眠い。
この数日と言うもの妙に体が気だるくて、今にも眠りに落ちてしまいそうな状態が続いている。長い休眠期から目覚めて、二年目の夏。
私は、真っ青に澄んだ夏空を見上げた。
 
 
水蜜桃    三木邦彦
 
 
少し遅めの朝食を済ませ、私は風通しの良いようにリビングのサッシを全て解放すると、お気に入りの籐のロッキングチェアに体を預けた。
今年の夏は雨ばかりで、体ごと湿気ってしまいそうな天気が数日続いたけれど、今日は久しぶりに朝から快晴だった。昨日までの雨に濡れた庭の緑が色鮮やかに風に揺れる。
午後になれば…日差しが暑くてきっとここにもいられなくなるけれど、まだ午前の気温は幾分過ごしやすい。こうして日陰で風が通れば尚更心地良い。
さっき起き出して来たばかりだというのに、私の体はもう睡眠を欲していた。
爪先でフローリングを蹴ると、ロッキングチェアは僅かに軋んでゆっくりと揺れた。
その時、朝食の後片付けを済ませ二階のベランダで洗濯物を干しているとばかり思っていたハジが洗濯かごを抱えたまま、背後からそっと小夜の顔を覗き込んだ。
穏やかに問いかけるような視線。
黙っていると、ほんの少し口の端で笑った。
「…どうしました?」
どうしてこんなに穏やかでいられるのだろう…と私は、ハジの優しい眼差しの前につい心の奥の不安を口にしてしまった。
「…すごく眠いの…。…まだ一年と少ししか経ってないのに…」
次の休眠期まではまだ余裕があるはずなのに…。
休眠が近付くと、私の体の状態で一番顕著になる症状は間断なく襲ってくる強い眠気と、体温の低下だ。
眠るという事に対して普通の人ならば感じる筈のない不安を、私は常に抱えている。
ハジは穏やかな表情を崩す事無く、洗濯籠を脇に除けると私の前に片膝を立てて跪いた。
少し強引な力で、私の腕を引きその広い胸の中に抱き締める。
額を合わせると、彼の低い体温がやけに心地良い。
ハジは私の不安を一掃するように、ゆっくりと言った。
「体温はかえっていつもより高いくらいですよ…」
「本当?」
自分ではそんな自覚はなかった。
熱を出して寝込んだ事など今までに一度もないし、よく解らないのだ。ハジの胸にしがみ付いていた指先を私はそっと自分の額にのせた。
けれど、ハジは少し申し訳なさそうに耳元で囁いた。
「………昨夜、遅くまで無理をさせてしまったからでしょうか?」
「……や、やだ…」
ハジが真面目な表情でそんな事を言うので、思わず私の顔も赤くなる。
夜の闇と言うのは、どうしてこうも人を変えてしまうのだろう…。
明るい陽の下ではとても口に出来そうもない恥ずかしい言葉で愛を告げ、体を求め合う。
私達の間では、それはもう日常の出来事だった。
「…本当に、少し体が熱いですよ。……冷たい飲み物をお持ちしましょうか?」
「……ううん」
私は首を振った。
そうですか?と念を押すように見つめる視線に、私はもう一度丁寧に首を振って見せた。
本当に何も欲しくはない。
「…外の風は心地良いですが体に触ります。戸を閉めて緩くエアコンをつけましょう…。眠いのならば、無理せずに眠った方が良いのです。軽い暑気あたりかも知れませんね…」
そう言ってもう一度、ハジは私の額に掌を重ねた。
暑気あたり…?
翼手の私が…?
いま一つピンとこない私を余所に、ハジはさっさと窓を閉め切ると壁のリモコンでエアコンのスイッチをオンにする。
「ソファーを倒しましょう…。今タオルケットを持ってきますから…」
ハジは私の返事も待たずてきぱきとリビングのソファーの背を倒して、ベッドとして整えると二階の寝室へとタオルケットを取りに行ってしまう。
小さな音を立ててエアコンが稼働し始め、ほんの少し冷えた風が頭上から下りてくる。
風が心地良いという事は、やはり熱があるという事なのだろうか…そんな事を考えるともなしにぼんやりと思いながら、ガラス戸で遮られ手の届かなくなった庭の緑を眺めていた。
庭の隅で紅色の百日紅の花が、風に揺れる。

