「洗い物くらい、私がやりますから…」
小夜はワイシャツの袖をまくり、ピンク色のスポンジに食器洗い用の洗剤を垂らそうとする男をやや強引に制止した。
あまり使われた様子の無いキッチンで、これが毎朝のやり取り。

「…まだ出社には余裕がありますし。…小夜さんも今日は一限目から講義があるでしょう?」
貴女も支度して下さい…と、暗にその表情が訴えている。
しかし、ここで引き下がる訳にもいかず、小夜は尚も食い下がった。
「だって、ワイシャツが皺になります…。ご飯も作って貰ったし…昨日だって…」
ハジに食器を洗わせてしまった…。
「…作るって。トースターでパンを焼いただけじゃないですか…」
それだって…。
朝食の準備をして貰った事に変わりはない。
その上、自分は居候の身なのだから…。
「お願い…」
有無を言わさず…小夜はハジの手からスポンジを奪い取った。
 
 
□□□
 
 
『貴女を、手離したくないのです』
好意を寄せる男性からそんな風に抱き締められて冷静でいられる程、小夜は異性に対して免疫が無かった。
つい数時間前まで、ハジにはもう二度と会えないかもしれないと思い詰めていた小夜にとって、それは正に青天の霹靂。
友達の数と言うのなら決して少なくはない小夜だったけれど、家族以外の誰かから、そんな風に自分の存在を認めて貰った事など、今までの人生で一度も経験した事が無かった。
その言葉の意味をぼんやりと理解した瞬間…眩暈がしそうなほど頭に血が昇り、体中の血液が沸騰したかのような体温の上昇を感じた。
腕の中で崩れ落ちそうな小夜を覗き込んで、ハジは申し訳なさそうに微笑んだのだ。
その微笑みの、蕩けそうに甘い事と言ったら…。
その微笑みは恋愛に慣れない小夜の心を鷲掴みにして放さず、そしてハジは小夜の無言を了解を取ったのか…、その言葉通り翌朝目が覚めると一番に業者を呼んで小夜の泊まった客間のドアに頑丈な鍵を取り付けた。
まるで嘘の様に、何事もなく穏やかに…あの夜から二週間が過ぎていた…。
しかし今になって小夜は思う。
あんなに思い詰めていたのに…。
結局のところ…自分はハジに『好き…』とは、とても言い出せないまま、彼もまた小夜の事をはっきり『好きだ』とは言ってくれないまま…この不思議な同居生活は始まり今に至っている。
…私達の関係って…一体、何?
『手離したくない…』って…どういう事?
泡の付いた白い丸皿を濯ぎながら小夜は今もポケットの中にずしりと感じる部屋のカギの重みを、意識せずにはいられない。
寝室のドアに鍵を付けてくれた事…それはハジなりの、小夜に対する精一杯の誠意であり、心遣いに他ならなかったのだけれど…。
自らの手に託された銀色の鍵をどう扱って良いのか…。
小夜は、戸惑いを隠せなかった。
 
