仔うさぎの溜息 2


「ちょっと…、ハジはどこ?」
かつん…とわざとらしいほどヒールの音を響かせてデスクの脇に立った存在に、ソロモンは顔を上げた。
面倒だ…と思わないでもなかったけれど、それを表情に出す程彼は迂闊ではない。
「これは、ディーヴァ。お久しぶりです…ご旅行は楽しかったですか?」
一旦パソコンのキーを打つ手を止めて、にっこりと笑ってみせる。
「旅行なんて…。たかが二泊三日の温泉じゃない。そんなの旅行の内に入らないわよ…」
大仰に両手を腰に当てて、じろりと舐める様な視線でソロモンを見た。
見事なプロポーションを大人しい会社の制服に包み、艶やかな黒く長い髪を半分ほどトップで結って形の良い耳と首筋を見せ、垂らした毛先は緩く巻かれ優雅に肩先で踊っている。
綺麗に施されたメイクはまるでプロの手に掛かったようで、どことなく幼さの残る愛らしい顔立ちを少しきつく見せていた。かと言って、決して厚化粧ではない。
下手をすれば下品になってしまいかねないものだが、品を失わないあたりは流石と言っても良い。
「それはすみません。…しかし貴女の様な美人を三日も独り占め出来るなんて幸せな男が居るものですね…」
「…そんな事言ったって、何も出ないわよ。…それよりハジはどこ?」
「…席を外しているようですが。何なのですか?貴女ともあろう人がそんなに血相を変えて…」
やや気を取り直したように、彼女は長い髪を指先で梳いた。
その指先にも綺麗にネイルが施されている。
そうして美しく装っている事こそが、彼女にとっては鎧の様なもので…。
彼女の事をよく知るソロモンはその見事な武装ぶりを可愛らしいとも思わなくはないのだが、しかしまともに相手をしたらこちらが馬鹿を見る事も充分に承知している。
最初のテンションを幾分抑えて、ディーヴァはソロモンのデスクに腕を付いた。
「血相変えてなんかいないわよ…書類を届けに来たついで。…面白い話を聞いたから、本人に確かめたいと思って…」
半ば予想通りといった表情で、ソロモンはぐるりと肘付きのオフィスチェアーを回転させた。
ディーヴァに向き直ると、さも楽しそうに告げた。
「…ああ、もしかして。例の…うさぎちゃんの話?」
「うさぎだか猫だか知らないけど…」
「別に構わないでしょう?…彼も男なのですから…」
「……………」
ソロモンの口調は彼女をからかう様で、ディーヴァは咄嗟に返す言葉を失っていた。
そう言うところが、女性は可愛らしいのだとソロモンは目の前のディーヴァには気付かれない様に小さく口の端を上げた。
「…構わないわよ」
「面白くないですか?秘書室のナンバーワンである貴女にしてみたら、彼は唯一思い通りにならない男…ですからねえ…」
「失礼な事言わないで。…ハジなんか、最初から眼中にないわよ…」
それが本心なのか、彼女なりのプライドなのか…
ソロモンは敢えて推察する思考を止めた。
「…そうですね。貴女はもっと上昇志向が強い…」
つぶらな瞳が、きっ…とソロモンを睨む。
「…ハジは…と」
ソロモンはつと立ちあがると、壁に設置されたホワイトボードを確かめた。
ハジの欄には丁寧な文字で、今日の予定が書き込まれている。
朝一度顔を出したきり、今日はあちこちに点在する系列会社の視察と会議で埋まっていた。
「ああ、今日はもうここには戻りませんよ。…直帰ですね」
「…そう。じゃあ、もう良いわ。ソロモン…あなた何か知ってるの?」
「いえ、大した事は…。…そうですねえ、彼にしては珍しく…今回の彼女は本気みたいですね」
「…そう?」
「十八歳のうさぎちゃんに手も足も出ないみたいですよ、あの彼が…」
くすくすと笑う横顔を、ディーヴァは忌々しげに見詰めた。
「…十八歳なんて、子供じゃない」
「まあ。しかし男としては…これ以上ないのではありませんか?…あどけない少女を自分の手で大人の女に…」
「ソロモン…イヤラシイッ!!」
敢えてそんな言い方をする必要はないけれど、まあ嘘ではないだろう。
「そんな意味ではありませんよ…」
踵を返すディーヴァの背中に、ソロモンは楽しげに言った。
「ハジに伝言なら、伝えますよ…」
「ありがとう…でも必要ないわ。私、ああいう男は大っ嫌いなんだから…」
振り向き様ににっこりと笑う彼女は、もういつもの様子を取り戻していた。
「そうですか…」
「私…そういうあなたの事が一番嫌いよ。ソロモン…」
そう言い残して去ってゆく。
「僕は貴女のそう言うところが可愛らしいんですけどね…」
その態度はあくまで変わらず楽しげで…、やれやれと肩をすくめるとソロモンは再びデスクに向き直った。
 
