月の光

 
漆黒の夜空には、くっきりと白い満月が浮かんでいた。
 
半ば意識を失うかのように崩れ落ちた小夜の体を、ハジはそっと両腕に抱き上げた。

この細い体のどこに、こんなエネルギーが秘められているのだろう・・・とハジは思う。

血の気の失せた蒼白い瞼に、彼女の疲労が見て取れた。
パリに到着してからの小夜は、人が変わったかのようだ。
今までの迷いを捨てたかのように、翼手を倒す事ばかり考えている。
見ている方が、痛々しくなってしまう程・・・。
リクを助ける為とは言え、彼を自分のシュバリエにしてしまった事、

自分が覚悟を決めなければ自分に関わる全ての人を危険に晒してしまう事。
小夜はこの愚かな戦いの全てに、責任を感じている。
暇があれば、ハジを相手に日本刀を振るい、まるで赤い盾の構成員にでもなったかのように、従順に捜査に協力している。
小夜は、遠い昔、ハジと肩を並べて無邪気に笑ったあの頃のサヤに少し似ていた。勿論、本人なのだけれど・・・。

傍に居るだけで、幸せで。

重苦しい現実を一時忘れさせてくれる程、幸せで・・・。

過去の記憶を取り戻せば取り戻した分、小夜からは笑顔が消えてゆく事に、ハジの胸は酷く痛んだ。

 
小夜の部屋の前まで来て、ハジは一瞬戸惑った。
抱き上げた小夜が目を覚ましたのだ。

薄く開いた黒い瞳が不思議そうにハジを見上げ、状況がつかめないままゆっくりと瞬きを繰り返す。
「ハジ・・・?」
「少し、休んで下さい。小夜・・・」
ハジの予想を裏切って、小夜は大人しく頷いた。
そして流石に疲れているのか、大きな息を付くと再び瞼を閉じた。
 
ドアを開けると、そこは生活感の無い部屋で、室内に置かれたのはシンプルなベッドと机のみ、そして小さな窓が一つ。
それはハジにあてがわれた部屋も同じだったが、ハジはほとんど自室で過ごした事は無い。

ハジは毎晩小夜が寝付くまで、この部屋で彼女の傍に居た。
カイが聞いたら真っ赤になって怒りそうなものだが、眠ることの無いハジにとっては、

単に睡眠をとる為だけの空間には強いて必要を感じない。
小夜が拒絶しない限りは、彼女の傍らに控える。
いつの間にか、小夜もそんなハジの存在を受け入れていて、彼は空気のように常に傍に居て当たり前な存在になっていた。
 
ハジは部屋に足を踏み入れると、彼女の体をそっとベッドに下ろした。
小さな窓からは白い月が覗いている。
月の白い光を浴びて、ハジは小夜の枕元に腰を下ろした。
ベッドの軋みに、小夜がうっすらと目を開けた。
「きれいね・・・」
ハジを見上げて、小夜が呟いた。
ハジが何の事か解らずにいると、小夜はおかしそうに微笑んだ。
こういう表情は、沖縄にいた頃とさして変わらないのだ。
「月が・・・。じゃ無くて、ハジが・・・」
「・・・きれい、ですか?」
大した関心も無さそうにハジは問い返した。
「男の人には、褒め言葉じゃないのかな?」
とろんとした瞳で今にも眠ってしまいそうな小夜が、うっとりとした表情をハジに向ける。
「そんな事を言うのは小夜だけです・・・」
「そう・・・かな?・・・昔から、ハジは・・・」
彼女の言う昔が一体いつの時点の事なのか、ハジは小夜が言葉を紡ぐのを待った。
しかし小夜は窓の外に覗く月と傍らに座るハジとを交互に見上げては、僅かに不思議な表情を浮かべた。
「この景色・・・。昔、どこかで・・・、ハジの後ろに・・・、月が・・・見えて・・・」
「小夜・・・?」
「これ・・・、昔の記憶?・・・夢じゃなくて・・・。ハジの肩越しに、月が・・・」
小夜は疲れた体をゆっくりと起こすと、確かめるようにハジに触れた。
「そう、こんな・・・」
ベッドの上に座り直すと、向きを変え、ハジを覗き込むような形で体を寄せる。
小夜は、遠い記憶を取り戻す事に集中しようとしていた。
彼女の記憶はいまだに曖昧な部分が多くて、小夜自身いつもまどろっこしい思いをしているのだ。

何かを確かめるように、ハジの肩越しに月を見上げては、瞳を伏せる。
「小夜・・・、どうしました?」
「ハジは・・・、全部覚えてるんでしょう?」
「ええ・・・。覚えています・・・」
「ごめんね・・・。私・・・」
「誤るような事はありません。小夜・・・今は少し眠って・・・」
「駄目・・・、すごく大事な事・・・忘れてる、私。もう少しで手が届きそうなのに・・・」
ハジの静止を聞かず、肩に縋るようにして項に指先を伸ばし、彼の黒い髪に触れる。