 
仔うさぎの溜息 1
 
 
「小夜さあ…。最近綺麗になったよね〜」
事情を知る唯一の友人、香里は意味深な表情で小夜を覗き込んだ。
ちょうど二限目が終わった休み時間、二人は学食の片隅で向き合ってランチを広げていた。
本当は節約の為にお弁当を持参するべきなのだろうが、慣れないマンションでの自炊には至らず…今日は生協で買ったサンドイッチが昼食だった。
大学はなんとか続けている。入学する時点で前期分の学費は振り込んであったし、大学を辞めたところで父の行方が解かるという訳でもない。ハジの言うとおり…結局今の小夜にはそうする事しか出来なかった。
沖縄の実家にも、本当は一度帰って様子を知りたかったけれど、今の小夜には沖縄までの交通費さえままならない。
「変な事言わないで…。香里…」
「だって…。本当の事だもん…。この頃スカートばっかり履いてるし…」
「そんなの関係ないよ!」
以前持っていた衣類は全て火事で焼けてしまったのだから仕方がない。
どれもこれも、彼に買って貰ったものだと知っているからこそ、香里はからかう様に度々こんな事を言う。
「……だって、好きなんでしょ?…私の誘いを蹴ってまで…一緒に暮らしてるんでしょ?」
「………う」
言葉に詰まり、小夜は気まずくサンドイッチを頬張った。
口の中に広がる筈のハムとマヨネーズの味が感じられないほど、小夜は返答に困る。
…何と答えたら良いのだろう。
香里の質問は、とても的を得ている。
気持ちを伝えなさいと背中を押してくれた香里の好意を蹴ってまで、小夜はハジの部屋に居付いているのだから、香里の認識は当然のものだろう…。
「あのね。香里…、私達…香里が想像してる様な事は何もないんだよ…」
今まで何回も繰り返してきたはずの台詞に、香里は破顔する。
「やだっ!小夜ってば…!!想像してる様な事…って、どんな事〜?」
「香里っ!!」
「ほらほら、教えてってば」
日頃の小夜の生真面目さを知っていて、香里は尚更楽しそうに小夜をからかうのだ。
捨てるつもりで細長く潰した紙袋をマイク代わりに小夜に突きつけて、まるで芸能記者にでもなったかの様に、小夜を質問攻めにする。
「私が会ったのは一度きりだったけど…すごく二枚目だったよね〜。どうでした?第一印象は?」「もう…。本当に、止めてっ!」
「じゃあ、質問を変えま〜す。彼のどんなところが好き?」
向かいの席から身を乗り出す様にして、小夜は香里の手からマイク代わりの紙袋を奪い取った。
「……本当に!!…私…」
あの人に、好きと伝えてさえいない…。
ハジの態度は、その後も変わらない。
そうしていると気持ちを伝えるどころか、心の中に確かに存在するこのふわふわと甘い気持ちの正体が、本当に彼の言うとおり『恋』なのかも自信がなくなっている。

「小夜?…小夜?ごめん。…からかってごめんね」
不自然に唇を尖らせて黙り込む小夜に、香里は慌てて真顔に戻った。
香里は解かってくれるだろうか…。
「あのね…。香里…私、よく解かんないの…」
 
 
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父は沖縄で居酒屋を経営していた。
居酒屋とは言っても、どちらかと言えば食堂と言った感が強い。
沖縄では珍しい事ではないけれど、子供連れでも気軽に暖簾をくぐれる…そんな気さくな地元の人気店だった。
母は既に他界していて、父が男手一つで、小夜と、そして五歳年上の兄と四つ年下の弟三人を育ててくれたのだ。自営業だった父は忙しかったけれど、仕事柄常に家族は一緒だった。
小夜は世間の会社員の生活を知らない。
比べる基準と言うものが解からない。
解からないけれど、ハジは日々とても忙しいのだという事は、この二週間で良く解かった。
朝は小夜よりも早く家を出て、帰宅は日付が変わってからと言う事も珍しくはない。
小夜と顔を合わせるのは朝と夜眠る前の僅かな時間だけだ。
相変わらず、ハジは小夜に対してとても紳士的で優しかったけれど、彼の目の前に立つと、小夜はどうしても自分に自信が持てず…とても『好き…』などと口に出せる雰囲気ではなかった。
それに、あんな風に抱きしめておきながら、ハジの態度は以前と変わる事無く、彼のいう『手離したくない』という言葉の意味さえも解からなくなっていた。
『好き』も何も、今のこの生活がどういうものであるのか…一体いつまで続くのか…互いに込み入った話すらしていない。ただ、漠然と…互いに離れたくない…という曖昧な想い。
そんな曖昧な気持ち一つで成立している同居なのだ。
幾らハジが誠実で良い人だからと言って、小夜の心に不安がない訳ではなかった。
もっときちんと向き合って、話をしたい。
けれど、そんな落ち着いた時間も、切掛けもつかめない。
こんなに傍に気になる男性がいたとしても…会話と言えば朝晩の挨拶か、それとも朝汚れた食器をどちらが洗う…と言う程度の内容で、経験の乏しい小夜には甘い雰囲気などどうやって作れば良いのかさえ解からない。いや、甘い雰囲気を作れたところで、その先…自分はどうしたいのか…も小夜には解からなかった。
小夜が漠然と抱く恋人同士の姿は、今の自分達とはとてもかけ離れているし、今後自分達にそんな劇的な変化があるとは想像も出来ない。
大体今の自分の身の上を考えれば、そんな呑気な事を言っていて良い筈はない。
香里をはじめ大学の友人の紹介で何件かアルバイトを紹介されたけれど、あの一件以来どうも自信を失ってしまった小夜は、なかなか条件に合うアルバイトを決めかねている。
しかし本当はアルバイトこそ一番に何とかするべきなのだ。
通帳の残高もかなり心細い。
沖縄の実家どころではなく…このままでは食費までずっとハジの世話になる事になってしまう。
 
