「私は…赤い盾7代目ジョエル・ゴルトシュミットだと名乗れば、察して頂けますか?」
男はさも愉快そうに笑った。
 
……七代目?
 
ゴルトシュミット家の当主が代替わりしたなど…小夜もハジも、今まで一言もそんな話は聞いていない。
六代目であるジョエルは、既に六十歳を迎えようとしていたけれどまだまだ健在の筈だ。
第一、もし仮に六代目が引退して七代目が組織を率いる事になるのだとすれば、二人には真っ先に連絡をくれる筈だ。
しかも表向きにもあれだけ大きな組織の長が交代するのだ。
それなりに準備期間というものも必要であるし、例えそれがフランスの話だとしても、正式に就任したというのならば世界中のどこにいようがそのニュースが耳に入らないはずはなかった。
ハジも、小夜も、俄かには信じられない思いで、目の前の男をじっと凝視した。
しかしそう言われてみれば、確かに髪の色こそ違うものの…その面立ちは若かりし日の六代目ジョエルによく似ている。彼がジョエルの息子である事だけは、間違いないのだろう。
そんな二人の思いを察したように、男は芝居がかった仕種で申し訳なさそうに肩をすくめた。
「………実はまだ正式には伏せられていましてね…。先日、父は倒れたんですよ…。…命に別条はありませんが、そんな人にこれ以上、無理はさせられないでしょう?」
小夜は、男の言葉に思わずハジの腕を振り切った。
「…ジョエルさんが倒れた…?…そんなっ…」
「…小夜」
ハジが『鵜呑みにしてはいけません』と、制止する。
「嘘じゃありませんよ。…周りには隠していましたが…この数年、父は心臓に不具合を抱えていましてね。いずれにしろ、この先ずっと激務をこなすには無理があったんです」
ハジは小夜の体を支えるようにして、男の前に立った。
「だからと言って……ジョエルの息子であるあなたが、今頃私達に一体何の用なのです?」
一向に表情を緩める事のないハジに僅かに気圧された様子で…しかし七代目は異様に光る眼で二人を舐め回す様に眺めると気を取り直す様に、やれやれ…と髪を撫でた。
「ですから挨拶に寄ったと言ったでしょう?私は前々から…一度直接お会いしたかったのですよ。あなた達…始祖翼手小夜とそのシュバリエに…。ずっと面会を申し込んでいましたが…」
「……………聞いていません」
「…………どうやらあなた達にまで話は届いていなかったようですね…」
「………………………………」
「正直なところ…私は父の様な…組織の長の器ではない。…私は研究者なのです。…もしかしたら父よりも初代に似ているのかも知れない。私の望みはただ翼手の研究をする事です…。翼手は、素晴らしい…。素晴らしい生物です。この地球上で、もっとも優れた種であるように私は思っています」
ハジはその広い背に小夜をすっぽりと庇ったまま、対峙した男を睨みつけた。
久しく穏やかであった切れ長の瞳が冷酷な色を宿して真っ直ぐに向けられると、男は微かに唇の端を上げた。
「……あなたは三十年前の出来事を知らないと言うのか…」
「知っていますよ。記録としてね…。…残念な事に私はまだ生まれていなかったけれど…。父は直接あの戦いを知る世代が確実に減っていく事を危惧していますが…私はそこまで馬鹿ではありません。繰り返してはいけない戦いがある事くらい解かっていますよ。どれほどの血が犠牲になったのかも…。それは耳にタコが出来るほど、父からは厳しく教育されました」
「…………………………」
疑問は拭えなかった。
仕組まれた罠とも知らずディーヴァを開放してしまった事を自分一人の罪として背負い、戦い続けた小夜。
そして実の妹をその手に掛けるという悲しい結末に、彼女がどれほど深い心の傷を負い今も尚血を流し続けているのか…それは所詮当時彼女の傍にいた仲間達にしか解かりあえない思いなのか…。
翼手は遠い昔から人間の社会に溶け込み、人知れず共存してきたのだ。
愚かな研究者の欲望にその姿は歪められたのだとしても…この先の未来、再び翼手は元来あるべき姿に戻るのだ。
残された小夜と、双子の姪達…。
そして今、小夜の体内に宿る二つの命。
例え、社会の表舞台に公表する事は叶わなくても、彼らの穏やかな生活を守る事こそが今現在の『赤い盾』という組織の存在意義だ。単純に「美しいから」「優れているから」などと言う馬鹿げた憧憬で、翼手に関われば、いずれ第二、第三のアンシェルが生まれるのではないか?
その永遠とも呼べる命と強靭な力に憧れて…悪戯に世を乱す事になりはしないか…。
ジョエルが危惧しているのは正しくその点であるというのに…。
「……優れたあなた達ですが、唯一の欠点があるとすれば…それは生殖能力が低い事です。……こんな言い方をして気を悪くされたら申し訳ありませんが、あなた達は今や絶滅危惧種ですよ…。何らかの方法で保護しなくては、やがて絶滅してしまう…違いますか?」
「…………………………」
「…あなたの可愛い姪御さん達は…誰に似たのか非常に頑固でしてね。……もう充分に成熟しているというのに、血分けを行おうとしない。勿論、そんな簡単な事ではありませんよ。血分けする事でその相手は自分を守るシュバリエとなり、永遠の命を得るのです。しかし失敗する可能性も否めない。いやむしろ高いと言っても良い。…その上、血分けした相手とは子供を成せないのですから、年頃のお嬢さん達にはその決断はなかなか出来るものではないでしょうね。…しかも、彼女達は、今でこそ成長の止まった肉体を得て自分達が人間ではないという事を理解しているが、しかし感覚は未だにごく有り触れた人間の少女だ…。…小夜さん、貴女の様にね…」
