君は可愛い僕の仔うさぎ・1


「貴女はあんな所で働く人ではありません…」
足元のふらつく小夜の腕を引いたまま、彼は背中越しにそう呟いた。
その静かな、けれど少し怒ったような声にびくんと体が揺れる。
慌てて着替えたせいで髪も乱れたまま、ただでさえ慣れない化粧も既に落ちかけた私は、きっととても見苦しい姿で…
一体男の目に自分はどんな風に映っているんだろう…。
広い男の背中を見詰めながら、小夜はそんな事をぼんやりと思っていた。
本当は十八歳になったばかりだと言うのに、二十歳だなんて嘘をついたから罰があたったのだろうか。
いくら短期で時給が魅力的だったからと言っても、やはり人には向き不向きと言うものがある。
お酒も飲めなければ、煙草の煙も大の苦手で、勿論男の人と付き合った事も無い小夜に、クラブのバニーガールと言う、所謂水商売のバイトは無理が多過ぎたのだ。
彼には最初からそれを見抜かれていたのかも知れない。
地下からの階段を上がって、地上に出ると途端にネオン街の喧騒がやかましく、雑踏の中で背中越しの声はそれ以上聞き取れなかった。
派手な色彩と眩しい光の洪水が、涙で潤んだ目に痛い。
しかしこうしていると…先程までの恐怖が不思議なほど緩々と解けてゆくのを感じる。
小夜はその大きなコートの背中だけを見詰めていた。
どうして…この人が助けてくれるの?
どこの誰とも解からない私を…?
悪酔いした客に迫られているところを、小夜はこの男に助けられたのだ。この様な店で働いた経験のない小夜には、酔った客のあしらい方などまるで解からない。
店長には、バニーガールの衣装でオーダーされた飲み物をテーブルまで運ぶだけの仕事だから、ただ笑ってさえいれば良いと説明されたけれど、とてもそんな余裕などなかった。
今になってみれば、あんな露出の多い姿で働くなんて…本当にそれだけで済む筈も無かった。
しかも相手は酔っぱらいなのだから。
こうしていると、小夜の思い詰めた心も少しずつ冷静に冷めてゆくのだ。

どうやらその酔っ払った客は男の上司である様子だった。
それなら尚更、上司に意見なんてし難いのではないだろうか…。
しかし、彼は小夜と上司との間に割って入ると、巧みに相手の気を逸らし宥め、その場を取り繕うと、自分の着ていたスーツを小夜の肩に着せかけて…ついでに慌てて店の奥から姿を現した店長に手早く話をつけ、小夜の仕事をそこで切り上げさせた。
どうやらもう二度とあの店に行く必要はない…そんな気配だった。
不意に背中越しに、男が小夜に問い掛けた。
「店に入るのは…今夜が初日だったのでしょう?…どうして、あの様な仕事を選んだのです?……お金ですか?」
少し怒ったような口調に戸惑って、不躾な…初対面の男性の質問にどうしてそんな事を話さなければならないのだろう…?そう思ったけれど、小夜には何故か逆らえなくて、ぽつり…と口を開いた。
本当は誰かに聞いて欲しいという気持ちがあったのかも知れない。
しかし、普段から親しくしている友人には話せなかった。
この人ならば、どうせ話したところで見ず知らずの他人なのだから…と、小夜は自分に言い聞かせた。
「…そうです」
「…何か、買いたい物でもあったんですか?」
どうせ女子学生の洋服代か何かだと思っているのだろうか…。
そう思われるのも癪で、小夜は話す必要はないと知りつつも話さずには居られなかった。
「…お父さんのお店が、人手に渡ってしまったんです。お父さん、古いお友達の保証人になってて…。先月、…お店締めたんです。だから、せめて自分の学費とか、家賃とか、生活費とか・・・自分で何とかしなくちゃって…。お父さんは何も心配しなくて良いって言うけど…。本当は大学を辞めて実家に戻るのが一番なのかもしれないけど…入学したばかりなのに、…勉強は、続けたくて…だから…」
「…話しにくい事を訊いてすみませんでした。しかしあの手の夜の店は、貴女には似合いません」
「…だって。…どうせ、子供っぽいです…私…」
「そう言う事ではなくて…」
些か焦れったそうに、男が振り向いた。
切れ長の美しい瞳がじっと小夜を見詰めていた。
「…だって、昼間は学校があるんです…。いつ働けって言うんですか?」まるで男を責める様な口調に、返事はなかった。
二人は人混みに逆らう様にして、しばらくそうして歩いた。
最初、痛いように感じた男の腕の力は、いつしか不思議と優しいものに変わっていた。
駅前の表通りから少し離れただけで随分と人の数が減る。慣れた様子で右腕を上げてタクシーを停めると、小夜に乗る様に促し『これで彼女の自宅まで送って下さい』と運転手にタクシーチケットを渡した。困った所を助けて貰っておきながら、流石にそこまで甘える事は出来ない。
小夜が慌てて断ろうとすると、彼はタクシーの外から短く「迷惑料ですから…」とだけ答えた。