 
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色々悩んだせいか…それともこの数週間の疲れが一気に噴出したのか…。
その夜…僅かな喉の痛みを感じて小夜は目覚め、ベッドから体を起こした。
熱はないが風邪をひいたのだろうか…それとも単に寝起きのせいなのだろうか…喉が渇く。
薄暗い部屋の中、枕元に置いた携帯で時間を確かめると、ぱっと明るく光る画面の数字は深夜の2時を示していた
流石にこの時間だから、ハジは寝ているだろう。
小夜はそっと音を立てない様に、ベッドから抜け出した。
素足のまま、フローリングの床に立つとそっとドアノブに指を掛ける。
本当はこの部屋のドアに鍵を掛けた事など、一度もない。
そんな事を、ハジは知っているだろうか…。
小夜は静かに木製のドアを開けて、そっと廊下に出た。
優しいオレンジ色の足元灯を頼りにキッチンへ。少しだけ喉を潤したら、また部屋に戻るつもりだったけれど、キッチンと隣接するリビングダイニングに明かりがついている事に驚いて、小夜は足音を忍ばせて中の様子を伺った。
ガラスのはまったドアから、中の様子は手に取る様に解かった。
こちらに背を向ける様にして、ハジはリビングのソファーでパソコンを広げている。
ガラスのテーブルには、金色のビール缶が汗をかいていた。
…まだ、お仕事?
ハジは…やはり今夜の帰宅も遅くて、もうベッドに入ろうとする小夜はすれ違いざまに『お帰りなさい』と言うのが精いっぱいだった。ハジもあれから入浴を済ませ、すぐに横になっただろうと思っていたのに…。
邪魔をしても悪い様な気がして小夜が戸惑っていると、まるで背中に目があるかのように、ハジはパソコンから顔を上げると、振り向いて…ほんの少しだけ小夜の姿に驚いた様子でソファーから立ちあがった。初めての晩に小夜が借りた濃い色のパジャマに、濡れた髪を拭いたのだろう…白いバスタオルをそのまま首にかけている。
昼間、香里にからかわれたせいだろうか…。
あの時、小夜にはあんなに大きかったそれが、彼にはちょうどのサイズなのだと思うと、無性に気恥かしい。
「…すみません。起こしてしまいましたか?」
「いえ、あの…。そうじゃなくて…。少し喉が乾いて…」
小夜がしどろもどろに言い訳をすると、ハジは『ああ…』と察して、キッチンへ取って返す。
慌てて小夜がその後に続くと、男は『少し声が掠れていますね…』と小夜を気遣った。
「…喉が痛いのでしたら、あまり冷たい水は良くないかも知れませんよ」
「……あの、まだ起きてたんですか?…お仕事?」
「……仕事…と言うより、…雑用の様なものです」
冷蔵庫から出したミネラルウォーターをグラスに注いで小夜に手渡しながら、自らの為に新しい缶ビールを出した。
「…雑用?」
「今月末、ちょっとした会合がありまして、その席次を決めて…社長に提出するのです…」
ぽかんとする小夜に、ハジは苦笑する。
「社長ご自身で決めて頂ければ、早いのですが…。所詮雑用ですから、社長も人に任せて後でチェックするだけの方が楽ですからね…」
「ハジさんは…会社でどんなお仕事されてるんですか?」
確か、名刺には社長付と言う肩書きが記載されていたと、小夜は覚えている。
「…まあ、簡単に言えば社長補佐…と言うところでしょうか。補佐と言えば聞こえは良いですが、ほぼ社長の小間使いですよ…」
小夜はぼんやりと、あの晩自分に絡んできた壮年の男の事を思い出す。
酒の席でのことであり、相手もかなり酔っていたのだから…あまり良い印象はない。
「…我儘な社長さん?」
「………我儘ですね」
ハジは苦笑して、缶ビールのプルタブを開けた。
小夜をソファーに招き、自分も再びパソコンの前に座る。
「しかし…。…こういった仕事を任せて貰えるという事は信用されているとも言えますし、それだけ勉強の機会を与えて貰っているという事でもありますからね…」
「それって、社長の評価が高い…って事?」
「さあ。…まだまだ勉強が必要と言う事でしょう?」
そうなのだろうか…。
しかしこんな夜遅くまで、仕事を持ち帰って…嫌にはならないのだろうか…。
ソファーの上で居住まいを正すと、妙に緊張した面持ちで小夜はグラスから一口水を含むと冷たいそれを喉に流し込んだ。
ちらりとパソコンから視線を上げて、ハジはそんな小夜の様子に視線を緩ませる。
「それを飲んだら、もうお休みなさい…」
「ハジさんは…?」
「もう少し、キリの良いところまで済ませたら休みます」
「…それまで私もここに居ても良いですか?」
「夜更かしすると…もっと喉を痛めますよ…」
「…ここに居たいんです」
寝て下さいと言ったところですんなりと従う様にも思えず、それならば早急にキリを付けようと決めたのか…
ハジは再びパソコンに視線を落とした。
「…小夜さん。小夜さんのご実家は、確か沖縄と言っていましたね?」
視線を上げないまま、ハジは唐突に小夜にそう尋ねた。
そう言えば、そんな話を口にした事があっただろうか…。
「そうです。…コザ…でOMOROって言う、居酒屋をやっていて…」
「…沖縄市ですね?」
「……………。それが、どうかしたんですか?」
ハジは尚も視線を上げないまま、小夜に答えた。
キーを叩く音が止む事はない。
「…………。…私も貴女の事を何も知らないので…」
質問されるばかりでは不公平でしょう?と呟いて、ハジはようやく面を小夜に向けた。
「……そ、そう?」
「…そうですよ。少なくとも、私は貴女の事をもっと知りたいと思っているのですから…」
何の照れも無く、そんな風に言わないで欲しい。
ハジは、いったんパソコンから指を離してテーブルの上の缶ビールに口を付けた。
綺麗過ぎる顔は、小夜には何を考えているのか解からない。
「…そ、それは…。私だって…」
思わず、膝を抱えた腕にぐっと力が籠る。
同じ気持ち…。
彼の事を知りたい。
素直にそう思う気持ちを、そのまま口にするのはあまりにも恥ずかしい。
それに、何も知らない自分とは比べようもなくハジは大人の様に見えて…、こんな自分がそう言ったところで相手にはされないのではないかと、心配にすらなる。
「…ハジさん、ハジさんはいくつなんですか?」
「………年齢ですか?」
「そうです…」
また質問する向きが逆じゃないですか?…と呆れたように微笑んでハジはビールを置いた。
「…幾つに見えますか?」
口調ほどではなく、ハジは楽しそうに見えた。
「ええと…」
年上である事は明らかだったけれど、彼の青い瞳も整った白い面も年齢不詳だった。
小夜は口籠り、じっとハジの顔を見詰める。
しばしの沈黙が流れる。
やがてその視線に耐えかねる様に、ハジは視線を伏せるとパソコンを畳んだ。
ガラステーブルの上は、すっかり冷えた缶ビールの汗で濡れてしまっている。
「二十八歳になります…」
「…大人、ですね…」
「小夜さんと、それほど違うとは…思っていないのですが…」
「違いますよ!」
小夜は一つずつ指を折って数える。
もう社会に出て働いている事。
こんな立派な部屋に独り暮らししている事。
小夜よりもずっと色々な事を知っている事。
ハジはビールを手に、黙ってそれを聞いていた。
「それから…」
まだ何かないかと視線を巡らせる小夜に、ハジは反論した。
「…そう言う意味では、少しは貴女よりも年上かもしれませんが…」
「…が?」
「…もし、私が貴女と同じ大学生だったとしたら…。今…貴女の為に何かをする事は出来ないですから…」
「……………?」
「大人で、良かったです」
「………………」
「小夜さんは?」
「…十八です」
気真面目に応える少女に、ハジは素直に笑った。
知っていますよ…と、そう言って答える視線はほんの少し憂いを帯びていた。
しかし小夜には、僅かに曇るその瞳の色の変化についていけずにいる。
「本当なら、一番楽しい時でしょう?高校を卒業して、大学生になって…親元を離れて…」
確かについ数週間前までは、自分の人生にこんな出来事が起きるなんて想像すら出来なかった。
新しい学校、新しい友達。初めての事ばかりで戸惑ったけれど、毎日が充実して楽しかった。
父の店が人手に渡っただけならともかく、行方も知れなくなって…その上借りていたアパートまで火事で全焼してしまった。
それでも…。
そのお陰で、ハジに会う事が出来た。

