『傍に居て欲しい』と彼は言うけれど…。
勿論、小夜だってずっと彼の傍に居たいと思うけれど…。
何もかもをお世話になりっぱなしで本当にそれで良いのだろうか…という気持ちが小夜の心からは消えなかった。父は、『後期分の学費とアパートの家賃の事は自分がなんとかするからお前は心配しなくても良い』と言うけれど、本当はそれだってもうこんな状況で父に甘えてばかりではいけないのだと思う。
自分はもう十八歳なのだ。短かったけれど…親元を離れ一人暮らしを始めたのだから…。
自分にどれだけ出来るか解からないけれど、せめて東京に帰ったら…真っ当なアルバイトを探して放課後は働こうと思う。勉強も恥ずかしくない様に、真面目に頑張ろうと思う。
本当は大学を辞めて、沖縄に戻り就職するのが一番なのだろう。
しかし大学を辞めるのは、本当に最後の手段にしたい。
勉強が得意な優等生ではないけれど、それでも自分なりに叶えたい夢もある。
第一…大学へ行かないのならば、東京にいる必要もない。
そうすれば、問答無用に自分はハジの部屋を出ていかなくてはならないのだ。
小夜はほぅっと吐息を吐いた。
ハジは優しい。
優しくされるばかりで…、自分は何も彼に返す事が出来てはいない。
せめて、今の自分に出来る事と言えば…、この気持ちを素直に彼に伝える事だけではないのか…。いつも、いつも…勇気が出なくて…口に出来なかった言葉…。
『あなたが好き…』と…彼の目の前で、それが自分に言えるだろうか…。
 
 
□□□
 
 
激しい水音の向こうでインターホンが鳴ったような気がして、ハジはキュッときつくシャワーのコックを捻った。
幸いもう上がるところで、濡れた髪を片手でまとめると反対の腕を伸ばしシャワーカーテンの外から白い大きなバスタオルを取り、無造作に長い髪を拭いて浅いバスタブから出ると、床に敷いたマットにぽたぽたと滴が垂れる。
 
昨日から引き続き慌ただしい一日ではあった。
しかし偶然とは言え…弟とも会えて父親の居場所も解かったのだから、小夜にとってはこれ以上ない…大きな成果が上がったと言えるだろう。
所在さえ解かれば、また明日にでも出直せば良い。昨夜あまり眠れなかった様子の小夜を気遣い、ひとまずは病院を後にした。夕食も一緒に…とリクを誘ったが、まだ他に友人と約束をしていると言うので、リクとは沖縄を発つ前にもう一度会う約束をして別れた。
小夜と二人で早めの夕食を済ませ、早々にホテルに戻り互いの部屋の前で別れたのが、ちょうど午後八時頃の事だ。きっと彼女ももう今頃は疲れて眠っているはずだった。
湯気で曇った大きな鏡にぼんやりと映り込む自分の影に一瞥をくれて、ハジはしなやかな肢体に手早くバスローブを羽織ると、狭いユニットバスのドアを開けた。
すると再び、まるで待ち構えていた様に部屋のインターホンが鳴った。
空耳ではなかったのだ。
シングルベッドの枕元、デジタル時計の数字は既に午後十一時を示している。
不安を煽られる様に、ハジは手早く腰の位置でローブの紐を縛りオートロックのドアを開けた。
 
仔うさぎの溜息・5
 
人気のない廊下にぽつんと小夜が立っていた。
ハジは目を見張る。
ほんのりと赤く染まった顔をして、ハジと同じ様に洗い髪も乾かさないまま真っ白なバスローブを羽織っただけの姿で…。
そんな姿のままで誰が通りかかるかも解からないホテルの廊下に出るなど、年頃の女性がする事とは到底思えず、ハジは慌てて小夜の腕を引くとドアの中に招き入れた。