ああ、そうか…。
この人は、あの酔っ払いの部下なのだ。
だから、上司のご乱行の後処理をするのはきっと慣れていて…。これも仕事の内なのだ…そう思うと、どこか寂しいような気がした。
ぼんやりする小夜を心配するように覗き込み、
「社長がご迷惑をおかけしました。いくら酔っていても自宅の住所くらいは言えるでしょう?」
と、静かに微笑んだ。
暗い店内ではよく判らなかったが、走り過ぎる車のライトに一瞬浮かび上がった彼の瞳は鮮やかな青い色をしていた。その美しさに見惚れる様に思わず頷いた小夜に、急かす様に運転手が行き先を尋ねる。
小夜が、アパートの住所を告げると、彼は黙って運転手に頷く。
タクシーはそれを認めると容赦なく発進した。
小夜の心に芽生えた淡い恋心を置き去りにして…。

□□□

タクシーで小夜が借りているアパートの近くへ戻ると、辺りは騒然としていた。
空が赤く、消防車の甲高いサイレンが辺りに鳴り響いている。
小夜は不安になって規制されて先へ進めないタクシーに礼を告げて降りると、野次馬をかき分けて自宅アパートへ向かった。
そして、小夜が見たのは小夜の不安を的中させるものだった。
小夜が借りていた古い二階建のアパートは、屋根まで炎に包まれている。
轟々とと燃え盛る炎に最早荷物を持ち出せる筈もない。
辺りは焼け出された住人と近所の野次馬、そして消防隊員とが入り乱れ、悲鳴と怒声が混じり合い、緊迫した凄まじい空気に包まれていた。
呆然と立ち尽くす小夜の前にヨロヨロと転がり出た管理人が縋る様に小夜の足にしがみつく。
小夜の父親よりも一回りは優に年長の彼女の顔は恐怖と絶望に凍りついていた。
とてもお世話になった……人の良さそうな笑みが印象的だった。しかし今小夜にも彼女に言葉を掛ける余裕もなく、どうすれば良いのかなど、解かる筈も無かった。
頭の中が真っ白になる。
そうしてどれだけの時間、立ちつくしていたのだろう。
消防隊員の消火活動によりなんとか近所への延焼は免れたものの、小夜の住んでいたアパートは柱一本残さず全焼して崩れ、後に残った真っ黒に焼けた瓦礫の山でこれから現場検証が始まるのだろうか。
今は管理人が呼び出されている。アパートの住人である小夜も、何かしら尋ねられるのかも知れない。
どうすれば良いのだろう…。
少しずつ頭が働き始めると共に、今になって足が震える。
座り込みたくても、ここは真夜中の路上で…。
着替えも日用品も、大学の教科書も全て燃えてしまった。
大した額は入っていなかったけれど、通帳も…印鑑も…。
今肩に下げている大きめのショルダーバックに入っている財布と化粧ポーチ…それにハンカチと…。
それが今の小夜に残された全てだ
勿論行くあてなど無かったが、慌ただしい現場に自分の居場所を見付かられない。野次馬は既にまばらに散り始めていた。
ふと気を緩めると、昨日からの疲れで今にも足元が崩れそうになる。こういう時こそ気をしっかり持たなければと、唇を噛んだ時、よろけた肩が何かにぶつかり支えられた。
何気なく振り向くと、先程別れたばかりの男が後ろに立っていた。
信じられなかった。
今度こそ本当に崩れそうな小夜の体を、男の腕が難無く支える。
「…ど、…して?……ここに?」
小夜の問いに男は表情を動かさないまま、答えた。
「風下に薬品工場があるでしょう?延焼したら大惨事にもなりかねない。……ニュースで中継までしていましたから…」
そう言われて初めて、テレビ局の中継車の存在に気が付いた。
「……野次馬ですか?」
「そう思われても仕方ありませんが…。住所が…アパートの名前まで同じだったので…それで…」
住所?…それはさっき自分がタクシーに告げたアパートの住所と名前を覚えていたと言う事だろうか…。
「…それで、…それで?」
ほんの少し、声が震えていた。
わざわざ、こんな深夜に様子を見に来たと言うのだろうか?
…私の為に?
そう続く言葉を小夜は飲み込んだ。
「………この分では詳しい現場検証は明日の朝、明るくなってからになると思いますよ。まだ完全に鎮火しているとは言い切れないのですから…」男は困った様に腕を組み、何事か思案している。
そうして、やがて一つの結論に至ったかの様に、小夜に向き直った。
