「では、行きましょうか…」
何気ない仕草で腕時計を確かめると、ハジはいつもどおりの落ち着いた所作で手にした経済新聞をテーブルの上に置いた。いつもよりもずっときっちりとまとめた髪、クリーニングから戻ってきたばかりの白いワイシャツに落ち着いた色合いのネクタイ。
それは初日、会社から直行した為に一着だけ手元にあるスーツだった。
暑いからTシャツだって良いのに…と言う小夜に、ハジは『それでも初対面ですから…』と譲らない。
皺にならないようにハンガーに掛けたジャケットを片手に取ると、『どうしたのですか?』とでも言わんばかりに小夜を振り返った。
小夜はまだ戸惑う様にベッドの端に腰を下ろしている。
気の進まない様子は傍目にも見て取れて、ハジは一旦手にしたジャケットをソファーの背に預けるとゆっくりと小夜の前に立った。
「…行きたくありませんか?」
「……う…ん。……ちょっと、心配…」
小夜の目線に合わせて膝を着き小夜を優しく覗き込んでくる。そんな彼を相手に気持ちを誤魔化す事はとても無理に思え、小夜は素直に小さく頷いた。
「…だって、お父さん…ハジの事、何も知らないんだよ。……それなのに…」
突然に、ハジが『沖縄を離れる前にお父さんに紹介して欲しい』と小夜に言い出したのは、昨日の昼間の事だ。
「だからこそ、やはりこの機会に一度ご挨拶しておこうと思ったのですよ」
そのスーツが仰々しい気分にさせるのだとは、とても言えない。ただでさえ気が重いと言うのに…場所が病院であると言う事を除けば…これでは何だか結婚の許しを貰いに行くようなシチュエーションだ。
小夜はフリルのついた白いノースリーブのブラウスに、ふわりと広がるひざ丈のスカート。
沖縄の海のような青のグラデーション。麻のサンダルから覗く爪先にほんのりと桜貝のようなペディキュアが愛らしかった。
「一昨日は、まだ話さない方が良いって言ったのに…」
彼はまだあの時、入院中の父親にはこれ以上心配を掛けない方が良い…と言っていたと言うのに。「…気が変わりました。……というよりも、考え直したのですよ。この先も…私達が付き合うと言うなら、初めからきちんと話しておいた方が良いでしょう?」
その瞳が、『貴女は嘘をつくのが苦手なようですから…』と笑っていた。
「…お父さんに対して下手な隠し事をさせる訳にはいかないと思ったのです。それに…流石に毎週末会いに来られる訳でもありませんからね…」
遠距離だからこそ、いざとなれば全てを隠したまま付き合い続ける事も出来るだろう。
しかし遠く離れているからこそ、大切な人に隠し事はしない方が良いのです…とハジは続けた。「………ぅん」
ハジの言い分は筋が通っているようにも思う。
それに彼の『この先も付き合う…』と言う一言に、小夜の胸はふわりと甘く潤っていた。
しかし…。
尚も浮かない表情の小夜にハジは続けた。
「…それに貴女は気にしていたでしょう?お父さんに火事の事も、私の事も、話せなかったと…」「……………だって」
「いずれ知れてしまう事なのですから…。お父さんも…、私も…貴女を大切に思っている事は変わりません…。ただ立場が少し違うだけです。ですから、もう……心配しないで…」
尚も決心が付かないままの小夜に、ハジは『さあ…』と言って手を差し伸べた。
「…ハジ。……緊張しないの?」
「…勿論…していますよ。約束もなしに小夜のお父さんに初めてご挨拶をしに伺うのですから…」しかし事も無げにそう言う口調は、とても緊張しているようには感じられなかった。
小夜は差し出された手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
ハジとは正反対に、小夜はこれ以上ないほど緊張していて…気分が悪くなりそうなほどだ。
「…お父さんに、何ていうの?」
「……そうですね。まずは……初めまして?」
「もう…っ!!ふざけないで…」
本気になって唇を尖らせる小夜に、慌てて訂正する。
「…有りのままを、話そうと思いますが…。……まあ、貴女が夜のクラブでバニーガールをしていたと言う事は伏せておきますから…大丈夫です」
そんな風に笑いながらジャケットを取り、ハジは客室のドアを開けた。
昨夜チェックインしたホテルは地元に生まれた小夜には縁のない海沿いのリゾートホテルだった。スパニッシュ風の柱とアーチ型の天井装飾、大きなガラスの窓からキラキラと光を反射するプライベートビーチが垣間見える。
緑に溢れた南国のリゾートに、きっちりとスーツを着込んだハジの姿は少し違和感があった。
すれ違う観光客の誰もが振り返った。彼の口調からは一見どこからどこまでが本気なのか解らないけれど…冗談でここまでする筈がない。
迷いのない瞳の色に、彼の本気が窺い知れる。
迷いのない歩み、広い背中。
相変わらず、小夜の緊張は解けないけれど、小夜は全てを預ける様にハジの後ろに付いてゆく。どうか、再びこの景色を見る時には、心から笑っていられるように…と、小夜は心の中で願っていた。
 
