ではないのですか?」
「…ちょっと待って下さい。それじゃ…僕に下心があるって?」
「……違いますか?」
偶然を装う様に、ソロモンの指がぱしゃんと湯をはねた。
顔にかかるそれを避けて、ハジが視線を逸らす。
二人の間に、再び沈黙が訪れた。
そしてそれを、不意に破ったのはソロモンだった。
「そう言えばね。とても可愛い女の子を見付けたんです」
「…そうですか」
「今まで僕の周りにはいなかったタイプで…少し幼い印象ですが…」
「…あなたの好みは女優の様な大人の女性ではありませんでしたか?」
「……守備範囲はこう見えても広いんですよ。ただ、残念な事に彼女には付き合っている男性がいる様で…、からかうととても真剣に…ムキになる様がとても健気でいじらしい」
「………いくら守備範囲が広くても、付き合っている相手のいる女性に手を出すのは褒められた行為ではありませんよ…」
「……まだ、手は出していませんよ。少しからかってみただけです。……ただあんな可愛らしくて健気な女性に愛される男は…幸せ者だな…と思ったんです」
「…そうですね」
「あなたには、うさぎちゃんがいるじゃないですか」
「…ですから、別に羨ましい訳ではないです…」
「…訊いた僕が間違いでした…」
『ごちそうさまです…』と言い残して、ソロモンは湯から上がった。
思わず長湯をしてしまったせいで、少し足元がふらつく…。
自分だって別に本当に羨ましい訳ではない。
勿論、ハジの事も…。
ただ、自分にないものはやけに眩しく感じられるというのが、人の世の常と言うものなのだ。
 
 
 
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真っ直ぐに伸びる廊下の突き当たりが、今晩の宴会場だ。
乾杯の時間が目前に迫り既に大半の者が顔を揃えているのか…襖の向こうからは賑やかな歓談の声漏れてくる。
会社勤めをしていれば、それなりに付き合いで酒の席をこなす必要もあり…別段宴会が嫌いと言う訳ではないのだが、気の合った者同士で飲む場合とは異なり…これだけの大所帯の宴となると話は別だ。
皆、自分の席に座っているのは最初だけで、すぐにここは無法地帯になる。
何と言っても今夜は自宅へ帰る必要がない。
どれだけ飲んでも眠たくなれば部屋に戻って寝るだけなのだから、ハメを外す者も多いだろう。
なるべくなら末席でひっそりと時間をやり過ごしたいところなのだが、しかしこうして途中参加となれば尚更、主だった上司の元にはビール瓶を手に挨拶に回らなければならないだろう。
流石に役職上は同等の立場とは言え、ハジもソロモンも年齢的には他に例を見ない若輩なのだ。
ほんの少し気が重く感じるのは否めなかった。
重い気を紛らわす様に、ふっと小夜の事が頭を過る。
一応隙を見て、彼女の携帯に自分もまた野薔薇屋に向かう事になったとメールを入れておいたが、返事はない。
こんな時だからきっと携帯は鞄にしまったまま気付かないのだろう。
今頃はきっと小夜も、この宿のどこかで友人達と夕食を囲んで楽しい時間を過ごしている筈だった。
雑然と散らばったスリッパの端に、自分達もまたきちんとスリッパを脱いで揃えるとハジとソロモンは静かに襖を開けたのだった。
「あなたが来ている事はまだ一部の人しか知りませんから…きっと女の子達はパニックですね…」
乾きかけた金色の前髪の下から、シルバーの細いフレームを指先で上げると、ふざけた様にソロモンが笑った。
そんな事があるか…と言いかけたところで、しかしソロモンのその言葉は冗談ではない事をうっすらと感じる。
なるべく目立たない様にと気を配ったつもりでも、自然に人目を引いてしまう二人である。
ソロモンに加え、その隣には不参加と聞かされていた…実際に昼間は居なかった…ハジが並んでいる姿に女性社員の目は一斉に釘付けとなり色めき立つ。
あちこちで密かなどよめきが起こった。
しかも普段のスーツ姿からは想像もつかない旅館の浴衣姿とあっては、彼女達が騒ぐのも無理のない話だ。肩に下ろした湯上りの髪はまだ湿り気を帯び、白い肌を余計に際立たせている。
いくらきちんと着付けてはいても浴衣の襟元は緩く…いつもネクタイに固く守られている喉から鎖骨のラインを露わにしていた。
どこからともなく熱のこもった視線を感じ、ハジは羽織った宿の半纏の前を合わせ直すときつく腕を組んだ。
二人がどこに座るべきかしばし惑っていると、すかさず周りから声がかかる。
招かれるままに、二人は並んで座布団の上に腰を下ろした。
ここぞとばかりに、差し出されたグラスに乾杯用のビールが注がれる。
ハジは恐縮しながら丁寧にそれを受けた。
せめて部長の元には先に挨拶を済まさなければ…ハジがそう視線を巡らせる内に、司会が宴の始まりを告げ…仕方なく再び座布団の上に腰を下ろすと、探していた張本人が壇上でマイクを取る姿が目に入る。
こんな時ばかりは、長い挨拶は無用とばかりに簡単に社員の労を労うと、程なく乾杯の音頭が上がった。
 