「…もしどこにも行くあてがないと言う事でしたら……、嫌でなければ、ですが……私のマンションへいらっしゃいますか?」
「え……」
小夜は目の前に立つ男を見上げて、口籠った。
つい数時間前に別れ、二度と会う事も無いと思っていた男は、少し困った様に腕を組んで小夜の返答を待っている。
「…だって、そこまでお世話になる理由がありませんから…。それに…」幾ら世間に疎い小夜だとしても、初対面の男の部屋に素直についていくには抵抗がある。
「…そうかも知れませんが、しかし、何もかも焼けてしまった上に行くあてもない貴女を…。はいそうですか…と、このまま放ってはおけないだけです。今から適当なホテルを手配しても構いませんが、実家に帰るなり、新しい部屋を探すなり…それまでホテル住まいではどんなに安いホテルでもかなりの出費になると思いますよ…。今は無駄なお金を払う余裕はないのでしょう?」
「…だって…」
だって…なんて言っても始まらない事は解かっている。しかし…。
「警戒しないで下さい…。貴女が何を気に掛けているのか…想像は難くありませんが…。それでしたら、心配には及びません。私は…今夜は社に戻ります」
「…だって」
「…それでは、少し物騒ですが…駅前か公園あたりで野宿しますか?…それとも警察に事情を話せば一晩位は泊めてくれるかも知れませんが……」明日の晩はどうします?…と。
「……どちらにしろ、すみやかにご実家に連絡しなくてはなりませんね」事務的な口調で淡々と小夜に告げる。
「…連絡なんて出来ません。…これ以上、お父さんに心配なんて掛けられないもの…」
「しかし、これだけ報道されているのですから、家事の事がご両親の耳に入るのは時間の問題です…。携帯があるのでしたら、今夜は電源を切らずに…。とにかく明日の朝には一度連絡して下さい」
「……私」
真剣な表情でてきぱきと指示を出す男を見上げる。
どうして、こんなに親身になってくれるの?
どうして…?
名前も知らない私の為に?
もっと警戒しなくては…。そう思うのに、疲れ切った頭が考える事を拒んでいた。
「…私…」
「ほら、もう真っ直ぐに立っても居られないじゃないですか…」
力強い腕だった。
それなのに酷く優しい力で小夜の肩を支えてくれた。
「もう少し、頑張って下さい…。あちらの方が、このアパートの管理人の方ですか?」
「…あ、そ…そです…」
途切れそうになる意識を必死で保って小夜が何とかそう答える。
「私は…ハジと言います…。貴女の名前は?」
唐突に男は名乗った。そして、小夜の名前を問う。
「あ…。さ…小夜です。……音無小夜…と、言います」
「…ではあれは、本名だったのですね?」
ハジは意外そうに呟いて、こんな状況にもかかわらず小さく笑った。
ああいう場所では、普通は本名を使わないものですよ…と。
その笑顔があまりにも、美しくて優しくて…小夜はつい促されるままに歩きだした。
「申し訳ありませんが、私は貴女の従兄と言う事にしておきますから、ただ話を合わせて…頷いて下さい」
押し切られる様に、小夜はハジに従った。
優しく、しかし力強い腕の力で背中を支えてくれる。
そうしていると、不思議と安心出来るような気がして…小夜は肩の力を抜いた。
ハジと名乗った男は小夜を連れて管理人に歩み寄ると、自分が小夜の従兄である事、ニュースでこの火災の事を知り駆けつけた事、小夜が疲れている事を理由に今夜は自分が彼女を連れて帰る事を手際よく説明した。
そしてスーツの内ポケットの名刺入れから名刺を取り出すと、連絡先を交換する。
どこかもうそれは遠い世界の出来事の様に小夜の目には映っていた。

□□□

そして小夜は今、ハジの用意したソファーベッドで羽根布団にくるまっていた。
嵐のように目まぐるしく長い一日が漸く終わろうとしている。
最早眠りに落ちかけた意識の中で小夜はぼんやりと今日の出来事を思い出していた。
慣れない水商売のバイト、そしてくたくたになって戻ってみれば借りているアパートが火事で全焼。
そして…そのどちらの場面でも、見ず知らずのハジに助けられた。
嘘の様だけれど、こうして眠ろうとしている部屋は、彼のマンションの一室なのだ。