 
仔うさぎの溜息・6
 
 
父ジョージは、大部屋に空きがないという理由で仕方なく個室に入院していた。
入院費用の負担は大きいが、小夜は今になって個室で良かったと思わずにはいられなかった。まさか他人の目があるところで…とは思うけれど、二人が口論にならないとは限らない。
つい一昨日…弟のリクに案内されて通った病院の長い廊下を、小夜は可愛らしいフラワーアレンジを抱きしめてハジと共に歩いていた。
小夜は断ったけれど、初対面の上にお見舞いなのですから…と、ハジが買ってくれたフラワーアレンジは、父の好きなヒマワリの花を中心に明るい色遣いで、全体に白い病院の景色にそこだけ黄色い絵具を落とした様に明るく感じられた。
この花の様に晴れやかな気持ちで、数時間後には…病院を後にする事が出来るだろうか…。
緊張しますね…と隣でハジが小さく笑ったけれど、その態度は普段と変わらず、とても緊張しているようには見えない。しかし一歩進むごとに小夜の心臓の鼓動は次第に大きくなり、心臓は今にも口から飛び出しそうで…目指す父の病室の前に来ると、小夜の緊張は最高潮に達していた。
小夜はハジに少し待つように言い残して、大きな引き戸を遠慮がちにノックした。
室内から父の返事を確認すると、小夜は少しだけドアを開けて中を覗き込む。
せめてリクがここに居てくれれば…と願わずには居られなかったけれど、今日は月曜日なので中学生のリクがここにいるはずもない。
ドアを開けると白いカーテンが半開きになっていて、ちょうど担当の看護師が体温と血圧のチェックに訪れていた。小夜は小さく頭を下げて『父がお世話になります…』と、ベッドの奥に回り込んだ。
父は少し驚いたように、まだ帰ってなかったのか?と呟き、それでも愛娘の見舞いに嬉しそうに顔を緩ませた。
小夜とそう年齢の違わないように見える若い看護師は、『可愛いお嬢さんですね…』と笑いかけ、父の『いやいや、いつまでも子供で困ります…』と聞き慣れた応対が小夜の耳を素通りする。
やがて確認事項をワゴンの端末に入力すると、看護師は忙しそうに病室を出て行った。
そうして二人きりになると、父はベッドに上半身を起こして小夜に問いかけた。
「…その花は何だ?…誰か来てるのか?」
家族の見舞いにしては大層な大きさのフラワーアレンジを誤魔化す事は出来ない。
それに、すぐそのドアの向こうではハジが呼ばれるのを待っているのだ。
小夜はサイドボードの上にアレンジを置くと、覚悟を決めたように大きく息を吸って、ゆっくりと父に告げた。
「…あのね、お父さん。突然で…きっと驚かせちゃうと思うけど…。…お父さんに会って欲しい人がいるの…」
「…おいおい、何を…」
と言いかけたところで、父の表情が僅かに強張る。小夜の緊張にいつにない何かを感じ取ったようだ。
「…小夜?」
隠しても仕方がない。
「…あの、…私…、私ね。…好きな人が…出来たの…それで…」
「小夜…。もしかして……その彼が………今、一緒に来てるって言うのか?」
小夜は小さく頷いた。
「小夜…お前…」
小夜は答えないまま素早く病室を出ると、ハジを呼んだ。
ハジは静かに微笑んで小夜に答えると、小さな背中の後に続いた。
「…失礼します」
ドアの前で一礼して声をかける。
一歩病室に入ると、ハジは自分にじっと注目している彼女の父親にもう一度深く頭を下げた。
「お父さん…、彼…ハジさんって言って…向こうですごくお世話になったの…。あの…あのね…」そこまで言いかけた小夜を、気遣うようにハジはそっと…縋る目線の小夜を制した。
「初めまして。ハジと申します。今日はこのように入院先まで押し掛ける非常識をお許し下さい。東京で会社員をしておりますので、この機会を逃せばずっとご挨拶が遅れると思い、御迷惑かとも思いましたが寄せて頂きました…」
「…あ、あのね…」
「…小夜さん」
堪らずに割って入ろうとした小夜を再びハジは制した。
思い掛けない男の登場に…当初呆気に取られていたジョージは、気を取り直した様にハジに向き直った。
「初めまして。…小夜の父親の、宮城ジョージです。こんな寝間着姿で申し訳ない。まあ、立ち話も何ですから…座って下さい…」
小夜…と目配せして折り畳みの椅子を広げさせる。
勧められるまま、ハジは恐縮して椅子に腰かけた。