「……わ、私…?」
「…小夜」
背中でしがみ付く指先が震えている。
ハジは動揺を隠せない小夜の肩をそっと抱きしめた。
「……そうですよ。……彼をシュバリエにしてしまった事で、深く悩んだのではありませんか?」
黙って聞いている事が出来ず、ハジは割って入った。
「…それはもう過去の話です。………あれは事故だった。しかし私は、あんな事故がなくとも…」
「確かにね…。…しかし私が本当に言いたいのはこの先です」
「……………………………」
「結論から申し上げれば……あなた達は不可能と言われていた子供を作る事が出来たのですよ…。…一体何が違うというのです?」
確かに長い年月をかけて翼手の研究を続けていたアンシェルの立てた仮説では、女王は自らと対になる女王のシュバリエとの間にしか子を宿す事が出来ないとしている。
しかし、その研究の成果が百パーセント正しいものであるとは言い切れない、
現に小夜のお腹の中には、ハジの子供が宿っている。
「……………………………」
「…愛し合っているから…なんて陳腐なセリフは通用しませんよ」
七代目は手近な椅子を引くと、自らの興奮を抑えるようにゆっくりとその椅子に掛けた。
「小夜さん、あなたはご存じないかも知れませんが、当時アンシェルはディーヴァの生殖実験に殊のほか関心が高く…、コープスコーズの研究を進める傍ら何とかしてディーヴァに…次の世代を宿す事に情熱を傾けた。それは数え切れないほどの実験を繰り返したのだそうですよ。…最終的にはやはり彼の仮説通りに、小夜さんのシュバリエであるリク君との間に、子供を得た訳ですが…」
「……今更小夜には関係のない事だ…」
そう答えながらも嫌な予感は纏わりつくように、ハジから消えない。
ぼんやりと男の思惑が見え隠れしている。
「そうでしょうか?…何故、あなた達に子供を作る事が出来たのか…それがはっきりすれば、あなたの可愛い姪御さん達も随分と気持ちが楽になるのではありませんか?あなたの様に、好きな男を自分のシュバリエにすればいい。勿論合意の上でね。その上…子供まで作る事が出来るのなら…何も問題はないはずだ」
「…黙って下さい」
ハジは凛とした声でそれを遮った。
これ以上は聞くに堪えない。つまり彼が言いたい事とは、自分達に研究対象としてフランスへ来いという事なのだろう…。そしてそれは自分達どころか、今小夜のお腹の中で健やかに育つ命さえ研究対象にされるという事だ。
「フランスにいる響と奏…そして翼手の未来に関して、確かにそう解釈をする事も出来るかも知れない。しかし、私達は実験動物ではない…。六代目はそれについて、何と仰っているのです?…いや、彼が何と言おうと、私は小夜も子供達も…あなたのモルモットにする気はありません…。滅びるというのなら、いずれ滅びるというのなら、それは自然淘汰というものです…」
「ハジっ…」
耳を塞ぎ、小夜がハジの胸にすがる様にして耐えている。
「そんな事を言っていいのですか?……もう直にお腹の子供達も生まれてくるのでしょう?このまま、本当にここで…この辺鄙な田舎町で子供を産むつもりですか?」
「でも、でも………ここが、ここが私にとっては故郷なんです」
ハジに肩を抱かれたまま、小夜は訴えた。
ここで子供を産みたい。
家族がいて…友人がいて…ジョージの眠るここ沖縄こそが、自分にとって本当に安からに過ごせる場所なのだ…。
一番安心できる場所で、一番安心できる仲間達に囲まれて、一番自然な方法で子供を産みたいと願うのは、女性ならば誰もが抱く想いではないのか…。
ハジは小夜を抱き寄せる腕にぐいと力を込めた。
心配げな視線を上げて、小夜がハジを見つめた。
声にはせず…しかし『大丈夫ですよ』…と、ハジは瞳で語りかける。
「…なるほど。…あれは不幸な事故だったとはいえ、自分は好きな男をシュバリエにして子供も得て…自分達さえ幸せならば他の事はもうどうでも良いと?」
「……そ、そんな…。私…」
「しかし…本当にここは安全ですか?…何が起こるか解かりませんよ。何か起きた時に、本当にここの施設で、ここのスタッフで、対応できますか?勿論万全を尽くすと父は約束したでしょう。しかし本当に…大丈夫だと言い切る事が出来ますか?あなたのお腹にいるその命は、翼手ではなく、全く別の生き物かもしれない…もしかしたら明日にでも、あなたのお腹を食い破って生まれて来るかもしれない…」
「……っい…嫌ぁ…」
「黙れっ!!」
小夜の悲鳴と、ハジの怒声とが重なった。
いくらジョエルの息子だとはいえ…これ以上の無礼を…小夜の心を土足で踏みならすような真似をさせる訳にはいかない。
ハジは小夜を労わる様にその体を抱き上げた。
きっと七代目を名乗る人間にはその動きは目に止まらなかっただろう。
行くあてなどある筈なかったが、とにかく今…このまま目の前の男に良いように言われ続け、これ以上小夜を傷つける訳にはいかない。
ハジは小夜の体を両腕に抱き上げると、小夜を庇いながらも風の様な速さで床を蹴った。
 