余りにも、無防備過ぎはしないか…
しかし、彼の態度に裏表は感じられず、絶えず小夜に接するそれは紳士的だった。
あの後、もう何をされても仕方がないと言った風情で覚悟を決めた小夜をハジはタクシーに乗せた。ぎゅっと唇を噛む小夜に苦笑して、何度も『警戒しないで下さい』と繰り返し、途中コンビニによると小夜に取り敢えず必要なものを揃えてさせた。
小夜は頼りない財布の中身と相談しながら、一泊分のスキンケアセットとショーツを買い、悩んだ末にミネラルウォーターのペットボトルを籠に入れた。
その間ハジはタクシーを降りる事はなかった。
『女性の買い物を覗く程悪趣味ではありませんよ。何を買うかまで、見られたくはないでしょう?』と。
暗に小夜が本当に嫌なのならば、逃げる隙を与えてくれたのだと思う。

本当に嫌ならば、あそこで逃げる事は十分に出来た。
もしかしたら親切を装って、本当は悪い人なのかも知れないと…少し疑ってみたりもした。
それでも、小夜がハジの待つタクシーに戻ったのは、他に行アテがないと言う理由だけではなかった。

タクシーで乗り付けたハジの暮らす部屋は都心の高層マンションだった。案内された部屋の窓からは、眼下に広がる街の明かりが美しく見渡せる。まるで高級ホテルの様な設えに小夜が茫然と眼を見開くのをよそに、ハジは手際よく客間のソファーを動かしベッドに組み替えてしまった。
クローゼットの中から『これで我慢して下さい』としばらく使っていないらしい羽根布団を揃える。
小夜に給湯器の使い方を説明し、冷蔵庫の中身は好きに飲食して構わないと告げると、自分は着替えすら持たずに、再び部屋を出て行こうとする。その背中に、慌てて小夜が尋ねる。
「…待って。…あの、…本当に…」
「…ああ、そうだ。明日の昼前にはまた一度戻りますが…。それ以前に一人でここを出て行く様な時は…部屋から管理人に電話をして…」
セキュリティーが行き届いているのはいい事ですが、なかなか面倒でもあるのですよ…と。
振り返りそこまで言うと、じっと小夜を見詰める。
「……………………。…出来れば、私が戻るまでこの部屋に居て欲しいと思うのですが…」
「…………あ、えっと。解かりました…それまでここにいます」

ハジはありがとうと小さく笑って…。
彼も疲れているのだろうに…。
小夜はその整った笑みに、見惚れていた。
そして再び遠ざかる背中に、はっとして呼びかける。
「あ、あの…ありがとうございます…。どうして…私を…助けてくれたんですか?」
どうしてもそれだけは聞いておきたかった。
一度目はともかく…。
ニュースで見たから…と言うだけの理由で、わざわざ私を探しに来てくれたのだ。
会えたのは、奇跡かも知れないけれど…。
ハジはもう一度ゆっくりと振り向くと、コートの裾を靡かせて足早に小夜の元に戻った。
すらりと高い背を小夜の目線にまで屈め、耳元に小さく告げた。
「貴女が、昔飼っていたウサギによく似ていたからです。………自分でもよく解からないのですが、それで納得して下さい…」
 
その少し困ったような優しい微笑み。
 
布団の中で…思い出すだけで小夜は耳までが赤くなるのを感じた。
こんな事じゃ駄目…。
今はそんな事を言っている時じゃないと言うのに
何が駄目なのか、自分でもまとまらない頭で小夜は必死にそう思う。
「…私、好きに……なっちゃう…」
あの人の事…何も知らないのに…。
小さな呟きを最後に、小夜の意識は完全に眠りに落ちていた。
時計は既に早朝と呼んでも差し支えない時間だった。
 
                      ≪続≫

20090525
いつもお世話になっておりますKさまの結婚記念日にプレゼントするつもりで書きました。
もう、なんて言うか…。恥ずかしい…。いつも、こんな事ばっかり考えてます…私…。
何の脈絡も無く、唐突に…パラレルで個人的趣味なハジ小夜。それもかなりの無茶ぶり…。

コレの元ネタは裏のPBBSを探して頂くと、出てきます(笑)
バニガールな小夜たん…とサラリーマンなハジです。
普通、こんなにされたら、気持ち悪いと思いますが、火事で焼け出されると本当に衝撃で困るものです。
自分は嫁いだ後だったので、被害は少なかったものの、実家が全焼しているので…。
ええと。
すみません、まだ続くのですよ。