 
□□□
 
 
あれが…キス…?
 
『っ…い…嫌』
つい、突っぱねてしまった。
強く抱き締められて、唇を塞がれた…。
小夜はハジの柔らかな唇の感触を思い出すと、布団にきつくくるまったままそっと唇に指先を伸ばした。それは小夜が思い憧れていたものとは程遠かった。
小夜を食む生々しい男の唇、絡み付くざらついた舌先の感触、熱い男の息…そのどれもが小夜の見知らぬものだった。抱き上げられて、口付けられて…咄嗟に抵抗してしまったけれど、しかし本当に嫌だったのかと冷静になって考えてみれば、小夜は答えを見失う。
少し、驚いただけ…
そう、突然あんな風に抱き上げられて、まさかキスされるとは思ってもいなかったから…。
けれどもう、時間は戻せはしない。
小夜が拒絶の言葉を零した途端、ハジの腕はするりと小夜の体を開放した。
『すみません。………もうここは構いませんから、早く休んで下さい…』
それはどこかよそよそしい声で、例え二週間という短い時間だったとしても…今まで少しずつ埋めてきた二人の距離を一気に引き裂いてしまったような印象を小夜に植え付けた。
『あ、あの…ごめんなさい』
つい唇を突いて出た謝罪の言葉にも、ハジは僅かに瞳を細めただけだ。
『小夜さんが謝る事ではないでしょう?……貴女の気持ちも考えず、申し訳ない事をしました…』
 
…私の…気持ち……?
 
ハジは小夜の足元に来客用のスリッパを揃えると、まるで酔いの冷めた様な顔で掃除機を取りにリビングを出て行ってしまった。小夜は自分の気持ちが見えず、ただいたたまれなくて…リビングを横切るとハジの顔もまともに見られないまま、自分にあてがわれた客間に引き籠った。
 
…だって、どうしたら良かったの…?
 
いくら世間知らずな小夜だとしても、キスがどんなものであるかという知識は持っている。
ただテレビや映画で知っているそれと実際は、あまりにもかけ離れていた。
生々しい男の吐息がかかったかと思うや否や、唇を唇で塞がれた。
二週間前の雨の夜、車の中で小夜に触れたそれとは全く印象が違って…じっと味わう様に小夜の唇を啄ばみ、やがて当然の様な迷いの無さで彼の舌先が小夜の唇を割って内部に侵入した。
未だかつて経験した事のない濡れた感触のそれが、小夜の舌に絡み付く…
 
今は枕元に置いたままの鍵の重みが、小夜の中でぐんと重みを増した。いつも穏やかで、紳士的なハジの中にも、確かにあの社長と同じ『男』の部分は存在するのだと…。
それを見越した上で、ハジはこの部屋に鍵を付けてくれたのだ…。
その意味を考えると、胸がぎゅっと苦しくなった。
 
そっと枕元の鍵を握り締める。
 
それは確かに彼の誠意なのに…。
急に男の存在が生々しく感じられる。
 
だけど…。
 
 
そう考えているだけで…ほわん…と、何かが小夜の中で揺れる。ざわざわと、甘く落ち着かない何かが揺れながら…小夜の中でゆっくりと熟し始める。
まだほんのりと色味を増しただけのそれが、甘い芳香を放ち始める。
 