 
 
「お酌させて下さい…」
「ちょっと…待って。今度は私…」
先を争う様に、二人の元には女子社員が代わる代わるビール瓶を手に訪れて、グラスが空になる隙もない。
日頃話しかける機会など無いだけに、彼女達はここぞとばかりに何とか彼らの隣の席を奪おうとしていた。
周囲の騒がしさに辟易して、『小夜は今頃どうしているだろう…』と、またついそんな事を考えてしまう。
しかしそう思う間にも、ハジのグラスは再びビールで満たされていた。
言葉少なに、しかし丁寧に礼を述べてグラスに唇をつける。
愛想がないと言えばそれまでだが、女子社員の目にはそれがまた魅力となって映るらしい。
早々に切り上げて欲しくて尚更硬い表情を崩す事のないハジに対しても、アルコールが入っているせいか一向に構う様子はなかった。
この程度で酔うと言うような事はないが、流石にキリがない。
助けを求めようとソロモンを見やると、彼は上機嫌で数人の女性陣に囲まれて談笑の花を咲かせている。
元々ハジに比べれば社交的な性格の彼の事だからこの様な席はお手の物なのだろうが、先程までは『本気の恋がしたい』だなどと零し、今まで付き合ってきた女性達に対しても『居ないよりはマシ』と吐き捨てていたのが嘘の様だ。愛想笑いも板に着いたもので、ハジ以外の誰一人もその本心を疑う者などいない。
その時、彼らを囲む女子の一人が思い切った様にハジに話題を振った。
「ねえ、ハジさん。新しい彼女が出来たって…本当なんですか?」
「ええ〜駄目よ。ハジさんは誰か一人のものになっちゃ嫌〜」
「だって、今度の彼女には本気だって誰かが…」
普段ならば考えられない程、皆口が軽くなっているのが解かる。
仕事中、いつもなら遠巻きに見ているだけの彼女達が、口々に勝手な事を言い始めた。
「……その様な話は…こういう席で話す話題では…」
ないのでは…?と、やんわりと話を遠ざけようとするハジにすかさず…
「じゃあ、どこで話せばいいんですか?……まさか会社で?」
「ですから…」
別に小夜の事を隠している訳ではない。いっそここで、彼女とは結婚を前提に真剣に付き合っているのだから放っておいて欲しいのだ…と声を大にして宣言出来たら少しはすっきりするのかもしれないが、流石にそれは恥かしい。
それこそ大騒ぎになってしまう。
「まあまあ、そんなに彼を苛めないで下さい。ね?お嬢さん方…ここは僕に免じて…」
隣の話など少しも聞いていないと思われたソロモンが、既に出来上がった風を装って割って入った。
座布団から身を乗り出して、『…あなたも落ち着いて…』とハジの肩を叩く。
「そんなに殺気立たずに…。これでも、彼は二十八歳にして漸くの初恋なんですから、皆さんしばらくそっと見守ってあげましょう…」
「ちょっと待て…」
「嘘じゃないでしょう?…さっきだって…」
何を誤魔化しているんですか?…と。
「っおい…」
火に油を注ぐように、ソロモンがわざと続けようとするのをハジはバランスを崩しながらも強引に抑え込むと、その口を掌で覆った。
畳の上によろけたソロモンの上に、ハジが覆いかぶさる様な形で、何やら小声でやりとりしている。
途端に周囲からきゃーっと黄色い歓声が上がり、ドサクサに紛れて携帯カメラのフラッシュがたかれた。
しかしそれに構っている余裕はない。
「ソロモン…大体あなたが…社長に余計な事を言うから…」
「僕は聞かれた事に答えたまでですよ…。忠実な部下として…」
「なんて…訊かれたって?」
「ですから…ハジの仔うさぎは元気なのか?と…」
ああもうっ!!
ハジがそう思った時。
「ちょっとっ!!アンタ達うるさいわよ。…修学旅行の中学生じゃないんだから…」
取り囲む女性社員を押しのける様にして現れたのは、秘書室一の華と誉れ高いディーヴァだった。
「…すみません、ディーヴァ…」
まるで先程までが嘘の様にソロモンはハジに倒された体を起こし、居住まいを正した。
乱れた髪を手櫛で直し、眼鏡をかけ直す。
ハジもそれに倣う様にして、体を起こした。
「…ほら、折角新人さんが歌おうっていうに…誰も聴いてないんだから…」
そうして壇上を指し示す。
「すみません…」
ハジも素直に謝罪した。
ディーヴァは薄紫色の地に白抜きの桜模様の浴衣だ。
上からきっちりと半纏を着込み、手には小物の入った小さな巾着を下げている。
湯上りの透明な白い肌に嫌味にならない程うっすらと施した淡い口紅の色が艶やかだ。
「…悪いけど…、少しハジを借りるわよ」
誰にともなくそう断って、ディーヴァはハジを促した。
彼女の相手も面倒ではあるものの、少なくともこの場を抜け出す口実を得て、ハジは周囲に頭を下げて大人しく立ち上がった。
 
