Holiday work 〜君は可愛い僕の仔うさぎ・番外編〜




土曜日だというのに、その日ハジは朝から出勤だった。

いつも通りの時間に起きて支度を整える。
皮靴を履いてアタッシュケースを手に、玄関のノブに手をかける彼は完全に仕事の顔をしていた。未練の欠片もなく出ていこうとするハジの背中を、小夜はついつい恨めしく見詰めてしまうのだ。
 
 
□□□
 
 
その日。
勿論小夜は大学もアルバイトもお休みなので朝はゆっくり寝ていても構わないのだけれど、寝ている彼女を気遣っていつもより倍は静かにドアの開け閉てをするハジの微かな気配にじっとしていられずに、ベッドを下りた。朝食を摂らずコーヒーだけで出勤しようとしていた恋人を少しだけ偉そうに窘める。
時間を確かめるとまだ朝食を摂る時間は十分にある筈だった。
問い質せば、うるさくして小夜を起こすのが申し訳なかったのだという。
小夜はどんな顔をして良いのか解からず、少し照れが混じった複雑な笑顔で『お腹が空いたから、ハジと一緒に朝ごはんが食べたい』と甘えてみた。
ハジは瞳を緩め、『仕方ありませんね…』と、折角着替えたシャツの袖をまくりキッチンに立った。
小夜が不器用なせいか…いつの間にか料理はハジの役割になっている。
結局は出掛けるハジの仕事を増やしてしまったのだが、彼の背中はどことなく嬉しそうで…それに不服を言うような事はない。
昨夜炊いた白飯を温め直し、わかめとねぎのお味噌汁。冷蔵庫の中に残っていた昨夜の肉じゃがは、珍しく小夜が作ったせいで少し甘過ぎたけれど、翌日になって味もしっかり染みている。
 
 
向かい合って朝食を食べる。
本当にただそれだけの事だ。
でも、その何気ない瞬間が小夜にはとても嬉しい。
昼食でも夕食でもなく、朝起きて一番に昨夜の残り…あり合わせのもので朝食を済ませる。
ただそれだけの事が小夜にはとても親密な気がするのだ。
小夜は眠る時も身につけている小さな花を象ったスワロフスキーのリングを撫でながら、食べ終わった食器を洗う広い背中を見詰めていた。
「…これからお仕事なんだから…私が洗うのに…」
小さな小夜の呟きに、ハジはくるりと振り返った。
「まだ時間は大丈夫ですよ。それに、折角綺麗にした爪が傷ついたりしたら嫌でしょう?」
ハジはテーブルの上でリングを撫でる指先に視線を投げて、白い皿の最後の一枚を水切り籠に伏せた。システムキッチンの扉に提げた手拭きで両手の水分をしっかりと拭き取り、まくったワイシャツの袖を戻す。
 
ハジの言葉に…小夜は頬を染めて自分の指先に視線を落とした。
形の良い爪がほんのりと色付いている。
桜貝色のマニキュアで綺麗に塗られた爪、その先端は白く縁取られ、ワンポイントに小さなラメの花。
男家族に囲まれて育った小夜にとって、ネイルは初体験だった。
昨日大学の友人に誘われて、小夜は生まれて初めてのネイルサロンへ行ったのだ。





マンションの一室といった感じのこじんまりとした店内。
女の子が好きそうな色とりどりの可愛い雑貨。ショーケースに飾られた長い付け爪の数々はうっとりするほど見事な装飾が施されていて、こんな爪ではきっと家事も日常生活の雑務もこなせないのではないかと心配になった。
きゃあきゃあとはしゃぐ友人達。そんな中で、自分は見学だけで良いと言い張る小夜に、自分達とほんの少ししか年齢の違わないように見える若い女性店員は…『簡単なものならお手頃にお試し頂けますよ…』と小夜に椅子を勧めた。
小夜が緊張して両手を差し出し…やがて仕上がったのは、ネイルが初めての小夜にも違和感のない優しい色合いのそれだったのだ。
 