明るく振る舞っていたけれど、昼間の出来事が今になって余程堪えたのか…。
申し訳なさそうな瞳でじっとハジを見上げられると、無防備で頼りない表情にハジの心も揺れる。擦れ違う瞬間、小夜の口元からぷんとアルコールの香りが漂った。
「小夜さん…?」
「……一人は嫌」
「…飲んでいるんですか?…小夜さん」
「…少し…だけです。眠れなくて…冷蔵庫のビール…」
話しながらも足元の覚束ない小夜を、ハジは支える様にして奥に通すと白いソファーに座らせた。「…未成年でしょう?」
「…未成年だって、皆飲んでるわ。……ハジさんだって…」
冷蔵庫の上に飲み終えた空き缶が並べてあるのを、小夜は目敏く見落とさなかった。
「私は良いのです。…大人ですから…」
肌蹴そうなローブの合わせを片手で押さえて、ハジは小夜の前に跪いた。
覗き込む男に小夜は唇を噛む。
「ずるい…。私…そんなに、子供…ですか?」
言葉尻を捕らえてそんな風に絡むところが子供なのだとは口にせず、ハジはじっと小夜の様子を伺った。
『少しだけ』でここまで酔うだろうか…そう思わずにはいられない程、小夜は酔いが回っている様子で赤くとろんと潤んだ瞳をしていた。赤味の差した頬に掛かる髪はまだしっとりと水気を含んでいて、ほんのりとシャンプーの甘い香りが漂う。真っ直ぐに見詰められて、ハジは僅かに視線を逸らした。
「法律の上ではまだ飲酒は許されていないという事ですよ。一体ビールを何本飲んだのですか?」「……二本?……三本…かな…?」
「きちんと…覚えていられないくらいには酔っている…と言う事ですね…」
もしそれが自分ならば、したたかに酔う様な量ではない。しかしどうやらアルコールを口にするのは初めての様子の小夜にとっては、それは限界量なのだろう。
ハジは立ち上がると備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、伏せられていたグラスに注いだ。ハジの行動をぼんやりと眼で追う小夜の前に戻ると、そのグラスを小夜に差し出す。
「気分が悪くはありませんか?」
小夜は大人しくそれを受取って、ほんの少し唇に含んだ。
「…大丈夫…。体が…不思議…熱くて、ふわふわしてる、けど…」
それを聞いて少しだけ胸を撫で下ろし、ハジは自分もまたペットボトルの水を飲んだ。
「未成年だから…と言う理由だけではありませんよ。体質によっては全くアルコールを受け付けない人だっているのですから…」
どうやら酔ってはいても体調にはさほど悪影響は及ぼしていない様だが、もし一人の部屋で何かあったら…そう思うと、笑い事ではない。小夜はそれほど危機感を抱いていないのだろうが…予備知識も経験も乏しいまま一気に飲んで、急性アルコール中毒にでもなれば命にもかかわる。
ソロモンあたりに言わせれば、『いくら未成年だとは言え、今時ビール位で心配性過ぎる』のかも知れないけれど…小夜は見るからに初心でハジには放っておけない大切な存在なのだ。
彼女に対する過保護な自覚があるだけに、ハジは慎重に小夜に諭して聞かせる。
「…飲むな、とは言いません。ですが、これからは必ず…」
「ハジさん!」
ハジの言葉を遮って、それは思いがけず強い口調だった。
「………」
「…だって、勇気が…出なかったんです。飲まなきゃ…」
思い詰めた様に、小夜がハジに詰め寄る。
ハジは再び小夜の前に跪いた。
「…一体何に勇気が要るというのですか?お父さんの事でしたら…」
今はこれ以上何も…小夜がすべき事などない筈だ…。
東京に帰ったら、アルバイトを探す。大学も続ける。
それが彼女の父親の希望でもある。勿論本人がこの先の事を心配する気持ちは解かるけれど、考え過ぎても始まらない。何ならハジには彼女を経済的に援助する事も出来るが、しかしそれはまた別の話だ。
「…もうすぐ退院できるという事ですし…」
しかしとろんとした瞳は先程よりも更に赤く潤みを増している。
いつもは見上げているハジを、この時ばかりは僅かに見降ろして…小夜が唇を震わせた。
「お父さんの事…じゃなくて…あなたの事。私…ハジさんの事…何も知りません。どこで生まれたのかも…家族の事も…、どうして瞳が青いのかも…」
わざわざ夜更けにこんな姿で部屋を訪れて…何を言い出すのかと思えば…。
ハジはほんの少し驚いたけれど、
「…ええ。…別に隠してなどいませんよ、今まで…訊かれなかったし、…話す機会も無かっただけです」
私の事を、知りたいですか?…と微笑んで見せた。
小夜は小さく頷いて…、しかしハジの言葉には一向に耳を貸そうとはせずに先を続けた。
「…何も…知らないけど。…………私、初めて会ったあの、夜から…ずっと…ハジさんの事…」アルコールのせいで赤く染まった頬が、更に熱を持ったように上気する。
そんな小夜の様子に…ハジもまた柄にもなくどきんと大きく胸が鳴った。
緊張のせいか、それとも酔っているからなのか…急激に心臓が煽る。どくんどくん…と、大きく脈打つ心臓は今にも口から飛び出しそうで、小夜は一旦視線を逸らすと手にしたグラスから水を飲んだ。
そのまま再び黙り込んでしまう小夜に、ハジは元気付ける様に名前を呼んでその先を促した。
「…小夜さん?……ずっと、…何なのですか?」
「…………………。駄目…………やっぱり、言えない…」
膝の上で握り締めたグラスの水が細かく揺れる。
ハジは危なげなそれを取り上げると、サイドテーブルに置いた。