もし、バニーガールのアルバイトをしなければ、きっと一生知り合う事すらない筈の人…。
火事がなければ、きっとあのままタクシーで別れてそれっきりだった。予想以上に元気に暮らしていられるのは、間違いなく彼の存在故なのだという事を口にしても良いのだろうか…。
僅かな沈黙の後、小夜はそうとは口に出来ないまま、ハジに当たり障りのない質問を返していた。「…ハジさんは?…十八歳の頃、どんなでした?」
「……普通の大学生でしたよ。その頃には、今の会社でアルバイトとして使って貰っていたので…忙しくはしていましたが…」
今のハジしか知らない小夜に、自分と同じ年齢の彼の姿は想像も出来なかったけれど、その頃からもう今の会社で働いていたという事は、彼はきっと当時から小夜よりもずっと大人だったのだろうと知れる。
「…あ、ええと。私…バイト…なかなか決められなくて…ごめんなさい」
「…構いませんよ」
小夜の通帳の残高ではあまりに心許なくて、ハジには、衣類から日用品まで世話になっていて…勿論その分は後で返します…と念を押してあるのだけれど…、ハジは一向に構わない様子で、受け取って貰えるのかさえ怪しい。
「…構いませんが…。しかし…もう二度とああいったバイトは選ばないで下さいね…」
ハジは一つだけ念を押す様に付け加えた。
彼の言う『ああいった』バイトとは、勿論クラブのバニーガールの事で…小夜はあの時の事を思い出すと、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
世間知らずな自分を…。
そして、あんな露出の高い衣装で彼の前に立っていたのだという事が…。
「……も、勿論です。ちゃんと健全なお仕事を探してます。…私、ああいうのは勤まりません。…似合わないし…」
「似合わない?」
意表を突かれた様な声でハジが問い返す。
「似合いません。あのバニースーツ。それに…たくさん買って貰ったけど、本当はスカートとか…女の子らしい服装…私…似合わないんです」
謙遜と言う様子もなく、小夜の声は本気だった。
単に制服が似合う、似合わない…という基準で判断するべき問題ではないだろうに…と、そんな様子の小夜にハジは小さく吐息を吐いた。
特に、あんな水商売に関しては問題外だ…。
「自覚が無さ過ぎます…」
「え…?」
「…何でもありません。小夜さん…もう休みましょう。わざわざ夜中にする話ではありません」
そう言うと、飲み終えたビールの缶を手にハジは立ちあがった。