そのしばしの沈黙が、小夜には何より重い。
背筋を伸ばした姿勢で、浅く腰かけたハジに、ジョージは改めて言った。
「…それで…?小夜とは…どんな…」
「…小夜さんとは、彼女のアルバイト先で知り合いました。お父さんはまだご存じないと思いますが、彼女のアパートが火事で全焼して…今彼女には私のマンションの一部屋をお貸ししています」ジョージは初めて知らされる火事の話に、驚いた表情を隠せないままきつく小夜を呼びつけた。「小夜っ!!お前はそんな大事な事を…。この間もそんな事…一言も言わなかったじゃないか…。大丈夫なのか?」
「ご、ごめんなさいっ…」
「…お父さん」
思わずそう口にしたハジに、ジョージが視線を移す。
「さすがに申し訳ないが…初対面の男にお父さんと呼ばれる覚えはない…」
父、ジョージは厚い胸板の上で硬く腕を組んだ。そう言われるだろうと言う事は予想していたのか一見きつく感じられるその対応にもハジは表情を変えなかった。
「尤もです。…しかし敢えて今日はお父さんと呼ばせて頂きます」
穏やかな中にも意志の強さを秘めた声に、ジョージもまた呑まれた様に口を噤んだ。
「…小夜さんと初めて出会ったのは、彼女のアルバイト先でした。家庭の事情で…慣れない職場で懸命に働く彼女に惹かれました。偶然、彼女のアパートが火事である事を知り、居ても立ってもいられずに…小夜さんを探しに向かい…燃えるアパートの前で…今にも泣き出しそうな彼女を見付けました。常識で考えても、若い女性を自宅に連れて帰る事に躊躇しなかった訳ではありません…。しかし…全てを失い路頭に迷う彼女を、放って置けませんでした」
一息に、ハジはそう語り、ジョージは小さく息を継いだ。
「…それでまさか、いきなり病人の枕元に押し掛けて『好きになったから小夜を嫁にくれ…』と言う訳ではないだろう?…小夜はまだ十八歳になったばかりだ」
「解っています…小夜さんの意思を確かめた訳ではありませんし、そんな大切な事を軽々しく口にして良いとは思いませんが、私はこの先も彼女とお付き合いさせて頂く上で、いずれその様になれたら良いと思っています。今日は、この先小夜さんとお付き合いさせて頂く為に、一度ご挨拶に伺ったまでです」
「ハジさん…」
ジョージよりも早く、小夜が反応する。
つまりいずれは嫁に欲しいと言う意味の言葉に小夜の胸が熱くなる。
「…ハジさん、私…」
父親の前である事も忘れて、小夜は今にも泣き出しそうな赤い眼をしてハジを見詰めていた。つい『ハジ』から再び『ハジさん』に戻っている。
「…小夜」
労わる様に差し出されたハジの指を小夜はぎゅっと握りしめた。
「…………突然にすみません。こんな大切な話を…貴女の気持ちも考えずに…」
「………ううん」
小夜は大丈夫と、健気に首を何度も横に振った。
そんな小夜の姿に、ジョージは大きく肩を落とした。
「小夜…。引き出しの中に俺の財布がある。一階のコンビニまで行ってお茶でも買って来てくれないか?」
「…お父さん、お茶なら…そこの談話室にだって…」
「…父さんは彼と話があるんだ…。行って来てくれ…」
強く言われ、小夜は仕方なく引き出しの中から黒い革の財布を取り出した。
「お前達を怒っている訳じゃあない…心配せずに行っておいで」
父の言葉に押され、しかし後ろ髪を引かれるような思いで小夜は病室のドアを開けた。
小夜が出ていくのを確認すると、ジョージは再びハジに向き直った。表情は険しいが、先程の言葉通り頭から怒っているという様子でもなかった。
ハジは改めてまっすぐにジョージを見据えた。
頭に白髪は交じるものの…十八歳の娘の父親としては随分若い印象を受けるジョージは、逞しく大柄な男だった。
ベッドの上で寝間着姿だと言うのに、全身から生気が溢れている。
今はベッドの上だけれど、きっと並んで立てばハジよりも逞しい分ひと回りは大きいはずだ。
ジョージは娘に対するのとはまた少し違う態度で、居住まいを正すようにしてハジに頭を下げた。「…まずは、一言お礼を言わせて下さい。父親の私が情けないばかりに…知らなかった事とは言え…小夜が大変お世話になりました。今はこの様な事情で小夜にはずっと連絡出来ずにいましたが…まさか火事に遭うとは…」