さらさらと指先に流れる柔らかな髪の感触は、どこか懐かしくて、涙が零れそうになる。
ああ、確かに知っていると思う。
彼を、この感触を。
指先が彼を覚えている。
肩越しに覗く月。
ハジの白い肌、温かな体温。
「小夜・・・?」
きつく結った紐を解くと、黒髪が頼りを失って首筋に流れ落ちた。
「この感じ・・・、どこかで・・・。ねえ・・・ハジ・・・」
小夜の体を支える反対の手で、額に落ちかかる髪をかき上げ、小さな子供の悪戯に呆れるようにハジは小さく吐息を零した。
「なんか、おかしいよね?・・・私・・・。ハジに・・・こうして・・・」
「解って言っているのですか?小夜・・・」
眠気もどこかへ飛んでいってしまったのか、小夜はハジの髪を弄んではさらさらとした感触を楽しんでいた。
「解るって・・・?」
「小夜・・・、この指も・・・この唇も・・・、私は昨夜の事の様に覚えています・・・」
そこに至って、漸く小夜は自分の言っている言葉の意味を理解した。
そしてハジの言葉の意味も・・・。
慌てて首筋に絡めた腕を解いて逃れようとするのに、腰を抱く優しい腕は頑として動かなかった。
あれはいつのことだったのだろう?
遠いおぼろげな記憶の中で、小夜はやはりハジの肩越しに月を見ていた。
温かい腕に包まれて、甘い吐息を零して、ハジの黒髪に指を絡ませた。
夢のように甘く、しかし夢とは全く異質の。
こうしていると、そのリアルな感覚が甦って来てそれを確信に換えていく。
「ハジ・・・」
逃れるのを止めて、小夜はじっとハジの顔を見上げた。
「本当に?ハジ・・・、私達・・・」
否定も肯定もせず、ハジは小夜の髪を撫でた。
「小夜・・・。昔の事です。今の小夜が古い記憶に囚われる事はありません。」
見る間に小夜の頬が赤く染まる。耳までが茹だるように熱い。
「やだ。忘れてハジ・・・。思い出しちゃ駄目・・・」
小夜は手元に触れた大きな羽枕を掴むと、思い切りハジの顔に押しつけた。
枕をまともに顔面に受けて、困惑したように少し眉根を寄せ、ハジはもう一度小さく息を吐いた。
「小夜・・・」
「・・・、自分の事なのに・・・、自分の事じゃないみたい・・・」
ふわふわと夢の中を漂うような心地よさと、真っ直ぐに自分を見詰めるハジの視線から逃れたい気恥ずかしさ。
耳まで赤くしたまま俯く小夜に、ハジが提案する。
「全部、夢だった事にしますか?」
「え・・・」
「私には今の小夜が大切です。小夜が望むなら・・・全て夢にしましょう・・・。思い出してしまうなら、もう小夜には触れません」
ハジが小夜の腰を抱いていた腕を解く。急に頼りなくなって、小夜はベッドによろけた。

ハジの表情は乏しくて、どれが本心なのか判らない。
「ハジの理屈は変だよ。・・今更夢になんて出来る訳無いよ。だって、思い出しちゃったのに・・・。

思い出した・・・、ううん、ずっと覚えてたのに・・・、私」
「・・・・・・」
小夜はベッドに腕をついて体勢を直すと、しっかりとハジの前に座り直した。
「恥ずかしいけど、嫌だなんて言ってないよ。私だって、ハジの事覚えてる。
ハジの胸が温かい事も、すごく優しい事も・・・」
ハジを安心させるように、少し笑って。
小夜はハジの頬に指を伸ばすと、腰を浮かせて唇を寄せる。
そっと触れて、青年の首筋にもう一度腕を絡めた。
「小夜・・・。夢にはしないのですか?」
「そんなの無理だよ・・・。ハジ」
「昔・・・」
遠い目をして、ハジは口を開いた。
「こうしていると、昔・・・まだ私が人だった頃の願いを思い出すのです、小夜」
「願い?」
「一つは叶い・・・」
小夜はペタンとハジの胸に耳をつけた。呼吸の度に、ハジの胸がゆっくりと上下する。
「一つは・・・」
ハジの低く静かな声が鼓膜に直に心地よく響く。
「それが、何かは・・・教えてくれないの?」
黙ったまま、ハジの指先がそっと小夜の顎を持ち上げ、静かに青暗色の彼の瞳が問うのに、彼女は瞼を閉じて応えた。
 
昔、初めてキスをした。
まだ何も知らず、ただ一緒に居られたらそれだけで幸せだったあの頃、もうあの日に還る事は叶わなくても・・・。
揺れる過去の記憶の狭間で、二人繰り返し恋に堕ちる。

何度も、何度でも・・・。
 
「長い時間の中では、それはささやかな願いです」
柔らかな唇を離すと、ハジは小夜の耳元で囁いた。
蕩ける様な瞳で、小夜がハジを見詰める。視線を滑らせると、小さな窓から覗く月が柔らかな光で床に二人の影を落としていた。
「月は、変わらないね・・・。あの夜と・・・同じ・・・」
抱きしめてくれる腕の中で、小夜はあの月を見上げていた。
時と共に欠けては満ちる月を、二人は何度見上げて来た事だろう。
「あなたも・・・、小夜・・・」
「ハジは・・・私が変えてしまったのね・・・」
ハジの獣と化した右腕を取ると、その鋭い指先に唇を寄せた。
「気にしないで・・・。願いの一つは叶ったのですから・・・」
月の光を浴びて、彼は静かに微笑んでいた。
そして、腕の中の少女をそっと庇うようにして、ハジはベッドに沈み込んだ。
窓から零れるように差し込む白い月の光だけが二人の恋を照らしている。

20060425
最近の小夜は見ていてとても辛いので、何の当ても無く単に2人がイチャツク話・・・と思って、
書き始めました。そしたら先週のハジの発言&次回予告・・・。辛いです、この先どうなっちゃうの・・・。
とても心配なところですが、まあ、やりたいようにやるのが同人だ・・・。
しかし、別の意味でちょっと美味しいかもしれない。ああ、そばに居てくれなきゃ意味ないかあ〜〜〜。
先のこと考えても胃が痛くなるばかりなので、書きたいように書きました。
しかし・・・見事玉砕。ぎゃ〜っ
次頑張ろう・・・。