示された時計は午前3時を回ろうとしている。
ほんの少し、寂しいと感じる。
本当はもっと彼と話をしていたい。
そう思っている自分に、小夜は気付いていた。
「は、はい…」
しかし、ハジの後を追う様について立ちあがる。
意識は冴えて眠れそうになかったけれど、確かにもうベッドに入らなければ明日の朝起きる自信はない。
学生である自分はともかく、彼は明日も仕事なのだから…。
自分が起きている事で結局仕事の邪魔をしてしまった事に…ほんの少し自己嫌悪を覚えながら、小夜はグラスを手に何気なくキッチンカウンターの角を曲がろうとした。
「きゃ…」
よそ見をしていたと言う程の事ではない。ほんの一瞬、タイミングが悪かっただけだ。
空の缶ビールを片付けるハジの広い背中に、小夜は思いきり顔をぶつけていた。
同時に手から零れたグラスが床に落ちて鋭い音を立てる。
「大丈夫ですか?…じっと…動かないで」
「ご、ごめんなさい。グラス…」
「グラスはどうでも良いのです。貴女が…怪我をするといけない…。今…掃除機を持って来ますから…」
二人を中心に砕けたガラスの欠片が飛び散っている。
ハジはあの雨の夜同様に、躊躇う事無く小夜の体を両腕に抱き上げた。
ふわりと足が床を離れその腕に抱かれると、小夜は慌ててその腕を逃れようとする。
「だ、大丈夫です…私…。降ろして…」
あの時とは違う。
ハジの、腕の力強さや、広い胸を今の小夜は尚更意識せずにはいられなかった。
「何を言ってるんですか!スリッパも履かないで…ガラスの破片が刺さったらどうするんです?」やや強い口調で小夜を黙らせると、ハジは小夜を抱き上げたまま大股でキッチンを横切った。
流石にここまでは、ガラスの破片も飛んでは来ていないだろう…リビングのラグの上まで小夜を運び、その足をそっとラグの上に下ろす。
「…ご、ごめんなさい。…あの、私…掃除機…」
持って来ます…と、背を向けようとする小夜の体をハジは手放さなかった。
「…あ、あの…。…ハジ…さん?」
「貴女は、どうしてそう…」
しかし、それに続く言葉が発せられる事はなかった。
次の言葉を待つ小夜に、ハジはじっと黙りこんだ。
小夜を覗き込んでいた青い瞳が悩ましげに伏せられる。
一瞬、ついその長い睫毛に小夜が身惚れると…。
「あ…」
ふいに息が止まりそうになる。
僅かにアルコールの香りがする唇が、微かに小夜の唇を掠めた。
触れるほど傍で、ハジが囁いた。
「…もう少し、自覚して下さい…」
小さくそれだけ告げると、小夜を抱く腕の力は一層強まった。
間近でじっと見詰められ、小夜は言葉を失う。
 