「…いえ。…残念ながら荷物のほとんどは焼けてしまいましたが、小夜さんは幸い外出中でしたので…無事に済んで何よりです」
ハジはそう答えて頭を下げた。
背筋を伸ばして真っ直ぐに自分を見るハジに、ジョージはもう一度、小さく息を継ぐ。
「……しかし、年頃の娘の父親として、内心穏やかではいられない気持ちも察して貰いたい。…小夜はまだ十八歳になったばかりだ…。…世間知らずで、甘ったれで、恋に恋する年頃だ。君の様な綺麗な男性に親切にされれば、のぼせ上がってしまうのも無理はない。それが単に憧れであるのか本当の自分の気持ちであるのかも解らないまま…ただ雰囲気に流されているという事はないですか?君は見たところ、きちんとした企業にお勤めの良識ある社会人なのだろうと思います。きっと周りには美しい大人の女性だってたくさん居るんでしょう?それがよりによって…どうしてうちの小夜なんですか?」
「…最初は戸惑いました。彼女が年の離れた…まだ未成年であると言う事に…そして自分達がまだ出会って間もない事に…。……しかし…誰かを愛するのに理由など必要ないのだと言う事を、小夜さんが私に教えてくれました…。確かに私の周りにも女性は沢山いますが、小夜さんと言う女性は世界にたった一人ですから…」
ジョージは天を仰いだ。そしてしばらく黙りこんだあと、ゆっくりと組んだ腕を解き、どうしたものか…とでも言うように、何度か顎に手を当てて伸びた髭を撫でる。
「…俺も、昔はそんな若造だったのかねぇ…」
「…………………」
「…俺も昔、好きな女性のご両親に面と向かって同じ様なセリフを吐いた事があってなぁ。さぞ…若造だと思われたんだろうさ…。そう言うセリフを面と向かって言える所が……」
当時を思い出しているのか…ジョージは懐かしげに眼を細めた。
そんな彼の態度にハジも少し面喰った様子で、言葉を失う。
彼にとって、自分は可愛い娘についた悪い虫なのだから、当然のように冷たくあしらわれる事はあっても、突拍子もなく彼自身の昔話を聞かされるとは思ってもみなかったのだ。
「…………………」
「…それが妻です…。そうは言っても、ほとんど駆け落ちのようなもんだった。すぐにカイが出来て…。小夜に…父親ぶって偉そうな事を言っても、自分にも身に覚えがある。ですから……そう言う若い言い分を頭から否定する事は出来ません」
遠いところを眺めていた視線が、不意にハジに戻る。
「頭ごなしに反対はしない。だが、俺も小夜の父親として言わなければならない事はある。小夜を泣かせるような事は許さない。不幸になるのをみすみす放って置けるはずもない。俺は君とは初対面だ。だから何を信用しろと言われても………。だいたい、こんな突然の話…」
「……………申し訳ありません」
ハジはおとなしく詫びた。
「…つまりこうして、ここに小夜が帰って来れたのも…君の世話になっていると言う事なんでしょう?」
「……火事に遇う以前に、小夜さんからは実家の店が人手に渡ったと言う話を聞いていましたし、その後もずっとお父さんとも連絡が取れずにいました。住む場所や身の回りの物を面倒見る事は出来ても…小夜さんの不安を取り除く事は、私には出来ません。…沖縄に来て…まさかこんなスムーズに、ご家族の行方を知る事が出来るとは思いませんでしたが…」
「会社員である君が長期連休でもないのに、こうして沖縄についてくる事はさぞ大変だったでしょう?」
「…いえ、仕事の段取りは済ませてきました。本当は、もっと早く来る事が出来れば良かったのですが………」
二人の間に、奇妙な沈黙が流れる。
ジョージは壁の時計を気にしながら、何度も腕を組み替えた。
そろそろ小夜が戻って来るだろうか…。ハジは自分がどこまで口を挟んで良いものか躊躇いながらも、どうしても確かめなければならない一言を口にした。
「…私が口出し出来る立場ではありませんが…。借金の返済は大丈夫なのでしょうか?一昨日、大まかな事はリク君に伺いましたが、謝花組さんがOMOROを買い戻してくれると言う話は…?」
「…リクも君の事を知っていたのか?何も言ってなかったぞ…」
「よく出来た弟さんです…」
ハジの一言にジョージは曖昧に頷いた。
実の親子とはいえ、リクはジョージに似ていない。既に他界したと言う母親似なのだろう…。ハジはぼんやりと脳裏に若かりし日のジョージの姿を思い描いた。