「…別に、洗い物やお料理くらい出来るのに…」
「良いのですよ。折角のお休みなのに、いつもと同じ時間に起こしてしまったお詫びです」
ハジはそう言って、てきぱきと身支度を整えて…。
 
…そんな事、構わないのに…
 
小夜を尻目に…ハジはチェストの上から普段は吸わない煙草の箱を取るとベランダに出て、ライターでその先端に火を灯した。形の良い薄い唇にフィルターを挟んで、深く肺に吸い込む。
小夜は懸命に吐き出された紫煙を目で追うのに、戸外の風に紛れてそれはすぐに見えなくなった。
 
季節が変わってゆく…。
この数日、日中はともかく朝晩は急に冷え込む事が増えた。

風が冷たい。
小夜がぎゅっと半袖の両腕を抱えると、用もないのにベランダについて来た小夜にハジが不思議そうに瞳で問い掛ける。
「……何?」
「そんな薄着で…風が冷たいのですから、中で待っていたら良いと…」
それだけではない。先程から小夜はハジが行く後をまるで刷り込みされたひな鳥の様について回っている。
流石にお手洗いにまでは無理だけれど…、洗面所も、寝室も…。
「…だって」
何と答えたら良いのか解からないまま、小夜は唇を尖らせる。
あと数分で出掛けてしまうハジと、少しでも長く一緒にいたい…だなんて、恥かしくて言える筈がなかった。
「ねえ…ハジが煙草吸うところ…初めて見た…」
確かにハジのキスは微かに煙草の香りがするけれど…、出会ってから一度も煙草を吸っている姿を見た事はなかった。
「…普段は吸いませんよ。これはおまじないです。今日の会議が早く終わる様に…」
本当に効き目があるのか…かなり怪しいのですが…と。
どこまでが本気なのか解からない口調だった。
「今日は会議なの?」
「…ええ、先方の都合でどうしても今日でなければならないのです…。折角の休日だというのにすみません…」
「ううん。お仕事 なんだから仕方ないよ…」
「昼過ぎには帰ります…」
「じゃあ、お昼待ってるね。…一緒に食べよう?」
「ありがとうございます…」
ハジは半分ほどまでになった煙草を、唇から外すと小夜を招いて大きなガラス戸を開けた。


見やすい位置に掛け時計もあるけれど…ハジは習性の様な仕種で腕時計の時間を確認すると灰皿に煙草を押しつける。
とうとうその時間が来たのだ。
ハジはシルバーのアタッシュケースを手に取る。
見上げる小夜の『もう行っちゃうの?』と言う表情に、ほんの少し苦笑する。
「折角の休みに起こしてしまってすみませんでした…」
「…………」
 
リビングから玄関へ、出掛ける男の後ろを小夜は再びとぼとぼとついて歩いた。
勿論、『いってらっしゃい…』を言う為に…
 
『折角の休日なのに、お仕事なんて…』
 
喉まで出掛かった我儘な非難を小夜はぐっと飲み込んだ。
『仕方ないよ…』
さっきハジにそう言ったばかりなのだ。
 
靴を履き終え、ドアノブに手をかけたハジが少し固まって小夜を振り返った。
何の未練もなさそうなハジの態度が寂しくて、つい尖らせていた唇を…小夜は慌てて噛み締める。
 
…なあに?どうしたの…?
 