「…言えない?………私は貴女の口からその一言が聞きたいのですが。…それとも私の思い違いですか?」
「…………………」
「今、それを聞かせては貰えないのですか?」
小夜には、穏やかな口調がまるで楽しんでいるようにも聞こえて、覗き込んでくる男からぷいっと視線を外した。
「小夜さん…?」
「…ずるい…見ないで」
「ずるくはありませんよ。…その一言を聞かせて貰えるのなら…私は…」
そっと伸ばした手を振り解く様にして、小夜が顔を隠す。
「や…。ずるい…そんな風に優しくしないで…。そんな綺麗な瞳で、じっと見詰めないで…」
「…小夜さん?」
駄々をこねる子供の様にハジの腕を払い、俯いて…何度も言い淀み、やがてゆっくりと赤い顔を上げた。
「…ずっと、言いたかったの。…でも…言えなくて……。東京に戻る前にちゃんと、言わなくちゃって…。私…、今言わなかったら…もうずっと…言えないような気がして…」
「…………はい…」
ハジは小さく返事をした。
本当は知っていた。
小夜が何度も言い掛けてはその度に飲み込んでいた事を…。
しかし心のどこかで、その先を確かめるのが怖かった。大人の狡賢さで、先回りをして…優しく接してただ嫌われないように、余裕のあるふりをしていた。
彼女はまだ少女だから…。
恋に恋する年頃なのだから…。
自分の気持ちの重さと、彼女のそれでは…余りにも違うだろうから…。
「…私、………ハジさんの事、………………好きになっても、良い?」
既にそれはもう『好き』と言う言葉と同義語なのだというのに、小夜はあくまで『良い?』と疑問形でハジに判断を委ねる。そんな頼りなさが可愛らしくて、ハジは自分の胸がじんわりと温かい何かで満たされてゆくのを感じていた。
「…もし、私が駄目と言ったら?」
止めておきますか?と…そんな事を言う筈もないのに…少し意地悪を言ってみたくもなる。
「……意地悪。だったら…こんな風に…私に…優しくしないで」
小夜は素直に…溜息の様な声で男を責めた。
「きちんと聞かせて下さい…」
「………………。……………好き」
囁くような小さな声で、小夜はようやくその想いを口にする事が出来た。
伸ばされた腕がそっと小夜の肩に触れる。
「小夜さん…。聞こえません…ちゃんと、聞かせて」
そっと胸元に抱き寄せられる。優しい拘束の中で、逃れようもなく小夜はハジの耳元に囁いた。「……あなたが、好き」
「偶然ですね……私も、貴女の事が堪らなく…好きなのですが…」
まるで魔法の呪文のように…その一言を合図に、跪くハジの胸に華奢な体がソファーから崩れ墜ちる。酔いが回り火照った体を反射的にぎゅっと強く抱き締める、その柔らかな甘い感触にハジの体の芯がジンと熱を帯びた。間近に漂う濡れた髪の香りに目眩すら覚える。
ハジは堪え切れずにそっとその白い額に唇を落とす。
導かれる様に顔を上げた小夜の唇にもう一度…。
「……………。…困りましたね…」
自ら触れておきながら…。
小さなハジの呟きに、小夜が『何が?』とでも言う様に視線を上げる。
きっと、その胸の想いを打ち明けた事で今まで張り詰めていたものが解けたのだろう。
白いバスローブの胸元や裾が乱れるのも気付かずに無邪気にしがみ付く愛しい小夜は、きっと今までどんな男とも付き合った事がなく、この状況の危うさも…男の生理と言うものも…何一つも解かっていないのだ。
だから、キスから先の行為など、思い付きもしないのかも知れない。
そうでなければ、例え酔っているからとはいえ…このようなあられもない姿で夜更けに男の部屋を訪れるなど出来はしない。何よりも今、彼女は酔っているのだから…冷静な判断が出来る状態ではないだろう。
世間では、これを据え膳と言うのかも知れないけれど……だからと言って…。
ハジはしばし金縛りにあった様に固まって、煩悶を繰り返した。
けれど…どうしてもハジには、それ以上強く小夜に触れる事が出来なかった。
本能のままに反応しかけた体を小夜に気取られてはいけない。きっと免疫のない小夜にとっては、男の欲望は醜くて理解出来ないものだろう…悪戯に怖がらせてしまう事を恐れて、ハジは切ない吐息を隠して小さく微笑むと、そっと抱き締めた小夜の体を押し戻した。
「……ハジ、さん?」
どうしたの…?とでも言う様に…見上げる赤い瞳に怪訝な色が混じる。
話を逸らす様にハジは笑って、彼女を再びソファーに座らせた。小夜は僅かに頬を染めて、乱れたバスローブの胸元を合わせ直した。
「…そろそろ、その‘さん’付けは止めにしませんか?」
「…あ、……は…ハジ…って?……呼ぶんですか?」
「そうです…。練習…してみますか?」
ハジはするりと小夜の座るソファーの肘かけに腰を下ろした。
赤く上気した小夜の顔を覗き込む。
「練…習…?」
「そう…。呼んで下さい…」
素直に見上げる小夜の赤い唇が、微かに動く。
「ハ…ジ…」
「もっと…呼んで…」
「…………ハジ…、………ハジ…。ハジ…ハジ…」
小夜の可愛らしい唇が自分の名前を象る度に、ハジは嬉しくて…。
「そうです。……もっと呼んで下さい…」
「……ハ…」
「小夜…」
小夜の赤い唇がもう一度ハジの名を呼ぼうとしたその時、堪え切れない様にハジは小夜の耳元に触れるほど近く吐息でその名前を囁いた。
小夜の背筋が、しなる様に大きくびくんと揺れる。
「あ……っん…ん」
今はただ、そっと唇に触れるだけで良い…。
ハジは熱い頬に掌を添えると、ゆっくりとその愛らしい唇を優しく啄ばんだ。