 
「…ねえ、そう言えば…あの二人…、昔付き合ってたって噂…本当?」
ソロモンを囲む一人がぽつりと口を開く。
それは秘書室に以前から流れている根拠のない噂だった。
しかし類稀な美貌を持つ二人の事、並んで立ち話するだけでも様になる。それがこんな風に話題になるのは致し方ない話なのかもしれない…と、ソロモンは小さく欠伸を零した。
「それこそ、今から追いかけて、本人達に直接確かめれば良いじゃないですか?」
 
 
 
□□□
 
 
 
「…どうしてあなたがここに居るのよ…」
ハジを廊下に連れ出すと、ディーヴァは開口一番そう言った。
スタスタと歩いてゆく華奢な背中に大人しく従いながら、ハジは溜息を吐く。
気が重い。彼女の事は嫌いではないが…しかし苦手な部類の存在であることは否めない。
そんなハジの様子に気付く事無く、人気のない廊下の外れまでハジを連れ出すと、ディーヴァは漸くハジに向き直った。
「今日は不参加だって…」
強がってはいても泣きそうな表情だなと、ハジは思った。
随分飲んだのに少しも酔いは回っていない。彼女もまたほんのりと目元が赤いが、しかしそれが乾杯のビールのせいかどうかは怪しい。
覚悟を決めた様に両腕を半纏の袂に収め腕を組んで、ハジは答えた。
「そのつもりでしたが、社長のいつもの気まぐれです。社員旅行の話題が出たと思ったら…急に野薔薇屋へ行くと仰いまして…」
「………………」
ハジの言葉に、ディーヴァは忌々しげに唇を尖らせた。
「…こちらへは、お見えになりませんよ」
「解かってるわよ…」
「……私の様な者が口を出す問題ではないと思いますが…、あなたはあなたのままでいらっしゃれば…それで良いのではありませんか?」
「…生意気言わないで…」
「申し訳ありません」
「…そういう態度が気に入らないのよ。…何でも解かってるような顔しないで欲しいわ。あなた達みたいに…女の子は自由じゃいられないんだから…」
「すみません…」
これではまるで自分が駄々をこねる幼い子供のようではないか…重ねて謝罪するハジに、ディーヴァはふっと視線を逸らした。
「…ひとつお聞きしてよろしいですか?」
今度はハジが問う。
「何よ?」
「…野薔薇屋は今回が初めてなのですか?」
「そうよ…。初めて…。ねえ…どうしてこの旅館がそんなに大事なの?…あなた訳を知ってるんでしょ?」
「………。…社長のプライバシーにかかわる事ですので…私の口からは…。ご自分で直接お聞きにはなられないのですか?」
「……訊ける訳ないわよ…」
いつもの奔放な彼女らしからぬ歯切れの悪さは、きっとその事情に見当が付いているということだろうか…。
「………訊いてみれば、何か変わるかもしれません。…私の口からは話せませんが…、あなたが直接…」
「だから言ってるじゃないっ。本人に訊けないから、貴方に訊いてるの!…いいわ、ソロモンに訊く…」
「…ディーヴァ…」
窘める様な口調に、とうとうディーヴァの平手がハジの頬めがけて振り上げられる。しかし、それが頬を叩く寸前でハジは彼女の細い手首を捉えていた。
「叩かせなさいよ」
「叩かれる理由が見つかりません…」
「そう言うところが嫌いなのよ…。あの時だって…」
掴まれて手首を無理に振り払って、ディーヴァはきつくハジを睨みつけた。
「あなたは最初から、私の事など少しも好きではなかったでしょう?」
「……………………」
ハジの言葉に、ディーヴァはただ黙って俯いた。
 
 
 
□□□
 
 
 
一向に戻る気配のないハジとディーヴァの事を心配する訳ではないが、彼らが何を話しているのか…気にならない訳ではなかった。
お節介である事は重々承知しながらも、ソロモンはじっとしている事が出来ずに席を立った。