私…。
あなたが好き…。
ハジ…。
 
「…好き…」
 
こんなにも親切にして貰っておきながら…。
しかし自分は咄嗟にあんな風に彼を拒絶して、…ハジに嫌われてしまったのではないだろうか…。

ハジのやや冷めた声が、小夜の耳に蘇った。
 
 
□□□
 
 
就業時間を過ぎて、オフィスは静まり返っていた。
元々他の部署とは離れた階に存在する社長室は、ほとんど限られた社員しか出入りする事はないと言っても決して大袈裟ではないのだが、それでも昼間には何人もの社員が行き交う広い室内に、今人影は彼一人だった。
半透明のパーテーションで仕切られた一角がソロモン個人の為に与えられたスペースだが、誰に気兼ねする事もない今は気ままに窓際に佇んでいる。流石に禁煙スペースで喫煙する訳にはいかないからか……指先に挟まれた煙草に火は点っていない。
綺麗に磨かれたガラスはソロモンにその存在さえ忘れさせた。
夜の漆黒に明るく映り込む自らの金髪をソロモンは指先で煩そうにかき上げた。
眼下に広がる東京の摩天楼はある程度成功の証なのかもしれなかったが、それで満足かと問われれば余りにも満たされない部分が多過ぎる。
社長の補佐として働くもう一人は、最近やけに充実した様子で…何を考えているのか鬼の様な形相で仕事をこなしていた。月末までの予定を無理やり繰り上げ、ギリギリまで残業をして…。
その上、支障の無いものに関しては自宅にまで持ち帰っている様子だ。
勿論以前から彼は真面目ではあったが、ただその実直さの中にも目的の見えない空洞が垣間見えて…ソロモンはどこか自分と似た様な何かを感じていた。
しかし、うさぎを拾って以来、彼は目に見えて何かが違って見える。
いや、多分そんな変化に気付いているのはソロモン一人なのだけれど…。
 