……私は大切にされている…不意にそう思った。
ハジはその広い胸で、大きな背中で、長い腕で、すっぽりと私を抱き締めて、私を害する外の世界の全てから守ってくれているのだ。
ハジの愛はあまりにも大きくて…それは胸が締め付けられるほど嬉しくて、そして…時々息苦しいほどに…私は大切にされている。
けれど、彼は知っているだろうか…。
本当の私の望みは一方的に守られる事ではなく…貴方と共に並んで外の世界を歩く事なのだと…。
「小夜…?」
二階から洗いたてのタオルケットを手に戻ってきたハジが不思議そうな表情で私を見ていた。
「…どうかしましたか?」
「……ううん、何でもない」
「さあ、良い子ですから無理せず眠って下さい」
鋭い切れ長の瞳がこんなに優しげに緩む事を、多分私以外の誰も知らないだろう。
ハジはそっと私の手を取って、ソファーベッドまでエスコートしてくれた。
おとなしくソファーに体を横たえた途端に、体は素直に眠りに落ちようとする。
本当に…?
本当に、休眠期ではないの?
そんな思いが不安げな表情に出てしまったのだろうか…?
ハジは困った様に眉をひそめた。
「さあ、安心してお休み下さい。…少し眠れば楽になりますよ。例え三十分でも…」
「ハジ…。ここに居て…。隣に…」
そっと掛けられた柔らかなタオルケットをまくって彼を招くと、尚更困ったような表情でハジが笑った。
「二人で横になるには、狭過ぎるのでは?」
「良いの。ぎゅってして…」
不安は拭いきれず、今はどうしてもハジを離したくなかった。
彼の腕の中で眠りたい。
縋る様な気持ちが通じたのか、ハジは仕方のない甘えん坊ですね…と笑って、狭いベッドの隣に滑り込んだ。私はハジの腕を枕にその胸に強く顔を押し付ける。
柔軟剤の香りと、ハジの体臭はどちらが甘いだろう…。
ゆっくりと目を閉じる。
ハジは私の体を優しく抱き締めたまま、長い息を吐いた。
シュバリエである彼は本当に眠るという事がないけれど、こうしているとハジは私の呼吸に合わせてくれているのが解る。
とくん、とくん、とくん、とくん…
昔、まだ彼が普通の人間だった頃、やはりこうして彼の胸の鼓動を聞きながら、同じリズムを刻みながらも、私達の間に流れる時間の流れがあまりにも違う事に涙したけれど…。
あれから、私達の時間の流れは本当に同じになったのだろうか…。
彼をシュバリエにしてしまった事は、本当に申し訳ないと思うのに、私はもう彼がいなければ生きていかれないほどに彼を必要としてしまっている。
私の中には、永遠に解決出来そうもない矛盾が潜んでいるのだ。
 
ハジを離したくない。
甘えたい。
…けれど、甘やかされたくはない。
腕の中でこうして甘えていたいくせに、一緒に並んで歩きたいと願う。
 
「おやすみなさい…。小夜…」
頭上から優しい声がした。
私は半分落ちかけていた重い瞼を何とか持ち上げると、ハジに答えた。
「おやすみなさい。…三十分だけ、こうして居させて…。そうしたらちゃんと起きるから…ね?」
「安心して好きなだけ、お休みなさい。…その代り後で二階の掃除は小夜にも手伝って頂きますから…」
「ぅん…解…ってる…」
答えながらも、待ち切れないように意識が眠りに落ちていく。
ハジは私の額にひとつキスを落とした。
「…頂き物の水蜜桃が食べ頃に冷えていますから、起きたら剥いて差し上げます…」
 
………何?
水蜜桃…?
 
ねぇ、もうそんなに私の事を大切にし過ぎないで…
そんなに大切にしてくれても、私…貴方に甘えるばかりで…
ハジに何もしてあげられないの…
 
それでも、眠りに落ちていく私の脳裏に、ハジの長い指先が器用に桃の皮を剥いてゆく様子がありありと浮かんだ。
リアルな…水蜜桃の甘い香り…ハジの…香り…?
 
白い指先に滴り落ちる果汁…
誘惑の甘い果実…
 
目が覚めて、一番に…
本当は良く冷えた桃よりも、果汁に濡れたハジの指の方が美味しそうって言ったら、貴方はどんな表情をして困って見せてくれるの?
 
「小夜…何を寝ながら笑っているんです?」
 
小さな問いは聞こえていたけれど、わざとそれには答えないまま、私はもう一度強くハジのシャツの胸に顔を押し付けた。
やがて完全に、私の意識は眠りに落ちていく。

甘えたい。
でも、甘やかさないで…。
 
私の中には、永遠に解ける事のない甘い矛盾が潜んでいるのだ。
   
                           ≪了≫

20090803
夏休みに入って全然更新出来ていないので…。あまりにもイカンなあ〜と反省…。
突貫工事的に、今日一日で書いてみました。
それで短いのです。
これくらいのボリュームの話だと、書くのが楽で良いなあ。

先日、岡山在住の遠縁の親戚から桃が届きましたが、ダンナも悠さんも桃を食べないので、
(悠さんは食わず嫌い…。食べたら好きだと思うんだけど〜〜〜)
私と姑さんで必死に食べました。完食(笑)
美味しかったですよ〜。んで、行き当たりバッタリ的にありがちなタイトルで書いてみました。

そして小夜たんが眠い理由ですが・・・

その1 本当に休眠期がやって来る。
その2 単に寝不足が続いている。多分ハジのせい。(何してるのかは想像にお任せします)
その3 実はまだ気づいてないけど、お腹に赤ちゃんがいる。

まあそんなこんなで、眠い理由についてはお好きなパターンを選んで下さい(…無責任)