廊下に出ても、それらしき姿は見付ける事が出来なかった。
だからと言って、すぐに元の席に戻る気にもなれず…仕方なくスリッパを引っ掛けると、廊下の先にある自販機コーナーへ立ち寄った。
景観を損なうとの理由で自販機を置かない宿もある中、ここはそう言った美意識を守りつつ、利用客の利便もしっかりと考えられていて、自販機自体が廊下を行きかう宿泊客に見えない様に、ぐるりと壁で囲まれている。
ソロモンは袂の中を探ると、黒い革製の小銭入れを取り出した。
しかし煙草の自販機の前で腕を組む。今時はタスポと呼ばれる身分証明がなければ自販機で煙草を買う事が出来ないのだが、生憎財布に入れたまま持っては来なかったのだ。
仕方なく諦めて隣の自販機でウーロン茶のペットボトルを購入し、少し先のドアから中庭へ出る。
どこか湿り気を帯びた屋外の空気にほっと吐息が零れた。
そろそろ秋風が涼しい季節だが、今夜は比較的暖かいのだろうか…。緩く肌蹴た胸元にも微かな風が心地よい程度だ。もしかして、自分が思うよりもずっと自分が酔っているのかも知れなかった。
館内から漏れる明かりと、庭木を照らす照明のお陰で足元は明るい。ライトアップされた見事な松の枝を見上げながら少し歩いて、散策時の休憩用に設置されたベンチに腰を下ろす。
キャップを取り、一口含むとどっと全身から日頃の疲れが溢れて来るように感じられた。

この年齢で、社長付と言う役職に辿り着くのはそうそうある事ではない。

高校をスキップしたせいで、入社は同じだがハジよりも更に二つほど若い、ソロモンは今年二十六歳だ。
元々、このゴールドスミスホールディングスと言うのは若い会社ではあるのだ。
社長自身もまだ五十前で、古いしきたり等には縛られず、実力さえあれば、若くても大きなポストに起用する。
その分、仕事が出来なければどんどん居場所を失っていく。
そういう社風が気に入っている。純粋に責任もって仕事をこなす事に生き甲斐も感じる。
しかし時々とても疲れる事も事実だ。
癒されたい…そう思うのに、ソロモンを癒してくれる存在が現れる事は未だかつてなかった。
その美しい容貌と優れた能力に惹かれて近寄ってくる女性は後を絶たないが、その内の一体誰がソロモン自身を見詰めてくれたと言うのか…。
付き合ってはみても空しいばかりで、関係が長続きしないのは自分もハジと同じだった。
はあ…と大きな溜息を吐く。
何も、ハジに対して『僕もあなたの様な本気の恋がしたい』と言ったのは嘘ではない。
もしそんな風に、一途になれたのならば…この灰色をした世界も、変わるかもしれないと…。

誰か…。…誰か…僕を…。

心の叫びは、誰にも届きはしない…。

その時、カサリ…と梢が鳴った。
ほのかに照らされた明かりの中、見覚えのある赤い花模様の浴衣。
ソロモンの目の前で、ふわりと袂が揺れた。
「…小夜…さん?」
驚いた様に大きく見開かれた円らな瞳。
「………………」
単なる偶然と言えば、、それだけの話だ。
しかしソロモンには、彼女こそが自分の世界を変えてくれる女神の様に感じられたのだった。


                                      ≪続≫

20090930
ひとまず更新。
…何が女神じゃ!!ソロモン!!
…と自分で書いておきながら恥かしくて突っ込みを入れてみる…。

全然話が進んでるんだか、進んでないんだか…。
どうしたら社員旅行っぽくなるんでしょうね…。その辺のところが私の経験不足かも知れないけれど、
あんまりその辺ばかり追求しだすと文字数を食う割に話が進まない様な気がして…。(言い訳でしかない…)
単なる腐女子心に火がついて、ハジとソロモンを一緒に風呂に入れてみたり、
良い歳した大人の男二人で、絡めてみました…書いた自分は一人で満足しております。
(でも、読んで下さる皆さまからは、石を投げられるかもしれない…)
なかなか小夜たんの出番がなくてジレジレしましたが、小夜たんやっと登場です。
登場なのですが、早速ソロモンに捕まってみたり…。
久々にディーヴァたんが書けて、そしてハジとディーヴァたんの絡みも書けて、楽しかったです。
次はもう少しお話が動きます〜多分。
そんで出来ればハジと小夜たんを出会わせてあげたいと思っております。
下心がスケスケで今から書くのが楽しみ〜(笑)

では、また。

ここまで読んで下さいまして、どうもありがとうございます〜!