「…謝花さんには普段から良くして貰ってる。…謝花さんという人は沖縄独自の文化と言うか…まあそう言ったものも含め…とにかく内地の企業が沖縄に入ってくるのを嫌っている所があって…。OMOROと言う店にその価値を見出してくれたんです、まあそれなりに繁盛していたから…潰すには惜しいと…。今はまだ手続きが整わず店はそのままにしてありますが…」
「そうですか。…確かに信用できる話なのですね?」
「勿論だ…。俺の立場は雇われ店長に変わるが…それでも店をそのままの形で続けられるのなら、そんな事はどうでも良い…。長男のカイにしろ、小夜にしろ、リクにしろ…いずれ親元を離れていく…子供にはそれぞれの世界も生き方もある…父親の俺に出来ることと言えば、いつまでも変わらずに、ここで彼らが帰ってくる場所を守るって事だけだ」
「ですが、現実的な話…それで小夜さんの学費や仕送りまで…。…まだリク君は中学生ですし…」これから彼らが成人して社会人となるまで、ますます出費はかさむ一方の筈だ。もし、小夜の学費の支払いが滞るような事があれば、この先4年間も大学に通い続ける事は難しい。
「初対面の君にそこまで心配されるとは…父親としての面目がないが…小夜の学費の事なら」
「…心配しているのは、小夜さんです」
「…………」
否定できないままにジョージは頷いた。
しかしほんの少し躊躇を覗かせながらも、はっきりとハジの顔を見ると告げた。
「小夜の学費の事なら、本当に心配はない…」
「…………小夜さんは、間違いなくこのまま大学を続けられるのですか?」
「俺と小夜の苗字が違う事について、小夜から何か聞いたかい?」
「……はい。自分はお父さんの実の娘ではないのだと…」
「…そう……俺の妻と、小夜の母親は、それは仲の良い双子の姉妹だったよ。…小夜の両親は小夜が生まれてすぐに…二人とも一度に交通事故で亡くなったんだ。一人になった小夜を俺達夫婦が預かって育てる事にしたが、正式に宮城家の養女にしなかったのは、音無の家にはもう跡取りが小夜しかいなかったからだ…当時、まだ存命中だった子供達のばあさんが、音無の家を継ぐ者がいなくなると猛反対してなあ…」
「……そうですか…」
「…小さい頃は自分一人苗字が違う事で随分寂しい思いをさせたかも知れないな…。本人に話した事はないが…小夜には、音無家の土地と僅かだが両親の残した財産がある。…いずれは小夜が嫁に行く時まで、手を着けずにとっておいてやりたかったが…、こんな事情だ…この際小夜の学費はそこから出せば良い…勿論本人にも話して決める事だが……」
「………彼女が聞いたら、安心すると思います」
ハジは心からそう呟いて、白い瞼を伏せた。
コンビニまで…と出て行った小夜はまだ戻らない。
ジョージが、ハジと二人で話したいと言っていた事もあり、部屋に入るのを戸惑っているのかも知れない。
ハジがちらりとドアに視線を投げると、ジョージはやっと少し笑顔を覗かせた。
「小夜を一人で東京に出した時点で、いつかは好きな男を連れて帰ってくるのかも知れないと覚悟はしていたんだ…。しかしまさか、こんなに早く虫がつくとはなあ…。しかも君みたいな…。いつまでも子供だ子供だと思っていたが…」
ジョージは、沖縄に居た頃の小夜と再会した小夜の変わりように、じっとハジを見据えた。
「へらへらした今時の若造なら、一発殴ってやるところなんだがなぁ…」
白髪交じりの短い髪を利き腕でガシガシと撫でつけて、もう一度大きく肩を落とす。
目の前に座る男の態度には一本筋が通っていて、面白みがないと言えばそれまでだが、潔く自分の前に頭を下げながらも、それでいて自分の言い分はしっかりと主張し曲げない強さがある。
いつまでも小学生のようなつもりでいたが、確かに成長したのは体だけではなかったと言う事か。先程のハジを見詰める娘の瞳は、既に子供とは呼べない…恋する大人の女性のものだったと、改めて溜息を吐いた。たった二ヶ月にも満たない東京での一人暮らしの経験と、そして目の前の男の影響なのだと、その成長を嬉しくも寂しくも感じる。内心腹立たしくとも、娘にあんな表情をされては父親として男の話に耳を貸さない訳にはいかない。
「……少し、質問させて貰えるだろうか?」
「………勿論です…」
ハジは額に落ちかかる髪を、そっと指先で撫でた。