□□□



「…ハジさ…。……ハ…ジ?」
『ハジさん』と言い掛けて、ちらりと自分を見る男の視線に小夜が慌ててぎこちなく言い直すと、呼ばれた男、ハジはよく出来ましたとばかりに『はい』と返事をする。
と言う事は、つまり…小夜は昨夜の出来事を覚えているという事で…どこかぎこちない空気を拭えないまま、二人は朝食のテーブルを囲んでいた。
もそもそとぎこちなく朝食のフルーツにフォークを運びながら、小夜の頬は赤い。
「あ…昨夜は、ちゃんと眠れました?体…痛くないですか?」
「…大丈夫ですよ。…それよりも貴女は大丈夫ですか?」
その後、小夜が自室のカードキーを部屋に置き忘れてしまった事が判明し、そのまま小夜はハジのベッドで休んだのだ。そしてハジは『狭いから…』と言う理由でその脇のソファーで眠った。
朝になってフロントに電話をして、やっと小夜は部屋に戻る事が出来たのだった。
「……大…丈夫…」
昨夜は未成年であるにも拘らず、飲酒した揚句、バスローブ一枚でハジの部屋に押し掛けた。
迷惑を掛けた事に、『ごめんなさい』と小さく謝ると、ハジは『怒っていませんよ』と微笑んだ。既に食後のコーヒーを口にしながら、ハジが問う。
「今日はまっすぐ病院へ?」
「ううん。お父さんには早く帰りなさいって言われちゃったし…。行っても何だか気不味くて…」「では…今日は貴女の行きたい場所へ行きましょう。沖縄は久しぶりなのでしょう?」
ハジの言葉に、小夜の表情がぱっと明るさを取り戻す。
「……良いんですか?」
「…あと二日、このホテルに滞在しても良いのですが、折角ですからホテルも変えましょうか…」「……良いの?」
「来てみた都合でどうなるか解からないと思ったので、どちらにしても予約しておいたのは昨夜までなのです。このまま宿泊を延長しても勿論構いませんが…。…どこか…行きたい場所はありますか?」
ハジの提案に、小夜は遠い目をして思いを巡らせた。