 
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カイがジュリアとの話を終えてOMOROに戻ると、そこには誰もいなかった。
施錠のなされないまま開け放たれた入り口のドア。
仕込み途中の豚肉もまな板の上にのったまま、土のついた野菜も流しの桶の中でぷかぷかと浮いたまま…。
がらんとした店内に争った跡はなかった。
ぽつんと向きの替えられた椅子が一脚。
ついさっきまでここで作業をしていた様子が伺えるのに…唯忽然と小夜とハジの姿だけがない。
カウンターの上に何やら横文字で綴られたメモが一枚。
カイはそれを乱暴に取り上げると吐き捨てるように呟いた。
「読めっかよ…こんなモン…」
内容は解からない…しかしその署名は見慣れた文字の並び…。
ゴルトシュミット…
「畜生…」
彼が来たのだ。
間違いなく…。
そして二人は出て行ってしまったのだ。
カイは手に提げていた紙袋を乱暴に下ろすと、取って返す様に再びOMOROを飛び出していた。
 
 
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海が見たい…
小さく呟いた小夜の言葉に従い、ハジが足を向けたのは人気のない小さな砂浜だった。
しかし徐々に夕暮れを迎えようとする薄暮の中で、臨月に入った小夜をこれ以上連れ回す事など出来る筈もなかった。いくらここが沖縄だとはいえ、冬の夜になれば海風はきつい。
ハジは腕に抱き上げた小夜の様子を伺うと、彼女は自ら意識を閉ざす様に固く目を閉じていた。
関節が白くなる程にきつくハジのシャツを握りしめる指先が痛々しい。
「小夜…」
呼びかけると、腕の中でゆっくりと顔を上げる。
「……強引に連れ出して、申し訳ありませんでした…。…寒くはありませんか?」
「ううん…大丈夫」
そう答えて、ハジの腕から降りたいと身じろいだ。
ハジは柔らかな砂地の上にそっと小夜を下ろした。覚束ない足元を支えるように手を添えると、小夜は悴んだ指先でハジの指を握り返した。
「ありがとう…。……連れ出してくれて…」
二人の足元、その少し先に穏やかな波が寄せては返している。
波の音と…風の音と、ただそれだけが辺りを包みこむ。
ハジはゆっくりと息を吸った。
「………いえ」
小夜はじっと泣き出しそうに潤んだ瞳でハジを見上げるけれど、涙は零れる事無く目元を赤く染めただけだ。
「……ハジ」
小さくその名前を呼んだ。じっと考え込むようにハジを見詰める。
「……あのね、本当の事を教えて…」
その真摯な眼差しの前にハジは頷くしかなかった。
小夜は少しだけ躊躇う様に目を反らして言い淀んだが、再びハジをまっすぐに見つめるとふっくらとした唇を開いた。
「…私がここで、子供達を産みたいと思う事は…もしかしたら、我儘だったのかな?確かにフランスへ渡った方が、施設もスタッフも充実してる。…ジュリアさんやカイも…そう思ってる?…もしかしたら、ハジも?」
「そんな事はありません。絶対に…。私がそう約束します」
小夜はハジの指先を握る手にギュッと力を込めた。
そうしてハジの指を自らの丸い腹部に導く。
「……この子達は、お腹を食い破って生まれてくる…そんな化け物なんかじゃないよ。私と貴方の子供…すごく優しいの。不思議だけど…私には解かるの…。この子達は、離れ離れになった私達を…もう一度結び付けてくれたの…。だって、そうでなければ、ハジはずっと私の前に出てきてはくれなかったでしょう?私は……貴方の事を思い出せないまま…。今も私達の事を、凄く心配してくれてる…でも…」
「…小夜」
「…本当に良いの?…だけど、駄目って言われても…私…」
不安げな口調…しかし小夜の言葉には強い意志が伺える。
ハジは優しくその丸い腹部を撫でた。
しっかりとした張りのある…しかし柔らかな感触の下に感じる事の出来る確かな存在感。
愛おしい。
未だかつて、この様な大きな感情の波を感じた事があっただろうか…。
小夜も、そして子供達も…。
ずっと孤独を抱いていた胸の底に温かな光が差して、固く凍りついていた何かがゆっくりと氷解してゆく。
ハジは優しい力ですっぽりと小夜の体を包み込み抱きしめると、そっと小夜の唇を捉えた。
今までもずっと、この命に代えても小夜を守ると誓って生きてきた。
その想いは尚更強いものとなる。
小夜の体内から感じる確かな命の気配。
血を分けた自分の子供達。