別に…。
ハジにそんな存在が出来た事を羨ましく思っている訳ではない。
 
 
「…良かった」
不意に背後に現れた当の本人の姿に、しかしソロモンは動揺を見せる事無く振り向いた。
一日の疲れか、やや強張った表情のハジはスーツのジャケットを脱ぐと無造作に傍らの椅子の背に掛けた。
「…何が、ですか?…今日はそのまま帰るのだろうと思っていましたけど…」
「……いや?」
ソロモンは椅子から立ち上がると大きく背伸びをして、ちらりとハジの様子を伺う。
心の籠っていない口調で肩を落として見せ、
「嘘をついてしまいました…」
…と、デスクをぐるっと回り込み隣に並ぶ男に笑ってみせる。
「嘘?」
「ディーヴァ嬢があなたを探していましたから。…少々五月蠅いな、と思いまして…」
「…訳が解かりません。しかし…あなたには礼を言っておいた方が良いようですね…」
事情もよく飲み込めないままにハジはそう答えると、自らのスペースに戻り抱えていたファイルの束を片付け、まだ仕事が残っているのかノートパソコンを広げた。
電源を入れると、微かな機械音と共にそれが起動する。
「…そう言えば、何が良かったって?」
「急で申し訳ありませんが…来週の月、火と二日間、有休を取る事になりました。それから明日の報告会議も、欠席です。……優秀なあなたがいれば何事も問題はないと思いますが、一応直接…後を頼んでおこうと思いまして…。今、あなたの端末にデータを送ります。ほとんど社長の指示待ちですが…」
特に『優秀』を強調しておきながらも、ハジは一方的に話を続ける。
「ちょっと待って下さい…。急にそんな事を言われても、僕は聞いていませんよ。それであんなに仕事に励んでいた訳ですか…?」
わざと呆れたように言ってみるも、今のハジにあまり効果はない。
「ですから…今、話しました。それに今日の午後になって急に決まったのです…」
顔もあげず…既に座ってパソコンの画面を睨んでいるハジに、間違いなくうさぎ絡みだと…ソロモンは肩を落とした。これでは、ますます彼女の癇に障る事になるだろう…。
「まあ、お互いさまって事で……。この分は付けておきますが…高く付きますよ…」
「何でも…」
「太っ腹ですね…」
静かな室内に、キーを叩く音だけがやけに大きく聞こえる。
「うさぎちゃんとは…その後上手くいっているのですか?」
「彼女はうさぎではありませんよ…」
「知ってますよ。…じゃあ何と呼べば良いのですか?」
漸くその時になってハジは顔を上げた。その目が酷く機嫌の悪い事に気が付かないソロモンではないが、しかしだからこそ追及し甲斐があるというものだ。決して楽しそうな態度を崩す事無く、ソロモンはハジの隣に立つとその答えを待った。
「…呼ぶな」
「それは残念…」
「………それに彼女は…もう出て行くかも知れない」
半ば独りごとの様に零れおちた小さな言葉に、『まさか本当に自宅に持ち帰っていたのですか?』…とわざわざ芝居がかったふりで大袈裟に驚いて見せながら、くすくすと忍び笑いを漏らし…胸で腕を組むとソロモンは彼の神経を逆撫でする様に、言い放った。
「…振られたって事ですか?」
「………………」
「大人しく僕に相談しないからですよ…」
「…………。…そうですね」
とても本気で言っているとは思えない態度だが、それを気にかけるソロモンではない。
「休みを取るのは、彼女の為なのでしょう?」
質問に対する答えはない。
肯定と取って、ソロモンは再び肩を落とした。
呆れて言葉にもならない。
どうしてそんな知り合ったばかりの相手の為に、無理を通して貴重な休みを取るのか…。
仕事を持ち帰り、昼休みもろくに取らないほど根を詰めて…?
どうして、そこまで…?
「…どうして…」
ソロモンの小さな呟きは、ハジには聞き取れなかった様で…。ただ怪訝な視線を上げただけで、ハジは再びパソコンに視線を落とした。
「何か?」
「いえ…。なんでもありませんよ…」
そう答えてしまえば、もう二人の間に会話はなかった。
長い沈黙が支配する。
やがてハジは作業を終えると、てきぱきとパソコンの電源を落とした。
一つ大きく伸びをして立ちあがる。
「どうしてか…等…自分でも解かりませんよ…」
「聞こえていたのですか?」
「…ただ、彼女にはいつも笑っていて欲しいと…そう思うだけなのですが…」
何の照れも無くそう言う事が言えてしまうだけ…彼は自分よりすれていないのだと、ソロモンは思う。通り過ぎる人も振り返る程の美貌を持ち、それなりにこの若さで社会的地位も築き、性格も穏やかとなれば、勿論黙って見ている女はいない。
口説かれる事も少なくはない様子だが、しかし、彼は今までに女性に本気になった事などあっただろうか…。
確かに彼は優し過ぎると言っても過言ではない程に、女性に親切ではあったけれど常に冷静で、すぐ隣で見ている限り…彼がこんな風になった姿をソロモンは見た事がない。
だから、傍で見ているのは面白い。
面白いけれど、ハジを見ているとソロモンの中でどこか釈然としない感情も生まれる。
誰か一人に夢中になれるハジが、羨ましいという訳ではないけれど…。
「重症みたいですね…」
「………………………」
ソロモンの言葉にハジは黙っていた。
それは肯定と言う意味なのか、ソロモンは言葉を続けた。
「まあ……正しくそれが恋というものだとは思いますけどね。…しかしもう…うさぎちゃんには振られるかも知れないのでしょう?」
「………………。…彼女に見返りは、求めてはいません」
ハジは素直にその気持ちを言葉にする。
嘘ではない。
「…そう言うのが一番重くて煩わしいものなのではありませんか?………彼女にしてみたら…」「それでも今…無責任に自分から彼女の手を離すつもりはありません…」
全ての選択肢は彼女に託されているのです…と。
「僕には、解かりませんね…」
「…………………」
呆れたように呟くソロモンを横目に、ハジは再びスーツのジャケットを羽織った。
 
 
□□□
 
 
今朝はどうしてもハジの顔を見られず、小夜はわざわざいつもと時間をずらして起きた。
彼が出て行ってから、こっそりと起き出してダイニングへ行くと、いつもと同じようにトーストの朝食が準備されていた。
彼の分は既にきちんと片付けられている。
そして、テーブルの上にはマグカップを錘代わりにして、小さなメモが置かれていた。
綺麗な字で、『昨夜はすみませんでした』と一言だけ。
こんな風に時間をずらしてまで、彼を避けていしまった自分が無性に恥ずかしかった。
昨夜は布団に戻ってもなかなか寝付かれず、色々な事を考えてしまった。
もしかしたら、彼に嫌われて…もうここを出て行かなければならないかも知れないと、先の事まで考えていた。
とにかく、彼に一度きちんと謝って、それから…。
そんな事を考えている内に、いつしか眠りに落ちていたようで、小夜は寝不足の目をきつくこすった。
 