「……好きな女の父親なんぞ、煙たいばかりだろうに…。小夜が君に『会って行ってくれ…』とせがんだのかい?会わずに帰ろうと思えば、父親の許しなどなくても、向こうに戻れば小夜とは自由に付き合う事も出来るだろう?」
ジョージは自分の前に姿勢を正して座る男に、呆れたような表情でそう問いかけた。
子供が出来たとか、いよいよ結婚したいと言うような、止むに止まれぬ事情があるのならともかくわざわざ『単に付き合いたいから…』と言うだけの理由で、自ら望んで好きな女の親の元に挨拶に来る男などいるだろうか…。
大抵の男と言うものはそういうものだと、ジョージは思っている
ハジはしばし間をおいて答えた。
相変わらず、迷いのない瞳で…真っ直ぐにジョージを見る。
「…小夜さんは、何も…。ただ私は…今の自分が小夜さんの為に出来る事だけを考えました。小夜さんには、いつも心から笑っていて欲しいと思っています」
ハジの真っ直ぐな視線に、ふむ…と声にもならない鼻息を漏らす。
「この先、隠し事をしたまま…私と付き合う事で…彼女に後ろめたい思いをして欲しくはないと思いました。それに先日も…彼女自身、火事の事と私の事を話せなかったと気に病んでいた様子で…お父さんに話しにくい事であるのならそれを小夜さん一人に任せる訳にはいかないと思いました。…結果的にこのようにお父さんを驚かせてしまう事になりましたが…」
ジョージは黙って腕を組んだまま、何度も静かに頷いた。
「小夜…入りなさい。そこにいるんだろう?」
ドアに向かって小夜を呼ぶ。
すると、ほんの少し遅れてドアが開いた。
気まずそうな表情の小夜が白いカーテンから顔を覗かせる。
「…こっちへ来なさい。小夜…ずっと聞いていたんだろう?」
小夜の手には白いコンビニの手提げ袋が下げられていて、小夜は黙ったまま随分と汗をかいた麦茶のペットボトルを取り出した。
その様子から、小夜が戻ってきてからずっとその場で様子を窺っていた事が知れる。
「お前の気持ちは、どうなんだ?…父さんは、あとはお前の気持ち次第だと思っているよ…」「…お父さん」
「……俺はこれでも、自分は随分物分かりの良い、頭の柔らかい親父だと思っているんだがなぁ。…小夜、お前の素直な気持ちを聞かせてくれ…」
父親の言葉に、小夜がきつく唇を噛む。
ぎゅっと握りしめた両手が震えている。
「……あ、ありがとう…。…お父さん…」
「…こら小夜。俺はお前の気持ちを聞いているんだ。彼はお前と付き合いたいと言ってる。お前はどうなんだ?」
小夜は戸惑ったように、繰り返し父親と恋人とを見て、小さな声で告げた。
「お父さん…私、ハジさんが好きなの。ずっと…彼と一緒にいたい…」
ふむ…とジョージはまた頷いた。
視線の端で、小夜が座った男の肩にぎゅっと掴まっていた。
それは小夜の小さい頃からの癖で、心細い時…不安な時…小夜は頼るべき相手にぎゅっと触れるのだ。
それを見て、ジョージは半ば諦めのついたような気持ちになる。
沖縄を離れていたこの短い期間に…いつしか小夜にとって頼る相手は自分ではなく…この目の前の男に代わってしまったのだ。突然に訪れた娘の父親離れに、寂しい気持ちが募らないはずはない。しかしそれを言えば、自らの妻が長男のカイを産んだ時、彼女は十九歳ではなかったか…。
「…父親として俺は、手放しで全てを認める訳にはいかない。…とにかく小夜はまだやっと大学生になったばかりだ。…本分は学業だし、入学した以上はきちんと卒業してくれなければ困る。言っている意味は解るだろう?彼は勿論、小夜…お前ももう一人前に大人の入口に立っているんだ…きちんと分別のある付き合いをしなさい。それが出来ないのなら、今ここですぐ別れなさい…」
ハジも、そして小夜も、神妙な面持ちで頷いた。
「…お父さん…」
小夜の瞳が潤んでいた。
ハジは椅子から立ちあがると、小夜を支える様にして寄り添い、深くジョージに頭を下げた。
「…ありがとうございます」
「……忙しいところ、わざわざ会いに来てくれて礼を言うよ。そうでなければ、火事の事も何もかも…俺は知らないままだ…。小夜もどうなっていた事か分からない。こうして正面から挨拶に来てくれた事が、何より君の誠意だと受け取ろう…」
ジョージの言葉に、ハジは再び深く頭を下げた。
 