こんな自分にも、本当に家族というものが出来るのだ…。
「小夜、あなたは何も心配しないで。…私が守ります。あなたも…このお腹の中の大切な命も…」
「…ハジ」
「…私が……この命に代えても、あなたと子供達は必ず守ります。しかし、出産に関しては、…私は無力です。…ですから…」
やはり一度は、ジュリアの元に戻らなければならない。
戻ってもう一度、きちんと話し合わなければいけない。
もしかしたらあちらにも、もうあの男の手が伸びているかも知れないけれど、それでも既にいつ陣痛が起こってもおかしくない臨月を迎えている小夜の体調を慮れば、そうするより他になかった。
そして、ジョエルの息子だというあの男とも、もう一度会わなければ…。
「…………ハジ?」
黙り込むハジの顔を小夜が心配げに覗き込む。
「…………こうして夜の海風にあたった事で、もしあなたと子供達の身に何事か問題が起これば…私も生きてはいられません」
小夜は泣き笑いのような表情でハジを見詰めた。
気丈に振る舞ってはいても、直に初産を迎える不安と男の言葉に小夜の心は揺れているのだった。
「…ハジ。……これくらい平気…よ。……やっぱりハジは心配性ね…」
「今の私には…心配する事位しか、出来ないのですよ…。…戻りましょう。………きっと皆心配している」
「いつも心配ばかり…かけてごめんね。私もお腹の子供達も……大丈夫だから、心配しないで…」
空に月は無く、辺りは間もなく暗闇に沈もうとしている。
ハジは海を遠く見やった。
どれほど暗くても、ハジの瞳には確かにそれを確かめる事が出来る。
静かで穏やかな、そして力強い波が寄せる美しい海の姿を…。
太古には、海が命の生まれた故郷である様に…その凛とした強さは女性の持つそれによく似ている。
小夜はまるで万物の母親の様に、優しくハジに呟いた。
「ハジ…。もう何も…心配しないで…」
ハジは愛しげにその額に唇を押しあてると、再びその腕に小夜の体を抱き上げた。
ハジの胸にぎゅっと小夜がしがみ付く。
とん…と軽く砂地を蹴ると、ふわりとその体が宙に浮いた。
何者も寄せ付けない力強さで、大きく美しい漆黒の翼が夜空に大きく羽ばたいたのだった。
 
                             ≪続≫

20090831
はあ〜。突発的に思い立って「恋歌3」を更新します。
あまりに放置しすぎて、季節が冬だった事とか…2までの展開を忘れてたりと過去に自分で書いたものを読み返しつつ書きましたが(ここで深く反省)ちゃんと繋がってるかな〜??
だって2を更新したのって08年の3月だよ!!確か…。
恋歌の小夜たんは妊婦さんなのですが、翼手がどうやって生まれてくるのかよく解からなくて、その辺が凄く書きにくくてつい放置してしまったような記憶が蘇りました。
今はもうなる様になるさって感じで書いてます。
確か、ディーヴァたんは繭のまま帝王切開だったのよね?私個人的には、あれはアンシェルがディーヴァにもしもの事があっても、子供達は無事なように先に取りだしておいたのかな〜?なんて思ってますが、実際のところはどうなんでしょう?

七代目は適当なオリキャラですが、今になって少し反省してみたり…まあこれでも良いかと思ってみたり。
本当にオリキャラ出すのは難しいですね…。

ここまで読んで下さいましてどうもありがとうございました!
読んで下さった皆様が楽しかったかは甚だ怪しいのですが、自分だけは楽しかったです。
今後は放置しないように、気をつけます。
ではまた。ありがとうございました!!