一日の授業を終え、夕方誰もいないこの部屋に帰る。
この二週間、…たった二週間ではあっても、それが毎日の日課になっていた。
しかし、それももう終わりかもしれない。
あんな風に彼を拒絶して、このままここにおいて貰うなど都合のいい話はないように思えた。
ハジはいつも帰宅が遅く夕食は外で済ませてくる事がほとんどで…小夜はいつも簡単に一人分の食事を用意するか、買ってきたおにぎりなどで夕食を済ませる。
この春から独り暮らしをするようになって、こんな食卓にも随分慣れたけれど、それでも一人で食べる食事は寂しい。初めてこの部屋で食べたのは、ハジの買って来てくれたコンビニのお弁当だった。何の変哲もない幕の内弁当の卵焼きが、あの時はとても美味しく感じられた事がぼんやりと思いだされる。ここでこうして食事をするのも…もう、今夜が最後かも知れない。
そう思ったら、無性に何かしなければ済まない気になって…小夜はキッチンに立った。
今夜もきっと彼の帰りは遅い。
だから、一緒に食べられるか…それどころか、食べて貰えるかどうかも解からなかったけれど…それでも一緒に食卓を囲めたら…。
そう思い、一人の長い時間を誤魔化す様に小夜は冷蔵庫のドアを開けた。
父は料理が上手で一人居酒屋まで切り盛りしていたけれど、小夜はもともと不器用な性質でこれと言って得意料理と呼べるものはない。しかも、あまり使われていない冷蔵庫には大した食材も揃ってはいなかった。
帰り道、ちゃんと買い物をしてこれば良かった。
あちこちの戸棚を探り、小夜はやっとの事でパスタの乾麺を見付けた。
二人分には足りるだろう…。
ハジは普段料理をするのだろうか…。
パスタを手に小夜は想いを馳せる。
このところの彼の生活パターンを見る限り、料理が出来る、出来ないというより以前に…キッチンに立つ暇など無さそうだった。
それではこの使い掛けのパスタはいったい誰が買って来て、ここに置いたのだろう?
1キロの表示から半分以上は使ってある様子だ。
もしかしたら、彼にだってそうしてパスタを作って一緒に食べる相手がいたのかも知れない。
いや、いたのかも…と言うよりは、今もいるのかも知れない。
そんな事を思うと、小夜は胃がキリキリと傷んだ。
しかし、パスタは見付かったものの…それだけでは話にならない。
冷蔵庫の中の食材を見渡しても、自分の作れるものが思い当たらない。
それともご飯を炊いた方が良いだろうか…。
自分一人なら、白いご飯とふりかけで夕食など済むけれど…。
ぐるぐると取り留めもなく、小夜は考える。
そうしている内に、どれくらいの時間が過ぎたのだろう…。
玄関からガチャリと施錠の開く音が響いて小夜は我に返る。
時計はもうすぐ七時になろうとしていた。
 
どうしよう…。
 
まさか今夜に限って、こんなに早く帰ってくるなんて…。
 
心の準備も出来ないまま、まともに顔さえ見られない。
どんな態度をとれば良いのかも、わからない。キッチンの片隅で固まる小夜に、帰宅したハジは僅かに不思議そうな表情を覗かせただけだった。
「小夜さん?」
「あ、ええと。あの…晩御飯何か作ろうと思ったんだけど…私…。お料理苦手だから…」
ハジは小夜の言葉に、ああ…と小さく頷いた。
「夕食は、まだなのですね?」
そう確認して、ようやく荷物を床に下ろす。
銀色のアタッシュケースの他に、白いスーパーの袋があった。
「幸いです。今日は珍しく仕事が早く上がれたので一緒に何か食べられたら良いと思ったのです」「…え?」
「…何がお好きですか?」
そう言い残して、ハジは自室へと引っ込んだ。
「え……?…お好きって?」
ハジを追いかける様にして付いていくと、ハジは既にジャケットを脱いでいた。ネクタイを緩め、ワイシャツの襟元に指を掛けたまま振り返る。
「…あ、あの…」
「…何がお好きですか…と言っても、今作れるものしか作れませんが…」
「……あの」
「……例えば………」
メニューを組み立てているのだろうか…。
「あ、あの…」
あんなにも昨夜の事を謝ろうと思ったというのに、いざとなるとなかなか言葉に出来ない。
「小夜さん…」
「あの…私…」
「……………」
「あ…あの…」
「小夜さん…そろそろ着替えたいのですが…」
どこか小夜の言葉の続きを聞くのが怖いかの様に、ハジはにっこりと笑って胸元のボタンを外し始める。
「あ、ご…ごめんなさいっ!」
小夜は慌てて、ドアを閉めた。
 