 
□□□
 
 
「…大丈夫だったでしょう?」
前を歩く男が振り返りざまに笑った。
小夜は、とんでもない…といった表情で大きな溜息を吐いた。
「大きな溜息ですね…」
「だって…」
本当に一時はどうなる事かと思ったのだ。
岬までの道のりは単調だった。駐車場から続く一本道の先に真っ白な灯台が見える。
病院を後にした二人はホテルに戻る前に、部屋の窓から見えた岬の灯台に足を運んだのだ。
観光ガイドにも載っているが、人影は見当たらなかった。
岬の先端まで来ると、立ち入り禁止の柵が張り巡らされていて、その下を覗くと昨日の潮溜まりとは全く趣の違う海の姿がそこにあった。
荒々しい波が大きな岩に当って砕け散る。白い飛沫に今にも手が届きそうだった。
小夜はそんな光景を男の後ろから恐々と覗いて、足を竦ませた。
「…本当に…どうなるかと思ったの…。どうしよう…って。……お父さんは普段優しいけど…怒るとすごく怖くって…。だから…」
まだ赤みの抜けない瞳が『怖くなかったの?』と問い質している。
「最初から有りのままを話すしかありませんでしたから…。それに…小夜を好きな気持ちに疾しいところはありませんよ。もし…反対されたら、あのまま貴女を浚って東京に帰ってしまおうかとも思いましたが…」
「……またそんな事…」
「……とにかく貴女の心配を取り払いたかったのです…。もし大学の学費が払えなくなるようでしたら…立て替えても良いと思いましたが、それではお父さんの面目もないでしょうし…。…とにかく学費の事がはっきりしただけでも良かったです…」
父にも、ハジにも、自分はどれだけ大切に思われているのだろうと、小夜は改めて感じていた。「勝手に申し訳ありませんが、謝花組についても調べさせて貰いました。特にこれと言って、企業体質に問題を抱えている訳でもなさそうですし、お父さん自身がどうやら謝花さんご本人とも懇意にしていらっしゃる様ですので、今のところ問題はないでしょう…。…先程の話通り学費の問題さえクリア出来たのなら…問題なくこれからも…東京で……、…小夜?」
話を聞くうち…どことなく小夜の表情がぼんやりとしている。
………この先も、大学を続けられる。
そして改めて、晴れてハジと付き合う事を父に許されたのだ。
それがまるで嘘のようで、小夜には信じられなくて…。
『……いずれその様になれたら…』
不意にハジの言ったその言葉が小夜の頭を過った。
聞き間違いだったのだろうか……。ハジは本当にそんな風に言った?
それはつまり…いずれ小夜と結婚したいと言う事なのだろうか…。
「…いずれ、その様に…なれたら…って?」
その意味を確かめるのはほんの少し、怖かったけれど…。
「…すみません。勿論…その気持ちに嘘はありませんが、本当ならもっと時間をかけて、先に貴女の気持を確かめるべきなのに…」

………どうにも、手順がおかしくはないか…。
しかし小夜は、病室と同じように髪を揺らしてぶんぶんと首を振った。
そんな小夜に瞳を緩ませて、ハジは改めて小夜を覗きこんだ。

「…私と結婚を前提にお付き合いして頂けますか?」
思わずじわりと視界が涙で歪むのを何とかこらえ、小夜はハジから顔を背けるようにして指先で目尻を拭った。
そうして、ハジの前にまっすぐに立つと、『はい…』と小さく頷いた。
「よろしく…お願いします…」
小夜がぺこりと頭を下げる。
傍目にはそんな色めいたやりとりをしているようにはまるで見えはしない。
二人は真っ直ぐに向き合ったまま、数秒の沈黙が続く。