軽くそんな風に言おうとしたのに、咄嗟に言葉が出ない…。


ハジはドアノブから手を離し、玄関にぽつんと立ちつくす小夜の前に戻った。
まるで、忘れ物を思い出したかのように……。
 
「…折角の休日なのにすみません。…昼過ぎには必ず戻りますから」
 
…それ、さっきも聞いたよ。
お昼一緒に食べようって…言ったよね?私…。
 
小夜の腑に落ちない表情に、ハジはとうとう手にしたアタッシュケースを床に置いた。
「…あの、小夜…。……もう一歩前に出て下さいませんか?」
彼の言っている意味が解からない。
解からないけれど、言われたままに小夜は一歩前に踏み出した。
「いつも忙しくしていてすみません…」
言葉と同時に差し出された両腕が、有無を言わさず小夜の体を抱きしめていた。
「…ハ…ハジ?」
「……いつも、一緒に居られなくて…」
押し殺した声が、彼の気持ちを物語っている。
小夜はスーツの広い背中にギュッとしがみついた。
胸の奥から込み上げてくる愛しさに、目眩がしそうだった。
「…申し訳なく思っています……」
「ハジ…」
大きな掌が、そっと小夜の後頭部に添えられた。
優しい感触なのに逆らえなくて、小夜は促されるままにハジを見上げた。
きちんと結ばれた髪も、真っ直ぐに乱れの無いネクタイも…ハジは完全に仕事モードに切り替わっているとばかり思っていた。けれど静かな表情の下にはこんな激しい気持ちも押し隠していたのだ。
何一つ謝る事など無いのに、ハジはもう一度小さく『すみません』と謝罪すると、小夜の額にそっと唇を落とした。
小夜は恥ずかしくて、ハジの腕の中でギュッと目を瞑る。
するともう一度…
ハジは小夜の唇に唇を重ねた。
『行ってきます』の挨拶にしてはあまりにも濃厚な口付けに、小夜は足元がふらつくのを感じた。
よろけそうな体をハジの腕が難なく支えている。
小夜はその感触に安心感を抱くと、ハジの背中を抱く腕に尚更力を込めて縋りついた。
優しく小夜を誘う舌の動きに任せて、小夜もまた舌を絡める。
「…んぅ。……は…ぁ…」
あの晩の出来事以来、小夜の体はとても敏感だった。
初めて経験した…蕩ける様な感覚は、小夜の体の奥底に今も燻っている。
そうして時折不意に蘇っては、小夜を苛むのだ。
こうして男の腕の中で熱い口付けを受けていると、それは尚更はっきりと小夜の身に変化をもたらした。
逃れようのない腕の中で、小夜は体の奥からむずむずと湧き上がってくる何かにじっとしていられず、無意識に腰を揺らしていた。
いっそこの優しい腕の中から逃れたい。
僅かに意思を示して、何とか男の胸に腕を突く。
「…ん、…やぁ…」
まさか、このまま押し倒されてしまうのではないかと小夜が不安を抱く頃、ハジは漸く唇を離した。
唇が強かに濡れている事が感じられる。
ハジの固い指先がそっと小夜の唇をなぞった。
「……ハジ。朝から…こんなキス…しないで…」
思わず漏れた非難の言葉。
しかしとろんと溶けてしまいそうな甘い瞳で睨みつけてみたところで効果は期待出来ない。
ハジはそっと微笑んで、もう一度だけ小さく『すみません…』と付け足した。
「では、行ってきます…」
「………はい」
赤い瞳を潤ませて、小夜はおとなしく『はい』と頷いた。
こんなキスをされたら、尚更『行かないで…』と口走ってしまいそうで、それだけで精いっぱいだったのだ。
 
今度こそ本当に、ハジはアタッシュケースを持ち直すとドアノブに手を掛けた。
「爪…良くお似合いですよ…」
と振り向きざまに言い残して…。
 
ばたん…と玄関ドアが閉まる。それと同時に、小夜は口付けの余韻が残る唇を指先で押さえると、崩れる様にフローリングの上に座り込んだ。

「ああもうっ!…やだ…」

小夜の顔が真っ赤に染まっていた。

ハジはそれを意図してのことだろうか…。
それにしても…なんていう事をしてくれたのだろう…。
…折角早起きした土曜の朝を…
この分では、彼が帰宅するまでの半日…丸ごと無駄に過ごしてしまいそうだった…。


                         ≪了≫


20090910
さて…。少しはバカップルになったのでしょうか…。
頑張ってみたんですけど…でもやっぱ糖度足りず?…かなあ。
狼を読んで下さった方にしか、『あの晩の出来事』って解かんないですよね…。
ははは。

何も考えずに書いたので、すみません。
最初に書こうと思っていたお話とは違うんですけど、折角書いたのでアプします〜。


次こそ、頑張ります…。