 
スーツを脱ぎラフな服装に着替えを済ませたハジは、キッチンに立つと小夜には真似の出来ない手早さで、夕食の準備を始めた。簡単なもので申し訳ありませんと断りながら、カルボナーラとグリーンサラダ、そしてコンソメスープを作る。
小夜はその横でハジの手際の良さに見惚れながら、デザートのリンゴを剥いた。
座っていて下さい…と言うのを、そう言う訳にもいかず無理に仕事を勝ち取ったのだ。
しかし、覚束ない様子でなかなか手の動かない小夜の様子に、思い切った様子でハジが言った。「…もし今日帰宅して…貴女が居なかったらどうしようと思いました」
「え…?」
それは昨夜のせいだろうか?
嫌われたのではないかと、心配していたのは小夜の方だというのに…ハジはまるで自分が嫌われたかのような口調で、思いがけず小夜は細い果物ナイフを取り落とした。
「…昨夜の事で、貴女に嫌われてしまったかと…」
青い瞳がちらりとサヤを覗き込んだ。
真っ直ぐな視線に射抜かれた様に、小夜の頬が一瞬にして上気する。
…違う、嫌われてしまったかも知れないと…心を痛めていたのは自分の方なのだ。
そう思った途端…
「っ…きゃ」
小夜の手からぽろりと果物ナイフが零れ落ちる。
「大丈夫ですか?…どこか、切っていませんか?」
小夜の手にすっと伸ばされた指が、触れる直前で留まる。
「あ、はい…。どこも…」
「…貴女がまだこの部屋に、いてくれて良かった…」
覗き込む瞳の青さに、小夜は茫然と…今更ながら…彼の瞳はどうして青いのだろうと…そんな見当はずれな事を思う。
「…嫌ってなんか、…いません。…私の方が…」
嫌われてしまったかと、心配になっていたのだから…。
ハジは完全に料理の手を止め、小夜に向き直っていた。
寸胴鍋からしゅんしゅんと湯気が上がる。その淡く白い湯気を視線の端に捉えながら、彼の唇がゆっくりと動くのを見ていた。
「…私の方が…?」
「…な、何でもありません。私…」
「…私?」
良く響く甘い声が、小夜の言葉をゆっくりと繰り返す。
 
語尾をとらえないで…
 
「…私……少しびっくりしただけです…」
そして、ごめんなさい…と小さく付け加えた。
ハジは目を伏せ、驚かせてしまい申し訳ありませんでした…と、小夜に謝罪した。
 
鍋の湯がぐらぐらと煮立っていた。
暖かい湯気がふわりと二人を包む。
小夜の手から零れたリンゴの欠片が、ステンレスの作業台の上に転がった。
 
「…驚かさなければ、…構いませんか?」
低く、穏やかな…吐息の様な声だった。
「…あ、……んぅ…」
見上げるほど高い背を屈める様にして、ハジが小夜の唇に触れた。
 
それは、蜜の様に甘く…優しく、小夜を満たす三度目のキスだった。

《続》


20090615
長くなってしまうので〜、やっぱり前中後編と言う事で…。す、すみません!
なんだかですね、すごく私流されてませんか…?と言う気分です。
その割に話が進んでるんだか、ないんだか…。
書きながら、いつものハジと小夜は、始祖とシュバリエで、ご存知のように色々なしがらみに縛られているんだな〜みたいな事を
改めて実感しています。
〜何とか、これは次で再びキリを付けて終われたらな〜と思います。なるべくお待たせしない様に!!
それではここまで読んで下さいまして、どうもありがとうございました!