□□□



「うわぁ。…久しぶり!!」
青い海を見るなり、小夜はビーチサンダルを脱ぎ捨てると走り出した。
豊かな故郷の自然は、小夜から先程までのぎこちなさを奪っていた。
ハジはそんな小夜の背中を見守りながら、そっと目を細める。
こぢんまりとした白い砂浜に他に人影は見当たらなかった。
観光地としてリゾートホテルの立ち並ぶに西海岸とは対照的に、太平洋に面したそのビーチは本当に地元の人々しか訪れない穴場の様な場所だった。
入り組んだ入り江の奥は潮溜まりになっていて、引潮の今はまるで天然プールの様にも見える。小夜は水際で素足を海水に浸しながら、まるで幼い子供の様に無邪気に水と戯れている。
流石にそう言うところが、自分とは違うのだとハジは思う。
とても一緒に駆けだす事は出来なくて、ハジはゆっくりと彼女の後を追った。
白く細かな砂地に足を取られながら、水際までゆくと、潮溜まりには逃げ遅れた小さな小魚の姿も見えた。
小夜は得意げにハジを振り返った。
風にひらひらと揺れる白いスカートの裾から伸びた素足が、青い水の中でゆらゆらと揺らいで見える。
「小さい頃、いつもお父さんに連れて来て貰ったの」
まるで自慢するかの様に、そう言って笑う小夜の向こうに、もう一人幼い頃の小夜の笑顔を見えた様な気がした。
この小さなビーチは、小夜の家族の思い出の場所なのだ。
「…綺麗ですね」
海が…とも、貴女が…とも、ハジは言わなかった。
「…そうでしょ?それに地元の人しか知らないから…凄く静かなの…。ね?」
尚も自慢げに…そう言って小夜は人差し指を立てて、口元に運ぶ。
しぃーっと黙って耳を澄ませると、そこには自然の音しか存在しないのだ。
遠くから打ち寄せる波の調べ、風に揺れる木々のざわめき、そして名も知らぬ鳥の鳴き声。
都会での生活しか知らないハジにとって、人口の音が存在しない世界と言うものをそうと意識したのは、初めての事だった。
「ね?…見て…」
しなやかな白い腕が真っ直ぐにハジに伸びる。
手を取ろうにも、水に入らなければ触れる距離ではない。
小夜が笑う。
言葉にはしないけれど、一緒に水に入ろうと誘っている。
ハジは仕方なく、その場でビーチサンダルを脱いで窮屈なジーンズの裾を強引に膝までまくった。足の裏に直に触れる白砂の感触、そして水際の岩。
日頃、皮靴ばかり履いて生活しているハジには、目の覚めるような懐かしいそれ…。
小夜に招かれるまま、冷たい海水に足を踏み入れると、その感慨は一層強いものとなった。
「見て?」
そう言って小夜がハジの手を引いて、示す。
ゆらゆらと透き通る水の下の世界。
遠くからではしっかりと解からなかったが、水の中を自由に泳ぎ回る小魚の色鮮やかな鱗が、光を反射してキラキラと光る様は例えようもなく美しかった。
魚だけではない。海底を覆う海藻や色とりどりの貝殻、そして砕けたサンゴの欠片、こんな小さく切り取られた潮溜まりにこんなに美しい世界が広がっている事を、ハジは今まで考えた事すらなかったのだ。
つい言葉を失うハジを横目に、小夜が嬉しそうに微笑んだ。
「綺麗でしょ?…私の、宝物だから。…ハジにどうしても、見せてあげたかったの…」
「…ありがとう、ございます…」
繋いだ指先に、どちらからとなくぎゅっと力が籠った。
「…良かった。この時間で…。今しか見られないでしょ?…満ち潮になったら、水着がなきゃここまで来られないもの…」
「…次に来る時は、水着を持って来ましょうか?」
何気ないハジの提案に、小夜が目を見開いてハジを見上げた。
「……………」
「…どうしました?」
「…次も、あるの?…またあなたと一緒に来れるの?」
ハジは真っ直ぐに見詰める小夜を見つめ返し、優しく微笑みを返した。
「勿論です、ここはとても素晴らしいところです。………貴女の故郷が…いつか私にとっても故郷と呼べる日が来ると良い…。今は素直にそう思います…小夜」
ゆっくりと、小夜の顔が真っ赤に染まる。
見上げる瞳が、微かに潤み始める。
また泣かせてしまったのかと、ハジが間近に覗き込むと、小夜は大きな瞳を更に見開いた。
「それって…どういう、意味…?」
「さあ。…どういう、意味でしょうね?……」
大人の余裕でからかう様に…オウム返しに答えると、小夜が一つとん…とハジの胸を叩いた。
びくともしない体躯に、反動で小夜の足元がふらつく。
「きゃ…」
水に隠れた足元の岩に躓いてバランスを失った体を、ハジは咄嗟に片腕で支えた。
スカートの裾が海水に浸かり、べったりと濡れてしまっていた。
「大丈夫ですか…?」
「…平気…」
平気と答える小夜の体を、ハジは一思いに抱き上げた。
「…ま、待って!平気って言ったのに…」
「……貴女はどうも危なっかしくて…」
見ていられないのです…。
そう続けるハジの言葉に、小夜の頬が膨らむ。
その横顔は真っ赤だ。
まるでお姫さまの様に抱き上げられたまま、ハジの胸に小夜はゆっくりと頬を寄せた。
辺りは不意に静まり返る。
どくどくと脈打つ心臓の音がやけに鮮明で、波の音を打ち消してしまいそうなほど…。
声にしなくて、思う事は同じだ。
昨夜の互いの一言が、ふわりと甘く木霊する。
「小夜…」
唐突にハジがその甘い沈黙を破った。その声はいつにもまして真剣な響きを帯びていて、小夜はどきんと胸が騒いだ。
「……何?」
「貴女が嫌でなければ…の話ですが…」
「……どうしたの?」
状況が飲み込めないまま、小夜が問い返す。
「明日、お父さんの病室まで…ご一緒しても宜しいですか?」
『つまり、そういう事です』と、ハジは小夜の額にそっと唇を押し当てた。
その青い瞳には、もう迷いの色は混じってはいなかった。