「…こちらこそ。よろしくお願いします…」
生真面目なハジの答えにほっと胸を撫で下ろして、小夜はようやく小さな笑みを零す事が出来た。あの暗いクラブの店内で、本当に偶然居合わせただけの人だったのに…。
何度も小夜を助けてくれて、自分にとって今では他に掛け替えのない男性。
この気持ちは、この先だってずっと変わらないように小夜には思えた。
ハジの真っ直ぐな視線が気恥ずかしくて、小夜はまるで泣き笑いの様な表情だ。
「ねえ。…お父さん、分別のある付き合いをしなさいって…言ったわ。……そんなに心配しなくても、私ちゃんと授業も聞いてるしノートも取ってるし、レポートも遅れたことないし出席日数だって足りてるのに…。ちゃんと4年で卒業出来るつもりなんだけど…そんなに信用がないのかな?」まるで照れを隠すように…小夜は今頃になってぶつぶつと憤慨したように文句を並べているが、ジョージの釘を刺したかった本当の意味を小夜は気付いていないのだろうか…。
一足先に病室を出た小夜に隠れて、父ジョージの言った一言を、ハジは心の中で反芻する。
『これから二人が…真面目に付き合うと言う事はひとまず認めるが…。だからと言って在学中に出来ちゃった結婚なんて事、俺は絶対に認めないからな…』
これでも俺だって先に籍を入れたんだ…と。
やけに『真面目に…』と言うところに力を入れて…。
ハジは、小夜に隠れるように苦笑をこぼした。
恋人の父親に面と向かって、はっきりと釘を刺されてしまった。
「…何?…ねえ…何笑ってるの?」
気付いた小夜に詰め寄られ、ハジは困ったように口元を押さえた。
「小夜…。部屋に戻りましょうか?…風が強くなって来たでしょう?」
海からの風もまるでハジに味方するように柵の際に立つ小夜を吹き上げる。
「っ…やん」
風のほんの僅かな悪戯に、小夜のスカートがふわりとめくれ上がった。
ハジは礼儀とばかりに咄嗟に後ろを向いて視線を逸らした。
「やだ…見ないで…」
「中身は…見てませんよ。……ほら、小夜…」
話を変える様に、ハジが中空を指差す。
「…何?」
「ほら…海の飛沫で…」
「何?…何が見えるの?」
じっと目を凝らすと、眩しい午後の光を浴びてうっすらと虹が掛っていた。しかし小夜にはそれが見つけられない様子で、きょろきょろと指差すあたりに視線を巡らせている。
そんな仕種がどうしようもなく愛しくて、ハジは不意を突くように小夜の体を抱きしめた。
「きゃあっ…」
「すみません…」
そっと耳元に囁く。
「…ハジ?」
小夜はおとなしくハジの腕の中に留まったまま…どうして彼が謝るのかと不思議そうな表情でハジを見上げている。
「…今のは、貴女に謝ったのではなく…お父さんに謝ったんですよ…」

こんな事では、いつまでこの理性が保てるだろう…。
例えそうでも…出来なければ問題はないのか…。
いや、しかし…。

「……………ハジ?」

不思議そうに見上げる小夜の真っ直ぐな瞳に…
心の中の葛藤を正当化するように…

「…責任をとる準備はいつでも出来ていますから…」
ハジはそう言って笑った。
「ねえ…何の事?…ね…ぇ…何の」
…責任?
ハジの謝罪と発言の意味を測りかねて尚も問い質す可愛らしい唇を、ハジはさも当然とばかりに優しく自らのそれで塞いだ。今まで為されるままだった小夜の細い腕がゆっくりと男の背中にしがみ付き、絡めた舌先の愛撫の前に…彼女の舌が恐れる様に初めて応えていた。ぎこちなく…ざらついた舌を絡め合うと、こんな場所ですら…男の胸はぐっと切なく苦しさを増す。
小夜への愛しさが込み上げてくる。
しかし。
まあ。
何と言うか…。
二十八歳と十八歳の健康な男女が…。
ジョージの言う分別のある付き合いとは一体どんなものなのか…。
その境界線に頭を悩ませつつ…


優しい口付けが途切れると、小夜の色付いた唇からは、ほぅ…っと甘い溜息が零れた。
潤んだ瞳は今にも溶けてしまいそうだったけれど…。
何はともあれ…やっとここが自分達のスタートなのだと肩で息をして、ハジは柄にもなく照れたように…その瞼を伏せた。
 
                                   ≪了≫


20090717
はああああ。やっと何とか…。
ジョージパパ…娘に甘い…。でも、単に付き合うだけに親の了解なんか要らないだろうと思うんですよね。
どうだろ…。私の中のジョージパパのイメージは、割と話のわかるお父さんなので…こうなりました。
あんまり反対されると話が進まないと言うか、どれだけ字数がかかる事か…と言うわけです。

ハジは、もうそのまんまで。小細工は出来なくて…。それにしても、ジョージパパの前では、表情崩さないけど
…やたら小夜たんの前では鼻の下伸びてる…(笑)
ただ、好きな女の子の父親の前でも堂々としていられる彼であってほしいなと思いながら…書きました。

とにかく東京に戻って二人の甘い生活(本当か?)を続ける為に…。早くこれを終わらせなければと…。
やっとこれで東京に戻ってソロモンが出せます〜。
って、この話…どこまで続くのか…。

そのうち、いつかはハジに良い思いをさせてやりたいなあ。
やっぱり裏を書くまでは終われないし、裏を書いたらきっともっと(裏を)書きたくなると思います(爆)
だってシュバリエの彼では出来ない事が書けるんだもん。

また本編に沿ったお話も書きつつ(本当か?)このシリーズも続けていきたいなと。
すぐ次を書いてしまいそうな気がしていますが…(苦笑)

それでは、ここまで読んで下さいましてどうもありがとうございました!!