…自…自覚…?
 
仕切り直す様に、ハジの唇がそっと小夜のそれを塞いだ。
小夜には、まるで永遠にも感じられるような長い一瞬。
すっぽりと小夜を腕の中に閉じ込めたまま、柔らかな小夜の唇を啄ばむようにして触れたハジは、やがてその迷いを振り切る様に小夜の唇を割った。
ぬるりと湿った感触、そして侵入した舌先のざらりとした生々しい初めての感覚。
ハジの舌先が、誘う様に小夜のそれに絡み付く。
ふわりと甘く小夜の中でざわめく何か…。
 
しかし小夜は、数瞬遅れてそれがキスだと気付くと、心にもなくハジの胸に強く腕を付いていた。「っ…い…嫌…」
無意識に口にしてしまってから、咄嗟に後悔する。
しかし、小夜の拒絶の言葉を聞いた途端…ハジの腕は全ての力を失う様にそっと小夜を開放し、後にはただ気不味い空気だけがリビングを満たしていた。
 
                                 ≪続≫

20090610
はい。ものすごく恥ずかしいです…今…。パラレルって無性に恥ずかしいわ…。
良い気になって「君は可愛い僕の仔うさぎ」の続きを書いてしまいました。本当は、こんなにすぐ書くつもりではなくてもう少し色々暖めて、話を詰めてからにしようと思っていたのですが。しかし、なかなかこの仔うさぎの設定から、頭の中が復帰できません。サラリーマン好きなのです。
もう少し書いたら落ち付くかと思って、そしたら結構早く書けてしまうものなのですね…。
〜と言う訳で(どんなや…)もう少しお付き合い頂けたら〜と思います。
ええと、ハジは社長付と言う立ち位置なのですが。外資系にはあまりないらしいです。
何もかも…でたらめです。そして扱いは秘書?と言うよりも,社長の補佐や特命事項を担当する(対応する組織名としては社長室?)と言うようなイメージです。秘書ちゃんは、別にいるのですよ。ちゃんと。
待遇は部長クラス…位?ヤングエグゼクティブですね…ははは。スゲーな…。
今回はまだ出てきませんけど、ソロモンも同じです。だってソロモンなんか、本当にCEOだった(過去形…笑)じゃん!
なんて言うか、とにかく本当に好き勝手に妄想を書いているので、その辺は雰囲気で軽く受け止めてやって下さい。
多分そんな話の筋には関係ないので…鋭い突込みは勘弁して下さい…。
ではでは、ここまでありがとうございました!!