20090706
さて。仔うさぎの溜息〜後編・3〜です。
予想通り終わってません!あははは〜ってもう笑うしかない…。
どんだけ長いの?そんなつもりで書き始めた訳じゃないのに、後編だけで123〜って…。
次からは全て通しNoにします…。

前回は二人のラブいシーン殆どなかったんで、…もう最初っから、この次はずっと二人の世界を書くと決めてました。
自分なりに、裏ではなく…甘いシーンを書こうと思った訳ですが、自分はやたら書きながら恥かしかったです。
いっそ押し倒した方が照れないような…。読んで下さる皆様にはどうなんでしょう?楽しんで頂けたか、めっちゃ不安です。
小夜たんはやっと告白できましたが、ハジは据え膳食わなかった!偉い(のか??)

でもまあこれも大雑把な予定通りと言えばそうで…、次回でひとまず沖縄編は終わりたいなあ〜と思ってます。

最近、書く事だけはやたら早いですけど(以前の自分に比べて…)内容的には、もう少し努力した方がいいなあ〜と思う反省点も
色々あって、まだまだ当分はハジ小夜で楽しめそうです。

えと、七夕(?)のSSを明日の夜までに更新したいなあ〜と馬鹿みたいに目論んでいて…、
でもこっち先に更新しなきゃ〜と先に更新します(笑)んなインスタントみたいな…ははは。

では、また!引き続き七夕書きます〜(呆)

ここまで読んで下さいまして、どうもありがとうございます!!